PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 5/9

ほかのひとに手を差し伸べる

 怒っている人は、ほかの誰かを助けるのにふさわしい人間ではないとあなたは思うかもしれない。しかし怒りはあなたを素晴らしい協力者へと、他人の権利やニーズの擁護者へと動機づける力を持っているのである。

 しばしば怒りは私たちをほとんど際限のないエネルギーで満たす。それは私たちを、蟻が体の上を這っているかのようにそわそわさせる――いらいらして落ち着かず、なにかの爆発的放出、解放を必要としている状態である。もしも私たちがこうした感情を捉え、それを方向づけていけば、私たちは自分自身のためになることをすると同時に、ほかの人が切望していておおいに有り難がられるような貢献を成し遂げることができる。

 フランク・ギャレットは、彼のユーモアのセンスにもかかわらずなお怒りにとらわれている自分を見出した。彼の退院後間もなくして、ガールフレンドのヘレンは彼女の直面ししている状況が招くストレスに耐えられなくなり、彼のもとを去った。彼女はフランクの頭のなかの、生命を危険に曝す弾丸の存在に脅えていた。彼女は彼を愛していたが、銃撃が彼らの人生にもたらした変化にうまく対処できなかったのである。

 フランクの心はにわかに落ち込み、怒りが彼を席巻した。彼は健康を失い、仕事を失い、幸福を失い、そしていま、ヘレンを失った。彼は何度も自分のアパートメントでひとり怒りをぶちまけた。数日のうちに、彼の所有している壊すことのできるものをすべて破壊した。請求書が毎日届いた。彼には保険がなく、蓄えがなく、クレジットもなかった。さまざまな問題が彼のうえにのしかかった――そしてもはや、彼と感情を分かち合ってくれる女性はいなかった。

 フランクは声を限りにわめき続けた。傷ついた獣のように彼は咆哮した。何時間も泣いた。彼を襲う怒りは彼の体調を悪化させ、気の遠くなるような頭痛を引き起こした。

 警察が電話をかけてきて、犯人はまだ見つからず、手がかりもないと伝えた。フランクは加害者どもを追い詰めて頭部に銃を突きつけ、奴らが死を覚悟するまで怖がらせているところを空想した。彼はあの獣たちを憎んでいた。彼は奴らのことを考え、奴らを呪い、奴らに執着していた。

 フランクのすべての活力は、銃撃者たちを言葉で感情的に罵ることに注ぎ込まれていた。しかしそれは不毛だった――犯人たちは自由で、おそらく同じ通りを、さらなる被害者を苦しめるか殺すかしようとしてうろつき回っているのだ。

 フランクは家に居ながら彼自身の精神の瓦礫の只中にはまり込み、真空に向かって叫んでいた。しかし彼はそばに来た人に彼の怒りを押しつけることはしたくなかった。そこで彼は友人たちに自分は孤独を必要としていると伝えて、引きこもることにした。

 数人の本当に親しい友人はフランクを一人にすることに同意しなかった。彼の反発にもかかわらず、彼らは彼のもとに立ち寄り、電話をかけることを止めなかった。フランクは入院していた頃のように訪問者に向かって冗談を言い、おどけてみせようと努めた。しかし誰もが、事はまったく変わってしまったのだと悟ることになった。襲撃後のフランクのユーモアは、熱烈な――ややワイルドなものだとはいえ――喜びの要素を含んでいた。いま彼のユーモアには、楽観主義や健全な精神の僅かな手がかりすら見いだせなかった。フランクのユーモアのセンスははるかにブラックになり、不吉なものになり、暴力と憎悪の色合いを帯びていた。フランクは変わってしまった。怒れる男。復讐心に燃える男。

 友人たちは彼のことを心配しはじめ、フランクも自分のことが心配になってきた――彼はもはや自分自身が好きですらなくなっていた。自分のふるまいや、昼夜をわかたず彼につきまとう怒りの苦い味わいを彼は嫌悪していた。

 ある孤独な朝に、フランクははじめて自分が真剣に自殺のことを考えていることに気がついた。この恐ろしい思念の只中で、彼のなかの声が言った。「フランク、ビルに電話しよう」。

 フランクの親友のひとりであるビル・トランプは、戦争中に下半身不随になったベトナム帰還兵である。それでもビルは何年ものあいだ、障害を負った帰還兵と健常な帰還兵の両方とともに、たいへん評判の高い即興劇団で稽古を重ね、演じてきている。彼はフランクがこれまでに知っているもっとも勇敢な人物である。

 フランクの長年の友は、彼のお手本になった。彼らはその最初の朝に何時間も話した。それからフランクはほとんど毎日のようにビルのもとを訪ねた。ビルは友人の怒りと絶望を理解した。彼はフランクに、君の人生は無意味なんかではまったくなく、君にはまだできることがたくさんあるんだと強く言い聞かせた。銃弾は明日彼を殺すかもしれない、あるいは彼は百歳まで生きるかもしれない――誰にも分からない。しかしビルはフランクに、今日のことを考えろと説いた。心と体を正しい状態に立て直し、彼が生き延びた悪夢のあいだに彼が学んだことを活用させろと。「そこから出るんだ」、ビルは訴えた。「子供たちや依存症患者や帰還兵や――誰でもいい、ともに活動してみろ。君の生命力を分かち合うんだ。食器を粉々にしたりするようなことにそれを浪費してはだめだよ。事件は起こった。銃弾はそこに居座ってる。でも君は生きている。怒りに君を食い尽くさせるな――もう一度ひとびとのところに戻ってくるんだ!」。

 撃たれる前、フランクはさまざまな支援プログラムに参加していた――薬物依存からの社会復帰、ホームレスのための避難所を見つける、問題を抱えたティーンのカウンセリング。仕事に割く時間があまりに長くなったことと、ヘレンとの付き合いが彼の余暇のあまりにも多くを占めるようになっていったため、彼はこの種の活動にしばらく関わっていなかった。しかし以前ともに活動していた人たちの何人かとはまだ連絡を保っていた。多くは、部分的には彼の努力の結果として、薬との縁を断ち、きちんと仕事に就いていた。困難を抱えた人々と活動することを考えれば考えるほど、そのアイディアは魅力的に思えてきた。彼は時間と意欲をともに持ち合わせていた。そして彼の頭のなかの銃弾は、助けを必要としている誰かにとって、ほんの少しの違いすらもたらすものではなかった。

 そこでフランクはやってみることに決めた。彼は他人の援助をするプログラムに復帰することを誓った。しかしまずは自分の生活を立て直さなければならなかった。

 彼は自分の体をそれまでより気遣うようになった。数週間のうちに彼の体力は回復してきた。怒りの襲来はまったく止まった。彼は外出して何枚か皿を買うことさえした!

 続けて彼は仕事を探しに行き、たった二回の面接を経て、電話セールスマンという完璧な「食い扶持を稼ぐための」仕事を得た。その仕事は家賃の支払いには十分だったが、非常に負担が大きいというわけではなかった。彼はほかの人たちの世話をし、さらに自分もいたわるための時間をなおもたっぷり持つことができた。

 フランクの準備は整った。彼は選択肢をいろいろ検討してみた。もう一度薬物常習者との活動をしてみるか?障碍者?子供たち?ティーンエイジャー?

 フランクは近所のロウアー・イースト・サイド界隈を歩き回り、さまざまな掲示板をチェックした。地域のミニコミ紙を穴のあくほど見つめた。彼は求人広告欄にすら目をとおした。彼は援助を必要としている場所と人をリストにまとめた――掛け値なしに数十の選択肢があった。フランクはホームやセンターを訪れて、どこが自分に最もふさわしいかこの目で確かめるつもりでいた。

 フランクが自分の活動によってもっとも大きな貢献のできそうなプログラムやグループを探しているちょうどその最中に、テレビ映画Victims for Victims(訳注:テレサ・サルダナの巻き込まれたストーカー刺傷事件とそこからの再起の過程を描いた再現ドラマ。テレサ・サルダナ自身が本人の役で主演している)がNBCで放映された。フランクは私のことも、私の事件のことも聞いたことがなかったが、テレビガイドの宣伝文句が彼の興味に火をつけた。彼は映画を観た。エンドロールが流れ出すと同時に彼はVictims for Victims(こちらは映画ではなく団体名のほうである)のボランティアを申し出る電話をかけた。私たちはニューヨーク支部で初対面し、私はすぐさま彼の熱意と活力を感じとった。私たちは彼に仕事をやってもらうことにした。

 2週間のうちにフランクはニューヨーク支部の運営委員会に加わっていた。そしていま彼は、電話と対面による被害者支援サービスを提供するVictim Rep Networkを率いている。彼のエネルギーと情熱は際限がなく、そして伝染性である。フランクはみなを駆り立てて、私たち全員を今まで以上に精力的に働かせるのだ。

 私たちの団体に加わって以来、フランクは男の被害者と女の被害者の両方、それにかれらの家族をもカウンセリングしていた。彼のクライアントはみな、彼のポジティブなエネルギー、配慮、そして彼のユーモアのセンスに印象づけられていた。

 銃撃以来初めて、フランクは自分が強くて、役に立ち、健康だと感じている。そして彼は、彼のクライアントの勇気から、彼らが彼から得たのと同じだけの力を自分が得ていると信じている。

 フランクは言う、「自分と同じように傷ついたひとびとに手を差し伸べることで、完全にまるっきり無意味なことのために悪態をつくのを止めることができた。もちろん、僕は今でも起こったことに対して頭には来ているよ。あの野郎どもがまだ捕まっていないことにはムカムカする!でも僕は毎日長時間を費やしてあいつらのことを考えてなんかいない。あいつらは僕の注意に値しないんだ。その代わり、僕は自分の力を僕の手助けとサポートを必要としている人たちに集中する。それに加えて、僕はほかのボランティアのひとたちとの友情と気遣いを育んできている。僕たちは本当にお互いを理解し合っているんだ」。

 「結局こういうことだよ。もし僕が、犯罪者によって撃たれたり、刺されたり、傷つけられたリした人を抱きしめて、あなたは一人じゃないんだ、あなたは僕ができたようにこの困難を乗り越えることができるんだと彼らに言うことができたら、それは僕の人生を生きる価値のあるものにする。もしもあの銃弾が動いて、僕の命を明日奪ったとしても――少なくとも僕は、そこそこのことをやってこの世から旅立つことになるんだ!」。

 

 フランク・ギャレットはビルという偉大なお手本を既に得ていたという点で十分に幸運であった。しかし私たちのなかには、誰かに手を差し伸べることをはじめるべきだと自分で自分を説得しなくてはいけない人もいる。

 私たちが腹を立て憤慨しているとき、他人と関わり手助けをするという考えは、私たちの心からもっとも遠くかけ離れた事柄のようにみえる。私たちは人々からひたすらしり込みしたい、再び傷つけられるリスクを冒すことなど拒みたい、人間全般を信用したくない、そう思っているかもしれない。私たちは世界に対してだけではなく、世界のなかのすべての人に対して怒りを覚えているかもしれない。私自身が長い、長いあいだそんな風に感じていたのである。

 もしあなたが、他人の手助けをすることに関して純粋に人道主義的で高潔な考えを抱くにはあまりに自分が怒り過ぎていると感じたなら、別のアプローチを試してみよう。ひとに手を差し伸べることに決める、ただしそれを自分のためにするのだ。こういう立場をとってみる――「私は他人に手を差し伸べよう、それが、自分自身の抱える問題から抜け出すために、自分の怒りを建設的な方向に振り向けるために、自尊心を高めるために、私にとって役に立つから」。

 このような態度をはじめの時点で持つことにより、即席のボランティア、あるいは「いい子(ぶった人)」になることにまつわる心の重荷を取り払うことができる。そしてそれは、完璧な模範にならなければならないというプレッシャーを取り除いてくれる。心に留めておくべきことがひとつ。それを必要とするひとにあなたが提供するいかなる誠実な援助も感謝される――それがあなたをも助けたからといって感謝される度合いが減るわけではない。そしてたぶん、あなたが手助けをした人の反応をあなたが目にした時、あなたはあなた自身だけではなく彼らのためにそれをやり続けたいと思うだろう。

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 6/9

 ひとは時々私に尋ねる、「あなたはどうやって目的のためにそんなにもたくさんの時間と労力を捧げることができるの?」。私の答えは、「それが自分も助けるから」である。そう、私は自分の仕事がひとびとの人生に触れ、彼らに力と勇気を与えることを誇りにしている、私は自分が犯罪被害者の役割モデルとなれることを誇りにしている。しかし私は目的の殉教者ではない。私は自分のしていることを愛している。それは私をよい気分にする、それは私に怒りのはけ口を与える、それは私の人生に意味を与える、それは私に抑鬱と戦う力を与える、それは私に目的意識を与える、それは私に日々の変化をもたらす。

 直接被害者とともに働き、被害者の権利のために闘うことは、私が総合的な健康を得ることに役立ってきた。そして私の仕事は私の人生を良い方向へと変えていった。そう、それは他人を助ける。しかしそれは私も助けるのだ。

 ピアカウンセリングや個人的な援助はあなたの心に訴えかけないかもしれない。たぶん、あなたは知らない人との直接的な接触でうまくやっていくにしてはまだあまりにも怒りに囚われすぎている。それならあなたは、裏方の仕事に関わることができる。養護施設、病院、ユースセンター、あるいは人手不足に悩む公益団体のためにあなたが行ういかなる仕事も――たとえそれがタイピングや電話番、寄付を募ることや、料理を作ること、社会活動の計画を立てることといったようなことであったとしても――翻訳すればなお、ひとびとを手助けすることなのである。あなたが提供した奉仕によって、あなたは多くの人々の人生に間接的に触れることができる。

 もしかしたらあなたは、ひとの精神的あるいは肉体的な要求に応じて面倒をみることよりも、社会あるいは法制面の改革により関心を抱いているのかもしれない。私たちの社会やその法を変えていくことは、人間の生活を大きく向上させ得ることを心に留めておこう。この種の仕事に対する報酬はまた別だが、それらは同じくらい尊いものである。

 ここ数年私は、社会運動が怒れる被害者にとっての理想的なはけ口となり得ることを学んできた。あなたは

 高齢者

 障碍者

 困窮者

 ホームレス

 帰還兵

の権利を求めることによって、手助けをすることができる。

 あなたが本当に信じている目標のうしろだてとなり、あなた自身の怒りを理想に向かって戦うための力として活用してみよう。あなたは壇上に上がって演説をしたり、記者会見やデモでマイクに向かって話す必要はない。たくさんのより目立たない仕事がある――調査研究や、提案書の草稿を書くこと、電話をかけること、論文を書くこと、事務の仕事を行うこと――これらはほとんどあらゆる団体にとって、かけがえのない意味をもつものである。

 あなたが自分のために考案したいかなる援助プランも、あなた自身のニーズや関心、時間的スケジュールに合わせてつくられたものでなければならない。以下はいくつかの提案である。

もしあなたがでボランティアをしよう
フェミニストなら 女性センター
手話を知っていて実践したかったら 聾学校
子供を愛していたら ユースセンターか児童養護施設
老年学について学びたかったら 老人ホーム
政治を愛していたら 立法グループ
ほかの犯罪被害者を援助したかったら 被害者の組織

 このリストはさらに何ページも続いていく。あなたにとって有益で、興味深く、楽しめるボランティアに携わるためのさまざまなやり方をあなたが見つけられることは保証する。

 あなたはこの時点で、多くの時間を割くことができないかもしれないが、これはまったく問題ない。

 他人に手を差し伸べることを決意することは、あなたの人生を明け渡さなければならないことを意味するものではない。あなたはあなたの望むがままに、最大限から最小限までの負担を選ぶことができる。最初のうちはあまり過度にやり過ぎず、週に数時間ほどから始めて、そこからあなたの意欲と能力に応じて増やしていけばよい。手助けをすることを犠牲を払うことと考えてはいけない。あなた自身の人生に新しい――前向きな――なにかを追加するものとしてそれを捉えること。さらに、あの沸き立つ怒りのいくばくかからの解放のための一手段として。

 もしもあなたが誰かに手を差し伸べる気が起こらず、それをすることに不安感や、あるいは恐怖さえをも感じているのであれば、一般的にあまり威圧的でなく、ケアを非常に必要としていて、それをすればおおいに感謝されるような、高齢者、体の弱っている人、幼児といったひとびととの活動からはじめるのが有効だろう。

 一例として、私は子供の力に抗することがとても難しい。たとえどれだけ怒りを感じていても、子供と時を過ごすことで私の気分は和らいでいく。子供たちは心遣いに対してとても素直に、暖かく反応してくれる。

 自分がいまにも爆発しそうだと感じたとき、私はしょっちゅう、4歳になる名づけ子のルークと一日を過ごす。私が癇癪や、怒りからくる欝や、口論に注ぎこんでいたエネルギーは、公園での長いお散歩や、近所の動物園や博物館の見学や、地元の埠頭での回転木馬乗りへと振り替えられる。夢中になってはしゃいでいるルークの愛らしさに私は常に魅せられている。

 もしもあなたの家族に子供がいなくて、無償のベビーシッターをしばらくの間求めているような人もいなかったとしたら、あなたはほとんどどこの町でも見つかるユースセンターや児童養護施設で暮らしている子供たちのところへ行くことができる。こうした場所で生活している子供たちは心遣いを必要としていて、ちょっとの時間でも彼らと過ごしたいと望んでいる思いやりのある大人から大きな恩恵を得られるものである。実際、彼らは心遣いに飢えている。彼らのなかには児童虐待インセストなどさまざまな犯罪の被害者もいる。孤独な子供と一週間のうち数時間を共に過ごし、かれが自分の怒りや混乱に立ち向かっていくための手助けをすることは、あなた自身の怒りを別の方向に差し向けるための、素晴らしい一方法である。

 もしも他のひとびとと一対一で向き合って活動することがあなたの意に沿わないのであれば、グループの効果をとおしての援助を考えてみてもよいだろう。介護施設や病院、公民館で興行しているグリークラブや合唱団、アマチュア劇団はたくさんある。お客さんはとても反応が良いし、これらのグループは新メンバーを大歓迎していることが多い。あなたが自分で歌ったり演じたりすることに関心がなかったとしても、技術的な仕事や運営の仕事をとおしてこの種のグループになお加わることができる。彼らはたいてい喜んであなたに仕事のやりかたを教えてくれるだろう。

 繰り返すが、援助に関して重要なのはあなたが何をするか、あるいは誰のためにあなたがするかではなく、あなたが決断し、そしてそれをすることである。

 

Forward Thinking

 心の動揺や怒りが有限なものであると認識することは、怒りに対処していくための大きな一歩である。

 もし私がforward thinkingを実践していなかったら――そして現在の身を焦がすような怒りの状態を越えた未来があるのだと自分を納得させることができなかったら、私は退院後の日々を乗り切ることがほとんど不可能だったろう。

 私の妹のマリアと私は、ぎっちり詰まった、そしてしばしば退屈なスケジュールに沿って行動していた。私たちの一日は平均して日あたり2人のドクターとの面会を含む、長くてくたびれるものだった。さまざまな医療機関への長時間の不快なドライブがあり、待合室でのいつ果てるともしれない時間があり、耐えねばならないあらゆる種類の検査と治療があった。

 無様に繰り返される、ストレスの溜まる日々のルーチンを憎むことに加えて、私は壊れていきつつある結婚生活と、来たる事件の公判と、これから受けなければいけない手術のことでも怒り、憂鬱になっていた。

 マリアも私とまったく同じくらい悲惨な状況にあった。彼女はニューヨークの友人や家族を恋しがり、大学院や授業を休んでいることで憂鬱になっていた。彼女もまた、ドクターや病院の果てしない巡回のサイクルに気を滅入らせ、疲れきっていた。そして彼女は怒った。

 時としてマリアの苛立ちは私に向けられているかにみえることもあった。結局のところマリアは、私の付き添いをボランティアで買って出ていなければ、こんな惨めな思いをすることもなかったのだ。しかし現実にはそれが私の責任ではないことを彼女は知っていて、私に対して腹を立てることのないよう一生懸命努力していた。

 私たちは二人の怒れるレディだった。もしも私たちが自分自身に――そしてお互いに――この惨めな状態は一時的なものだと常に言い聞かせていなかったら、私たちは二人とも自暴自棄に陥っていたかもしれない。

 私は未来のほうををみやり、私の人生のすべてはやがて良い方向へと変わっていくとの信念を持つことができるよう、自身に課した。怒りで我を忘れそうになったときは、自分に向かってこう言った、「テレサ、今から数か月後、あなたはこのいっさいに対してなおも怒りを感じているだろう。でもあなたは今ほどには怒っていない。それは今ほどにはあなたを傷つけない。あなたは今ほどには頻繁に怒りを爆発させない。時間はこのいっさいの怒りを癒していく助けになってくれるだろう」。私はこの自分で投与した気付け薬に関して半信半疑だったが、私はなにかを待ち望むことを必要としていたのである。

 マリアのforward thinkingの流儀は主として書くことによるものだった。何時間も彼女は日記を書き続けた。彼女はその日記をどこにでも持ち歩いた――どこにでもである。彼女は日記のなかに、今起こっている出来事だけではなく、未来のプランも書き記していた。

 マリアは彼女がしばしば「人生最悪の時」と呼ぶ日々にも、彼女がニューヨークに戻るはずの来たる冬の、こみいった、詳細で、おおがかりなプランを記していくことで、正気を保っていた。日記の新しいエントリーで彼女はいつでも、「今からたったの○○日」と書いていた。彼女が日にちだけに留まらず時間まで勘定にいれていなかったのは驚きである!

 彼女は具体的な目標を自分で定めた――たとえば、ニューヨークに戻ってから一カ月以内に仕事を見つけるといったような。そして、まだロスにいる間から、彼女の望む未来を現実にするための策を講じはじめた。彼女は100%満足がいくまで何枚も何枚もレジュメを清書した。そしてコピーを取ってニューヨークへと送り、彼女の女友達がそれを冬季の代理教師を必要としているほうぼうの学校に送った。まもなくして送ったレジュメの一枚が仕事のオファーにつながり、彼女の望んでいたゴールにいっそう早く到達することができたのだった。

 マリアはブルックリンに戻ったときに友だちのために催すクリスマスパーティの計画すら書いていた。汗のしたたる暑い8月の一日に、私は彼女がドクターの待合室に座って、祝日のお祝いのために必要なアイテムを書き留めているのを目にした。私はそれを読みながら、あっけに取られて首を振った。ヤドリギポインセチア、サンタの衣装、エッグノッグ、パインリース……。そのパーティはそれから何晩も経た先のことだったが、そうした具体的な計画を早いうちから立てることは、マリアを現在の不幸せな状況から救い出すことの役に立ったのである(そしてそれは現実にも素敵なパーティになった!)。

 マリアは彼女が本当に怒りを感じているとき、たとえば私たちが口論をした後や、私が大声で見苦しい癇癪をおこした後、あるいは私がさらなる手術を必要としていることを知らされた後に(それはさらなる回復の期間を私と過ごすことを彼女が耐え忍ばなければいけないことを意味していた)、もっともたくさん書いた。

 私たちは共に、言葉によるforward thinkingの数々を共有してもいた。事態が本当に過酷だったとき、私は言ったものだ、「元気出してよ、マリア、今からたったの○○日後よ」。

 私たちは「今日から1年後」と称するゲームも考案した。これはforward thinkingのための二人の共同の努力である。私たちのうちのどちらか、あるいは両方が激しい怒りを覚えたとき、私たちは歯をくいしばり、こう言う(もしくは時には怒鳴る)。「今日から1年後――――」。それから私たちは、空欄の「――――」の部分を、私たちがその時やっていると望むこと(あるいは現実的には、信じていること)で埋めるのである。妹はたとえばこう言う、「今日から1年後、私が生徒に英語のテストを受けさせていて、私の生徒はみんな試験に合格する」。あるいは私はこう言う、「今日から1年後、私はもう理学療法を受ける必要がなくなっている」。この単純なゲームは、怒りと緊張から私たちを解放することを助け、私たちが不和に陥ることを防いでくれた。

 ある日マリアが、私をいつでもどこにでも車で連れて行かなければならない(私の手はまだ固定されていた)ことに関して憤慨していたとき、私は言った、「マリア、今から1年後、私はあなたの授業が終わった頃、ニューヨーク大学の正門に車を止める。私は運転手とロールスロイスに乗っていて、あなたを町中ドライブに連れていく」。それは大げさで非現実的な考えのようにみえたが、蓋を開けてみればほとんど現実になったのである。

 1年を少し過ぎた後、私はニューヨークでプロジェクトの宣伝活動を行っていて、その日は企業がストレッチリムジンとドライバーを私に提供してくれていた。私はすぐさまブルックリンの妹を拾い、彼女をブロードウェイの昼興行に連れていった。それからジョーアレンで夕食を食べた。マリアは楽しんでいた。ドライバーが全行程を運転してくれた!

 ある日、マリアと私は、サンタモニカ裁判所に私の担当検事のマイク・ナイトを訪ねた。彼は私たちに、もし私を襲った男に最高の刑罰――20年――がくだされたとしても、現実には彼が6年以内に釈放されるだろうと説明した。じじつ、刑務所でのきわめて粗野なふるまいにもかかわらず、カリフォルニア州の定めた刑法のもとで、彼は1988年8月7日に自動的に釈放されることになっていた。仮出所にあたっての審理もいかなる審査も必要とはされていなかった。妹と私はともに激怒した。私たちは憤慨し、混乱し、制度への不満でいっぱいになった。しかし法は法であった。たとえそれを変えることができたとしても、過去に遡って適用されるわけではなかった。私たちは石のように押し黙ったまま車でロスへ戻った。私たちのforward thinkingは無意味にみえた。空欄を埋めることのできる文句が「ジャクソンは刑期の6分の1を消化するだろう」だけしか見当たらないというのに、どうしてわざわざ「今日から1年後」などとやらねばならないというのだ?

 家に着いてから一時間ほどして、のちに映画Victims for Victimsをプロデュースすることになる男性から電話があった。彼との会話のあと、私は妹のほうを向いてこう言った、「今日から1年後、私のストーリーが制作されている、もしくは制作の過程にある。この判決のバカバカしさがひとびとに暴露されると私は断言しよう。今日から1年後、何百万人ものひとびとが、私たちの法制度がどれだけの不公平を孕んでいるかに気づくことになる」。

 それは私たちをハッピーにはしなかったが、私たちの気分を改善させた。このforward thinkingは、私たちの怒りをおおいにありそうな未来の目標へと振り向けることに役立ったのである。

 1984年11月、映画の最後にNBCが流したエピローグのテロップが、私の加害者に対する判決の内容と、それが示している完全なる不公平を何百万人に知らしめることになった。

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 7/9

 ジャネット・カイリーを、私は1984年12月のVictims for Victimsのクリスマスパーティの席で知った。長身で魅力的な23歳の彼女は車いすに座り、その脇に彼女の母のヴェラと、親友のアンが寄り添っていた。最初に私の心を捉えたのは、彼女の誘うような満面の微笑みと、彼女から滲みだしてくる心根の暖かさと楽天性だった。しかし彼女は、彼女の胸から下を麻痺状態に陥れた銃撃の被害者だった。その夜彼女は私に出来事の一部始終を語ってくれた。

 ジャネットはどんなときも、幸福で健康的で、肉体的に活発な人生を送っていた。彼女はラスカサスという、いつも音楽が流れていて、ほとんどは家族連れやカップルのお客で賑わっている素敵なメキシコ料理のレストランで、常勤のバーテンダーの職に就いていた。ラスカサスのお客はフレンドリーで、チップもはずんでくれた。

 気候の暖かい時期にジャネットはエアロビクスの先生の仕事をパートタイムで行い、冬はスキーのインストラクターとして働いていた。彼女はスキーを愛していて、雪の斜面を風を切って滑り降りているときに、もっとも生き生きとした気分を感じていた。1984年の3月7日に、ジャネットと友だちのローズは午後10時半に家を出て、彼らがよく行く地元のパブ兼ディスコのチャーリーに立ち寄った。ローズのボーイフレンドと彼の友だちがそこにいて、4人がひとつのテーブルを囲んだ。それは素敵な夜で、彼らは流れてくるヒットチャート・トップ50に合わせて2時間ノンストップで踊り続けた。

 疲れ果て、汗でびっしょりになって、ジャネットはついにダンスフロアを離れた。彼女が欲していたのはただ休息だった。テーブルに戻ろうとしている途中で、痩せて筋肉質の、気性の激しそうな赤毛の男が近寄ってきて、彼女をダンスに誘った。ジャネットは疲れていてひと休みが必要だからと言って丁重に断った。それから彼女は友人たちに合流した。

 しばらくしてジャネットは、彼女をダンスに誘った男が自分たちのちょうど真正面のテーブルに座っていることに気がついた。彼はまっすぐに彼女を見つめ続けていた。ジャネットはその男の友人たちが彼のほうを向いて顔をしかめているのを見た。彼らはなにかの件で彼のことをからかっているようだった。あの赤毛の男は、ダンスの誘いを彼女が受けるかどうかで彼の友人たちと賭けをしていたのかなと彼女は思った。

 ジャネットと彼女の友人は深夜の「朝食」を食べに行くことにした。おそらくあの時、隣のテーブルにいた男と彼の仲間の4人は、その会話を横で聞いていたのだろうと彼女は思っている。午前12時45分に、ジャネットは彼らがバーを出ていくのを見た。15分後、彼女とローズと二人の男友達は、いっしょにローズの車のほうへ向かった。

 外に歩き出した瞬間、ジャネットは男の叫び声を聞いた。「ヘイ、これでも食らえ、f---ing bitch!」。彼女は声のする方向に目を向け、あの赤毛の男と仲間がすぐ隣の車に乗っているのを見た。彼女をダンスに誘った男は後部座席にいて、ジャネットに向かって真っすぐに銃口を向けていた。恐怖に駆られて彼女は踵を返し、走った。銃声が鳴り響いた。銃弾は肩甲骨と肩甲骨のちょうど間で彼女の脊椎を引き裂いた。彼女は地面に崩れ落ちた。もう一発の銃撃は彼女の右のふくらはぎを撃った。タイヤのきしむ音とともに、狙撃者とその仲間は走り去った。

 ジャネットはそこに横たわっていた。動くことができなかった。なにも感じなかった。混乱して、彼女は彼らが自分をゾウのための麻酔銃で撃ったのかと思った。バーから人が溢れ出てきた。

 数分後、警察が、そして救急車が到着した。彼らはただちに彼女を車に乗せると病院へ急いだ。救急隊員が彼女になにかアレルギーはないかと尋ねた。「ええ、ネコ」、ジャネットは答えた。

 「おやおや」、救急隊員は言った、「あなたはユーモアのセンスを失ってませんね」。

 「たぶんね」、ジャネットは言った。

 緊急治療室で、スタッフが彼女の体を動かさなくてもいいように、彼女の服を切り始めた。「ねえ」、ジャレットは彼らに頼んだ、「服を駄目にしないでよ。お気に入りなんだから」。看護師たちが不審気に彼女を見た。

 銃弾は彼女の肺を貫きバラバラになっていたので、彼らは胸腔チューブを挿入した。髄液が彼女の背中の銃口から流れ出していたが、ドクターらは手術をためらった。彼らは液の流出はひとりでに止まるだろうと言った。

 流出は止まらなかった、3日後になっても。ドクターはジャネットに、彼女の脊髄は第6胸髄の位置で切断されていて、彼女は二度と再び歩けないだろうと伝えた。

 強い薬の作用ですべてがぼんやりとして非現実的になっていたので、ジャネットはその知らせにもほとんど反応しなかった。ジェネラル・ホスピタルでの3日間は、夢のようにぼんやりとした状態のまま過ぎていった。彼女はその72時間についてほとんどなにも覚えていない。

 ジャネットは彼女の事件を担当している刑事の訪問のことは鮮明に覚えている。彼は尋ねた、「どんな種類の銃でした、カイリーさん?リボルバー?それともオートマチック?」。

 「知りません。私は銃の専門家じゃないので」、彼女は答えた。

 それを聞いて、刑事はまさにICUの中に居ながらにして、懐から銃を取り出し言った、「こんな感じでしたかね?」。

 ジャネットは彼を見つめ、彼女の顔は怒りでゆがんだ。それから彼女は彼に部屋から出ていってくれと命じた。それは銃撃以来、彼女が怒りを――あるいはなにかの感情を――感じた最初の時だった。

 危機を脱したジャネットは、ロングビーチ・メモリアル・メディカルセンターに移された。この病院でジャネットは、自分が否定的意見に取り巻かれていることに気づいた。彼女は、歩けるようになる可能性は5%を下回ると告げられた。ドクターも看護師も、彼女の担当になった精神科医さえも、「あなたは順応しなければならない。あなたは二度と決して歩けない」という趣旨のことを言った。

 ジャネットは返事をした、「あなたたちは私のことを知らないの!」。

 彼女を取り囲む否定的な空気はジャネットを混乱させ――激しい怒りを覚えさせた。彼女は頭のなかで考えた、「彼らのやってることがもっぱら私を打ちのめすことばかりだっていうのに、どうやったら私は良くなるっていうの?」。

 ジャネットは自殺を考えた。それが出来ることを彼女は知っていた。とにかく彼女はまだ腕は動かせたのだ。「私の家族と友だちがいなかったら、私はきっと自殺していただろう」、ジャネットは振り返って言う。「彼らは、特に私のママは、私に希望を抱かせてくれた。私は自分自身の命を奪って彼らを傷つけたくなかった」。

 初期の多量な薬剤投与が減らされて、彼女が自分の置かれている現実を把握したとき、彼女が最初に思ったことは、「ああ神様、私にもう一度スキーをさせてください!」だった。そしてどれだけドクターに言われようとも、彼女は未来への希望を諦めることを拒否した。まずは、歩くこと。それから――スキー!今もそうであるように、forward thinkingがその時の彼女を生かしていた。

 「最初のうち」、ジャネットは言った、「私は自分のために非現実的なゴールを設定していた。誕生日までには歩けるようになってる、みたいな。そしてその日が来て、私は立つこともできなくて、欝になった。それで今では私は一日、一日の着実な進歩を目標にしている。私は改善を示す新しいサインのひとつひとつを待ち受けているんです」。

 メモリアル・メディカルセンターで、ジャネットは猛烈に、休むことなく理学療法に取り組んだ。だが彼女についた理学療法士ですら、再び本当に歩けるようになるという彼女の夢を挫こうとした。ジャネットは、彼女がおとなしく言われたことを受け入れ、諦めることを彼らが望んでいるのを感じとった。彼女は彼らに腹を立てて言った、「冗談じゃない、私はファイターだ!」。彼らの否定的態度に対するジャネットの怒りが募れば募るほど、彼らが間違っていたことを見せつけてやろうという彼女の意欲の炎は勢いを増していった。

 昼であれ夜であれ、ジャネットがヒステリックになり、怒りに駆られて、希望を見失ったとき、彼女はママに電話を掛けた。カイリー夫人は彼女のためにそこにいた、彼女自身のforward thinkingのブランドを携えて。

 「あなたはまた歩けるようになる、ジャネット。私はそれを知っているよ。あなたは私のミラクル・ベイビーになるんだから。そしてその日には、あのひとたち全員のところに行って、ほらそう言っただろうと言ってやりましょう!」。カイリー夫人も怒っていた。彼女は、娘に必要なのは励まし鼓舞すること、やる気を起こさせることであって、彼女の心をひたすら折り続けることではないと分かっていた。

 ジャネットはドクターに繰り返し繰り返し、CATスキャンを要望した。それによって、彼女の脊髄がある程度残っていて、完全に切断されているわけではないことが明らかになると、彼女は固く信じていた。メモリアルの医師たちは、定期的なX線検査で知るべき必要のあることはすべて確認できていると言って、申し出を断った。ジャネットの脊髄は断ち切られていた。なにも残されてはいなかった。

 ジャネットは激高した。彼女自身がCATスキャンを手配することができないことは分かっていた。しかし彼女は未来の目標を設定した――それをやってくれるドクターをどこか外に探し出すこと。

 1カ月と2週間を経て、ジャネットはメモリアルから解放された。彼女と彼女のママはあらゆるところをくまなく探し回り、彼らが信頼でき尊敬できるひとりのカイロプラクターを見つけた。彼は、ありがたいことに楽観主義者だった。そのカイロプラクターのローマックス博士はCATスキャンを手配し、そして全員にとって喜ばしいことに、それはジャネットの脊髄の50%が残存している――部分的には両側に――ことを示していた。銃弾はちょうど間を通り抜けていた。しかし脊髄は切断されていなかった。現実的な希望がそこにあった。

 ローマックス博士がジャネットのために彼ができるすべてをやった後で、彼女の兄のダニエルが、彼女が週5回、1日7時間理学療法を受けることのできる場所を見つけた。ギブズ研究所である。研究所とそこで働く人たちは、ジャネットに援助と希望とやる気と勇気を授けてくれた、いま彼女はそう語っている。彼らもまた、ジャネットと並んでforward thinkingを実践している。彼女のセラピストたちは常に言っている、「ジャネット、君が本当に歩いているところを見るのが待ちきれないよ!」。

 ジャネットを撃ったのはその犯人の初犯だった。彼は寛大な処分を受けて、殺人未遂の罪にのみ問われた。懲役8年の刑を受けたが、十中八九、たった4年の服役で済むだろう。不合理に彼女を撃ち倒したこの男がそんなにも少ない年月で外を自由に歩いているだろうと考えると、ジャネットはムカムカした。「私はそのことをあまり考えないようにしている。私が欝になって、あいつは数年で娑婆に出てくるのに、いっぽうその頃自分はまだ車いす生活を送っているんだなんて想像が頭に浮かぶと、私は考えるのを止めて、それを私は乗り越えてやろうって自分に言い聞かせている。私はあの犯人が釈放される前に歩いてやる。私はあいつに、私がダンスを踊ることやスキーをすることや動き回ることを、私から永遠に取りあげさせたりはしない。そんなことさせてたまるか!私はそれに関しては頭にドが付くくらいのファイターなんだから」。

 ジャネットは言う、「負けを認めることを拒否することによって前進していく。それが私のやり方なの。私はドクターの気の滅入るような診断を法律みたいに受け入れたりはしない。そうなの、彼らは私が二度と歩けないだろうと言う、でも私みたいな境遇のほかの人たちのなかには、ドクターが間違っていたことを証明してみせた人がいる。そして私もそれをやろうとしているの。心が体に対してできることはたくさんある。もしも私が前向きに考え続けていれば、よいことがきっと起きると私は信じている。ギブズは私に希望を与えてくれた。そして私はそこで、現実の、グラフに描いて表せるような進歩を成し遂げてきた。そこのセラピストの人たちは私のことを信じている。そして私は彼らがどれだけ正しいかを示そうとしている。毎週私は自分に、ちょっとでも前に進もうって心に唱えている。そして私はいつもそれをやっているの」。

 ジャネットと彼女のボーイフレンドのジョーは、この4月で付き合いだしてから6年になる。彼は試練の期間をとおして彼女に寄り添い続け、素晴らしい気遣いをみせている。Forward thinkingはある意味で、彼らの結婚のプランを延期することの役に立った。ジャネットは言う、「彼は私に結婚しようって言い続けていて、私は彼にしばらく待ってと言っている。ええ、もちろん私は彼と結婚するつもり、だけど私は結婚式のときに、教会の通路を歩いて下りていきたいの!」。

 ジャネットの未来のプランは、単に根拠のない、物欲しげな夢物語ではない。彼女はそれを達成するために、自己犠牲的な努力を重ねている。ギブズのセラピストたちは彼女のことを、彼らが接してきたなかでももっとも意欲に満ちて、もっとも目標指向的で、もっとも勤勉な患者のひとりだと言う。そして彼らは、彼女の受けた傷の重さを考えると勝算は小さいようにみえるが、なお希望はあると言っている。彼女の前向きな活力と、ひたむきな努力と、まだ残っている彼女の脊髄が組み合わさることによって、ジャネットが目標を達成できる可能性はある、そうギブズのひとびとは信じている。

 ジャネットはギブズでの彼女のセラピーを5月にはじめた。12月までに、あらゆる種類の改善が成し遂げられた。彼女は補助なしで姿勢を正すことができるようになり、垂直に立てた状態で膝立ちできるようになった(以前は彼女の膝はJello(訳注:アメリカで売られているプルンプルンしたゼリーのこと)のようだった)。彼女は脚の筋肉を収縮させられるようになり、それは外からもはっきり見てとれた。そして最後に、彼女の神経路は筋肉につうじて作用を及ぼしていた――彼女を立たせることができるほどにはまだ十分ではなかったが。「今のところはまだそんな具合」、その晩彼女は言った。この若い女性はたった8ヶ月の期間に驚異的な進歩を成し遂げたのである。

 ギブスでの丸一日ぶんのセラピーは700ドルかかる。12月のはじめに彼女の保険会社が、彼らの医師のひとりに彼女を強制的に会いにいかせた。その医師は、彼女のセラピーは週3回、一日2時間で十分だと報告していた。医師はジャネットが成した改善を「不十分」だと過小評価して、どれだけ手厚いセラピーを彼女が受けたとしても、彼女は二度と歩くことができないだろうと主張した。

 そうしてジャネットは保険会社によってセラピーを週3回にカットさせられた。しかしありがたいことに、一日あたり2時間ぶんの保険しか支払われなくなったにもかかわらず、ギブズは彼女に丸一日分のセラピーを受けさせてくれている。ジャネットは言う、「もちろん、私は怒っている。ギブズにいて前に進んでいくことができるはずの時間に家のなかで座っているのは嫌なの。保険会社は私のセラピーを週2回に減らすと言ってきている。そして6月以降は、なにもなしだって。私は保険会社には本当に腹を立てていて、私のために闘ってくれる弁護士を探しているところ。でもいっぽうで、ただ怒っているだけではなんの良いことも生まれない。私にとってもっと大切なのは、自分の心とエネルギーを、もう一度動けるようになることへ集中させること。そして私が歩けるようになったときは、保険会社の連中に彼らが間違っていたってことを見せてやるの。私はある日、私の二本の足で彼らのオフィスに歩いていこうと考えている――彼らは私の手助けをしようとしなかったことを恥ずかしがって涙をみせるんじゃないかって期待しているわ」。

 これがforward thinkingでなくてなんだろうか。

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 8/9

セラピー

 私たちが自分の怒りに向き合い、それを克服しようとしている時、すぐれたセラピストの存在ははかりしれない財産となるだろう。彼または彼女は、怒りを表現し、それを方向づけ、私たちの利益になるようそれを活用すらするための方法を教示することができる。

 私たちの親友やもっとも近い親類も含めた多くのひとびとは、怒りに対してうまく対応することができないので、私たちがそこに行き、自分の怒りについて率直な議論を交わし、それを分析し、ときにはそれを曝け出すことのできるような場をもつことは助けになる。さらにセラピストは、私たちの怒りに対するほかの人々の反応に対して対処するすべをも教えてくれる。

 セラピーの場で、自分の怒りを否定したり抑え込んだりする必要はない。それに対して申し訳なさを感じる必要もない。優しく微笑んで「ご心配なく、わたしはだいじょうぶです」などと言う必要もない。私たちが必要としていることは、私たちの抱える怒りに建設的に取り組んでいくことである。よいセラピストは怒りをただちに消し去ろうとはしないものである。そうではなく、怒りに向き合い、それを吟味し、それを受け入れ、そしてそれを乗り越えていくように私たちを励ましてくれる。

 私の精神科医の助けなくして、襲撃の後の夏から秋までの期間を私が切り抜けることはほとんど不可能だったろうと思う。怒りが私を呑み尽くし、私をまるで歩く時限爆弾のような気分にさせていた。

 私の妹のマリアと私は、親友のマリア・スミスと彼女の2歳になるルーク(私は彼の名付け親である)のもとに引っ越していた。病院生活から離れるのは素晴らしいことだった。いま再び取り戻した自由が私を高揚させ、現実世界の一員に再び加わることを私は切望していた。しかし私はむしろ、不快な事実の只中で目覚めることになったのである。

 それからの半年間は、私の人生のなかでもっとも困難で――そしてもっとも怒りに満ちた――時期になった。体を鍛え上げて、完全な回復へ向かい取り組んでいくことは、決して容易な課題ではなかった――特に私を守ってくれる病院生活という庇護のない条件のもとでは。ほどなくして世界は辛辣で冷たい現実によって私の頬を打ったのである。

 多くのひとは、私から溢れ出す怒りを理解できなかった。結局のところ、彼らはこう言うのである――あなたは退院した、あなたの健康は回復してきている、そしてあなたの妹はあなたを助けるためそこにいる、あなたの人生は上向きである、そうなんじゃないの?それを聞いて私は首を振り、自分の怒りを秘しておこうと誓いを立てる。しかしそれから私は息苦しくなり、惨めになり、以前よりいっそう怒りを覚えるようにすらなるのだった。

 私は自分の変わってしまった人生と肉体とのあいだの争いに捕らえられていた。受け入れることはまだ遠い先の話で、私は怒りを表出し、怒りについて話すことを必要としていた。しかし人々は聞くことに疲れていた。

 私の怒りを認めてもらえなかったことは私をいっそう怒り狂わせた。私は何時間ものあいだただじっとして苛立ちながら、心のなかで腹立たしげにこう思っていた。「もしも彼らが10回刺されたら、もしも彼らが一生消えることのない傷を負ったら、もしも彼らが自分を殺そうとしているイカれた人間につきまとわれていたら、彼らだって怒るはずだ!」。私は自分がまったく誤解されていると感じ、混乱し、罪悪感すら覚えた。

 セラピーにおいて、私は自分の怒りと苦痛が受け入れられ理解してもらえる場所を見つけた。そこでは私の心の動揺は、私が置かれている状況に対する、筋の通った妥当な反応だとみなされていた。

 ウェインゴールド先生は、私が怒りでいっぱいになるのにはいちいちもっともな理由があるのだと、私がそう感じるからといって私は赤ん坊でもガキんちょでも「クレージー」でもないのだということを、繰り返し私に言って聞かせた。彼と、理解しようと努めてくれるほかの人々との両方に対して、自分の怒りについて語り、それを表に出すことを、彼は私に促してくれた。そして彼は、時がたてば私の怒りは大きく弱まっていくと私が信じることができるように、助けてくれた。しかしまずはそれに向き合わねばいけなかった。

 ウェインゴールド先生は、犯罪被害者の権利のために活動することへの私の関心を、怒りを建設的に表出するための一手段として、後押ししてくれた。彼はいかにして自分の怒りに対処するかについての私の考えに耳を傾け、彼自身のいくつかの意見を述べた。ウェインゴールド先生のアプローチは、多岐にわたる手段を駆使して私を支援するものだった。彼は私を過保護に扱うのではなく、自分自身の怒りを抱擁し、受け入れるのに十分なだけの心の安心感を私に与えてくれた。

 退院直後の日々には多くの事柄が私の怒りの感情の触発に寄与していたが、なかでも最も私を怒らせたのは、巷ですれ違う人々が私に関わり、私のことを見るそのやりかただった。

 入院期間中の最後の数週間に、私はほかの患者との比較においては肉体的に強そうに見えていた(そしてしばしば私もそう感じた)。しかしこの現実世界で、ひとびとは私をか弱く、無力で、儚い小さな花のごとくに扱った。私はほかの人が私を見るのと同じように自分自身のことを見るようになっていった――青ざめて、やせ衰え、のろのろと動く私。私はその頃まだ、巨大で奇妙な見た目の金属製の装具を手と腕に付け、上体には傷の拡大を防ぐためのゴワゴワした加圧装置を着用していた。これらの装具と加圧装置の組み合わせによって、私はふつうに運動し、歩き回ることができるようになっていたのだ。

 その頃の私は健康そうな見た目の人間ではまったくなかった。私のことを口を開けぽかんとして見つめていたひとびと、ささやき合い、論評し合っていた人々、忍び笑いを浮かべ、時には声を出して笑い出しさえしたひとびと。私はそれを決して忘れることができない。私は彼らに向かって叫びたかった、「私を一人にさせて!私のことを見ないで!お願いだからあっちへ行って!」。

 ある時、レストランのトイレで、若い女の子が大胆にも私のほうへ歩み寄ってきてこう言った、「ねえ、それどうしたんですか?犬に噛まれたとか?」。それから彼女は甲高い、引きつった笑い声を立てた。怒りと屈辱の涙が私の目に溢れてきた。私は彼女に平手打ちを食らわしてやりたい衝動に駆られた――彼女に、私に対して不親切で無神経だったすべての人間に反撃してやりたい。しかし私がしたのは、彼女のことを、トイレを出ていくまで黙って睨んでいることだけだった。私はなんとかして自分の理性を取り戻してテーブルに戻り、家に帰るまで怒りを自分のなかにしまいこんでいた。帰宅した家で私は怒りを爆発させ、夜になるまで延々とヒステリックに泣き叫んでいた。

 退院してから1カ月が過ぎるまでに、私は既に数々のその種の遭遇を耐え忍んでいた。そして私はパニックになり、自分が知らない人間の一団に出くわさなくてはいけないと知ったときはいつでも落ち着きを失うようになった。

 見知らぬ人々の只中で私はまともにやっていけるのかについての疑いが私の心を覆った。もしも誰かとりわけ無慈悲な人間がいて、私が怒りのあまりその人を本当に打ってしまったらどうなるのだろう?

 私の体からすべての装具類が取り外される日までどこかに引きこもっていることを考えた。しかし私はそれがほぼ一年先のことであるのを知っていた。そして私は、自分自身を社会から隔絶することで、これまでよりなおいっそう、私が自分の運命の囚人であるかのように感じてしまうだろうと思った。

 私の精神科医と私はこの窮状についての議論を交わした。私はウェインゴールド先生もまた、知らない人たちが私をどのように扱い、彼らの反応に私がどう応じるかについて心配しているのを感じた。私はいまだに精神面で非常にデリケートであり、彼は私が、ここまで私の培ってきた心の健康のレベルから後退したり、それを失うところを見たくはなかった。そして私たちのどちらも、私が病院やその他の「隠れ家」に退却することを望んでいなかった。

 ウェインゴールド先生は、私の直面している現実を甘いものに変えることは決してできなかったが、それでも彼は、他人の示す反応を私が理解することができるようになるための手伝いに力を尽くしてくれた。ハンディキャップを負った人をじろじろ凝視したり、ぽかんと見たり、ひそひそ話をしたり、乱暴な言葉を口にしてしまう人間の傾向について、彼は何時間もかけて私に話した。そして彼は、一般的にこの種の行動は彼らが問題を抱えていることから生じてくるのだと私に説いた。これらの人々は、自分と「違う」人間に接する機会をほとんどもしくはまったく持ったことがなかったのだ。彼らはどうふるまい、なにを言えばよいのかが分からなかった。彼らは車いすに乗り、装具をつけ、体にギプスを当てられている誰かを単純にひとりの人間として扱うことができるということを理解していなかった。ほとんどの場合において、私が出くわした無神経さは残酷さよりはむしろ無関心の結果であった。

 私たちのセッションのなかで、ウェインゴールド先生は人々の不適切な反応に私が対処することを可能にする方法を提案した。驚くべきことに、彼は私に無遠慮で率直であることを促した。彼らの行動が私を怒らせるのだと知らしめる全面的な権利が私にはあるのだという点を、彼は私に留意させた。ウェインゴールド先生は、これらの人々に対する単刀直入なアプローチの目的は、彼らに恥をかかせることでも、彼らに仕返しをすることでもないと説明した。むしろ要点は、私が自分の怒りを直接的に表現することである――自分自身の心の健康のために。それに加えて、彼らの行動が私にどんな影響を与えているかをこれらの人々に伝えることは、彼らを学ばせることにつながる。それは彼らに、彼らの行動が粗野で不適切で腹立たしいものであることをはっきりと知らしめることになるのである。

 そこで私はウェインゴールド先生の助言を聞き入れ、それを実地に適用しはじめた。ある晩のパーティーで、中年の女性が一時間以上も私のことをあからさまに見つめ、私が誰なのか、何が起きたのか、あの金属の道具はどういう目的のものなのかなどを、聞こえるぐらいの声であれこれ詮索し続けていた。

 やがて私は我慢の限界に達した。私は女性のもとへつかつかと歩み寄り、大声で言った、「お願いですから、奥さん、私のことをそんなにじろじろ見るのはやめていただけませんか。それは私をとても嫌な気分にするんです。それからもしあなたが私のことでなにか質問があるのでしたら――私が付けているこの装具のこととか――私は喜んでお答えしますよ」。

 その女性は慌ててすぐに謝り、逃げるように去っていった。私は肩をすくめて友人たちのところへ戻った。それ以上のことはなにも起こらなかった、そして私はパーティの残りの時間をリラックスして楽しく過ごすことができた。

 直接的なアプローチは実際よく機能した。私が身につけている装具を見て、ひとはしばしば「お座りなさい、さあ、お座りなさい」と私を急かしてきた。私はそれに対して微笑みとともに、「いえいえ結構です。これは傷ついた私の腕と胸のためのもので、足じゃあないんです」と言うことができるようになった。

 ある日、トークショーの出演前に控室で待機していたとき、騒々しい中年の男に絡まれたことがあった。彼は飲み物を手にしながら私のほうに近づいてきてこう言った、「おいおい、こりゃまたヘンテコな見た目のガラクタみたいなのをあんたは背負いこんでるね、へへへ。熊を捕まえるときの罠みたいに俺には見えるね!」。

 私は一瞬たじろいた――横で聞いていたゲストの何人かも。それから私は彼の目をまっすぐに見て、素っ気なく言った。「いいえ、これはどう見ても、熊捕獲用の罠ではありません、そして私はなおさらどう見ても、熊ではありません。あなたはそれにしても本当にガサツな人ですね。あなたの無神経な批評を誰かに浴びせかける前に、多少のマナーを学ぶことをお薦めしますわ!」。その言葉とともに、私は踵を返して歩き去った。その男性は、そばで聞いていたひとびとの視線のなかでビーツのように真っ赤になっていったが、私は良い気分だった。

 この男性のような人物に対しては断固として単刀直入に対処せよとのウェインゴールド先生の忠告を得る前の私は、自分の感情を心のうちに沈め、頼りなげな応対をして、家に帰ってから何時間も泣いたり、私の怒りを哀れな妹にぶつけたりしていた。代わって私は、私の怒りや非難を、それを向けるのにふさわしい人に対して露わにするようになった。そして私はその場で即座に怒りから解放されるのだ!

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 9/9

隠れた怒り

 大部分において、私は自分の怒りを常に自由にあからさまに表してきた。それは私にとっても、他の皆にとっても、明らかに見てとれる状態でそこにある。しかしほかの多くの人々にとって、怒りはそれがそこに存在することに気づくことすらできないくらい静かに、その人の裡に潜伏しているものである。

 

 ドンナ・エヴァンスは、舞台での華々しいキャリアに加えて最近は映画への出演の機会も急激に増えている、美しく知的なニューヨークの女優である。彼女は強い、自立した女性で、「恐れを知らない」と形容できそうなほどである。1979年、ドンナにとって物事は上り調子だった。仕事はコンスタントにあり、マンハッタンの彼女の素敵なアパートメントの改装をちょうど終え、後に彼女の夫となる、エドというハンサムで才能ある若い俳優と知り合って間もなかった。

 ある晩、ドンナが彼女のアパートのロビーに足を踏み入れたとき、彼女はナイフをちらつかせた二人のティーンエイジャーに声をかけられた。ドンナは動転した。彼女は彼らが自分を刺し殺そうとしているのではないかと脅えた。しかし彼女は努めて冷静にふるまおうとしていた。

 ティーンたちはみだらなしぐさをし、彼女を傷つけるか、あるいはレイプしようという意志をもっているらしかった。彼女は彼らを説得してやめさせようと試みた。加害者に話しかけたことが彼女の命を救ったことはあり得るが、それは彼ら二人が彼女を性的に暴行することまで防ぐには至らなかった。レイプの後で、彼らは現れたとき同様に、不意に姿を消した。

 ドンナは彼女が襲われた直後を深い葛藤の時期として覚えている。彼女の主たる感情は罪悪感で、怒りではなかった。彼女は若いレイピストに対して怒りも憎しみも感じなかった。彼女への性的暴行の本当の理由は、あの少年たちが社会的、経済的に恵まれていなかったからだと彼女は思った。警察への届け出のあとで彼女は、ティーンの時期に犯したこのたった一つの犯罪が彼らの残りの人生を駄目にしてしまうのではないかと心配した。彼女が感じた唯一の怒りは、これらの少年をあんな風にした社会に対してのものだった。

 ドンナは性的暴行の直後に、ヒステリックな、あるいは顕著に感情的な反応を示さなかった。彼女の生活で唯一変化したのは、男性とどう関わるかに関する点だった。だんだん頻繁に、彼女はまったく知らない男性に彼女のレイプの話をして彼らを挑発し、彼らに罪悪感を抱かせている自分に気づくようになっていった。

 しかし彼女は、自分の身に起こったことに対して、さりげない、平然とした態度を装っていた。彼女の新しいボーイフレンドがレイプから一週間後に彼女に電話をした。「なにか変わったことはなかった?」とエドが尋ねたとき、彼女はのんきな調子で、「ああそうそう、こないだレイプされた」と答えた。

 ドンナは彼女の人生を続けていった。物事は速やかに正常に戻った。彼女はすっきりした気分で落ち着いていた。いかなる怒りや苦悩も表面化することはなかった。死に到る恐れもある暴行を生き延びたのだと彼女は思った。そして彼女は、自分がこの出来事に対して心理的に順応済みだと心から信じていた。

 被害に遭ってから2カ月後、ドンナは大きなレパートリー劇団との古典的演目で主役を演じるため、ニューヨークを離れた。彼女はこの仕事に興奮していて、おおいなるエネルギーと意欲をもってリハーサルにとりかかった。ところがリハーサルが始まるか始まらないかのうちから、彼女は一時的な失神状態に何度も陥るようになり始めた。

 何日間も失神の発作が続いた。ドンナは病院や開業医のところへ行って検査を受けたが、気まぐれな失神の医学的理由は見つからなかった。日を追うごとに彼女は感情のコントロールを失っていった。彼女の生が丸ごと、彼女の周りで崩れ落ちていくようだった。

 たまたまその近所に住んでいた、ハイスクール時代からの旧友のエレンがドンナとコンタクトを取った。二人が会ったとき、ドンナはエレンにここ数カ月の間に彼女に起こったことの一部始終を話した。エレンはたまたま、近所にある、国内でも最高水準のもののひとつだとされているレイプ・クライシス・センターでボランティアとして働いていた。彼女は、ドンナがいま抱えている問題は性的暴行を受けたことと直接関係しているのではないかとの考えを述べた。ドンナにはそれが本当のことだとはまったく信じられなかったが、それでも彼女はセンターに電話をかけて、アポイントメントを取ることに同意した。

 ドンナの担当になったのは、すぐれたセラピストのジーン・クレイグであった。臨床心理学者のジーンは長年レイプ被害者のケアを手がけてきており、献身的で疲れを知らないカウンセラーだった。

 そうして始まったセラピーは、ドンナから迸る怒りの爆発を引き起こした。レイプされたことに対する強力な、胸をえぐられるような、未解消の怒りが、最近彼女を襲った意識の断線の直接的原因であることはすぐ明らかになった。ドンナのなかの怒りはあまりにも長い間潜伏を続けていた。それは解放を必要とし、完全なるコントロールの喪失という究極のアクト、すなわち失神あるいは気絶にはけ口を見いだしたのだった。彼女のみたところは完全に順応済みの数カ月にもかかわらず、性的暴行の心理的影響は、その間ずっと彼女の心を蝕んでいたのである。

 ドンナは週に5日、ジーンとの面談の機会をもった。彼らはレイプそのものについて、ドンナのその後の罪悪感について、彼女の失神を引き起こしている強い怒りについて語った。ドンナはセラピーをとおして、はけ口を求めて彼女のなかで暴れ回っている怒りの存在をしった。ドンナはレイプを軽視する彼女の習慣を捨て去った。彼女のカウンセラーの助けによって、彼女は性的暴行が本当はどういうものなのかを認識しはじめた――彼女の肉体と精神の両方に対する、怖ろしい、苦痛に満ちた、不当な攻撃である。

 何時間も続けて、ドンナはジーンに話した。徐々に彼女は罪悪感の軛と重しから自身を解放していった。ドンナはティーンエイジャーのレイピストたちがどういう人間だったのかを理解しはじめた――貧しさに苦しめられた成長の過程にもかかわらず、彼らの暴力行為に対して責任があり、報いを受けなければならない、若い犯罪者。さらに彼女は、彼らのうちのある者が犯した犯罪によってすべての男を責め立て「罰する」のではなく、彼女の敵意を当の加害者に対して向けることを学んだ。

 ドンナの状態がセラピーによって改善していくにつれて、失神の回数は減っていき、やがて消失した。彼女は怒りをある程度保持していたが、それとのつきあいかたを学んで、安全にそれを表現できるようになっていった。今日に至るまでドンナは、レイプのトラウマが招いた、遅延はしたがきわめて強力な感情的反応からの回復へと彼女を導いてくれたセラピーに感謝の念を抱いている。

 

 再び言う、私はセラピーが万能薬であるとは思わないが、しかし犯罪被害に遭った私たちの多くにとってセラピストの助けは、自分の怒りを特定し理解すること、私たちの正当な怒りに対処するための有効で適切な手段を明らかにすること、そうしてよりよい心の健康へむかって前進していくことへと、私たちを導いてくれるものである。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 1/10

第5章 痛み(118~175頁)

 なぜ蛇が邪悪さやあるいは死の象徴にしばしば用いられるのか、私はよく理解できる。襲撃後の悪夢のような日々に、とぐろを巻いた、鋭い歯の、テラテラした生き物のイメージが私の意識に浮かんでは消えていったのだった。

 私はあれらの日々の苦痛を、静かで、致命的で、脅威的な――なにか蛇のようなものとして覚えている。その邪悪な存在が私を強力な顎のなかに捕らえ、全身を呑み尽さんとして私を脅かし、私を圧倒していた。

 苦痛は至るところにあった。それは私のもっとも外側の層で止まることなく、小さな孔から私のなかに忍び込み、さらに深い層へと、表皮を、骨を、筋肉を、神経を押し分け進んでいった。悪意に満ちた苦悶はそこでも止まることはなかった。それはなお深い、私の肉体的な存在の遥かな下方、遥か向こう側まで掘り進み、ついに私の心と魂の中核へとその鋭い牙を突き立てたのである。

 私の心の奥底は、おぞましい幻覚を産み出す沃野であった。小さな蛇たちがどこからともなく現れ、その尖った舌先を直接私に向けてきた。不気味なささやき声が私を嘲った。「お前は苦痛のせいで死ぬよ。俺たちは苦痛だ、そしてお前は死ぬ」。それから彼らはズルズルと這いずり去っていった、異様な甲高い笑い声を立てながら。

 私がこれらの邪悪な嘲り声を聞いたと信じた瞬間はいくらでもあった。私の苦痛はあまりにもはげしく、私はたとえ苦痛が私を殺さなくても、それは間違いなく私を狂気へと運び去るだろうと信じはじめていた。

 次の鎮痛剤投与の前の最後の半時間に、私はもっとも脆弱だった。「この苦痛に耐えられない。私は狂ってしまう」、私は泣き、頭を前後に揺り動かし、そこらじゅうにいるようにみえた蛇のごとき生き物から後ずさりしていた。

 力なく私はそこに横たわり、幻覚が消えることを待ち望んでいた。恐ろしいイメージがようやく過ぎ去っていくと、私は暗く落ち窪んだ眼から外界を覗き込み、ベッドサイドで静かに私を見守り続けている母の心強い姿にほっとするのだった。私たちは同じ苦痛の腕に捕らえられて、お互いの目を見つめ合い、束の間の休息の訪れることを祈った。やがてそれは、デメロールの投与というかたちをとってやって来た。私は母にもそれが投与されることをしばしば願った。しかし、あの効能確かな催眠剤でさえも、彼女のなかの奥深くに横たわる傷にはほとんど触れることはできなかっただろう。

 

あらゆる人々の人生に雨が降りかかることがある Into all lives some rain must fall.

あらゆる人々の人生に苦痛が降りかかることがある Into all lives some pain must fall.

 

 薬が苦痛をほんの少しばかり和らげると、この単調な詩の韻律が頭のなかをぐるぐると巡った。この歌は一種の子守歌になった。薬が私を短いがしかし歓迎すべきうたた寝へと誘うとき、私はしょちゅう、目を閉じて心のなかでその歌を唱えながら眠りについた。

 私の悲惨は際限を知らなかった。私は自分の両の眼を、そこから私の内と外にひろがるみじめな苦悩の世界が覗き見える「地獄への穴」だと思っていた。安寧と平常の大地への苦悶のなかからの一瞥は、ほとんど慰めにならなかった。私が見ることのできたものすべては、私自身のこの恐ろしい、毒の蔓延した世界から遥か遠く隔たっているようにみえたのだ。

 そんな風にして私は何日間も生きていた。苦痛から逃れたり、隠れたりすることのできる場所はどこにもなかった。そこで私はしばらくの間、そいつのやりたい放題にさせた。瞬きもせず私は蛇を見つめた。私は彼らを受け入れ、私の肉体を射抜く痛みの衝撃を受け入れた。それから私は眼を閉じ、ドローンのように続く歌へと自分を没入させていった。

 

あらゆる人々の人生に雨が降りかかることがある Into all lives some rain must fall.

あらゆる人々の人生に苦痛が降りかかることがある Into all lives some pain must fall.

 

 アルコール中毒者更生会は、「一日一日を」という、すばらしく効果的な哲学をもっている。アルコール中毒者は、彼らのつらい禁酒への道のりを、そのつどの24時間に意識を集中することによって耐えている。その先にさらに続いていく困難な日々を思うことは、彼らの課題を乗り越え不能のものにみせてしまうのだ。

 私の最悪の、もっとも苦痛に満ちた時期を、私は鎮静剤の注射から次の注射までのまさに3時間ごとをやっとのことで生き抜いていた。もしも私が次回の投与よりさらにずっと先を考えてしまったら、私を待ち受けている苦しい数週間や数ヵ月の展望に耐えられなかったに違いない。

 そうして、そのつどの3時間ごとを生きていくことにより、私は嫌らしい苦痛の毒牙が噛む力を弱めるまで、生き延びることができたのだった。

 その後の長い苦しみの期間はそれまでとはまったく異なるものになった。過ぎ去ったのは幻覚であった、ぞっとするいやらしいささやき声であった。いまや苦痛はより具体的なレベルで私の生に入り込んでいた。

 ある面で、薬漬けの悪夢から私の能力を損なうことなく目覚めることができたのは救いであった。しかしある面で、苦痛は私をいっそう激しく苛んだ。私の感覚はより鋭敏になり、苦痛をより強く感じるようになったからである。しかし私に逃げ道はなかった。私はもはや苦痛に満ちた夢に向き合うことはなくなっていたが、同じくらい苦痛に満ちた現実に対峙することになったのである。

 

 多くの犯罪被害者は、苦痛が領し、安らぎが後景へと退いている世界へと放り込まれた自分自身に気がつく。この状態は、自分自身になんの咎もないのに自分はそこにいるという事実によって、なおいっそうおぞましいものになる。

 多くの被害者にとって、心の痛みと体の痛みは連関しあうようになっていく。たとえその人の肉体が実際の犯罪の過程で傷を受けていなかったとしても、被害に遭ったあとの心の苦悩はしばしば肉体をも衰えさせる。

 犯罪被害者の行く手には苦難の時期が待ち構えている。そこから容易に脱け出る方法はない。おそらく、私が言うことのできるもっとも励ましになる事柄は、何千人もの被害者が、もっともおぞましく長期にわたる苦しみをもなんとかして乗り切ってきたという事実である。多くの場合において、改善への歩みはのろのろとして途切れ途切れであった。しかし私たちは、試行錯誤を繰り返しつつ、自分自身の苦しみに立ち向かうにあたってなにが助けになるか――なにが害になるか――を発見していったのだ。

 苦痛の知覚のされ方や許容範囲は人により千差万別である。それゆえ傷ついた人は、自分の苦しみを緩和し、それとともに生きていくことの助けになる、自分に固有の方法を探し求め、実践していかねばならない。

 私はよく人がこう言うのを聞いた、「いったんそれが終わったら、あなたは苦痛を全然思い出すことができないでしょう」。それはまったくの間違いだと私は知っている。私の体のあらゆる部分がどれだけ痛んだか、私の心と魂がどれだけの苦痛で満たされていたかを私は思い出すことができる。じじつ、私はそのことをあまり頻繁に考えないように努めている。あのいっさいの苦しみを考えるだけでも私を傷つけるからである。

 多くのひとが私に言った。「私はあなたがしたように苦痛を耐えることは決してできない。私は気がふれるか自殺してしまうでしょう」。私が彼らに言えることはこれだけである。「私もそう思っていました。でも、あなたが恐ろしい状況のなかに否応なしに送り込まれたとき、あなたは自分が可能だと考えていたよりもずっとたくさんのことができることに気づくんです」。

 

 襲撃の後、私の母は当然のことながら心配げな様子だった。彼女は私がちっちゃな少女のころから、妹やいとこや同年齢のほかの子供たちより痛みに敏感だったことを思い出した。些細な擦り傷や切り傷すらも、私に何時間もつづく苦悶の泣き声をあげさせた。歯医者の診察を受けるときはいつでも、私は治療の前にも最中にも後にもみじめなありさまだった。私はただ注射針を見ただけで金切り声をあげて泣き出し、歯科医院や救急外来へと物理的に引きずられていかなくてはならなかった。私がいかなる種類の痛みに対しても非常にわずかな耐性しか持っていないことは明らかだった。

 ティーンのころにも大人になっても、この傾向はまったく改善されなかった。それどころか悪くなった。私は痛みに関しては赤ん坊みたいで、みっともないったらありゃしなかった。

 私が20歳のとき、私の代理人が歯に冠をかぶせることを奨めた。私は映画でのキャリアを積んでいこうと決めていたので、「まぶしいばかりの笑顔」は私の心に訴えるものがあった。そこで私は「スターのための歯科医」として評判の高いグレゴリオ先生のところへ行った。

 ああ、先生は私のような類の人物にはこれまで一度も出くわしたことがなかった!私は12歳ごろからこのかた、歯科医院の椅子に座ったことはなかった。彼が鋼製のなにかを突っつくような尖ったものを手に私のほうに近寄ってきた途端、私は木の葉のように震えはじめた。涙が私の顔を流れ落ち、彼が何本かのたいしたことのない虫歯の治療をしている間、私は哀れっぽいうめき声をあげて泣いた。彼は私の極端な反応に困惑し、不安になった――私が彼の患者を待合室から追い払ってしまうのではないかと彼は恐れていたに違いない――しかし彼は、笑気ガスだとかの麻酔薬を自分は信頼していないのだと説明した。それから彼は、私の前歯に仮の冠をかぶせられるように前歯を少し削る作業を次回からはじめるので、来院前に軽い精神安定剤を飲んでおいてくださいと私に言った。

 一週間後、軽い鎮静剤の効果で心地よくぼんやりとしながら、私は友人とともに医院に着いた。しかしドリルが回転しだした途端、私は震えはじめ、冷や汗をかきはじめ、そして泣きはじめた。ただし今回は前よりずっとひどい状態だった。悪感が背中を駆け巡り、私は文字どおり泣き叫びはじめた。ドクターは私に止めさせることができなかった。彼がドリルを使い続けるにつれ、私はますますヒステリー状態に近づいていった。彼は4本の歯に処理を施す予定でいたが、慌てて1本の歯だけの作業を終えて仮の冠をかぶせると、私に別の歯科医の名刺を渡した。いまだにすすり泣きながら私は名刺に目を落とし、「ドクター・ハリー・ハンブルグ全身麻酔のもとでの歯科医療」の文字を見た。涙をこらえ、しゃっくりをしながら私はグレゴリオ先生にお礼を言い、こそこそと逃げるように医院を出た。ほかの患者は私を見つめて首を振っていた。

 そういうわけで私はハンブルグ先生によって歯に冠をかぶせてもらうことになった。彼は陽気な人物で、医院の壁は彼が最近出版した『麻酔のよろこび』という本のブックジャケットを収めた額で覆われていた。

 2週間ごとに私はハンブルグ先生の医院に行き、そのつど数本の歯に冠をかぶせてもらった。そこの待合室に私といるのは、歯医者につきもののドリルによる猛攻撃に耐えることのできないひとびとだった。ある人は、私と同じく、単純に痛いことの大嫌いな人だった。しかし大半は、なんらかの深刻な肉体的あるいは精神的な問題により、通常の歯科医療を受けることが不可能な人だった。

 私の順番になると、私は長い手術台に上り、袖をまくり上げて、ハンブルグ先生が私の腕に静脈点滴の針を挿入するのを観察していた。すぐに、ペントタールナトリウムが私の静脈に流れ込んでいった。私は十まで数えようとして、四までいったところで意識を失った。意識を回復するたびに、私の口のなかには白く輝くクラウン付きの歯が新たに2本追加されていた。

 だから、襲撃の後で私の母が、痛みが私の気を狂わせ自殺に追いやってしまうのではないかと心配したのはもっともなことだった。私は彼女が涙ながらに父にささやいているのを聞いたものだ。「トニー、この子がどうやってこれを乗り越えられるのか見当もつかない。だってこの子は小さなひっかき傷にだって耐えられなかったのよ」。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 2/10

 事態の厳しく冷酷な現実は「私に選択の余地はない」だった。過去において、苦痛が私の前に現れたとき、私は種々様々な手を見つけ出してそれを避けるか弱めるかしていた。しかし襲撃の後、私はそこのベッドの上に囚われ、多数の刺し傷とつらい医療処置の結果とその余波に耐えることを強いられていた。

 もしも私が苦痛を否定しようとしたら、あるいはそれと無益に戦おうとしたら、私は間違いなく狂気へと追いやられていただろう。人は現実を否定することが現実にはできず、なおも現実の世界にとどまり続ける。あるものはあるのである。そしてその痛みはあった。私が苦痛とともに生き、やがてそれにうまく対処できるようになるための唯一の方法はそれを現実として受け入れることだと、私は本能的に悟った。そして私はまさにそれを行ったのであった。それは地獄のように痛んだ。それは私にみじめさで涙を流させた。そしてそれは私を苦しみの恐るべき深みへ連れ込んだ。しかし私はそれを否定することを拒んだ。私はそれを受け入れ、それを感じ、それを憎みさえした。しかし私はそれがそこにあることを許した。私はドクターやほかの皆が言ったことは真実だという認識に固くしがみついた――「物事は良くなっていく、だから苦痛だって良くなる」。

 時おり私は、私のなかの弱々しい小さな声が「こんなの私は乗り越えられないよ~。あまりにも痛すぎるよ~」とネズミみたいな鳴き声を発してぶるぶる震えているのと戦わねばならなかった。そんなとき私は自分に向かって唱えた、「いやお前はできる。お前はできるしそれをやる」。

 日が経つにつれて、私は試行錯誤により苦痛に対してある程度の力をふるうことができるようになっていた。そしてこの力は私の心のなかにあった。私の苦しみの強さは、苦しみに対する私の心構えや認識の仕方によって変わり得るのだということを私は知った。私が苦痛を、憤りに満ちた否定的な眼で見たとき、それはなおいっそう痛んだ。しかし私がそれを治癒へと向かう前進の一サインとして見たとき、それはさほど私を悩ませなかった。痛みは消え失せはしなかったが、それが私に及ぼす影響力は大きく減退した。要するに私は、痛みに私をいいようにコントロールさせるがままにするのではなく、私がそれをコントロールするすべを学んでいったのだ。

 私はしょっちゅう行われる苦痛を伴う医療処置に、まったく異なる心構えで向き合うようになった。私は注射や まさに何百本もの縫合糸の抜糸、採血、その他いっさいを、こう自分に言い聞かせることによって耐え忍んだ――「それは痛い。けれども私はそれに耐えることができる。このすべては私が良くなるのを助けてくれるのだ」。

 もちろん私は、この種の思考法を機械的に会得したわけではなかった。苦痛の受け取り方をコントロールするための力を奮い起こすことのできない日はまだ数多くあった。そんな日には単に、私の心がおのれの身に降りかかったすべてのネガティブな事柄に対して反抗を試みていたのである。私はわめき散らし、激昂し、苦痛と戦った。そして不幸にも、これは私の痛みをいっそうひどいものにするのだった。

 私は自分の肉体的な苦しみに対処するためにしたのと同じくらい熱心に、心理的苦痛に対処すべく取り組んでいかねばならなかった。私の頭と心の傷は、私の肉体を損なう深い切り傷と同じくらい、否定しようのないものだった。しかし、私の肉体に宿る痛みを制御するすべを学ぶことで、私の不安もいくらか取り除かれた。心と体の両方における私の痛みの認識を意識的に変化させることにより、コントロールを取り戻すこと、それは私に劇的な効果をもたらした。私の全般的な体調は――そして心の状態は――飛躍的に改善されたのだった。

 精神的にも肉体的にも活発であることが有益だと私は気づいた。私の心が――そしていくぶん制限された範囲内ではあるが私の肉体が、なにかしら生産的な活動に従事しているとき、私の関心は痛みから引き離された。

 私のもっとも効果的な鎮痛剤のひとつは電話だった。フレッシュな声(望むらくは病院と疾患の世界から完全に無縁の人)と話すことによって、私はしばらくの間、自分の思考と関心を彼らの現実へと向けることができた。時には、他愛ないおしゃべりが楽しく効果的な気散じになった。別の日には、私のマネージャーや代理人とビジネスの件で議論したり、俳優の友だちと仕事の話をするのを私は好んだ。

 私はそれまで熱心にテレビを観るほうでは決してなかったが、療養期間中に私は「ブラウン管」がときには私を傷つけるものから私のエネルギーを反らすのに有効であるのを知った。退屈な病院の日々に、私はよく朝と晩のニュース番組を観た。それは三つの点で有用だった。まず、私の心を私の困難事から引き離すこと。さらに、「あちら側」で起こっていることに私がついていけるようにして、自分が今でも社会の一員だという気分を私に抱かせること。そして、多くの人間が――あるいは国中の人間さえもが――少なくとも私と同じぐらい苦しんでいると私に気づかせてくれること。

 からっぽの時間がどこまでも私の前にひろがっていた回復の初期段階の日々に、私は本の山を次から次へ読破して、文学作品の世界に自分を没入させたいと熱望していた。だが残念ながら襲撃直後の時期は、薬と痛みの複合作用により、私にとって読むという作業は極度に困難だった。私は友人や家族に、短編や、詩や、あるいは雑誌の最新号や新聞でみかけた記事のなかでおもしろいものを朗読してくれるように頼んだ。彼らが私の好きそうな、しかし私が読むにはあまりに長すぎる記事を見つけたとき、彼らはよくそれを切り抜いて、私がそのためだけに用意しておいたフォルダーに挟み込んでおいてくれた。そういうわけで、のちに私がようやく自分でものを読むことができるようになったとき、私は手始めに読むべき興味深い素材をじつに大量に保有していたのである。

 単純なゲームも気散じになった。私は特に、パーチージやスクラブルのようなボードゲームや、ラミーやあるいはハーツのようなカードゲームをするのが好きだった。私はそれらを私の腕のギプスの上や、私のぬいぐるみのひとつの上に置いた。お客が来ていないときは、ひとりで出来るトランプゲームを次々にやって楽しんでいた。

 これらのちょっとした心理的な気散じは、いずれも込み入ったものではなかった。私の心はまだ、長時間にわたり集中力を要するような事柄をするにはあまりにも朦朧としていたのだ。ただ私にとって肝腎なのは、私の考えを私の手や胸や頭など、私を苦しめているもろもろいっさいから反らすことができる点だった。

 ICUから一般病棟へと移ってからまもなく後に、私は多少の自足を取り戻しはじめた。ただしそれは、その頃の私の生活の支配因子である肉体的な痛みによって制限されていた。体のほとんどあらゆる部位が痛み、私の運動能力はごく限られていたのである。

 長期間にわたって、私は多くの事柄をひとりで行うことができなかった。しかし、怪我を負った状態にもかかわらず、私があの時あの場ですることのできる事柄もあった。

 もっともありふれた日常の動作をすることも、私にとってはチャレンジだった。私の左腕は完全に動かすことができず、私の右の人差し指はおかしな格好に添え木を当てられ、包帯が巻かれていた。しかし多くの訓練と忍耐(それは私の場合つねに不足がちであった)とによって、私は右手の無傷な4本の指を驚くべき器用さで使いこなすことができるようになっていった。

 私が第二の「手」を必要とするときは、ヘアピンや鉛筆のようなものを掴むために自分の口を使った。体が麻痺して、ほとんど存在しないも同然の運動能力にもかからわず、あらゆる種類の活動を巧みに行うことができるようになったひとびとについての本や映画を私はみてきた。そして私は自分がまったく同じことをしているのに気がついた。私の右手がひどく痛んだとき、私は口を使ってさまざまなものを拾ったり持ったりした。そうしている私のことを訪問者が同情の目で眺めていると、私は不具の烙印を押されたような困惑の念を感じた。しかし、私がどんな風に見えているかだとか、人がそれをどう思うかについての心配よりも、ひとりでなにかをすることへの欲求が上回ったのである。

 そのうえ、手助けなしで肉体的な作業をやり遂げようと励めば励むほど、痛みそれ自体に私の意識の大部分が傾けられている時間は減っていった。私の心と体を再訓練のプロセスに従事させることは、私の痛みや苦しみのレベルを下げたのである。

 まもなく私は、髪をとかしたり、歯を磨いたり、メイクをしたり、電話のダイヤルを回したり受話器を持ったり、パジャマのボタンを留めたりひもを締めたり、食べるものを切り分けたりができるようになった。そして私はうれしさを感じた。自分自身を完全な依存状態ではなく、ひとりで機能している状態として認識するのは素晴らしいことだった。

 襲撃から早くも3週間後に、私は運動をしたいという差し迫った欲求を感じた。私はそれまでの人生でずっとダンスを習ってきたので、私の脚の筋肉はおおいに発達していたのだった。数週間の病院暮らしの後、私はふくらはぎやももの筋肉の張りが消えていることに気がついた。そのたるんだ外観に嫌気がさして、私はスタイン先生になにか適度な運動をしてもいいかと尋ねた。彼は即座に了承したが、目をキラキラさせつつ、下の階のそんなに活発ではない患者をびっくりさせるので、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、つま先立ちでクルクルと踊ったりはしないようにと私に警告した。

 そこで私はベッドの上で、腕を牽引されて吊られた状態のままで、一日二回の脚の運動を開始した。たった数日のうちに目に見える変化が表われた。そしてそれは私を爽快な気分にさせた。数週が経過するにつれ、私はおのおのの運動の反復回数を増やしていった。さらに私は右腕を動かすことにも取り組み始め、上腕の筋肉を収縮させたり、小さなものを持ち上げたり、体育の授業で習ったとおりに注意深く腕を回したりをした。

 一日二回の脚と腕の運動をするようになってから、私の全般的な肉体の痛みと苦しみが大幅に弱まっていったのを私は認めた。私の肉体に働きかけて、健康な状態へと首尾よく誘導していくことで、私はやればできる、私は自分自身を掌握している、私はまともに機能しているという気分になることができた。それに加えて、適度な、心地よい肉体への負荷は精神的、感情的な高揚を私にもたらした。適度な運動は強力な薬だった。私は運動することによって、痛みを効果的に抑制するエンドルフィンの分泌を私の肉体に強いていたのだと学んだのはのちのことである。

 重たいギプスが取り外されると、私は手の治療を担当していた医師と相談し、彼は私の左腕のためのごく軽い運動一式の実践を認めた。左腕の筋肉は不使用のせいで退化していたので、まずは私の理学療法士のフィルの監視のもとで運動をはじめた。しかし短期間のうちに私は、それをひとりでやっても問題なかろうとの信頼を得られるほど十分に習熟していった。

 私がしっかりと立ったり歩いたりできるようになってからは、部屋のなかで運動をはじめた。スタイン先生は私の運動療法を容認していたが、私は映画テレビ基金病院のスタッフはそうではないのではと不安になった。そこで私はフレッドか母を監視に立たせ、ドアを閉め切って、極秘裏に運動を行った。

 フレッドは家から私のレオタードやダンスシューズ、ダンス用の音楽テープまで持ってきた。そして私は椅子の背を掴み、それをバール代わりに用いながら、簡単なバレーのウォーミングアップをやり始めた。

 私は自分の体にガイドの役をさせて、いまだ非常にデリケートな状態にある私の傷をぶつけたりして刺激しないよう気をつけていた。しかしこれらのちょっとした個人「授業」は、私をより強く、より幸せで、より自分自身と仲良しにさせた。

 映画テレビ基金病院への入院中の大半の期間、私はダンスを踊り続け、私のバレーの練習を素敵な秘密だと思っていた。フレッドか母がドアを鋭く2回たたくと、それは「誰かが来る」という合図であった。急いで私は自分のローブを羽織るとベッドに飛び込み、ダンスシューズを毛布で隠した。看護師の誰一人として、私が自分の部屋でたった1回のプリエやストレッチを演じている光景すら目にしたことはなかった。ただし数人は、私が急にクラシック音楽への衰えぬ情熱を抱きはじめた件について言い及んでいたが。

 映画テレビ基金病院の入院期間の終わりまでに、私は柔軟性と筋肉の張りと体力を相当程度に――特に脚については――取り戻していた。そして私は、それを自分が内緒でやり遂げたことを嬉しく思った。私が退院するとき、看護師であり友人でもあるジェーンが私にさよならのメッセージカードを手渡した。数時間後、ニューヨークへと向かう飛行機のなかで私は読んだ。「テレサ、Jウイングはあなたの笑い声とあなたのおしゃべり、そしてあなたのジェーン・フォンダ・スタイルの体力トレーニングを決して忘れません!」。私はそれを見て本当に大笑いしたが、あの数週間のあいだずっと、彼らがとやかく言ったりからかうことなく、私のエクササイズを黙認してくれていたことにジーンとなった。

 いま振り返ってみて、私はあの忌まわしい刺傷を負ったあとで、重要な選択をしていたことに気づく。生と健全さを抱擁するか、それとも死と狂気を抱擁するか。そしてそこで私は、苦痛のちりばめられた道を選んだ。しかし、その行程のあらゆる途上において、私はたとえそれがいかにつらいものだとしても、価値あるものだということを分かっていた。

 私は自分があたかも見事な勝利を勝ち得たかのように感じた。私がその過程で多くのことを学んだことは間違いない。私のなかには、必要がないうちは蓋をされて使われることのなかった、人間に宿る力の井戸が存在することを私は知った。そして私は毎日そこから水を汲みだすようになったのである。

 私は主に向かって祈った、私は友人や愛するひとに向かって援助と励ましを求めた、私は鎮痛剤の慰めを知った、私は精神科医に助けを求めた、私は傷を負ったほかのひとびとが実践していた方法を試してみた、私は自分のためのさまざまな対処メカニズムを私的に考案した――そして私は、かつて私が可能だと思っていたよりもよりきびしい苦痛を乗り越えることができた。

 痛みに対する私の耐性の低さ――それは今日も私を悩ませているのだが――については、歯医者さんに聞いてみてください!私のような人間がきびしく、そして長期にわたる苦しみに対処することができるのであれば、ほぼどんな人間でもそれができると私は信じている。