PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 3/7

 襲撃から三日後、私はICUから胸部外科の病棟に移されることになった。私が新しい病室へと押されていったとき、ほかの患者がゆっくりと歩いてホールへ下りていくのを私は見た。はじめて私は、自分が再び歩けるようになるまでどれほどかかるのだろうと考えた。

  私を載せた台車が私の個室へ入っていったときのことを、私は決して忘れることはないだろう。私は自分が花屋にやって来たのかと思った。信じられないほどの花々がそこらじゅうに置かれ、床にさえも列をなして並べられていた。最初に届いた花はロバート・デ・ニーロジョー・ペシマーティン・スコセッシスティーブン・スピルバーグからのものだと看護師が知らせた――以前映画でいっしょに仕事をした人たちだ。他にも大勢の映画業界やテレビ業界の人々、ニューヨークの舞台関係の仕事仲間、何十人もの友人や親類から贈り物やカードが届いていた。その花に溢れた、愛に溢れた部屋の光景に私は、自分がいかに幸運な人間であるかを思い知らされた。

  襲撃事件はすさまじいばかりの世間の注目を集めていて、特にロサンゼルスではそうだった。妙な話だが、私の家族と私はテレビを観ることによって事件のさまざまな真相を知ることになった。ニュース番組でその異様な事件が取り沙汰されているのを私たちが観ているのはおかしな気分だった。ときどき私たちは、ハリウッドの連中のなかには事のすべてを売名のためのネタだと信じている奴もいるんじゃないかと冗談を言い合うことさえあった。そんな具合に可笑しがっていたものの、ニュースの内容はしばしば観ていて非常につらく、気を滅入らせるものだった。

  ある日の報道で、私の家の外の舗道にひろがる私の血が突然クローズアップで映し出されたのを目にして、私たちはみな動転した。フレッドがすぐさまテレビを消したが、私たちの誰ひとりとして、そのおぞましいイメージを忘れ去ることはできなかった。

  それでもある点において報道を見聞することは、私たちが襲撃事件を真実の目線のなかに据え置くことの助けにはなった。私たちは病院の隔絶した世界にあって、時としてそこに存在するもの以外のすべてが夢のように感じられることがあった。しかし6時のニュースで事件を伝えるリポーターの声を聞くことは、夢を否定すべくもない事実へと変えることにつながったのである。

  この恐ろしい災厄は家族全員に犠牲を強いた。皆が張り詰め、疲れ切って、問題はいつ終わるとも知れなかった。襲撃が招いた直接の肉体的、精神的な問題に対処することに加えて、私たちは膨れ上がっていく治療費が引き起こす経済的な問題とも格闘しなければならなかった。カラス刑事は私たちに、犯罪被害者、目撃者とその家族の援助を目的とする「カリフォルニア州検察官・犯罪被害者/目撃者支援プログラム」を紹介した。

  支援プログラムを率いるロリ・ネルソンがシーダーズ・サイナイの私のもとを個人的に訪ねてきた。彼女は、州管理委員会に医療費の補償を申請する資格が私にはあるが、州が支払う額の上限は1万ドルと定められていると説明した。続けて彼女は、1万ドルを超える費用は私個人の負担になること、また、補償金の支払いには通常1年以上を要することを説明した。

  ロリ・ネルソンの言葉が突き付けた現実に対する私の反応は、声高で敵意に満ちたものだった。私は自分が刺されたがために支払いをさせられることに、あの苦痛に満ちた治療のために、あの終わりなき投薬のために、あの精根尽き果てる検査のために、あの長引く病院暮らしのために支払いをさせられることに憤りを覚えたし、いまでも覚えている。

  私に対する請求書が天文学的な額になることは疑問の余地がなかった。保険と州からの最高額の補償金をもってしてもなお、私は何千ドルもの支払いを、自分がまったくの偶然によって犯罪被害者になってしまったがためにさせられる羽目になるのだった。

  幸い私は保険に入っていた。しかし、私が一年以上にわたって必要としていた心理的あるいは肉体的な療法のような重要な医療処置の多くが、保険の対象外だった。そしてそのほかのたくさんの医療費が部分的にしか保険の対象となっていなかった。もしも私が保険を受けていなかったら、襲撃は私を破産宣告へと追い込んでいただろう。私ほど恵まれていない多くの被害者はそうすることを余儀なくされているのである。

  私たちは犯罪の容疑者や確定囚に住む場所を与え、衣服を与え、食事を与え、医療的あるいは心理的なケアを施すいっぽうで、傷ついた、罪のない被害者に対して同じ手当を与えようとはしない。誰がこれを正義だと考えるだろうか?

 

 訪問者の面会を許されるようになって、私の友人の多くが私に会いに集まってきた。自分の周りに人がいるのは楽しかった。彼らとのやりとりや会話が私を喜ばせ、私を再び活気づけた。訪問者のおかげでフレッドと私の両親は、彼らがひどく必要としている休息をとることもできるようになった。

  もちろん私の友人の誰一人として、刺傷事件の被害者との応対を以前に体験したことはなかった。それで彼らはたいていはじめのうちは神経質でぎこちない様子で、私のそばでどう振る舞っていいものか戸惑っていた。点滴の管や包帯や私のずたずたになった体が彼らを怖がらせていることに気づいてからは、私は訪問者とつとめて冗談を言い合い、対面直後のぎこちない空気を和らげようとした。私は彼らに、私の性格もユーモアのセンスも奪い去られてなどいないことを示したかったのだ。

  ところが残念なことに、人の訪問を受けたことは予期せぬ憂鬱な副作用をもたらすことになった。私の友人が帰ってしまうと、私は一人きりで取り残されたように感じた。私はベッドに横たわりながら、友人たちが病院を出たあと何をしているかについて思いをめぐらせた。ダンスのレッスンを受けたり、演劇や映画を観たり、オーディションに行ったり。彼らのように外に出てみたいと私は切望した。しかし私の家族と私はシーダーズ・サイナイの病院の一角に囚われていた。

  病室の静寂は、訪問者が立ち去った直後にもっとも耐え難いものになった。フレッドと両親も同じく憂鬱な気分に襲われていた。何時間ものあいだ、私たちは首を振りながらお互いを黙って見つめ合っていた。 

  フレッドは内にこもりがちになり、消耗しきっていた。夫と妻としてかつて分かち合っていた親密さを私たちは懐かしんだ。いまや私たち二人は病院の世界という機械に組み込まれた二つの小さな歯車の歯でしかなかった。私たちは二人きりでいる時間をほとんど持つことがなく、私はいまだ小さな子供のように両親にべったりと依存していた。フレッドと私はともに苦痛と孤独感でいっぱいだったが、お互いにどう対処していいものか分からなかった。私たちのあいだには、どうやって埋めていいものか見当もつかない大きな溝ができていた。

 

 私の全般的な身体の状態は日を追うごとに良くなっていった。ドクターは薬の投与量を少し減らすことができ、一つだけを残して点滴の管も取り外された。襲撃からわずか1週間後にスタイン先生が私にはじめての歩行――彼の言葉で言えば「はじめてのびっこ」――をやってみるように言ったとき、私はぞくぞくした。

  看護師が私をベッドから起こし、私はフレッドと父の腕にもたれかかった。胸の痛みのせいで私は前かがみになった。足をひきずりながらほんのわずかな歩幅を踏み出しただけで、体じゅうの傷という傷が痛んだ。看護師が点滴のポールを私の脇に押しやり、悲痛な様子の行進がもたもたした足取りで廊下へと歩を進めていった。

  とにもかくにも、私は再び自分の足で立った!背中を丸め、憐憫をさそうごくささやかな数歩を歩んだだけだったけれども、少なくとも私は動いていた。素晴らしい気分だった。私は自分が文字通りにそして見た目通りに、完全なる回復へ向けて歩み出したと思った。

  右手の指の傷は順調に回復していたが、犯人のナイフを握りしめて深い傷を負った左手の薬指と中指のほうは問題を抱え込んでいた。これらの二本の指はまだ動かないままだった。スタイン先生は損傷を受けた筋肉、神経、腱を治すためにはマイクロサージャリーが必要だと考えて、手の専門医を呼び出した。

  そういうわけで私は襲撃から10日後には二度目の手術を受け、手術は2時間半続いた。麻酔から覚めると、大きなギブスが指先から肘まで伸びているのが目に入った。腕全体が牽引されていた。そして手のすべての神経が苦痛の悲鳴をあげていた。

  私はそこではじめて、手の手術があらゆる手術のなかでももっとも苦痛をもたらすもので、特に神経が関与している場合はそうだということを知らされた。ドクターはデメロールの投与量を増やし、私はICUでの最初の数日間とあまり変わらない激痛状態に連れ戻された。私は痛みと戦おうとはせず、痛みが私のうえに押し寄せるがままにさせていた。痛みに抵抗したり狼狽したりすることは、単に自分をいっそう痛みで苛むことでしかないので、私はできるかぎり静穏を保って、エネルギーを治癒と休息のためにとっておいたのだ。そうしているあいだ、私は意識をポジティブな物事や人々に集中させようとしていた。

  私の心のなかに常に浮かんでいたひとりの人物はジェフ・フェン――加害者の手から私の命を救った、スパークレッツの水配達屋さんだった。私はジェフに会うことを希望し、彼がシーダーズの私のところに会いにくるつもりだと聞いたときは歓喜した。

  ところが面会が行われる前日に、記者がそのことに気づいて、家族と私にリポーターの同席を許可するよう求めてきた。私は常日頃から記者に敬意は抱いていたけれども、この特別な対面はプライベートなものにしたかった。そこでジェフと彼の妻のクラーレと、カラス刑事と私の家族だけが列席することになった。

  私の命を勇敢にも救ったその男性が部屋に入ってきたとき、私は少しまごつき混乱した。この人こそが、文字どおり私を死の顎から引き離したブロンドの「天使」だと把握することは容易ではなかった。

  フレッドと両親は、彼の行いに対して熱のこもった心からの謝意を捧げた。それからジェフがベッドサイドに歩いてきた。彼が私の隣に来るやいなや、私たちは手を差し伸べ抱擁した。この勇敢な男性に対する感謝と愛情の念がほとばしるのを私は感じた。私たちのあいだのきずなは断ち切ることのできないものだった――彼は私の命の恩人だった。抱き合っているあいだ、私は溢れる感情で胸がいっぱいになるのを感じた。その場にいた誰もが心を洗われる思いだった。

  それから私はジェフに、彼のために作ったトロフィーを贈った。そこには「私のヒーロー、ジェフ・フェンへ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。永遠の愛と感謝とともに。テレサ・サルダナ」と文字が彫られていた。ジェフが病院を出るとき、彼は外のリポーターにトロフィーを見せ、ずっと手元に置いておくつもりだと言った。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 4/7

 手の手術からわずか三日後に、裁判の予審が開かれた。腕をまだ牽引された状態で、私は夫に付き添われ、車いすに乗って裁判所へ向かった。フレッドも目撃者として呼び出しを受けていた。私は警察の車でシーダーズから法廷へと連れていかれた。

  震えながら私は車から降ろしてもらい、車いすに座った。リポーターが至るところにいて、フラッシュを焚き、質問をしてきた。あまりにも多くの見知らぬひとびと。私は多くの異なるレベルで怖気づいた。

  犯人が私を傷つけようとするのではないか?裁判所内には別の「イカれた奴」がいるのではないか?群衆のなかの誰かが事故で私にぶつかり、私を傷つけるのでは?私は証言の最中に頭が真っ白になってしまうのではないか?

  リポーターが質問してきたが、私はカラス刑事から審理の不都合になるようなことは何も言わないようにと指示されていたので、最小限のことを話すだけにとどめた。

  待合室で私はフレッド、ジェフ・フェンとほかの目撃者たちに囲まれ座っていた。犯人に会い人物を特定しなければならないという宣告を受けて、私の血は氷水に変じた。私はほどんと息ができなかった。

  聴聞室に車いすで引かれていった。私の要望で、女性判事が私の車いすを犯人に向き合うのではなく平行になるように置いた。審問に私はロボットのようなモノトーンで答えていたが、私の鼓動は早まり、のどはからからに乾き、締めつけられるようだった。判事が私に犯人を特定するよう求めた。ほんの2週間前、私を十度にわたってナイフで刺し貫いたその人物のほうに私は向き直らされた。

  その日、彼を一瞥した私の心に去来した思いは、邪悪という言葉を人格化したのが彼だということだけだった。悪意と錯乱のオーラが彼の存在から発散されていた。彼の姿を見たことは私を病ませ、深く言いようもなく憂鬱にさせた。

  ようやく聴聞が終わり、私は車いすで法廷から出て速やかに病院へと車で運ばれていった。警察の車でシーダーズ・サイナイへと戻っていくあいだ、私の心は起こったことすべての強烈さとおぞましさでくらくらしていた。

  私の生は丸ごとひっくり返された。私は自分が見世物小屋の一員で、檻に入れられ法廷のカーニバルで展示されている傷ついた動物のようだと思ったことを覚えている。気違いじみたサーカスの呼び込みが「あわれな刺傷事件の被害者をごらんください。さぁさぁいらっしゃい!」と叫んでいるのがほとんど聞こえてきそうな気すらした。

  シーダーズに着いてからしばらくして、法廷の派遣した写真屋が外で待っていると看護師が知らせにきた。彼らの求めに応じて看護師は私のガウンを脱がせ、私の体の上に3枚の小さなタオルを慎重に置いた。写真屋が入ってきて、私の体の傷をひとつひとつ、整然と撮影していった。私は自分を安置所の死体のように感じた。あの残忍なフォト・セッションは、私が人生で味わったもっとも屈辱的な体験のひとつだった。

  その夜病院で、私は昼間の法廷での出来事を合理的に客観的に振り返ろうと努めていた。どうして報道陣や見物人があの場にああも大挙して押し寄せていたのか?彼らはこの不気味なちょっとした余興にスリルを求めて集まってきたのだろうか?そう、たぶん彼らのうちの幾人かは本当にのぞき趣味だったのだろうと私は考えた。しかし報道陣や群衆のほとんどは純粋に、私があの試練のあとでどんな状態にあるのかを気にかけ、それを見届けることに関心を抱いているようにみえた。私は法廷の傍聴人の多くが、実際のところは善意のひとびとだったと認識した。そして私は確かに皆から親切な丁重な扱いを受けていた。

  その日以来私は、ひとびとの私に対する興味をポジティブなものとして受け止めるようになった。彼らから私が受けた配慮や援助がなければ、犯罪被害者支援の分野で公に働くことを自分が考えたりすることも決してなかっただろう。次の決定的な一歩は私のほうから踏み出さなければいけなかった。私は自分自身を「見世物小屋の動物」としてではなく、犯罪被害に遭った他のひとびとにとっての手本となる人物として考えていくことを必要としていた。

 

 襲撃から3週間後、私は回復への新たな段階に入った。私の状態はなお重篤だったが、もはや危篤ではなかった。それでも私の生活はまったくバランスを欠いているように感じられた。痛みと医療処置と薬剤が、鈍重で、パターン化された、退屈な、日々繰り返される病院縛りのルーチンの要素をなしていた。

  襲撃から約18日後に、スタイン先生が私の傷の状態を視るためにやって来た。彼は私の包帯とステリストリップ(傷をくっつけると同時に部分的に隠すための、バタフライスティッチのようなみかけの特殊なテープ)を両方とも外さなければならなかった。ありがたいことに、私の縫い糸はひとつひとつ切って引き抜かなければならないような種類のものではなかった。それはその場で自然に溶けていくはずだった。

  スタイン先生が作業を終えたとき、私は鏡を見せてと頼んだ。彼は、傷の張れが引くまで自分の体を見るのは待ったほうがいいのではないかと薦めた。けれども好奇心と不安の入り混じった私の感情は抑えがたいものだった。再度私は鏡を求め、看護師がためらいがちにそれを用意した。

  まず私は、幸いにも犯人のナイフによって傷つけられずに済んだ自分の顔を見た。それから私は鏡を下していき、胸と上体の前に置いた。目に飛び込んできたものを見て、私はショックで息を呑んだ。あらゆる最悪の懸念が現実のものとなった。私は醜く、損なわれて、恐ろしい見た目だった。泣きそうになるくらい動転して、嫌悪感で凍り付いた仮面を顔に張り付かせながら、私は石像のように前方を凝視していた。

  スタイン先生は、腫れはすぐに引いていき、赤味は薄れていき、数週間、数カ月のうちに劇的な改善をみることになるだろうと話した。私はなおもぼんやりとして鏡を見つめ、彼の言葉を自分の心のなかに沈み込ませていった。スタイン先生が言った言葉のなかで最も私を勇気づけたのは、私のようなケースでは整形手術が奇蹟的な効果をもたらすだろうということだった。私は疑わしげに彼を見た。それでも少なくともある程度の希望を私は感じた。

  鏡の像が突き付けた残酷な現実は、さらなる問いへと私を誘った。心も体ももはや元通りにはならないだろうという事実と、私はどうやってうまくつきあっていけばよいのだろう?

  私の体のなかでも一番のすぐれた特徴はいつでも肌だった。よく人は私の肌を「まったく非の打ちどころがない」と言ったものだった。いまやそれは非の打ちどころがあるどころか、おそろしく醜悪になってしまっていた。

  ネガティブな事柄とともに人生を歩んでいかなければならないのであれば、ポジティブなほうの側面に意識を集中させることが必要だと私は了解した。私は自分の顔が損なわれていないことの幸運に毎日のように感謝を捧げた。毎朝私は完璧なメイクアップの仕事のために時間を費やした。口紅、ルージュ、ファンデーション、マスカラ、アイシャドウ――まさに仕事である。それから私の母が私の髪をとかし、編むかおさげにして、着ているものに合うリボンを付けた。私は見ようによっては、彩色のほどこされたリボン付きの中国人形のようだった。

  何か持ってきてほしいものがあるかと人に尋ねられたとき、私はたいてい「ナイトガウンをお願い」と答えた。贈られたガウンはかなりの期間、私の衣装だんすを占拠していて、私はそれらの服の可愛らしさと柔らかさが私を喜ばせ、私を人に会うことのできるような見かけにする助けとなることを頼りにしていた。私はしばしば日に2、3回ガウンを着替え、新しい服をそのたびにじっくり選んだ。それは馬鹿げたことのようだし、無駄なことのようにさえみえたかもしれないけれども、着飾ることも、自分を再び受け入れるために必要なステップだと私は感じていた。

  できるかぎり速やかな回復への助けとなるような心構えを得るために、私は自分に尋ねた、「私をもっとも幸福にするものはなんだろうか?」。答えは「仕事をすること」だった。舞台に立っているとき、あるいはカメラを前にしているとき、私はふるえるくらいにこのうえなく生き生きとして――幸せだったのである。

  とはいえ、犯人が私に目をつけたのも、私の女優としての仕事をとおしてだった。このことは当然私にショー・ビジネスから退くことを考えさせもしたけれども、それはほんの僅かな間だけのことだった!

  仕事を棄てるということは、私がこれまで生きてきたなかでやってきたいっさいを台無しにすることだった。私は自分に言い聞かせた、「この赤の他人は既に私の人生を破壊し、済んでのところで滅ぼそうとまでした。このうえ私から仕事を奪い去ることまでこいつにさせてなるものか!」。

  そして私は誓いを立てた、私の力の一片一片を、人間技でできるかぎり早く仕事に復帰することを可能にする回復を成し遂げることにあてようと。

  私はマネージャーのセルマや代理人や友人たちと、仕事に復帰するためのプランについて何時間も電話で話し合った。牽引された状態で病院のベッドに横たわっている人物から電話を受けたりするのは、彼らにとって妙な感じだったかもしれない。しかし復帰についてただ話し合うことだけでも、それを現実の可能性にみせることの役には立ったのである。

  友人や親類は私が会話に夢中になって、悪くないほうの腕を表情豊かに振り回し出すのを観て楽しんでいた――私はちょっと狂っているように見えたかもしれない――が、もちろん病院のベッドのうえからお芝居をすることはできなかった。それでも私のなかの創造的な部分ははけ口を渇望していた。私が常に愛していた別の表現手段は書くことだった。じじつ、本を書くことはいつでも私にとってのひそかな夢だった。ただ仕事の忙しさのため、そのための時間を私はこれまでもてなかったのである。いまはおそらく書くことが、私の芸術的充足の必要性に対する答えだった。

  私の心のなかにアイディアが駆け巡りはじめた。私がなし得るもっとも有益な事柄は、私の体験を人々に伝えること、このおぞましい犯罪が私と私の家族にもたらした影響について語ることだという考えが浮かんだ。不意に私の無力感は霧散した。私はもはや待ちきれなかった。

  しかし、私の熱意と高揚にもかかわらず、紙の上にペンを置くといった特に努力を要しないはずの作業すらもが私には不可能事だった。私の手の片方には添え木が当てられ包帯が巻かれ、もう片方は牽引されて吊られた状態だった。

  親友のボブ・ゲイルに私の窮状を話した。プロデューサーと脚本家としての多忙をきわめるスケジュールにもかかわらず、彼はなんとか時間を見つけてほとんど毎日私に会いに来てくれていた。ボブが私のジレンマを聞いたとき、彼は作家の直観をつかって完璧な答えを見つけ出した。翌朝、ボブは小さな携帯用テープ・レコーダーを持ってやって来て、私がカセットに吹き込んだ言葉を自分が文字に起こすと言ってくれた。回復への途上にあるそこまでの時点のなかで、これほど素晴らしい贈り物を受け取ったことはなかった。

  襲撃から4週目に入ったとき、私の妹のマリアがニューヨーク大学イースター休暇を私と過ごすためにやって来た。ブルックリンに居て、マリアもまた襲撃がもたらした試練をくぐり抜けていた。昼も夜も彼女は電話口にいて、親類や友人たちに私の状態を伝えていた。最初の数日から数週間にかけて、私の部屋にかかってくる電話はごくわずかだった。つまりみんながマリアに電話したのである。この間の彼女の生活は悪夢のようだった。彼女は授業についていこうとするいっぽうで、夜遅くまで電話の砲撃に襲われ、彼女自身が援助をひどく必要としている時に、何時間をも費やして皆を安心させようとしていたのだ。

  家族は彼女が私たちに加わってみなが一緒になるのがベストだろうと決心した。彼女の存在とその強さは、家族全員を鼓舞した。夜に私の部屋で寝るのは母ではなく、今はマリアだった。ちっちゃな頃のように話し合い笑い合い、私たちはお泊り会をしている二人の少女のようだった。

  私が「書きたく」なったとき、マリアは小さなレコーダーを私の肩にかけ、スイッチを入れた。それから私は何時間も話し続けた、自分がどんな人々に向かって「書いて」いるのかをイメージしようと努めながら。彼らのうちの何人かは犯罪被害者とその愛するひとびとであってほしいと私は望んだ。長い長いあいだ、私は自分の陥った苦境の只中にあって、おそろしく孤独な感情を味わっていた。私の周りには大勢の人がいたけれども、彼らのうちの誰ひとりとして襲われた経験のある人はなかった。小さなテープ・レコーダーに向かって話しかけているとき、私は同じ体験をくぐり抜けてきた、「そこにいる」ほかのひとびととの、ほとんど触知できるほどの絆を感じていた。

 

 4月初旬には私のシーダーズからの退院期日が間近に迫ってきて、私の家族と私はどこでケアと治療を続けて受けるべきかの問題に直面していた。回復期リハビリテーション病院は理想的な選択肢だと思われたので、私たちはいろいろと調べてみた。しかし私の保険はこれらの施設を対象としておらず、この種の入院費用を支払う余裕は私にはなかった。

  フレッドと私は新しい家へと引っ越し、そこに彼と帰宅することについて話し合った。しかし彼は一日中仕事に出ていなければならいし、私は一人でやっていくにはまだあまりにも弱く衰えた状態だった。そして派遣看護師の高額なサービスは私の保険の対象外だった。

  家族とともに飛行機で東部へ向かうことも考えられなかった。私は旅行をできるような状態ではなかったし、L.A.の医師のもとで引き続き治療を受けることがベストだと助言されてもいた。

  他によい場所が見つからないままに、私たちはシーダーズ・サイナイの入院病棟であるThaliansの精神療養施設に私が身を投じる可能性を考えた。結局のところ、私は自分自身の面倒を適切にみることができなかったのである。他のどこに行き場があると言うのだ?

  そこで4月のはじめにジョセフ先生がThaliansの通りを渡って私と両親を案内していった。しかし建物に近づいていく最中から、両親は私にここに入るのはやめてくれと懇願しはじめた。鍵のかかった3階の病棟へとつうじるエレベーターのなかで、もしも私が精神病院の入院患者になったら、汚名が残りの人生をついて回るだろうと言って彼らは諭した。彼らはもっともな理由から、私が精神病院に属すべき人間ではないと感じていたのである。

  まったく心を決めかねていたけれども、少なくともここに入院すれば、私が日々受けている精神科医との面談は保険で支払われるようになるだろうと私は主張した。私がシーダーズ・サイナイから退去しなければならない期日はたったの1週間後であることも指摘した。時は尽きかけていた。

  エレベーターを降りて婦長に会い、病棟の案内を受けた。車いすでホールへと下りていくうちに、私は雰囲気の全般的な華やかさに気がついた。色調は明るくて、壁はアートワークで覆われていた。部屋はすべて個室で、狭いがまずまずのものだった。

  けれどもすぐに私は欠点に気づきはじめた。公衆電話は廊下の真ん中にひとつあるだけで、電話を使いたい患者が列をなしていた。入院患者の大半は騒々しく軽薄なティーンエイジャーかひどくふさぎ込んだ様子の大人で、彼らは時として明らかに奇矯な振る舞いに出ていた。

  両親の表情はこわばり不安げになった。看護師が早口で驚くほど大量の規則や規制をまくし立てた。訪問時間はきびしく制限され、一日のあらゆる時間が管理されていた。看護師は、これらの規則に例外が認められることはまったくとは言わないにせよまずあり得ないことを念押しした。時が経つほどに私の気分は沈み込んでいった。

  立ち去る段になって、私は病室のひとつへ通じるドアののぞき窓にふと目を向けた。太い灰色の鋼の板を鈍く光らせた、重たそうな格子が十字に張られていた。私は両親のほうを見て言った、「ちょっと待って。私はこんな監獄に入れられるような人間じゃないわ。ここは私の居るべき場所じゃない」。私たちは看護師に礼を言って、静かにそこを後にした。

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 ふさわしい行き場所を見つけなければならないという問題はなお残っていたけれども、決心がついたことで私たちの気は楽になった。ジョセフ先生ですらも、私がThaliansで暮らすことを選ばなかったことを静かに喜んでいる風だった。

  私はしばしばあの日のことを、あの場所を選ばなかった自分の選択に感謝しつつ振り返っている。しかし私は自分が恵まれていたことも分かっている。多くの犯罪被害者にとって、他に安全な代替案はないのである。わたしたちの社会が犯罪被害者に、回復のための安心できる避難所を彼らが必要としている時に提供できるようになるまで、多くのひとびとが不必要な錠と鍵のついた精神病院での暮らしを、ただほかに選択肢がないというだけの理由で余儀なくされているのだ。私のひとつの夢は、肉体的、精神的に家に帰る準備が整うまでのあいだ、犯罪被害者が手厚い支えのある安全な環境のもとでリハビリに専念することのできるような安息の場をつくることである。

  家族と私は、私にふさわしい場所を見つけるための電話キャンペーンにとりかかった。親類や友人、友人のそのまた友人、代理人といったひとびとに電話をかけ、状況を説明した。彼らの多くは、私たちを助けようとしてほうぼうに問い合わせてくれた。私たちは電話をし、そして待った。

  ある晩、少し前にお芝居の仕事でいっしょになった衣装デザイナーのシェリー・ド・サンフアンが病院に立ち寄った。彼女はボーイフレンドのジョン・リマ先生を連れて来ていた。白衣を身につけたこの優しそうな男性に会ったとき、私の直観が、彼こそが私たちの問題に対する答えの鍵を握っているのではないかと私にささやいた。素晴らしいことに、そうだったのだ!

  リマ先生は、ロサンゼルスから1時間ほどの郊外にあるカラバサスの映画テレビ基金病院の医師だと自分を説明した。それは映画やテレビ業界のユニオンのメンバーとその家族のためだけの病院だった。

  病院には、まだ自分の面倒を自分でみることのできる高齢者のためのコテージやロッジと、多少の手当のみを必要とする回復期の人々のためのウイングがあった。このほかにJウイングがあり、二つのセクションに分かれていた。ひとつは集中的な入院治療を必要とする深刻な患者のためのもので、もう一方は熟練した看護を必要とする患者のためのものだった。私はこの2番めのセクションがまさしく自分の必要としている場所だと感じた。

  リマ先生は、映画テレビ基金病院の大多数は年配者であることを強調した。もっとも、若くて具合の悪い人も申し込み可能だった。興奮して私はドクターの知らせに感謝するとともに、病院の運営者に私を受け入れてくれるよう話してくれることを彼にお願いした。

  リマ先生とシェリーが去ったあと、安堵の感情が私のなかに溢れてきた。映画テレビ基金病院に受け入れてもらえるだろうことを、まったくの直観が私に伝えてきた。私の上機嫌は伝染性で、フレッドと両親も希望を抱き始めた。

  病院の運営に問い合わせたリマ先生は、すぐ翌日に電話をかけてきて、私が受け入れを許可されたことを知らせた。数時間後にシーダーズが私に外出許可を出して、私は家族とともに新しい「家」を見に行くことになった。

  病院までドライブしていく途中で、私は刈りこまれた、青々とした芝生と綺麗な花々に魅せられていた。とても美しい土地だった。リマ先生が会いに出てきて、私は車いすで本館へと導かれていった。

  病院に入るやいなや、死にゆくひとびとの存在だけが醸し出し得るその場の雰囲気を私たちは嗅ぎ取らずにはいられなかった。車いすで進んでいくあいだに、道のりを苦労して歩いてくる患者たちとすれ違った。部屋のなかには、明らかに終末期とみられるほかのひとたちの姿があった。例外なく、彼らは非常に、非常に老いていた。ある人は車いすで押されていき、別の人は杖や歩行器にすがってよろよろと歩いていた。多くの人がベッドの上でうめき声をあげていた。私の希望は急速に落胆へと変じていった。

  リマ先生は私をJウイングに連れていき、スタッフに紹介した。彼らの多くはきびきびとして、事務的で、よそよそしくみえた。私は彼らが自分のことを疎ましそうに見ているように感じて、困惑してしまった。

  何週間も経ってから看護師たちは、老いさらばえた往年のハリウッド・スターみたいなタイプの人種を彼らは期待していて、刺傷被害者の抱える心理的な問題に対処していくといったことにはあまり乗り気ではなかったのだと私に語った。彼らの多くは何年ものあいだ老人医学の分野で専門的に働いていて、犯罪被害者の具体的な要求に応えていく経験をほとんど、もしくは全くしたことがなかったのだ。

  婦長のジェーン・ブラドウがウイングをざっと案内していき、規則や規制の長たらしいリストを早口で伝えた。映画テレビ基金病院の雰囲気は真面目で、きびきびとして、体系的だった。それに比べるとシーダーズはカントリークラブだった。

  長い帰路の車中で言葉を発する者はいなかった。しかしその晩、私の置かれた状況の不公正さに対する思いが私を襲った。私はほとんど死にそうになるまでメッタ刺しにされ、言葉に言い表しようのない苦痛を耐え忍んで、そしていま、私にふさわしくない環境のもとで暮らすことを強いられつつある。私は善良な、税金もちゃんと支払っている一市民だった。私は法を遵守していた。私はこの国を支持していた。それなのに、罪なき被害者としての私の立場に対して、政府は行くべき場所をすら私に与えようとしないのだ。そう、加害者は人間的な扱いを享受している。なんのむごいこともおかしなことも、彼の側には起こらない。しかし私はほとんどなんの支援も援助も受けていない。州も連邦政府も私に対して、数え切れないほどの私と同じようなひとびとの誰に対しても、居場所を与えようとはしないのである。

  私は施しを期待しているのではなかった。もしも私が普通に住み、働くことができたら、私はひとりでやっていくことができただろう。しかしそれが可能ではなかったのだ。犯罪が犯され、私が被害者になった。そして私はいま、自分のほうが刑を宣告されているように感じていたのだった。

  私の不幸はさらなる一撃によっていっそう悪化した。私はシーダーズ・サイナイを退院した後も、外来患者というかたちでジョセフ先生のセラピーを引き続き受けられるものと期待していた。ところが、私が映画テレビ基金病院に移る少し前に、愕然とするような知らせが舞い込んできた。私が彼の治療を受けているあいだに示した状態の改善にもかかわらず、ジョセフ先生が私の担当から外れるように命じられたのだ。シーダーズの彼の上司は突如として、このような恐ろしい事件の被害者を扱うことは、まだ一人前とは言えない研修医にとってあまりに荷が重いと判断したのである。

  私と私の家族を苛立たせたのは、ジョゼフ先生に私を受け持たせて、まるまる一カ月のあいだ私の担当を続けさせたのが当の彼らだという事実だった。後になって若い医師の担当外しを力説する結果になるのであれば、そもそもどうして彼らはこの骨の折れる、長期にわたる治療の日々を黙認していたのか?

  憤激した私は決定の変更を要求しようとしたが、すさまじい反発に遭うことになった。ジョセフ先生の上司は断固とした調子だった。この若い医師のシーダーズにおけるキャリアに傷がつくことを望まなかった私は、泣く泣く引き下がることを余儀なくされた。

  いまや私は環境の激変に加えて、新しい精神科医に馴れなければならないことにもなった。すべてが私に対して向かい風であるように思えた。自分ではどうすることもできない状況のせいで叩き落されるためだけに、ここまで前に進んできたというのか?私は怒り、泣いた。誰も私を慰めることはできなかった。二週間のあいだ、私はテープ・レコーダーに向かって語ることすらできなかった。すべてが無駄なことのように思えた。

  私との最後の面談で、ジョゼフ先生はどんなタイプの精神科医についてもらいたいかを私に尋ねた。私は彼に、要望のリストがあるので書き留めてほしいと頼んだ。私のリストは次のとおりである。求む、精神科医。若いことは必須、男性、ユダヤ系、やせ形、魅力的、繊細、知的、創造的、中立的。要するにそれはジョゼフ先生自身についての正確な描写だった!

  私たちはそのことで大笑いしたが、さよならを言わなければならない時が来た。私の目に涙が溢れてきて、彼も泣きそうな様子だった――私たちは長いこと共にやってきたのだ。私は彼にお礼を言い、ぎゅっと彼を抱きしめたあとで踵を返した。

  同じ週の後半に私はピーター・ウェインゴールド先生に面会した。驚いたことに、彼は私の記述にぴったり当てはまっていた!はじめのうち私は、ジョゼフ先生が既に知っている事実を彼に向かって繰り返さなければならないことに対していくぶん抵抗感と腹立たしさを覚えていた。けれども数度の対面のうちに私は彼が好きになり、敬意を抱くようになった。そしてセラピーでは彼に快く応じるようになった。ウェインゴールド先生は私を育て、支えてくれた。過度の依存を招くことには配慮しつつも、先生は私が彼を頼りにすることを許してくれた。私たちは進展と後退のさまざまな段階をくぐり抜け、ともに健康へと向かう着実な歩みを進んでいった。私は自分の健全さの多くを、これらの素敵なドクターたちから受けたすばらしい心理療法に負っていると感じている。

  4月のある朝、出発の時が来て、私はシーダーズ・サイナイで私の看護をしてくれたひとたちに涙ながらのお別れを言った。私は特にアレクサンダー・スタイン先生に感謝していたので、彼のためにヒーローに贈るトロフィーを作っていた。結局のところ、彼が3月15日に私の執刀をすることに同意していなければ、私がこれを作ることも決してなかったわけだ。感動的な別れだった。私は彼にトロフィーと、彼の好きなお菓子を詰めた箱を渡し、シンプルに「ありがとう」と言った。彼は私のドクターであるだけでなく、信頼できる友人にもなっていた。4月5日に私たちは映画テレビ基金病院へ移った。安全のため偽名がつけられ、私は「アリシア・マイケルズ」になった。部屋の外の名札にもこの名前が書かれ、その後の日々のなかで私はすっかりこの名で呼ばれることに慣れたので、今でも誰かがアリシアと名前を呼ぶと反射的に返事をしてしまうほどだ。

  映画テレビ基金病院で、入院患者としての私の生活スタイルは激変した。秩序と規律がいっさいを領していた。ある点でそこの環境は、私を安全で、庇護されていて、手厚い配慮を受けている気分にしたけれども、他方で私は自分が囚人になったかのようにも感じた。

  Jウイングの朝は早く、一日は例外なく苦痛と混乱のうなり声やうめき声の不協和音ではじまった。朝食時に私はごっついビタミンのサプリメントを呑み込まねばならず、その後しばらくの間はむかむかさせられた。朝8時までに私は規律によって、一日二回の理学療法の一回目を受けるべく、部屋の外に車いすで連れ出された。

  私の体の左側の肩にかけては襲撃が招いた圧迫神経によって弱り、ほとんど使い物にならなくなっていた。私の腕は重くてかさばるギプスでいまだに固定されていたので、体のそちら側を動かすことはほとんど不可能だった。私は影響を受けたすべての筋肉の動かし方を文字通り再学習しなければならなかった。

  私の理学療法士のフィルは人なつっこくて豪快な性格だった。彼はしばしば苦痛のなかでも私を笑わせ続けていた。ある朝彼は、部屋のなかのもっとも高齢の男性(少なくとも90歳)を指して、週末の彼とのデートはどんな案配だったかを私に聞いてきた。別の日フィルは、私が自分の部屋で開いていたとされる「やんちゃなパーティ」の騒音が階下のほうに漏れ聞こえてきた件で私を「叱ったり」した。

  私の腕のギプスを取り外したあとフィルは、傷つき腫れあがった私の指を再び動かせるようにするための、苦痛を伴う手順を私に手引きしていった。まずはじめに彼は私の左腕を、私には沸騰水のように感じられる渦巻くお湯のなかに漬けた。熱が私の腕を苛む痛みの波を引き起こした。10分かそこらでお湯の温度は耐えられるくらいにまで下降した。それから30分から60分のあいだ、腕を漬けたままの状態で座っていることを強いられて、私は退屈で気が散り、ブルーになった。周囲の環境も気晴らしにはならなかった。私の前には治療を待つ入院患者の車いすの列が続いていた。多くは老人で、苦痛と不快感のためぐちっぽくなっていた。

  私は映画テレビ基金病院の年配の患者たちとの仲間意識を育むことを望んで、彼らと友達になろうと最善を尽くした。私が子供やティーンエージャーだったころ、私の一番の親友は祖母だった。彼女の活力と知性と生きる喜びによって、彼女は私に年配のひとたちを愛し敬うことを教えた。ハイスクールの頃に祖母が他界したとき、私の心は張り裂けそうだった。

  しかし私は、病院の高齢患者の多くは自分の世界にこもりがちであることを知った。苦痛と老いと憂鬱とが相まって、彼らをほとんど近づきがたくしていた。

  たまに私は元気のよい話好きのおじいさまやおばあさまに会って、彼らがサイレント映画ミュージカル映画に出演していた過ぎ去りし年月の思い出話を聞くこともあった。若い頃のショービジネスの日々の、色褪せてはいるが美しい写真を見せてくれる人もいた。ただ残念ながら、この種の人とのやりとりは稀な出来事だった。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 6/7

 私の腕をお湯に漬けているあいだ、フィルは私の手や指を動かすほかのさまざまな処置を実施していた。それらはみな痛みを伴うものだった。私はわめいたり騒いだりすることで多くの患者さんの迷惑になったと思うが、まったく治らないよりもわめきながら治っていくほうがマシだと思ったのだ。止むことのない痛みに対して、免疫がつくか無感覚になることを私はずっと望んできた。しかし、想像し得るもっとも耐え難い肉体的苦痛をくぐり抜けたあとでも、痛みに対する私の低い閾値は少しも変化することがなかった。

  理学療法が終わったあとで私は部屋で休んでいるように言われていたが、たいていその時間のすべてを電話のために費やしていた。ベッドのそばのベージュの受話器は私が健全さを保つための助け船だった――それは「現実世界」につうじるライフラインだった。自分が見放され社会から切り離されていると感じたときはいつでも、私は親友に電話をかけ、平凡きわまりない会話からさえも慰めを得ていた。

  映画テレビ基金病院では私に日々投与される痛み止めの量が半分に減らされていた。薬の影響が弱まったことで私の集中力は改善されて、私は読書を楽しむことができるようになった。むさぼるように私は読んだ。本は私自身の人生の悲惨さから私を連れ出してくれた。

  友人のマイラ・ラングドンとマイケル・リースマンがニューヨークから飛行機で私に会いに来て、ノーマン・カズンズのAnatomy of an Illness(邦題『笑いと治癒力』)を一冊、私にくれた。ジャケットに書かれた文句を読んだだけで、私はこれが自分にとって大切な本であることが分かった。私はほとんど吸い込むようにして、その本をはじめから終わりまで一気に読んだ。

  ほとんど致命的な病を生き延びたカズンズ氏は、私が心から賛同できる論点を次から次へと語っていた。私はその本をよれよれになるまで何度も何度も繰り返し読み、その内容とそこに含まれている前向きなメッセージに決して倦むことがなかった。私自身の本を書き、私自身の経験と関わるかたちでひとびとに思いを伝えたいという私の願望に、カズンズの本が火をつけた。

  それで私は、精神科医を無理やり変えさせられたことからくる落胆のせいで放り出していた執筆作業にまたとりかかることにした。私の右腕はもはや包帯を巻かれていなかったので、私は再びペンを握ることができた。ベッドに座って、去来するさまざまな考えや所見、アイディアを、フェルトペンをたちまち何十本も使い果たしつつ私は書き留めていった。書くことは素晴らしいセラピーだった。それは私に目標への意識を授けたのだった。

  通常、午後の早い時間に、私はウェインゴールド先生のセラピーやほかの専門医の診察を受けるために、病院の車でロサンゼルスに連れていかれた。毎日2時間の往復移動は私を疲れさせたが、それも社会に再び自分を組み込むための最初のステップだった。私はエレベーターに乗り、知らない人と待合室に座って待っていなければならなかった。病院のスタッフがいつも付き添っていたけれども、私にとってはこの簡単な毎日の活動がひとつの挑戦だった。

  私はいまだに自分のそばにいる知らない人々にひどく恐れをなし、怖気づいていた。ウェインゴールド先生のオフィスへとエレベーターで上っていくとき、ドアが開いて別の男の人が乗り込んでくるたびに私の心臓はのどから飛び出そうになった。私は理屈では、これらの男性が無害な技師や医師や配達人やビジネスマンであることを知っていた。それでも私は、彼らのうちの誰かがナイフか銃を取り出して私を襲うことを怖れていたのである。

  この恐怖を克服するための唯一の方法はそれに向き合い、立ち向かうことだった。そういうわけで、エレベーターに乗ることはそのつど一歩前に足を踏み出すことだった。ウェインゴールド先生との面談に行き、帰ってくることが、それ自体セラピーの一環だったのである。

  L.A.への通院からかえってくると、私はフィルとの苦痛に満ちた二回目のセッションのためにトレーニング・ルームに連れていかれた。6時までに私はとことん疲れ果ててベッドに這っていき、夕食をとった。夜は、もし来訪者があれば私は幸せで上機嫌で、なければひとりぼっちでのけ者にされているような気分を味わった。

  大多数の人々は私が映画テレビ基金病院に移ったことを私が良くなったしるしだと受け止めて、訪問を大幅に短縮したり、もしくは止めてしまったりした。これは犯罪被害者の友人によくあるパターンである。皮肉なことに、最初の数日か数週間のあいだ、私は薬の影響と痛みでぼーっとして、訪ねてくれた友人たちと十分なやりとりをすることができなかった。いま、映画テレビ基金病院にいて私の意識がもっとはっきりし、気晴らしや人付き合いや手助けが必要になった段になって、私はそれを享受することができなかったのだ。

  来てくれない友人たちの多くに電話で連絡をとった。何人かはばつが悪そうにおどおどしていたが、それでも彼らは来なかった。なお悪いことに、これこれの日時に会いに来ることを約束したにもかかわらず、姿を見せず電話をかけてもこなかった人もいた。

  誠実に私のもとを訪れてくれた数人の不動の友人に私は感謝したい。彼らの変わることのない気遣いを私はずっと忘れないだろう。彼らは私に生きていくための勇気と支えを与えてくれた。

 

 映画テレビ基金病院に私が落ち着いてからしばらくして、父と妹がニューヨークに帰ることになった。彼らと別れるのはとてもつらかったが、彼らも自分たちの生活を取り戻さねばならなかった。母は残り、病院当局が親切にも提供してくれたコテージで暮らしていた。

  フレッドは二日おきぐらいに訪ねてきたが、襲撃以来わたしたちの心はますます離れ離れになっていった。彼は気遣い、感じ、傷ついた。しかしそれは彼の裡深くに押し込められていた。私はフレッドに心理面での援助を受けることを薦めたが、彼はかたくなに拒否した。訪問のたびごとに彼は痩せていき、ふさぎこんでいった――彼は彼自身のプライベートな地獄にはまっていた。

  後に、私が回復してから、フレッドは私にその当時彼が味わっていたものについていくらか話してくれた――混乱、怒り、寂しさ、無力感の感情。彼もまた鬱積を抱え込んでいた。彼は人々が彼の痛みを無視して、私のことばかり構っていると感じていた。

  振り返ってみて、私は彼がどうしてそんな風に感じていたかを理解することができる。家族全体がセラピーを受け、襲撃の結果生じたさまざまな個々の葛藤を解決していくべきだったのだ。私たちはみな、配慮とトータルケアを必要としていた。しかしその当時、もっとも絶望的に具合の悪い人間ひとりが注目を集めていた――そう、私である。

  フレッドと私は愛し合っていた。私たちはお互いの関係がうまくいくように格闘していた。しかし私たちは、自分たちではどうすることもできない離れ離れの哀れな存在へと追い込まれてしまっていた。恐怖と無力感の島国に隔絶されて、私は自分のすべての力を治癒のために注ぎこむ必要があった。そしてフレッドは私を助け世話をすることであまりにも苦悩し、意気消沈していた。彼は訪ねてきて、話した。しかし私たちはお互いの内なる苦悩について十分に話し合おうとはしなかった。それは私たちが口にするすべての言葉を染め上げていたが、はっきりとそれが表に言い表されることはなかった。

 問題を心のうちに沈めれば沈めるほど、それはわだかまりとなっていく。フレッドは私が変わってしまったことに、彼に背を向け両親に頼りきりになってしまったことに腹を立てていた。私はフレッドがジブラルタルの岩ではないことに腹を立てていた。そして私たちは、結婚カウンセラーに相談に行くような冷静さを持ち合わせていなかった。のちに、私が回復したあとで、私たちが専門的な手助けを探し求めていたとき、もはや時はあまりにも遅すぎたのだった。 

 犯罪被害に遭ってしまったすべてのカップルにいま私が薦めたいのは、二人がともに一緒のセラピーを受けることである。被害者のパートナーは襲撃の後に深く傷ついている。だからカウンセリングが必要である、たとえそれがコミュニケーションの回線を開いておくためだけのものでしかなかったとしても。犯罪被害者は、彼または彼女のパートナーも同様に傷ついていることを知っておくことが求められる。パートナーはともに、どんな人間も、たとえどれだけ献身的で思いやりに満ちていたとしても、寄り掛かることのできる完璧な肩とはなり得ないことを心得ておく必要がある。フレッドと私がもし私の入院中からセラピーを受けていたら、私たちの夫婦関係は守られていただろうと私は信じている。

  私たちがTotsieと名付けたちっちゃなトイプードルの子犬は、フレッドがこれまで私にくれたなかでももっとも素敵でもっとも思いやりに溢れた贈り物だった。病院では飼い犬は許されていなかったので、私たちは彼女をこっそり持ち込んだり運び出したりしなければならなかった。私はその子犬を溺愛した。たとえ一日の限られた時間だけでも、小さなペットを可愛がり世話をする時間を持つのは特別なことだった。どんなに落ち込んでいる時でも、Totsieのおどけたしぐさはいつも私の気分を浮き立たせた。私はその後ペット療法についての文献をいくつか読んだが、私はそれが自分にとって効果的だったことを知っている。

  病院の私の部屋の隣には、映画業界でヘアメイクの仕事をしていたパット・ギャラントがいた。彼女は末期癌の最終ステージにあった。49歳の彼女は私たちのウイングで私に次いで若い患者だった。

  彼女の夫でテレビドラマ『Dr.トラッパー サンフランシスコ病院物語』のロケーション・マネージャーのトムはしょっちゅう訪ねてきて、病に蝕まれた妻のありさまに絶望し、我を忘れた様子だった。終わりが近づいていることは明らかだったけれども、死をそのまま受け入れるにはあまりにも、彼は妻を愛していた。彼は彼女が生き続けることを望み、奇蹟が起きることを必死に願っていた。

  パット・ギャラントは勇敢な女性という以外に形容しようのないひとだった。短くはあったが親密な交友をとおして、私はこの直観に富んで優しい女性から多くのことを学んだ。

  毎日私は自分で車いすを押すか足をひきずって彼女の部屋に行った。青ざめて、やせ衰え、やつれていたけれども、パットはどこか儚く繊細な美しさを保っていた。彼女の痛みがまったく我慢できないほどひどくはない日に、私たちは長く、真剣な対話の時間を持った。

  彼女は夫を、子供を、孫を愛していたが、命はもはや単なる存在にまで衰え、彼女は旅立ちの時が近づいていることを悟っていた。何度もパットは私に、この絶えざる苦痛からの解放を歓迎していると語った。パットは死を受け入れていた。

  私は彼女の傍に座りながら、並び合う私たちの運命の不条理に耐え難い悲しみを感じていた。私はいまここで深い傷を負い、いまだにひどい体の状態にある。しかし私は生き続けていく。日を追うごとに私は体力を取り戻し、完全な回復への道を歩んでいる。しかし私の目の前で、パットの命は潮が引くように遠ざかっていく。私たちはともに、この苦い皮肉を痛切な思いで噛みしめた。それでも私たちは友人になった。

  パットは私に苦痛に対処するやりかたを教えてくれた。彼女は怒りや不満を貯め込まず吐き出すことを私に薦めた。何よりも彼女は、私の幸運な生還を最大限に生かすことがいかに大事なことであるかを私に気づかせてくれた。人生の一秒、一秒をせいいっぱいに生きていくこと。時間という贈り物を大切にし、愛おしむこと。私はいつでも彼女のアドバイスに従おうと努めている。

  暖かな春の日曜の、パットの誕生日に、1歳になる孫も含めた彼女の家族が揃って病院を訪れた。私と母も招待され、病院の環境にもかかわらず、私たちはみんなで大きなケーキを囲んでの素敵なパーティを開いた。パットはピンクのレースのガウンを身につけて、過ぎていくお祝いの時間の一刻一刻を楽しんでいた。しかし彼女は、これが自分の最後の誕生日だと心得ていることを私に耳打ちして打ち明けた。

  ドクターの許可で外出した際に、私はパットの誕生日のために十の小さな贈り物を用意していた。その日曜日の一時間ごとに、私は一つずつ彼女にプレゼントをした。レースのハンカチ、小さなハート型の中国の小箱、香水の小さな瓶……。彼女はサプライズをそのつど喜び、まるでクリスマスのようだと私に語った。

  パトリシア・ギャラントは正しかった。その日曜日は彼女の最後の誕生日だった。その日から間もなくして、彼女は病院から退院を促された。彼女の夫がチョコレートブラウンの立派なリムジンを救急車代わりに雇ってパットを家に連れていき、そこで彼女は派遣看護師の看護を受けることになった。私はそれきり二度とパトリシア・ギャラントに会うことはなかった。彼女は私が映画テレビ基金病院を退院する前に、自分の家のベッドで息をひきとった。私は嘆いた、最後まで彼女の回復を祈っていたトムのために。そして私は自分自身のために嘆いた、親友を失ったことに対して。しかし私はパットのためには嘆かなかった。彼女は死を受け入れ、歓迎していた。止むことのない痛みが生きることを彼女にとって耐え難いものにしていた。私は彼女の幸福と平安を祈った。

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 犯罪被害に遭ったことは私を孤立し疎外された心境にした。時として私は自分自身をフリークだとみなすことさえあった。自分と同様の体験を生き抜いた人と話す必要を私は感じた。私は手本となる人物を渇望していた――回復して、ふつうの幸福な生活に復帰した健常な犯罪被害者をである。

  皆は私が問題を見事に乗り切ることができるだろうと言って、私を安心させようとした。精神科医も家族も友達も、私がいかに強い人間であるかを語り続け、私がそれを成し遂げられることを彼らが「知っている」ことを私に告げた。しかし彼らのうちの誰一人として、私と同じような体験をくぐり抜けたことのある者はなかった。私は証明を必要としていた。

  病院からの外出の折、まったくの偶然で、私は犯罪被害者のミリアム・シュナイダーに会った。彼女は私に、教室で撃たれて瀕死の重傷を負った経験のある学校教師だと自己紹介した。彼女もまた、肉体的、精神的苦痛の悪夢を生き延びてきた。しかし今彼女は、教鞭をとるかたわら10代の娘さんを育てて、充実した日々を過ごしている。ミリアムと私は日々の生き方という点では共通するところが少なかったが、犯罪被害者の立場で多くのことを語り合った。私たちはざっくばらんに真情を吐露し体験を比べ合い、すぐに私たちが同じ問題を、感情を、状況を、反応を経てきたことを理解した。私たちは電話番号を交換しさよならを言ったが、彼女との偶然の出会いは私に多大な影響を及ぼした。ミリアムは生き延びた、それゆえ、私もまた生き延びることができる。平行関係は美しくも明白だった。

  その同じ日に私は、犯罪被害者同士が互いに手を取り合うことのできる支援組織、Victims for Victimsの構想を打ち立てた。そのコンセプトのもとで実際に活動するにはまだあまりにも私の体調は悪すぎたが、それでも私は考えを紙に書き留めていった。Victims for Victimsが最初の公式会合を開くまでにはなお6カ月を待たねばならなかったが、私の心のなかでそれは既に現実のものだった。

  母は私とともに8週間の時を過ごし、私のあらゆるストレス、恐怖、苦痛、不安を共有してきた。いまや彼女はやつれ、疲れ果てていた。痛ましさを覚えた私は、母がニューヨークで父とともに過ごす必要があることを認識した。母に東部へ帰るよう促すのは、私にとって多くの勇気を要することだった。最初にその件を話し合ったとき、母は私がまだその用意ができていないのではないかと懸念して異を唱えた。しかし数日にわたる話し合いののち、母は私が一人きりにならないで済むよう手はずを整えておくことを条件に同意してくれた。

  私たちは、俳優を経済面で支援しているアメリカ俳優基金に連絡を取り、援助を求めた。イギー・ウォルフィントン氏が私の要望を理事会に掛け合い、ありがたいことに彼らは、彼らの費用持ちで私に専任の付き添いをつけることを約束してくれた。1年後に費用は州によって補償された。

  病院のそばに住んでいるかわいらしい女優のアンナ・マクドナルドが役目を引き受けた。彼女と会った後、母は私がよき庇護のもとに置かれるだろうことに安心した様子だった。5月の半ばに母はニューヨークへ帰っていった。またひとつの節目が訪れた。

  最初の数日間、私は母の不在に心が落ち着かず、睡眠薬の助けを借りてさえも眠ることができないほどだった。しかしアンナは一緒にいて楽しく、私たちはたくさんの関心事を共有していた。私は彼女の訪問を心待ちにするようになり、私の気分は上向きになっていった。

  私は母のことをとても恋しく思ったが、大人としての自由を取り戻すための大きな一歩を自分が踏み出したことも自覚していた。私を苦痛から守ってくれる「ママ」はもはやそこにはいなかったのだ。

  その頃までに、私はJウイングの看護師や看護助手の多くと仲良くなっていた。私の苦痛が衰えるにつれて、私のユーモアのセンスは完全に復調していた。私がスタッフを飛び跳ねさせ続けていたことは疑いの余地がない。私は怖かったり痛かったりしたときはけたたましい金切り声をあげ、楽しかったときはけたたましい笑い声をあげて、ふだんならば落ち着いた雰囲気のJウイングにおおいなるカオスを巻き起こしていた。

  見た目は厳格そうな婦長のジェーン・ブラドウは、蓋を開けてみれば素敵な女性だった。彼女のきびきびして真面目そうなふるまいが彼女の優しさを覆い隠していたのだ。私がだんだん健康になり親しみやすくなっていくにつれて、ジェーンは私に特別な関心を向け始めたようだった。彼女は休憩のたびにやって来て、私と長く親密な会話を交わした。長いおしゃべりのあいだ、私たちはお互いのやりとりを心から楽しんでいることに気づいた。ちょっと奇妙な友情が自然と育まれていった。看護師と役者の世界は遠くかけ離れていたが、まもなくして私は自分がジェーンとあるつながりを共有していることを知った。

  映画テレビ基金病院に私が来てから数週間ほど経ったある午後、ジェーンは私に、彼女もまた犯罪被害者であったことを打ち明けた。かつてのボーイフレンドが彼女を殴り、テーブルに投げ飛ばして、5ヶ月にわたる治療を要する怪我を負わせたことを彼女は私に語った。彼女がこの話を私にして以降、私たちはますます多くの時間をともに語り合いながら過ごすようになった。私たちはあとあとまで続く犯罪被害の影響についてよく話した。彼女の身に起こったことに対する彼女の反応についての話を聞いて、また、ミリアム・シュナイダーが私に言ったことを思い出して、私はなおいっそうはっきりと、暴力を受けた被害者が多くの共通する問題を経てきていることを認識した。ジェーンは私の抱いている被害者のための支援組織の構想を素晴らしいことだと考えて、手助けをすることを約束してくれた。

  ジェーンと私が仲良くなってから、残りのスタッフも私の周りですっかりくつろいだ様子をみせるようになった。彼らは夜間に私をナース・ステーションに招き入れ(それは病院の規則に反していた)、私は自分の出た映画や演劇のことを話したり、冗談を言って笑いあったりして彼らと遊んでいた。私は自分が口うるさい哀れな刺された被害者ではなく、「女の子たちの一人」であるかのように感じ始めていた。彼らのほうも、まくしたてる口ととめどなく流れる涙だけの存在ではない私のことを認めはじめていた。看護師の仕事をやっていくなかで日々直面する問題に関する、真に当事者の立場からの視点を私は得た。看護師の生業と彼らが向き合っている困難とを理解してからは、私はもうスタッフが私のことを疎んじているとは感じなくなった。私たちのあいだの誤解は一掃され、いまや彼らみなが私を応援してくれていた。

  現実世界にいる自分の姿を想像することはいつでも私を怖がらせたが、映画テレビ基金病院での最後の月となった6月に、「ねえ、なんとかそこでやっていけるんじゃないかしら!」と私は思い始めていた。災厄に打ち勝ったさらに多くの人々の本を私は読んだ。私が読んだ何人かの人々に刺激を受けて、私は新たな意欲とともに理学療法に取り組み、ほとんど使っていなかった足の筋肉をストレッチして、再び鍛え始めた。

  ささいなことのように見えるかもしれないが私にとってもっとも大きな偉業だったことのひとつが、レストランで快適な気分の食事ができるようになることだった。私はほとんど毎晩許可をもらって、病院の近くのどこかの場所で夕食を取った。私はこれらの店にいるが私を傷つけようとも、私を見ようとさえもしていないことを学ばねばならなかった。だんだんと私の自意識は薄れ、恐怖は弱まっていった。私は短い間であれば、同行者が電話を使ったりお手洗いに行く用のあるときに一人で椅子に座っていることもできるようになった。ゆっくりと、一歩一歩、私は外の世界に再順応していった。私はさまざまな終日の外出許可を得て、買い物に行ったり、友達の家を訪ねたり、映画を観に行ったりした。これらのなんの変哲もない楽しみが私をぞくぞくさせた。

  大量投薬の時期はもう終わっていた。私は自分の力でなんとか生きていくことを覚え、暗黒期に私を支えてくれていた薬との縁を断ち切りつつあった。ただの習慣で、あるいは本当に不安に駆られていたために鎮静剤へと手が伸びそうになったとき、私は自分で「根比べ」と呼ぶゲームをすることにしていた。少しでも長い時間、錠剤に手を出さないでいられるよう頑張ってみるゲームである。もしも通常より長く薬なしで辛抱することができた時は、自分にご褒美を与えることにした。新しい服を買ったり(もちろん掛けで。私の財政状態はそんな風だったので)、ばかでかいアイスクリームサンデーを食べたり。何はともあれ私は、何か特別なことを成し遂げたことに対して自分に報酬を与えるやり方を見つけた。それは私が自ら課した行動変容法のプランだった。そしてそれは機能した。私は長いこと薬の力に頼ってきた。いま私は自分の内なる力に頼る必要があった。たとえそのために自分で自分に賄賂を贈らなければいけなかったとしても!

  ウェインゴールド先生は私の退院について話し合い、その準備をすることに多くの時間を費やしていた。自由を再び取り戻すことができるという考えは私に高揚した気分を芽生えさせ、それは日増しに大きくなって、ついに私は心からその時を待ち焦がれるようになった。

  6月23日に、私は長い間世話になった病院のスタッフにお別れを言った。過ぎ去った3カ月半はすさまじい悪夢だったが、前に進みだす時が来た。私は映画テレビ基金病院の扉を開き、再び世界へと歩み出した――それまでの後始末をつけ、まったく新しい人生をはじめようと心に誓いながら。

Beyond Survival - Chapter 3 Fear 1/6

第3章 恐怖(原書45~74頁)

 私たちはたいてい子供の頃に、「怪物」だとか「ブギーマン」だとかにおびえて夜中に泣きながら目を覚ますような時期を通り抜けるものである。両親はそんな私たちを慰めて、大丈夫だよ、怪物なんていないよと言ってくれる。じきに私たちは安心した気分になり、悪夢は遠のいていく。

 だが、私たちが子供の頃に怖れていた「ブギーマン」がある意味で実在するのだと分かったらどうなるだろう?

 生命を脅かすような攻撃を受けたあとに残る、制御不能の、骨まで凍り付くような恐怖を言葉にするのは難しい。それは、その強度と破壊力においてすさまじいばかりの、それとともに生きていくのは困難で、それを振り払うのはなおいっそう困難な、侮りがたい恐怖である。

 病院で、私は自分をあの時あの場所へ連れ戻し、私の正気を根底から揺るがすフラッシュバックに悩まされていた。何度も何度も、私は犯人の声を聞き、陽の光にきらめく刃を、ナイフが自分の体を刺し貫くのを感じたのである。

 襲撃後の何カ月もの間、恐怖は私の生活を支配していた。日によっては恐怖が私を麻痺させ、もっとも簡単な課題すら私に出来なくさせた。しばしば私は、病院の廊下に出ることすら覚束なくなった。警備の隙を突いて忍び込んだ知らない攻撃者がそばに潜み、私を襲おうと待ち構えていると信じきっていたからである。時として私は、金切り声をあげ、すすり泣き、ヒステリー状態の、どこからどう見ても正気を失った生き物へと退化してしまった。ほとんどいつでも、恐怖は私を子供のような依存状態へと逆戻りさせた。世界に向き合うことをあまりに怖れ、両親から離れることをあまりに怖れ、一人きりにされることを、それはもうあまりにも、あまりにも怖れていたのだ。

 そんな私を、恐怖に負け、恐怖に呑み込まれることを自らに許していると感じる人もいた。彼らの反応は私を混乱させ、傷付けた。なぜなら私は恐怖が私のもとから去ることを必死に欲していたからである。私は自分の自由が、統制力が、プライバシーが回復されることを欲していた

 しかし私の恐怖は、単に私が欲することだけで克服できるにはあまりにも強力なものだった。私にはゆっくりとしたよちよち歩きが必要だった。私は急かされてはならなかったのだ。そして何人かの私の善意の友人たちは、私をあまりに遠くへ、あまりに性急に、押し進めようとしたのである。

 たとえば、5月のある午後に私の友人のキャロルが私を映画テレビ基金病院からウェインゴールド先生の診察予約の場所へ車で連れていった。それは私が、病院のスタッフの付き添いを受けずに個人の車で外来患者として診察を受けに行く最初の機会だった。

 診察の後で私たちは昼食のため、先生のオフィスのある建物のカフェテリアに立ち寄った。私は以前そこで、通常私に付き添っていてくれる病院勤務の人たちと食事をしたことがあるので、わりあい落ち着いた気分だった。ところが食事の最中にキャロルは立ち上がり、駐車料金を払って来なくちゃと言った。びっくりした私は、「待って、私も行く!」と反射的に叫んだ。

 彼女は一瞬黙ったのちに、大声でこう言って私をぺしゃんこにした。「いやだテレサ、馬鹿言わないでよ。大丈夫、すぐに戻ってくるから」。そして彼女はさっさと走り去ってしまった。

 このやりとりを聞いていた近くの人たちが、私のことを好奇の目で見つめはじめた。そこに私はいた、げっそりと痩せ、青ざめて、無力で、腕に大きなギプスを巻かれ吊られて、手首には病院のIDを付けて。恥ずかしくなって私は手首のタグを袖の下に隠した。私は震えて、泣き出す寸前だった。ほどなくして、私はもはや自分の上に注がれたお客の視線に耐えられなくなった。

 そっといすから立ち上がると、私は即座に化粧室へ歩いていった。ためらいながらドアを開け、ソファーに優しそうな目をした中年の女性が座っているのを見て私は安堵した。わっと泣き出して私は彼女に事情を説明した。幸いにも彼女は親切な人で、私の話を同情とともに聞いてくれた。

 5分後に戻ってきたキャロルは私が化粧室にいるのを発見した。彼女が言わんとしたのはただ、「テレサ、私は知らない人といっしょにいることに慣れはじめることが、あなたにとってよいことだと思っていたの」だった。

 その時も今も、私は彼女に賛成できないという点において少しも変わることがない。あの屈辱的体験は私に恐怖を克服させることの助けにはまったくならなかった。それどころがあの出来事のおかげで、私が見守りなしで病院を外出することが出来るようになるまでに、さらなる2週間を要することになったのだ。

 恐怖からの自由を見つけ出すことは、急かしてはいけないプロセスである。恐怖を強制的に跳ね除けようとすることで、あなたは罅が入ってバラバラに壊れてしまう危険を冒すことになるのだ。

 私のケースはもちろん、極端だった。私はもしも自分が一人にされたら私は殺されるというような感覚をただ抱いていたのではない――私はそれをまったく確信していたのだ。そしてそれゆえに、誰かが私のもとを立ち去ろうとするほんの僅かなサインに対しても、私は猛烈に反抗した、たいていの場合、声を限りに。

 私は一人きりにされたからといって、現実の物理的な害は生じなかっただろうことを今では理解している。しかし、間違いなく私は心理的危険に曝されていただろう。そして私は、一人でいることを怖れ拒否する私の反応を促していた感情が、私自身のあり得べき限界点についての私に深く根差した知識からくるポジティブな本能だったことを認識している。もしも恐怖の瀬戸際で一人きりにされたら、私は完全に狂ってしまうか、自殺へと駆り立てられていくだろうと私は信じていた。

 そういうわけで私は自衛本能から、友人や血縁の人たちや雇われた同伴者に昼も夜も私のそばにいてくれるよう主張したのだった。

 女友達のひとりが言うところの「恐怖の囚人」に私がなってしまったことに対して、看護師の多くや、親友の一部までもが強いそして否定的な反応をみせた。彼らは私が不健康で、バランスを欠いて、他人に依存した状態のまま残りの人生を終えてしまうのではないかと感じていた。彼らはこんなことを言った。「テレサ、あなたの恐怖はトラブルを惹きつけて、あなたにいっそうの害をもたらしてしまう」。あるいはただこう言ったりもした。「そんなに怖がるのは止めて。あなたは赤ん坊みたいよ」。

 私は自分の恐怖を克服することを自分に強いて、何度も一人でいることを試みた。しかしそのたびに私は震え、戦き、ヒステリー寸前の状態に終わるのだった。これらの失敗経験は、私になおいっそうの罪悪感とみじめさを覚えさせた。強いられたストイシズムは恐怖からの解放へと向かう私の道筋でないことは明らかだった。

 

 同様の暴行被害を生き延びたほかの人たちと話すことで、私はある被害者にとって有効なやりかたがほかの被害者にとってはそうでないことを学んだ。ある種の人々はプライバシーを必要とするのだ、自分が冷静な状態で、再び事が起こったりするようなことはないと自分自身に言い聞かせるために。彼らには考える時間が必要で、それを一人ですることを求める。

 私が襲われてから10か月後、私はボストンで開かれたトークショーにゲストで呼ばれ、犯罪被害者としての自身の体験を語った。テープ録音のあとで、カレンと名乗る女性が私のところに来て、彼女は性的な暴行を受けた経験があると話した。

 この華奢なみかけの30歳くらいの女性は私に、レイプの後で彼女は休み、傷を癒すための、すべてひとりきりの時間を求めていたと語った。彼女はルームメイトとシェアしていたアパート(そこは暴行が行われた場所だった)を出て、新しくその近所にひとりで居を構えた。ボーイフレンドと別れて、裁縫や油彩画などの、ひとりでできる趣味に打ち込んだ。暴行から2年を経たその当時も、彼女はひとりで暮らしていた。しかし彼女は助言や人付き合いを求めはじめていた。

 最近カレンは性犯罪被害者治療センターでセラピーを開始した。そして私に、彼女の問題を友人や家族に話すよりセラピストに話すことのほうを好んでいると語った。カレンの心の傷は少しづつ癒えていった、そして彼女は、回復の過程の大半を自分ひとりで成し遂げたことを特に誇りとしている。

 カレンにとってはひとりでいることが正解だった。ほかの、私のような人間は、手助けや支えや人づきあいを必要とする。私の周りに常に人がいる状態を保っておくことは、恐怖に対する私の鎧だった。友人や家族や仲間の存在は、私が長期にわたる肉体的、心理的な治癒の過程を耐え抜くのに必要な安心感を提供してくれたのだ。

 恐怖のもつひとつの困った側面は、その伝染性の性質である。怯えている被害者の周りにいる人々は怖がる傾向がある。彼らは往々にして自分の恐怖を認めようとしない。自分の恐怖を抑え込むために、彼らは被害者の恐怖を見下すのだ。訪問者がこんなことを言って、あからさまな恐怖の発露をやめさせようとするのはよくあることである――「もう終わったことなの。心配するのは止めて、お願いだから。忘れなさい!」。なにゆえにか?彼らがそれを忘れたいからである。彼らは本当のところ、自分自身に向けて語りかけているのだ。

 これは理解し得る現象である。あなたが暴力的な攻撃を受けた誰かに向き合っているとき(特にそれが偶然の事件だった場合は)、あなたは同じことがあなたの身に、あるいはあなたの愛する人の身にも振りかかる可能性に直面することになる。

 私たちの多くは、都会でも地方でも同様に、ある種の不死身の感覚とともに日々の暮らしを送っている。安全に守られているというこの感覚によって、私たちは地下鉄に乗ったり、何千人もの見知らぬ群衆のなかでコンサートを鑑賞したり、子供を連れて公共の公園を散歩したりといったことができるようになる。私たちが暮らす社会のなかでつつがなくやっていくことをそれが私たちに可能にしている限りは、この感覚はみたところ基本的に健全で正常なものである。

 しかし私たちが暴力によって傷つけられた誰かを見たとき、とりわけそれが友人や愛する人であったとき、私たちは動揺させられる。目の前にあるのは、無視することのできないショッキングで恐るべき証拠である――犯罪は存在する、ただ存在するだけでなく、あなたの身近に存在するのだという事実の。

 仲間の犯罪被害者のダイアン・クレインは私に、犯罪被害に遭ったことでもっと苛立たしく、心を乱されたのは、友人のうちの何人かが彼女が恐怖について話そうとするのを完全に拒絶したことだったと語った。それについてちょっとでもふれることは――ダイアンは気づいた――彼らを不快にさせ、怒らせ、そして彼女の疑うところでは、彼ら自身を恐れさせるのだった。

 ダイアンは中西部に住む、20代の美しいブロンドのセールスレディである。彼女はたいへん成功していて、いっしょに住む男性と堅実で幸福な関係を持ち、家族とも仲が良い。

 2年前、彼女は自分の車を売りますという広告を地元の新聞に出した。アミーと名乗る女性が電話をかけてきて、車を買いたいと思っているが移動手段がないので、彼女の家まで車を運転してきてほしいとダイアンに頼んだ。

 ダイアンが教えられた住所に着いたとき、戸口に出てきたのは男性だった。彼は彼女を中に招き入れ、アミーは別の部屋にいると言った。ダイアンは居間に座り、男はちょっとした会話に彼女を引き込んだ。しかし15分が経って、ダイアンはアミーが現れるのを待っているのがいやになってきた。彼女は帰ろうとして立ち上がったが、その時男が背後に駆け寄り、腕を首に巻き付けて彼女を捕らえた。彼はコーヒーテーブルの下に隠してあったロープを引っ掴むと、彼女を後ろ手に縛った。男はダイアンに、彼女の車でカンザスへ行くと言った。彼女は出発前に、彼女の持ち物の二、三を車から降ろしてもらえるよう懇願した。それから彼はスカーフを取り出し、彼女の口にさるぐつわをはめた。

 男が車の停めてある裏庭へと向かったとき、ダイアンは家の前に走り出た。しかし犯人は彼女が逃げたことに気づいて彼女を追いかけ、荒々しく彼女を捕まえると、裏庭へ運んでいった。その途中でさるぐつわが外れて、ダイアンは助けを求める叫び声をあげはじめた。彼女は男が言った言葉を鮮明に覚えている、「騒ぐな。さもないと殺すぞ」。

 ダイアンは逃れようとして男と格闘したが、力で圧倒する男は彼女を地面に投げ飛ばし、重い鉄製のゲートで彼女の体を上から押さえつけた。彼女が恐怖と苦しさでうめき声をあげすすり泣くと、男は荒っぽい態度で、口を開かず絶対におとなしくしていろと警告した。次いで彼は、彼女の足を血流が止まるほどにきつく縛り上げた。

 それから彼女の心は「スイッチが切れた」と、ダイアンは形容している。その後の出来事は、ほとんど2週間先に到るまで彼女の記憶から失われている。彼女の身に起こったことの詳細は警察の捜査の過程でつなぎ合わされ、のちに彼女に伝えられた。

 彼女の事件を担当した刑事は、犯人は大きな木の板で彼女を激しく打ち据えたとダイアンに語った。血を流し意識を失ったダイアンを彼女の車のトランクに詰めて、男は荒地へと車を走らせた。そこで男は、もう死んだものと思った彼女を道路脇の溝に放置した。

 ほとんど人の往来のないそのルートを、二人の男性が車を運転して通りかかったのは奇跡的なことである。ダイアンの体に気づいた彼らは救急隊員を呼んだ。彼女は意識のない状態で最寄りの緊急治療室へ運ばれた。

 犯人はのちに逮捕され、収監された。刑事はダイアンに、新聞広告に反応した「アミー」という女は実のところ、彼女を殺そうとして捕まった男と同一人物だったと教えた。男は裏声をつかって、電話口で女に成りすましていたのである。

 ダイアンが体に受けた傷は、骨のひび、頭部の激しい外傷、歩いたり動いたり自分で食事をとることが出来なくなるほどのひどい打撲や裂傷などだった。犯人が彼女の頭に加えた粗暴な一撃は回復不能な嗅覚の喪失を招き、味覚の大半を損なわせた。

 現在、ダイアンは仕事に復帰し、彼女の会社のセールスのランクでトップを走っている。それでも彼女はなお恐怖とともに生きている。

Beyond Survival - Chapter 3 Fear 2/6

 先日、ダイアンと私はランチの席で、お互いが経験した襲撃後の恐怖について話し合った。ダイアンは、恐怖が彼女に、悪夢のような体験を繰り返し繰り返し物語ることを強要してきたと言った。実際、彼女は話すことに駆り立てられていて、聞いてくれる人なら誰にでも、彼女の物語をどぎついばかりの詳細さで繰り返したのである。バスの車内やあるいはほかの公共の場に居合わせた知らない人に向かって、自分がその話をしているのに気づくことさえあった。

 自分の「物語」を何度も何度も繰り返すという、この種の発露のしかたは、多くの犯罪被害者に共通して認められる。往々にしてそれは一時的なものである。しかし時には、数週間、数カ月、そして数年にさえ及ぶ執拗な欲求となり続けることもある。内にあるものを外に出すことによって、鬱積した不安と恐怖を解放することの慰めを得ることができる。他人と恐怖を分かち合うことは、犯罪被害者の孤独感を薄め、負担を軽くし、そしてなによりも、恐怖を和らげるのである。

 ダイアンは、友人が彼女のサーガを何度も聞くことを嫌がっていることに気がついた。そう、彼らははじめのうちは、特に彼女がベッドに寝たきりのうちは、彼女の話を最後まで聞こうとしてくれていた。しかし彼女が回復への道を歩みはじめたらしくみえるようになるとすぐに、ほとんどの友人は彼女に話すことを止めさせようとした。ダイアンの抱いている感情が彼らを居心地悪くさせていた。

 私の友人が一人にしないでと言い張る私にそうしたように、ダイアンの友人は彼女が「強迫観念に囚われている」と言って諭した。彼らは言った、「もう終わったことだよ、ダイアン。忘れなさい」。彼らにとっては、事件の詳細を繰り返し語るという、治療目的から発する彼女の欲求は、無益で不気味なものに思えたのだ――そしてもちろんそれは、彼らを恐れさせていた。

 事件から一カ月にも満たないある日、ダイアンは友人たちといなかのほうへ車でドライブに出かけていた。不意にパニックが彼女を襲った。はじめ彼女は、どうして自分がそんなに恐怖を感じているのかよく分からなかった。しかし徐々に彼女は、自分たちが彼女の「捨てられた」場所からほんの数マイルしか離れていない位置にいることを認識した。

 ダイアンは事件のことを語り始めた。彼女は友人に、自分が放り棄てられた実際の場所へと彼女を連れていってくれるよう懇願した。彼らは困惑して、彼女がおかしくなっているのではないかと言った。

 ダイアンは彼女が感じていた恐怖を「未知なるものへの恐怖」と評している。彼女への暴行と誘拐の詳細を話では聞いて、それについていっさい覚えていないことが非常に恐ろしかったのである。彼女は自分の目でその場所を見ることが、それを今そうであるような悪夢から、より現実のほうへと近づけることになると考えていた。ダイアンの想像力は荒々しく駆け巡っていた――溝と、捨て去られた自分の姿をめぐる彼女の空想は、いかなる現実よりもぞっとするものだったのだ。

 ダイアンは彼女の考えを説明し続け、犯人が彼女を置き去りにした場所へ連れていってくれるよう頼んだ。しかし彼女が話せば話すほど、友人たちは聞く耳を持たなくなっていった。彼らは彼女に言った。「あなたは今100パーセント安全で、怖がる理由なんてなにもない」。

 ダイアンの友人たちは彼女を決してその場所へ連れていこうとはしなかった。そして彼女はひとりきりで理解されぬまま、まったくの恐怖とともにそこに座っていた。

 幸いにもダイアンの両親とボーイフレンドは彼女のことを理解して、辛抱強く、ただ彼女の話に耳を傾けてくれた。そうして彼女は発露の過程をとおして、彼女の恐怖のいくらかを外に吐き出すことができた。

 車中での一件のあとで、ダイアンは事件について話すのを止めようと努力した。しかし、彼女が恐怖を自分の裡に封じ込めようとすると緊張感と不安感が昂進して、爆発してしまうのではないかという感覚に彼女を陥らせた。

 それで彼女は話して、話して、話した、徐々に彼女が「話し切った」と感じ出すようになるまで。やがて彼女は、何カ月間も彼女のなかで持続していた言葉の流れを堰き止めることに成功した。

 三年半が経った今でも、彼女は時おり事件の話を繰り返したくなる衝動を感じることがある。しかし彼女は今では話を打ち明ける人を選んでいる。ダイアンは肉体的にも精神的にも、再び健康になった。恐怖は今なお生活の一部を占めているが、彼女は幸福で充実した生活を送るには十分なくらい、それを支配下に置いている。

 

 犯罪被害者に起こり得るもっとも悲しいことのひとつが、友人に見捨てられることである。残念ながら、その背景にある理由はたいていの場合、恐怖――被害者の感じる恐怖(それは明らかに、それを目にする人間にとっても快くないものである)と、それが周囲の人々に引き起こす恐怖の両方――である。被害者を見放した友人は、もはや被害者あるいはかれ自身の恐怖と向き合わなくて済むのだ。私が生きているあいだ私が恐怖のなかで生きていくだろうことが明らかになるとすぐに、多くの人々が私を見捨てた。彼らは私が殺されかける恐怖について話すのを聞いた。彼らは私がフラッシュバックを体験しているさまを見た。彼らは私の体の醜い傷――私が受けた試練の恐るべき証拠――を見た、そして彼らは私のもとから姿を消した。私は彼らにとってあまりにもおっかなかったのだろう!見た目においても精神的な面でも、私は恐怖を催させる存在だった。それで彼らは訪問を止め、自分たちの生活に戻り、私と私が表しているすべてのものを心の外に逐いやろうとした。

 ひとたび私が肉体的、精神的な健康を取り戻すと、彼らのうちの多くが再び姿を現した。彼らはトークショーだとか仕事の場で私に会いに来たり、電話をかけてきて集まろうと言ったりした。時に彼らは謝罪して、どうして彼らが何カ月ものあいだ音信不通だったのかに関する多種多様な理由を述べた。時に彼らはかくも長き不在にまつわる事柄を完全に無視した。そして時に彼らは、すべての出来事は適切に対処するにはあまりにも彼らを恐れさせたのだと私に話した。彼らが自分の考えを認めて正直に話してくれた時、私の気分はずっと楽になった。

 私は子供の頃からずっと、「水に流す」タイプの人間だった。恨みを抱き続けるのは決して私のやり方ではなかった。そこで私は自分に言い聞かせた、「ねえテレサ、彼らに裁きをくだそうなんてどういうつもり?彼らはただどう反応してよいか分からなかっただけ――彼らにとってすべてはあまりにも恐ろしすぎたの。彼らは今でもあなたの友達よ」。こんな考えを心に持ちながら、私はかつて自分が「逃亡者」だと再三思っていた人々との関係を復活させることに決めた。

 彼らと再び会うようになって、すべてはうまくいっているようにみえた――少なくとも表面的には。私たちは家族や音楽やオーディションや演劇のことや、私の「目覚ましい回復」についてさえも語り合った。でも私たちの無邪気なからかいあいの下では、なにかの歯車が狂っていた。私は友人たちと過ごしたこれらの時間を何度も思い返し、私の精神科医のウェインゴールド先生とそのことについて議論した。最後に私は自分にこう問いかけた、私は友人たちを責めているのか、と。

 私の正直な答えはノーだった。彼らが私を見捨てたことは私を傷つけたけれども、彼らを憎んだり責めたりする気にはならなかった。

 しかし私は、できるかぎり努めてはみたものの、私のかつての友人といっしょにいることにもはや心地よさを感じなくなっていたのだと気づいた。別の危機が起こったとき、どうして私は彼らの助けを当てにすることができるだろうか?私が彼らをもっとも必要としているとき、彼らは混乱だとか嫌悪感だとか恐怖だとか、あるいは場合によっては単なる厄介さだとかの感情を理由にして、私との距離を置くようになるだろう。それで私は、恨めしさではなく悲しみの感情をもって、彼らと会うのを止めることに決めた。

 だが襲撃後の日々をとおして、私の恐怖と苦痛は、たとえそれがどんなに彼らにとってつらいことであっても私に寄り添い続けてくれた友人たちによっておおいに和らげられたのだった。

 最も初期の頃には、やって来た友人が、妄想状態に陥るほどひどい恐怖のなかにどっぷり浸かっている私のありさまを目の当たりにすることもたびたびあった。彼らは私が壁をじっと見つめて、「血とナイフ、血とナイフ」の語を何度も繰り返しているのを目撃した。たいてい私は訪問者の到着を察知すると現実に引き戻されたが、そんな状態にある私をたとえ短い間でも目にした友人がトラウマを負っただろうことは想像に難くない。

 私の真実の友が私に対して示した愛と憐みには限りがなかった。彼らは私のために、そして私とともに泣き、私の手を握り、私の家族を慰め、見守り、体と心のひどい傷にもかかわらず私を受け入れてくれた。私がもし百歳まで生きたとしても、私は決して彼らを忘れることはない。そしてもし彼らが私の助けを必要としていたら、私は彼らのためにそこに駆けつけるだろう。

 

 ある意味で、今日の社会では誰もが犯罪の被害者である。被害者とそうでない人間を分かつ唯一の実質的な違いは暴力行為それ自体である。しかし基本的な、共有された感情は犯罪への恐怖である。この共通の背景を理解することによって、被害者と非・被害者のあいだの溝が効果的に埋まり、コミュニケーションのための堅固な基盤がかたちづくられることになる。

 恐怖の克服に向けた最初のステップは、その存在を認め、受け入れることである。しかしどのようにすればいいのだろう?

 あなたが恐れているという事実を認めることは通常それほど難しくない。恐怖は明白な心理的、肉体的な反応を誘発するからである。あなたは落ち着きがなく、不安で、沈痛で、「クリーピー」である。あなたの頭はずきんずきんし、脈は速まり、心臓は激しく鼓動を打ち、肌にはじっとりと冷や汗をかき、こそこそと視線を動かす。もしもそんな状態が私たちの習い性になっていたら、これらの症状は私たちが恐怖を抱いていることの明らかなしるしである。

 恐怖を受け入れることはそれほど簡単ではないだろう。とりわけこの独立独行の時代にあって、人は自分自身が十分にコントロールのとれた状態にあると考えることを好む。恐怖を認めることは、ある程度の無力感を認めることである。自分の身に起こったことすべてに対して100パーセントの責任を負うことができないと認めることは、さまざまな反応をもたらし得る――不快感、悲痛、絶望感、喪失感、そして深い憂鬱さえも。

 恐怖を受け入れるようになることは、あなたは一人ではないのだと、あなたは恐れているからといって弱虫なのではないのだと、あなたの前の多くの人々が恐怖を克服し、あるいは恐怖とともに生きるすべを学んだのだと気づくことの助けになる。

 もしもあなたが、恐怖を受け入れることを建設的な行為だと――健康へと向かうために欠かせない、必要なステップだと捉えることができれば、それを達成することはいっそう容易になるだろう。

 あなたが応対しなければならない最初にしてもっとも重要な人物は――たとえあなたの周囲の他の全員があなたの恐怖を認めようとはしないような状況にあなたが置かれていたとしても――あなた自身である。あなたが自分をとても弱いと感じていたとしても、自分自身に対して寛大であるよう努めることで(言い換えると個人的判断を控えることで)、あなたはずっと気が楽になるだろう。

 「私は恐れている、そしてそれはこの状況のもとでは正常なことである」、そんな言葉を書いてみる、あるいは声に出してみること。あなたの中にわだかまる不快な感情をただ表に出してみることは、それ自体一種の解放である。それはまた、あなたの感情に関する真実の、言葉による表明でもある。ひとたびあなたが自身の恐怖に対して正直になることができたら、あなたは「真実を受け入れる」という強力な武器を得たことになる。そしてあなたは、さまざまなやり方でそれと付き合っていくことができるようになる。