PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Prologue

 1982年3月、私は幸福で充実した日々を送っていた。私の女優としてのキャリアは上り調子で、私は臨時で大学通いを楽しみ、私のハンサムな夫と私は流行の先端をゆくウエスト・ハリウッドの素敵な集合住宅に住んでいた。フレッドと私はお互いの家族と仲良しで、多くの良き友人に恵まれ、社会的に活発だった。

  しかし1982年の3月15日、愛する我が家からほんの数ヤードの所で私は、陰惨で、計画的な、粗暴きわまる暴力犯罪の被害者になった。

  とある朝の時の経過のなかで私は、健康的で楽天的で元気はつらつとした若手女優から、恐怖に怯えて息も絶え絶えの、苦痛に苛まれる病人の立場に転じて、生そのものに弱々しくしがみついていたのである。

  私の肉体に加えられた暴行はほんの数分間だけ続き、ただその数分は私を死の淵へと連れ出すには十分な長さだった。しかし私の精神に、心に、魂に加えられた暴行はずっと、ずっと長く続くものだった。

  あの陽光に満ちた愛すべき春の日に、私は、過ぎ去った日々の安寧や普通さを欠いたまったく新たな現実のもとへと放り出されたのだった。いま私は暴力的犯罪のほかの被害者たちと、私たちを残りの世界から分け隔てるきずなを共有するようになった――ひとりの人間がほかの人間に対して負わせ得る苦痛やトラウマの深さについての、個人的で強烈な知識である。突如として私は、平和や安全、信頼といったものがもはや存在しないようにみえる世界のなかに再び産み落とされたのだった。突如として私は被害者になった――洪水や事故や疫病ではなく、別の人間がもたらした禍いの。その考えは私の気分を滅入らせた。

  私がチューブや機器やモニターにつながれ、目がくらむほどの苦痛に苛まれながら生きるために必死に戦っていたとき、私は自分が浮氷の上にたった一人取り残された生存者のように、切り離され、隔絶され、奔流が私をひとびとの暮らす社会からさらに遠くへ、遠くへと運び去るのを感じていた。

  数日が、数週が経つにつれ、私は私自身の体験によってますます孤独感を深めていった。ある一人の人間によって傷つけられる――殺されかけるという比類のない恐怖を、ほかの人たちが把握したり、完全に理解するのはおそろしく困難なことのように思われた。

  そこで私は書くことにした、ほかの人たちにそれがどんなものであるかを知ってもらうために。当事者の視点から、被害者がどのように感じるものなのかを説明するために。体と心の苦痛の深淵から帰還した私の旅を語り伝えるために。

  私の本の目的は、他人に私の味わった苦悶を私に成り代わって体験させることにあるのではなく、おぞましい、身をよじるような、苦痛に満ちた体験のなかから、なにかしら前向きなものを産み出すことがいかに大切であるかを示すことにある。

  私はまだ入院中の頃に執筆をはじめていたが、この本のコンセプトが変化したのは、私が完全な回復への道のりをさらに歩んでいき、「被害者のための被害者Victims for Victims」の団体をたちあげ、ほかの犯罪被害者たちと忙しく活動するようになってからである。そう、私はまったき絶望の淵からの生還を果たした私自身の非常に個人的な物語を語りたいと思っていた。しかし私は、私を惹きつけ、高め、刺激してくれた、ほかの多くの被害者たちの悲劇と勝利の体験を分かち合いたいとも思うようになっていったのである。

  この本で取り上げた被害者たちとかれらの愛するひとびとは、実在する。かれらの強さ、耐久力、決断力も。ただし名前や住所などの、個人の特定につながるような仔細は変更している。

  私は精神科医でも心理学者でもないが、犯罪被害者にとってはあまりに馴染み深い苦痛と孤独の世界についての、じかにこの手で得た深い知識を持っていることはたしかである。 

 自身が犯罪被害者である読者に対しては、私はこの本が、あなたはひとりではないのだということを――たくさんの、たくさんのひとびとが、あなた自身が経験したような途轍もない試練をくぐり抜け、さまざまなやり方で恐怖や窮状を乗り越え、くじけることなく毎日を前向きに生きているのだということをあなたが知り、あなたを元気づけることに役だつものであることを願っている。

  しかし私は、被害に遭った人とそうでない人とのあいだの溝をつなぐ橋渡しもしたいと思っている。本当のところ、私たちはみな、多くのものを共有している。あまりにも多くの犯罪が毎日発生しているなかで、ドアに鍵をかけたり、子供たちの無事を気遣ったり、夜間に外出する際は注意したりといったような、身の安全のためのもろもろの用心をすることなしに生きている人はほとんどいない。多くの人々は(幸いにも)現実の犯罪被害者ではないけれども、かれらは実のところ、犯罪に対する恐怖の被害者なのである。そしてその点でかれらは、じかに襲われた経験のある人たちと多くを共有している。

  この本に収められたさまざまな体験が、最悪の時だけでなくもっとも輝かしい時のなかでの人間のありようをも照らし出すものであることを望む。

 

テレサ・サルダナ

Beyond Survival - Chapter 1 The Attack 1/2

第1章 襲撃(原書1~9頁)

 十代の前半から私ははっきりとキャリア志向だった。私はまずニューヨークの舞台女優から始めて、そののち映画やテレビの仕事のためにロサンゼルスへと移った。

  襲撃の前までに、私はDefiance(ジャン=マイケル・ヴィンセントの相手役)、ユニバーサル・スタジオ制作のI Wanna Hold Your HandやNunzio、ブライアン・デ・パルマ監督のHome Moviesといった映画の主演や助演をつとめていた。数多くのテレビ番組にしばしばゲスト出演し、Gangster Chroniclesでは準レギュラーの役を担い、NBC制作の映画Sophia Loren: Her Own Storyではソフィア・ローレンの妹役を演じた。ただ1982年3月の時点で、私はたぶんマーティン・スコセッシ監督『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロの義理の妹の役でもっとも名前を知られていた。

  仕事と家庭生活とのあいだで、私はいつも極度に忙しかった。私の夫のFred Felicianoはアルコール依存症者や薬物常習者のカウンセラーで、ウエスト・ハリウッド近郊の快適な一角に住んでいた。フレッドは私に負けず劣らず活動的で、日中はずっと働き、夜にはUCLAの授業に出席していた。彼は私のハードワークぶりを誇りに思っていて、私の仕事を応援してくれていた。

  でも1982年の3月8日にすべてが変わりはじめた。フレッドと私が夕食をとっていた6時ごろに、私の母がニューヨークから電話をかけてきた。興奮した様子で、彼女はたった今マーティン・スコセッシのアシスタントから電話を受けたのだと話した。スコセッシさんはどうやらロンドンにいて、私と至急連絡をとることを必要としている。母はそのアシスタントに私の電話番号を伝えたが、彼は私の住所も教えてくれと言ってきた。彼の説明によると英国では電話回線がダウンしていて、スコセッシ氏は私に電報を送らなければならなくなるかもしれないとのことだった。電話の主があまりにしつこく熱心に求めてきたので、母は彼に改めて私のマネージャーのところへ電話をかけ直させたりするよりも、じかに情報を教えたほうが得策だろうと判断した。仕事上のコンタクトで母が私の住所を誰かに知らせたりすることはこれまでに一度もなかったけれども、彼女は電話の相手がスコセッシのアシスタントであると信じこんでいた。とにもかくにもスコセッシの事務所は、電話帳には載っていない私の両親の家の電話番号を知っていたわけだが、母は電話の主がそこにいる誰かから伝え聞いたのだろうと思っていた(あとで私たちは、彼が探偵を雇って私のことを調べていたのだと知ることになる)。

  私も母と同じく、スコセッシがそんなにも急に私と連絡を取りたがっていることに興奮するとともに、不思議に思いもした。

  母からの電話のあとの半時間のことを私は鮮明に覚えている。私はフレッドにニュースを伝えた。私の母や私がそうだったように、彼も不思議がると同時に喜んでいた。スコセッシが別の映画の役に私を抜擢したんだと確信して、私は歌い踊りながらそこらへんを跳ね回っていた。こんなにも高揚した気分なのに、まだ自分が荷造りもしていなければパスポートも取り出していなかったのは驚きだった。フレッドは私のふるまいをおもしろがっていたが、もうUCLAに出かけなくてはならない時間だった。かばんに本を詰め、私におめでとうのキスをして彼は出ていった。

  しばらくして、私のマネージャーのセルマ・ルービンが電話をかけてきた。取り乱した調子で彼女は言った、「テレサ、あなたのことを嗅ぎまわっている奴がいるの。とても心配だわ」。セルマは続けてこう言った、彼女のところに男が4度電話をかけてきたのだと。そのつど別の名を名乗り、プロデューサーだ、写真家だ、代理人だ、出版社の人間だと称して。電話のたびに彼は私の住所と電話番号を教えるように彼女に求めてきた。セルマは情報を伝えることを断り、そして2度目の電話の最中に、電話をかけているのが同じ人物であることに気がついた。彼女をもっとも不安がらせたのは、4度目の電話の最中にその男がクスクスと笑いはじめ、錯乱した様子をみせたことだった。その時点でセルマは、二度と彼女のところへ電話をかけてこないよう彼に警告し、さもなければ警察に通報すると伝えた。

  セルマが電話主の名乗っていた名前のひとつを私に告げたとき、私の体は恐怖でこわばった。それは私の母に電話をかけてきた「監督のアシスタント」の名だったのだ。

  すぐさま私は彼女に、両親の家にかかってきた電話のことと、その電話の主が母から私の住所を聞きだしていたことを伝えた。一瞬の沈黙のあと、セルマは言った、「家から出なさい」。

  ぞっとして私は受話器を置くと、ドアのところへ駆け寄り、覗き穴から外の様子をみた。私たちの家はウエスト・ハリウッドでは典型的な、中央にプールのある中庭つき住宅だった。覗き穴からは誰の姿も認めることはできなかったが、私の視界は限られていた。

  心臓をドキドキさせながら、私はホールを挟んでほんの数フィートのところにあるお隣のハーンさんの家の戸口に駆けていった。戸を叩くと、年配の女性がすぐに私を中へ入れてくれた。

  震えながら私は彼女にこれまでの事情を説明し、電話を貸してくれと頼んだ。まず私はUCLAにいる夫と連絡を取ろうとした。管理課、警備課、総合案内…と順にダイアルを回した。20分後、私は大学の警備課の人から、フレッドが正確にどの教室にいるのかが分からないかぎり、授業が終わるまで彼と連絡を取ることはできないと伝えられた。ハーン夫人は私に心配しないでと言った。私はフレッドが帰宅するまで彼女の家に居られることになった。

  すると今度は、電話主がフレッドに危害を加えるのではないかと不安になった、そこで私たちは、家のドアの下からフレッド宛ての伝言を差し入れておくことにした。ハーン夫人は私についていくと言ってくれた。私たちは文字通りに家から駆け出し駆け戻り、フレッドへのメッセージを残してきた。

  続いて私はウエスト・ハリウッドの保安官事務所に電話をかけ、当直の保安官に事情を説明して、パトロールカーをよこしてくれるように頼んだ。私は保安官から、実際に私がなんらかの迷惑行為を受けているのではないかぎり、彼らのほうから人員を派遣することは出来ないと知らされた。呆然として私は返事をした、「もし彼が私を殺しにきたらどうするんですか?」

  保安官は私に、この種の電話はメディアに出るような人間にとってはよくあることなのだと言い聞かせた。たいていの場合、電話の主は単にファンレターを送るための住所を知りたがっているだけである。この電話の主が危険人物である可能性は僅かなものです、そう彼は説明した。受話器を置いた時までに私はすっかり安心して、これまでの一部始終にばつの悪い思いをしかけたくらいだった。それでも私はハーン夫人の家に留まっていた。

  11時にフレッドが帰宅して、ハーン夫人の家に私を迎えに来た。安全な我が家のなかで、私たちはどうすべきかを話し合った。悲観的な結論へ飛びつくことは二人とも望んでいなかったが、ある種の危険性の要素が含まれていることは明らかだった。

  フレッドは空手の黒帯の三段で、私たち二人をともに危害から守る彼の能力に私たちは信頼を置いていた。とはいえ彼が夜昼となく私のそばについているわけにもいかない。私たちは代替案を考える必要があった。

  引っ越すことについても話し合った。しかしフレッドと私はこの家が好きだったし、家を出ることは性急かつ早急にすぎる判断だと思われた。友人に頼んでしばらく彼らの家に滞在させてもらうことも考えたが、誰だかも分からない電話主のせいで私たちがまんまと離れ離れにさせられるという考えは、私たち二人のどちらにとっても腹立たしいものだった。

  疲れ切ったフレッドと私は、しばらく休んで朝になってから事を決めることで同意した。6時間後に私たちが目を覚ましたとき、前夜の出来事は差し迫った現実の脅威というよりは一場の不快な夢のように思われた。私たちはそのことで実際にお互いをからかい合ったりもしたけれども、私たちの笑いの下には不安が潜伏していた。私たちは、フレッドが家から私の車までと車から家までの間を私に付き添うようにすることと、彼が家にいない時はハーン夫人の家かほかの友人の家に私がいるようにすることを決めた。

  その朝の歌の授業の終わったあとで、私は教授に起こった出来事を話した。教授は私に、事務局に行ってファイルから私の出欠記録を取り外し、誰かがそれを利用して私の行動を追跡できないようにすることを奨めた。電話主が大学に勤めているか出席している誰かだということはあり得ることだった。すぐさま私は事務局に赴いた。音楽科の責任者はとても理解のある人で、ただちに私の記録を外させてくれた。

  授業のたびに、私は一人か二人の人に私のことを見張っていてくれるようにお願いした。その日の午後までに、私は少なくとも大学にいるあいだは安全だと感じるようになっていた。

  その週の終りまでのあいだに、なにもおかしなことは起こらなかった。フレッドと私はともに、たぶん私たちは過剰に反応し過ぎていたのだと思い始めていた。結局のところ――私たちは自分自身に言い聞かせた――電話の主は私の電話番号と住所を知ってから5日間のあいだ、私に接触しようとするいかなる試みもすることがなかった。日中のほとんどを家で過ごしているハーン夫人は、建物の入り口を注意深く見張り続けてくれていた。フレッドと私は、外出するときはいつも中庭や車庫や路地をチェックしていた。私たちの誰ひとりとして、不審な人物を見かけるようなことはなかった。

 

* * *

 

 母のもとに電話があってから一週間後、私はロサンゼルス・シティー・カレッジの音楽の授業に行くための支度をしていた。フレッドは今日の君は素敵だよと言ってくれた。私は自分の陽気な気分に合わせてマリンスタイルのシャツと赤白のストライプのセーラーブラウスを身につけていた――気分は上々だった。私は数日前にオーディションを受けたHill Street Bluesへのゲスト出演の役を得られるものと確信していた。そして私は二日前に教会へ行き、怖がることなく日々を生きていくと誓っていた。

  私が持っていく本を集めていると、フレッドが私に、車まで付き添っていくから服を着るまでしばらく待っていてくれと頼んできた。私はフレッドにキスをすると、ベッドで休んでいてと彼に言った。外出する前に私が彼に言った最後の言葉は、「心配しないで、私はだいじょうぶだから」だった。

  10時少し前に私は家を出た。明るい、お天気の日だった。入口の門をくぐって正面の階段を下りていくとき、私は自分自身に向かって「私はなにも恐れないし、いかなる危害も私のもとに振りかかることはない」と断言していた。

  私の車は隣家の建物の前の通りに停めてあった。私がドアにキーを差し込んでいたとき、声がして、それ以来ずっと私の心のなかにこだましているあの言葉を言った――「テレサ・サルダナですか?」。私はあたりを見回し、一人の人物が私のすぐ左にいるのを見た。

Beyond Survival - Chapter 1 The Attack 2/2

 直観的に、私はこの男が電話の主だと気づいた。答えることなく私は走り出そうとしたが、彼は万力のような力で私を鷲掴みに捕らえた。それと同時に彼は肩から掛けていたバッグに手を伸ばし、頭上高く腕を振り上げた。

  ぞっとする刹那のなかで、男の拳に5インチのキッチンナイフが固く握りしめられているのを私は恐怖のうちに凝視した。私が動こうとする前に、男は私の胸にナイフを深々と突き刺した。

  男の体を引き離そうとする私の口から叫び声が迸り出た。しかし彼は私の体を何度も刺した。世界がぐるぐると回り始めた。私は自分自身が文字どおり引き裂かれていくのを感じていた。

  「殺される、殺される!(He's killing me!)」、私は自分がこれらの言葉を繰り返し叫んでいるのを聞いた。人々が通りに出てきたのを私は感じたが、私を救うために近づいてくる人は誰もいなかった。

  私は加害者に蹴りを入れると、両腕で彼の振り下ろす刃をブロックしようとした。けれども間断なく続く彼の攻撃を止めることはできなかった。

  この凶悪な攻撃はもちろん肉体的に耐え難い苦痛だったが、私が覚えているもっとも鮮烈で恐ろしい記憶は、肉体的な苦しみではなく心理的な苦悶からくるものだった。私は生涯にわたり決して、私が加害者の目を覗き込み、彼の意志が私を殺害することだと悟ったときに感じた言い知れぬ恐怖を忘れることはないだろう。

  「殺される!殺される!」、私は叫び続けた。それでも助けに来る人はなく、男のナイフが私の体を繰り返し切り裂いた。

  ついに私は左手を伸ばし、ナイフの刀身をつかむことに成功した。しかし私が刃を強く握りしめても男はかまわずナイフを振り下ろし続け、腱を、神経を、筋肉を切断していった。

  その肉体的な責め苦にもはや耐えられなくなった私は刃身を手放し、再び刃が私を刺し貫くのを感じた。

  私の力の最後の一片が私のもとから逸し去りつつあるかに思えたその時、私は見上げる視線の先に天使の姿を見た。加害者の背後にいるのは、背の高い、美しいブロンドの男性だった。まるでスローモーションのように、私は彼が加害者を私から引き離すのを見た。

  私は地面に崩れ落ち、10秒ほどのあいだ動かずにいた。そのとき、加害者が再び私を刺しに来るという絶望的な恐怖に私はとらえられた。突然の恐慌が私の脚に電撃を加えた。どうにかして私は、家に向かってよたよたと歩いていく力を見つけ出したのだ。

  視線を落とすと、私の服が真っ赤に染まっているのが見えた。血はまさしく私の体に穿たれた穴から流れ出しているようだった。よろめきながら歩いていると、おぞましい音が聞こえてきた。呼吸のたびごとに胸の傷から血液が吹き出し、ズルズルと音を立てていたのだ。本能的に私は右手で傷を押さえると、自分の流した血で滑りながら階段をふらふらと上っていった。

  門をくぐり、人気のない中庭にまで来たとき、私は圧倒的な悲しみと孤独の感情に呑み込まれていた。私は、隣人たちの何人かが窓から私のことを見ているのを感じていた。しかしそれでも彼らは私を助けに出てくるリスクを冒そうとはせず、私が血を流して死んでいくさまをまさに彼らの眼前でほしいままに享受しながら、恐怖のうちに身を潜ませていたのだった。私は血だらけの腕を上げ、隠れている顔に向かって泣き叫んだ、「助けて。死んでしまう」。

  私が倒れそうになったとき、フレッドが家から走り出て、私を腕に抱きかかえた。彼は叫んだ、「誰が君にこんなことをした?」

  「よ」、私はつぶやいた。

  フレッドは私を家に運び入れ、ドアを開けてすぐの所に私を横たえた。半狂乱で彼は病院と警察に通報した。

  私の肺は完全に壊れていて、私は空気を求め格闘していた。何度も何度も私はつぶやいた、「もう死ぬわ」。

  フレッドは言い続けた、「いや、そんなことはない。君は良くなっているよ」。

  隣人のジョーが入ってきて、私の傍に跪いた。加害者が戻ってくるのではないかと考えたフレッドは、私とジョーを残して外に出ていった。家の前に駆け出した彼は、犯人が既に保安官の車の中にいるのを見つけた。

  フレッドが戻ってきたとき、彼は私が静かに唱しているのを聞いた。「私は家族を愛します。私は主を愛します」。しかし、痛みは私をとらえてはなさなかった。あまりにもそれは激烈で、私は死に向かって祈りを捧げているようなものだった。私はじゅうぶんに息を吸うことができず、自分が窒息しつつあるように感じていた。私の肉体は機能停止の途上にあった。死が一歩一歩、不気味に迫ってきていた。それでも私は必死に空気を求め、喘ぐたびに私の肺がごぼごぼ、ざあざあと音を立てるのを聞いた。

  私の目は上方に向けられていた。高いところに架かる白い天井を私は見つめていたが、私の視界はそこで終わりではなかった。私は未来の光景を見はじめていた――あらゆる苦痛が終わりを迎える未来の時の。不意に私は、ここで起こった一部始終と、私がいま耐え忍んでいるいっさいの向こう側にいる自分自身を感じたのだ。といってもこれは「体外離脱」体験のようなものではない。私はなおもそこの床の上にいて、おびただしく血を流し、名状しがたい苦悶のなかにあった。しかし私はどうにかしてこれらすべての事柄の向こう側を見はるかし、やがてこの苦痛にも終わりが来ると知ったのだ。苦痛の終りが死を意味するものなのか、その時の私は知らなかったし、気にもしなかった。ただ、それが永遠に続くものではないと知ったことで、肉体的な苦しみはなぜかしら耐え得るものになっていったのである。

  数瞬が経つあいだに、私はますます弱っていった。いまや隣人たちが何人も周りに集まってきていて、彼らが私のことを見やるしぐさから、私が死につつあると彼らが信じているのがうかがわれた。ひとりの少女が私のもとにかがんで口移しの蘇生術を施しはじめたが、心肺蘇生術の経験のある別の隣人が止めるようにと彼女に言った。彼女が唇を放して顔を上げたとき、彼女の口が私の血で覆われているのを私は見た。

  フレッドは私の胸の傷の上にまくらカバーを掛けていた。そのパステルピンクの色はいまや鮮やかな赤色に染め上げられていた。

  私の目は上方を見続けた、私の唇は「私は家族を愛します。私は主を愛します。私は死んでいきます」の言葉を唱え続けた。この時点で私の呼吸はあまりにも浅くそして苦しくて、私はもう自分が長くないだろうと思っていた。

  不意に救急救命士たちがドアを荒々しく押し開けて入ってきた。そしてフレッド以外の皆にこの場を立ち去るように命じた。緊張感に満ちた大声が部屋のなかに響き渡った。医療チームが私の上にかがみこんで、酸素マスクを私の顔にあてがった――なんと素晴らしい解放感。ほとんど魔術のように、酸素が私の感覚を一新した。痛みは強烈なままだったけれども、襲撃以来はじめて私は自分がこの危機を切り抜けられるのではないかと感じた。

  私の服のほとんどを切り取りながら、救命士たちは一箇所、また一箇所と傷を見つけていった。新たな傷が見つかるたびに、一人がパートナーに大声で簡単な状況を伝え、パートナーはシーダーズ・サイナイ・メディカルセンターに無線で情報を回していた。傷は10箇所に及んでいた。

  救命士たちは私にtrauma suitなるものを着せた。ゴム製のパンツのようなもので、膨らませると、血流を私の肢から重要な器官へ強制的に送り込むしくみだった。私は自分が心臓を刺されたと思っていた。救命士たちの会話から、彼らもその可能性を考えていることが分かった。

  永遠に思える時間のあとで救急車が到着し、私はサイレンの叫びとともにシーダーズ・サイナイに搬送されていった。救命士たちは車内での作業のために1インチの空間でも必要としていたので、フレッドが私といっしょに乗車することは許されなかった。

  私の体は救急車の激しい揺れによって何度も突き動かされていた。体じゅうが苦悶の悲鳴をあげ、私は痛みそれ自体が私を殺してしまうのではないかと恐れた。それでも私は生の最後の面影にしがみつき、気を失うことは死を意味すると感じて、なんとか意識を保とうと奮闘していた。

  激しいブレーキの音を立てて車がシーダーズ・サイナイに停まった。瀕死状態を意味する「コード・ブルー」の叫び声があがった。私は手術準備室へとつうじる廊下を運ばれていった。

  医師と看護師のチームが私の命を救うための作業をはじめた。傷は広範囲にまたがっていたので、医師たちは私の体を文字通り、個々のセクションごとに受け持たなくてはならなかった。奇妙な眺めだった。一人の医師は私の足を担当し、もう一人は胸を、別の医師たちは腕を担当した。

  こうした処置が施されているあいだ、私はどうにかこうにか意識を保ち続けていた。私は周りにいるひとたちに休みなく話しかけていた、これが私の最後の言葉になるかもしれないと思いながら、また、実際に何が起こったのかを誰かに知らせることの止むにやまれぬ必要性を感じながら。

  「彼は私を殺そうとした……殺そうとした……殺そうと」、私は彼らにささやいた。私は、加害者が単に私を傷つけるだけではなく私を殺害しようとしたのだということを彼らに知らせることが重要だと感じたのだ。看護師たちは私の肩を軽く叩き、もう安全だからと言った。

  何度となく私は医師や看護師に私は死ぬのかと尋ね、彼らは繰り返し、あなたはきっとこれを乗り越えられますよと私に保証した。でも彼らの顔に浮かぶ表情や声にこめられた悲しみは、彼らの言葉に背いていた。

  私の右腕の治療を行っていた医師が、これから手術を行うことになると私に告げた。皆が驚いたことに私はそれに対して、どうか私の目のコンタクトレンズを外しておいてと頼んでいた(あとで彼らは、このことが私を角膜の損傷から守る結果になった可能性が高いと教えてくれた)。

  私の胸の傷の処置をしていた医師が、これから非常に苦痛を伴うあることをしなくてはならないと知らせてきた。私の考えでは、苦痛がこれ以上ひどいものになることなどありえないと思っていた。私は間違っていた。

  医師が太い中空の金属製パイプを、私の体の左側から直接私の肺に挿し込んだ。ショックを受け、苦痛に目がくらんだ――こんな痛みがこの世に存在するとは考えたこともなかった。私はもう弱り果てていたが、それでもつんざくような叫び声をあげた。それから、消耗しきって、このいっさいの拷問はいつかやがて終わるのだと自分に言い聞かせていた。

  手術に向かおうとしていたその時、一人の看護師が私のそばにかがんで、「なにか望むことはありますか、テレサ?」と涙ながらに尋ねた。その時私は、彼らがみな私が死ぬものと思っていることに気が付いた。私はつぶやいた、「両親に会いたい」。

  それから間もなくして彼らは私を手術準備室から廊下へ運び出した。フレッドが私のもとに駆けよってきて、私にキスをして言った、「愛してるよ。きっと良くなるよ」。私は手術室へと台車で押されていった。

  執刀医に対面したとき、私は彼の目を見てこう言った、「私は女優です。どうか傷の処置は慎重にお願いします」。彼はベストを尽くすと約束してくれた。

  それから麻酔師が「すぐに眠くなります」と言った。不意に痛みが消え、私はどこかへ流されていった。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 1/7

第2章 その後(原書10~44頁)

 手術は4時間半にわたって続いた。シーダーズ・サイナイの集中治療室で目を覚ましたとき、私が見たのは光の万華鏡だった。混乱した私は麻酔薬で曇った心を晴らそうと努力した。視点が定まったとき、私は若いブロンドの看護師が一人、私のそばに背中を向けて立っているのを見た。

  私は自分の周りの奇妙な光景に見入った。私の肉体のあらゆる部位からチューブが突き出ているようだった。顔の大半はゴム製の酸素マスクに覆われ、私の背後でブンブンと音を立てる数え切れない機器に私はつながれていた。

  安堵の波がどっと押し寄せてきた。「私は生きてる、生きてる、生きてる!」、その思いが私のなかを駆け巡った。殺風景な白々とした病院の一室に「生きて」横たわっていることが、私には途方もなく紛れもなく素晴らしく幸福なことだった。

  だがすぐに、痛みが恐ろしい強さで私を鷲掴みにした。呼吸のたびごとに、胸が裂けてしまいそうに感じられた。私は泣き叫ぼうとしたが、弱々しい、乾いたうめき声をあげることしかできなかった。それでも看護師は声に気づいて私のもとに駆け寄り、デメロールの投与を行った。注射はほとんど即座に効果を発揮した。もっとも、痛みは薬物によって鈍らされたマスクの下にわだかまっていた。それはこのあと何カ月ものあいだ、そこにとどまりつづけることになった。

  私は自分の状態をなんとかして知りたいと思った。たいへんな苦労をして、自分の体が見えるくらいにまで頭を起こした。そこで目に入った光景の恐ろしさにぞっとして、私はベッドに沈み込んだ。

  私の両腕は長い木製の板に取り付けられ、私の体は血の滲んだ包帯で巻かれていた。体の上にゆったりと掛けられた一枚の薄い白い布の下はまったくの裸だった。私の手や指には添え木が当てられ、包帯が巻かれていた。静脈という静脈には輸血や点滴の管が挿入されていた。私の脈打つ四肢は持ち上げられ、枕で取り囲まれていた。腕をこんな風に十字架風に広げて、体を血の包帯で覆われて、私はまるで不気味な磔のいけにえのようだと思ったことを覚えている。

  看護師のほうに顔を向けて私は弱々しくつぶやいた、「先生はどういう処置をなさったんですか?」。彼女はアレクサンダー・スタイン先生が行った手術のあらましを説明して、それがどんなに特別なことなのかを私に教えた。スタイン先生が私の一件を知ったとき、彼は精根尽き果てるような7時間の手術を終えたばかりだった。呼び出した執刀医はまだ着いておらず、私は大量の内出血を起こしながらそこに横たわり、死の淵を漂っていた。そこでスタイン先生は私の命を救うために手術室にすぐさま戻ったのだった。

  胸部外科手術を行わねばならず、ドクターは私の胸を鎖骨のすぐ下のところで切り開き、胸骨にそって縫い合わせた。この処置は、看護師が教えてくれた、犯人のナイフによって4箇所に穴を空けられた左の肺を治すために必要なものだった。私はいま、なぜ自分が「引き裂かれ」つつあるかのような奇妙に引っ張られる感覚を感じているのかを理解した。

  私は何度も何度も、「彼は私を殺そうとした」とささやいた。肉体的な痛みにいま強い感情的な苦痛が加わり、目を覚ましてからはじめて私は泣いた。むせび泣いたりすることは、痛めつけられ縫い合わされた私の肺を損なうことになるので、私は声をあげずに鳴き、涙が私の顔を伝い落ちた。それから私は、投与された薬とすさまじい消耗との複合効果で、しばしの眠りについた。

  次に目を覚ましたとき、私の精神状態はまったく変わっていた。痛みを伴わない眠りによって一新され、とにもかくにも生き延びたことの非常な幸運に、私の気分は突然高揚した。私が生きているのは主の、犯人の凶行を止めてくれた男性の、執刀医のおかげだと私は感じた。静かに私は彼らに感謝を捧げた。

  扉の向こう側の声によって私の考えは中断した。フレッドが狭い部屋に入ってきた。彼は私の頬にやさしくキスをして、一瞬、沈黙のうちに私のことを見つめた。私のこの、逞しくて、普段なら活力とエネルギーに満ち溢れている夫は、青ざめ、震えて、悲痛に押しつぶされている様子だった。傷を負ったのが私だけではないことはもはや明らかだった。

  彼は、私の両親がニューヨークからの一番早い便でこちらに向かっていて、あと1時間ちょっとで病院に着くことになっていると知らせてくれた。私は二度と両親に会うことのできないまま死ぬことをずっと恐れていた。安堵の念でいっぱいになって、私は彼らの到着が待ちきれなかった。

  ロサンゼルス保安局のカラス刑事がホールで待っていて、私にすぐ会いたがっているとフレッドは言った。質問に答えられるような状態には程遠かったが、面会は必須のものだと刑事は考えていると言う。しばらくして、看護師が刑事を連れて入ってきた。

  「彼は私を殺そうとしたんです」、しわがれた声で私は繰り返した。私はカラス刑事に、それがただの傷害ではなく意図的な殺人であることを理解してもらおうと必死だった。

  穏やかな口調でカラス刑事は私に教えた、スコットランドからの移民だと称している犯人は、映画に出ている私を見て私に狙いを定めたのだと。彼の携帯品から日記が見つかり、そこには「私を天国へと送る」ために私を殺害するという狂った計画が詳細に書かれていた。彼はその後は「天国」で私と一緒になるために、処刑されることを望んでいた。

  日記によると、犯人は私を、このおぞましく邪悪な世界に生きるにはあまりに愛らしく、あまりに善良な「美しい天使」だと思っているのだった。

  カラス刑事は私に、日記に含まれている記述のサンプルをいくつか示した。私は数語を読むのがせいいっぱいだった。手書きの字は異常に小さく、私の定まらない視点の前で文字が踊っているようだった。そもそも私は、私に対するこの身の毛もよだつような計画の、文字に記された明白な証拠を見ることを恐れていた。私は顔を背け、拒絶した。

  刻々と気力が弱っていくなかで、私は刑事に彼が求めている詳細を伝えようと努力していた。ほとんどの質問には間を置かず答えることができた。しかし私が襲撃のもようを思い出したとき、そのイメージが私を動揺させはじめた。

  私の苦痛を察知して、カラス刑事はどうしても必要な件だけを尋ねると、万事は抜かりなく進んでいますとフレッドと私に請け合い、去っていった。

  刑事が扉の向こうに消えるとすぐに、私はまた「彼は私を殺そうとした!」を繰り返し始めた。その文句を唱えている最中、襲撃のもようの鮮明なフラッシュバックを私は体験していた。それはあまりにも生き生きとして仔細に富んでいて、私は自分が本当にウエスト・ハリウッドのあの通りに連れ戻されたのだと信じていた。私はすすり泣き、うめき、助けを求めて叫んだ。看護師たちが入ってきて、私がヒステリーで自分自身を傷つけないように、強い鎮静剤を注射した。それは、長期にわたる回復期間のあいだじゅう私を悩ませ続けたフラッシュバックの最初のものだった。

  両親が着いたとき、私は薬のもたらした無気力状態からは脱していた。彼らが私の状態に心臓がよじれんばかりのショックを受けていることは、草臥れ果てていた私でもすぐに分かった。後に彼らは、苦悶のなかで彼らのことを見上げていた窪んだ暗い目と、その時に彼らが感じた言いようのない絶望を私に話してくれた。

  ベッドに近寄ってきた彼らに私が投げかけた最初の言葉は、「心配しないで。私が感じているよりも、見た目のほうがだいぶ悪いの」だった。彼らは私にキスして、頬に、額に、切られたりひどい傷を負ったりしていない上腕のわずかな部分に触れた。

  涙を必死にこらえようとする彼らの顔は青ざめていた。本能的に私は、どうか泣かないでと彼らに願った。私の周りの人たちが楽観主義の少なくとも幻のようなものを見せてくれているかぎり、私はどうにか自分を保っていられそうだと感じていたのである。

  私が両親に望んでいたのは、もっぱら私の世話をしてくれることだった。それはこのあと長く続く子供のような依存状態への回帰のはじまりだった。

  母のディビーナはベッドサイドで私のことをずっと見守っていた。5フィートにも満たないこの小柄な女性は聳え立つ精神的支柱だった。母は私に一瞬たりとも、私が死んでしまうのではないかと彼女が思っているのを悟らせるようなことはなかった。彼女はいつでも献身的な妻であり母であり、他人の世話をすることに喜びを覚え、またそのことで自分も大きくなっていく女性だった。

  襲撃の後につづく月日のなかで、母の主への信仰とひとびとへの信頼は過酷な試練をくぐり抜けることになった。彼女は悲嘆と苦悩に引き裂かれた。普段なら明るい彼女の眼は悲しみに曇っていた。母が再び微笑み、笑うことができるようになるまでには1年以上の歳月が必要だった。

  父のトニーもほとんど毎日のように訪ねてきてくれた。物心ついたときから私は、ハンサムで優しい父の応援と、彼が私においている信頼とを頼りに生きてきた。私がステージに立ち始めたとき、父はすべてのショーを見に来てくれた。ダンスホールのバレー・リサイタル、学校のタレントショー、地元の劇団、そして最後にニューヨークのプロの劇場。彼は決して多くを言わなかったが、彼の顔に浮かぶ誇らしさ、喜ばしさは、私がやっていくうえでの励みだった。

  襲撃のあとの試練の日々の中で、父の私に対する静かな信念が、私に必要とする力を与えてくれた。私が回復するということについて彼が抱いている自信は伝染性のものだった。私が回復への道のりをほんの少しでも踏み出すときはいつでも、父の暖かなハシバミ色の瞳が私を見つめていた。

  しかし、訪問の際に見せる自信にもかかわらず、父は心のなかでは苦痛と怒りに押し拉がれていた。父の髪は2週間のうちにすっかり灰色に変わってしまった。

  襲撃後の数週間、私は一人でいることがまったくできなかった。部屋に一人きりでとどまることをただほのめかされただけで私は動揺し、完全なヒステリー状態にすら陥った。看護師のなかには、私が常時の付き添いを求めることを、自分が置かれているたいへんな状況に甘えての子供じみた要求だと言う人もいた。本当のところ、誰かに囲まれていたいという私の切なる願いは、すべてを圧する制御不能の恐怖から来るものだったのである。私は魂に誓って、もしも自分が一人きりにされていたら死んでいただろうと思う。

  私は襲撃後の最初の数日間を集中治療室で過ごし、生きるためにたたかっていた。痛みは毛布のように私を取り巻き、デメロールの投与から次の投与までのあいだを私はかろうじて持ちこたえていた。

  次回の投与に到る最後の半時間までに、私ははじめは静かに、それからだんだん大きな声でうめき始めた。時が経つにつれて私は泣きっぱなしになり、私のうめき声は動物のようなキャンキャン、クンクンいう小声に置き換わった。ついに私は、次の投与を予定より少し早めてくれるよう看護師に懇願する手に出た。時には私のみじめなありさまが彼らの説得に功を奏することもあった。もしもこの激しい苦痛の最中に動くことができたら、私はベッドから飛び降り、近くのトレイに置かれた注射器に手を伸ばして自分で注射していただろう。

  母はいつも私のそばにいた。私が自分の体の傷のことで泣いたり心配したときは、こう言って強く私を諭した。「テレサ、あなたの顔は今でもとても美しいわ。そのことで主に感謝なさい!」。母は包帯をあてがい、私の手を握り、穏やかに私に話しかけ、私がいっさいを耐えるための力を授けてくれた。彼女は私が感じているよりもなお強い痛みを感じていたと私は思う。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 2/7

 ICUでの2日めまでに、私は周りの環境にだんだん注意を向けるようになった。小寝室に毛が生えたていどの広さの私の部屋は、生命維持装置や医療機器でぎゅうぎゅう詰めになっていて、一人の人間が私のベッドサイドを歩くことのできるスペースがかろうじて残されているだけだった。面会が許されているのは私の身内だけだった。フレッド、私の母、そして父。

  部屋にあるもので私を最も惹きつけたのは、私の体がつながれている不思議な器械の数々だった。ブンブンとドローン調の唸り声をあげて、彼らは私よりも生命感に満ちた鼓動を奏でているようだった。

  私は動くことができなかったが、私に対する医療手当はしょっちゅう行われた。血が採られ、注射がされ、検査が行われた。それらすべてが不快感をもたらし、多くは極度に苦痛だった。一日二度の胸部X線はなかでも特に耐え難いものだった。小型のX線装置が部屋に運び込まれ、二人の看護師が私の体を持ち上げ座位をとらせた。胸の傷と手術の切り口の痛みが私をほとんど狂わさんばかりだった。ロボットみたいな見た目でたくさんのダイヤルのついたX線装置が運び込まれるたびに、私は自分がイカれた儀式の人身御供に供されつつあるかのように感じた。

  それよりなお悪いのは、看護師がベッドを整えるために私に寝返りを打たせる毎日のルーチンだった。体を押し動かされることによって、涙を流し、うめき、悲鳴をあげてしまうほどに私の傷は痛めつけられた。百か所以上にのぼる手術の縫い目のひとつひとつがはじけ開くのではないかと思われるほどだった。時には体の動きが手術の縫合跡から実際に血が滲んでくるほどの支障をもたらすこともあり、それが私を怖れさせた。何度も何度も、私は自分の体が引き裂かれようとしている感覚を覚えた。

  夫は私への医療処置が施されているあいだもしばしば部屋にいた。彼は黙ってそこに座っていて、私が感じていると彼が知っている痛みを憎悪していたが、それを止めさせることはできなかった。私はフレッドが深く悩み、苦しみ、困惑しているのを感じていた。彼は憂い、感じ、傷ついた。しかしすべては彼の裡に封じ込められていた。皆は私を生かし、回復させることに忙しくて、彼の味わっているひどい憂鬱が顧みられることはなかった。 

  感情面では、私は劇的な上げ下げの波を経験していた。気分の浮き沈みは毎時間ごと、場合によっては毎分ごとの周期で揺れ動いた。時として私はとにかく生き延びたことで高揚した気分になり、完全な回復への希望に満ち肯定的だった。そんな時の私は、女優としての復帰を果たし自分が生きていると世界に知らしめることについて、あれこれとしゃべり続けていた。

  それからほんの数分ののちに私は憂鬱と絶望の泥沼に沈み込んでいき、肉体的、精神的な痛みが私を翻弄するがままにさせていた。無力感と怒りに囚われながら、私は自分の体のなかで唯一動かせる部位である頭部を前後に揺すっていた。

  私の命を救う手術を執刀したスタイン先生は、この騒乱の時期にもしょっちゅう姿を見せた。彼は私を頻繁に検査し、体の状態のいかなる変化も私の家族に報告した。彼の皮肉っぽい英国風のユーモアのセンスが私の緊張を和らげるのに役立った。スタイン先生は私をからかうのがお好きだった。彼は私の示すいかなる自己憐憫の兆候も好ましからざるものだと考えていて、私の方で前向きな能動的なアプローチをとることを求めた。私がもっとも落ち込んでいるときでさえも、スタイン先生はたいてい私から笑顔を引き出すことに成功していた。

  ある日彼は、ゴディバの小さな箱詰めのチョコレートがどれほど美味なものであるかを私に語っていた。ならばご自分で食べてみればと私が薦めると、彼はたちまち8個のチョコレートをすべてむさぼり食い、「すばらしく美味いお菓子ですよこれは」と言って私にウインクし、部屋を出ていった。半時間のあいだ私は笑いが止まらなかった。

  別のある日、私はスタイン先生に向かって、私の身に降りかかったことで病院の人たちが私のことを気味悪がっているのではないかという不安を口にした。顔色ひとつ変えずに彼は言った、「まあそれは馬鹿げた杞憂でしょうね。うちの医師たち全員にあらかじめ意識調査をしたところによると、彼らはみな、刺傷事件の被害者はセクシーだしミステリアスでもあると思っているという結果が出ていますよ」。すぐれた外科手術の技術を持っているだけでなく愉快な人でもあるお医者さんに受け持ってもらったことを私は幸運だと思う。

  新たな恐怖がしだいに私のなかに巣食い始めた。私は犯人がどうにかして脱走し、私を殺すため病院内に潜んでいると信じるようになっていったのだ。私を守るため非常に厳重な警備体制が敷かれていることを皆が請け合った。それでも私の恐怖は抑えがたいものだった。新しい男の技官や用務員が部屋に入ってきたときはいつでも、彼が病院に元からいたスタッフだと私を説得して確信させるまでのあいだ、私は恐怖に震え、赤ん坊のようにすすり泣き続けた。

  ある時、カトリックの牧師が私に恵みを授けるためにやって来た。私が良き手のもとに委ねられていると信じて、両親もフレッドも部屋を後にした。私は背の高い、がっしりした体格の牧師を見上げ、聞き取りにくい外国訛りで彼が祈りの言葉を詠唱するのを聞いていた。彼は虚空で手を動かし十字を切った。そのちょっとした動きが私のなかの何かの引き金を引いた。パニックに囚われて私は思った、「この人は牧師じゃない!私を殺しに来ている!」。私は何としてでも彼から離れなければならなかった。ベッドの彼からもっとも遠い側へと這いずっていった。私の苦悩を察知して、牧師は私のほうにいっそう身を乗り出し、私を祝福するため腕を振り上げた。彼が拳で私の胸を殴ろうとしていると心底確信して、私は助けを求める悲鳴を上げた。家族と看護師が部屋に駆け入ってきた。善意の牧師も含めた全員がすっかり困惑していた。

  私はすすり泣くことしかできなかった。「出ていってもらって。怖いの。お願い、お願い、彼に出ていってもらって」。牧師は私の恐怖を理解して、静かに立ち去った。

  後で私はその牧師さんに申し訳なく思った。私のふるまいは間違いなく彼を当惑させただろう。ただ私は自分の反応をどうにも制御することができなかったのだ。

  通常、鎮痛剤を処方されてから最初の一時間のあいだ、私は自分の心情を両親やフレッドと、私の治療をしている医師や看護師とさえも話し合うことができた。私はいつでも人と話すことを好み、よい会話によって刺激を受けていた。結局のところ、話すことを求めることはひとつの有効な治療手段だったのだ。私は自分の差し迫った恐怖や不安の感情を取り上げ、それについて他人と話し、そしてその後、安心感を得た。しかし私は、私が直面しているような種類の問題には良い話の聞き手以上のものが求められていることにも気づき始めた。私は専門家の助けを必要としていた。そこで私は精神科医に会わせてくれるように頼んだ。

  シーダーズ・サイナイの3日めから私は精神科研修医のポール・ジョセフ先生の訪問を受けた。私たちは週5回面会した。彼との面談はかけがえのないものだった。彼らなくして、私の心理面での回復がこうも迅速に完全に進むことはなかっただろう。

  さまざまな問いが私を襲った。「なぜ私なのか?このことはどのようにして起こったのか?主は私を見守っているのではなかったのか?私はまた人を信頼できるようになるのか?この怪物的な殺人嗜好者のような人物を擁するおぞましい世界に戻るがだけのために、なぜ私は苦労して回復に努めているのか?私は再び通りを歩けるようになるのか?私は完全なノイローゼになってしまうのか?私はそもそも生きていけるのか?」。私の肉体はまともに働かなかったが、私の心は問うことを決して止めようとはしていないようだった。

  ICUでの3日めに、スタイン先生が空気ポンプのように見える青色のプラスチックの器械を持ってきて、これは肺を強くするためのものだと説明した。私の胸は全域にわたって激しい痛みのなかにあったので、おのずと私の呼吸はごく浅くなった。このことが私を肺炎の第一候補者にしていた。器械のマウスピースを通して深く息を吸い込むようにとスタイン先生は言った。吸い込んだ空気が小さなボールをプラスチックのシリンダーのてっぺんまで持ち上げる。私は毎時間、ボールを少なくとも10回、一番上まで持ち上げるように言われた。

  しかし、私が器械に向かって息を吸ったり吐いたりするたびに、刺すような痛みが肺や胸に走った。すぐに私は「おもちゃ」――と私たちはその器械のことを呼ぶようになっていた――を見たり、ただその話をするだけで、泣き出してしまうようになった。

  そして課題そのものが私をフラストレーションで涙ぐませるようになった。できるかぎり深く息を吸い込んでみても、ボールは持ち上がるどころか、ピクリとも動かなかったのだ。

  スタイン先生は再三にわたって肺炎の危険性を私たちに警告した。フレッドと私の両親は私に懇願し、頼み込み、甘い言葉で私を諭した。私はより深く呼吸しようと必死になった。ようやく私はボールを動かし、ついにそれを数インチ浮かび上がらせることができた。しかし何度試みても、ボールをてっぺんまで持っていくことはできなかった。

  子供の頃から私は強い意志を持ち、目標を目指して進んでいく性質だった。そのボールを動かせなかったことは私を敗者の心境にし、私の自信を打ち砕いた。私は課題を、痛みを、自分の無力さを、そして何よりも、この見たところ些細な仕事を成し遂げるのに自分が失敗したことを憎んだ。

  二日のうちに私は肺炎にかかった。痰の塊が肺のなかに留まっていて、私がそれを深く咳をすることで排出させられないかぎり、医師たちはひどい苦痛を伴う処置を私に施さなければならないことになった。胸から肺に挿入した道具で痰の塊を取り除くのだ。その宣告が私を凍り付かせた。

  熱と恐怖に苛まれながら、私は何度も咳を繰り返した。そのたびに、金属板とともにワイヤーで留められた私の癒えていない胸骨がひび割れていくかのように感じられた。私は泣き、母は狼狽し、父とフレッドはどうすることもできず青ざめてその場に立ち尽くした。熱は40度にまで上昇した。もはや選択の余地はないと医師たちが言った。処置を施さなければならなかった。

  この知らせを聞いて私は抑えようもなくむせび泣いた。泣いたことがさらなる痛みを引き起こし、ひどい咳の発作へと私を誘い込んだ。ありがたいことに、あまりにも激しい咳がついに異物を私の肺からはじき飛ばした。鬱血が緩和するとともに、肺炎は快方へと向かった。数時間のうちに私の熱は下がり、危機は去った。

  

 私が医師から、同じく看護師から受けていた治療の質の高さにも拘わらず、また、家族の愛情のこもった世話にも拘わらず、時として私の痛みと不安が、私をヒステリックであまりにも要求の多い人間にしてしまうことがあった。手短に言うと私はしばしば、愚痴っぽい厄介者になったのだ。ひどい傷を受けた犯罪被害者たちは、しばしば周囲の人間が対処することが困難になるような振る舞いに出ることがある。私の個人的経験から言えることはただ、このような行動は自然な反応なのだということだけである。あなたのそれまでは健康だった肉体が、容赦のないストレスと苦痛の種になってしまった時、あなたが感じる無力感と苦悩はあなたに大きな――たとえそれが通常一時的なものであるとしても――性格の変化をもたらす。私はその好例だった――私は物を投げ、どなり、泣き喚き、枕を叩き、さまざまな混乱を引き起こした。

  ある日私は、誰かが私に贈ってくれたナイトガウンを試してみようとした。それはピンクのシルク地で、綺麗な刺繍が施されていた。母が私の胸に巻かれた厚い包帯を取り外そうとしていた時、胴についていたピンクの華奢なレースの花がはじけ落ちた。怒りと苛立ちで、私は文字どおりガウンを引き裂き、床に投げつけ、その間ずっと呪いの言葉をわめき散らしていた。ガウンはぼろきれと化した。

  私が許容できるレベルは現実的には存在しなかった。ちょっとした問題や落胆さえも、私には途方もないことのように思えた。私は既にあまりにも大きな困難と恐怖を抱え込んでしまっていたから、今はすべてのことがスムーズにいくよう望んでいたのだ。だが残念ながら、人生はたいていそんな具合にはいかないものである。それで私の憤怒はしょっちゅう表面化し、私は呼び起こすことのできるあらゆる力をもって、私の怒りにはけ口を与えた。そのあとで私はばつの悪い思いをして、皆に謝ることになった。

  私の傍にいて、私が自分の感情を露わにすることを許してくれた人たちにとても感謝している。時として不快に見えるとしても、患者が自分の感情について話し、場合によってはそのことで泣いたり叫んだりするのは健康的なことなのである。これらの感情を心のうちに沈めて、わだかまらせ、いつか大噴火を招いてしまうよりははるかに得策である。

  ジョセフ先生は、私の中のもっともどす黒い考えでも表に出してみるよう励ましてくれた。彼は私の家族が私の極端な反応に対処するための手助けもした。私は彼との面談を毎回待ち望んでいた。彼は犯罪被害者の治療に関して特別なトレーニングは受けていなかったけれども、とても協力的で、思いやりがあり、心理的に過酷なこの最初の数週間を私が乗り越えるための助けに彼がなれるよう、気を配っていた。私が取り乱しそうになったときはいつでも、ジョセフ先生に「ビーッと警報を鳴らせば」よかった。彼は即座に応えて、しばしば電話越しに私を助けてくれた。

  私の精神科医男性だったことを私は特に喜ばしく思っていた。場合によっては、男性に襲われた暴力的犯罪の被害者は女性のカウンセリングを受けることを希望する。しかし私は、自分が男によって傷付けられたからこそ、いま男によって助けてもらうことが自分には望ましいことだと感じていた。私は男を憎み、永遠に男を怨んでさえしまう危険を冒したくはなかった。私の肉体面と心理面の健康を請け負ってくれたジョセフ先生とスタイン先生がともに男性だったことを私は嬉しく思う。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 3/7

 襲撃から三日後、私はICUから胸部外科の病棟に移されることになった。私が新しい病室へと押されていったとき、ほかの患者がゆっくりと歩いてホールへ下りていくのを私は見た。はじめて私は、自分が再び歩けるようになるまでどれほどかかるのだろうと考えた。

  私を載せた台車が私の個室へ入っていったときのことを、私は決して忘れることはないだろう。私は自分が花屋にやって来たのかと思った。信じられないほどの花々がそこらじゅうに置かれ、床にさえも列をなして並べられていた。最初に届いた花はロバート・デ・ニーロジョー・ペシマーティン・スコセッシスティーブン・スピルバーグからのものだと看護師が知らせた――以前映画でいっしょに仕事をした人たちだ。他にも大勢の映画業界やテレビ業界の人々、ニューヨークの舞台関係の仕事仲間、何十人もの友人や親類から贈り物やカードが届いていた。その花に溢れた、愛に溢れた部屋の光景に私は、自分がいかに幸運な人間であるかを思い知らされた。

  襲撃事件はすさまじいばかりの世間の注目を集めていて、特にロサンゼルスではそうだった。妙な話だが、私の家族と私はテレビを観ることによって事件のさまざまな真相を知ることになった。ニュース番組でその異様な事件が取り沙汰されているのを私たちが観ているのはおかしな気分だった。ときどき私たちは、ハリウッドの連中のなかには事のすべてを売名のためのネタだと信じている奴もいるんじゃないかと冗談を言い合うことさえあった。そんな具合に可笑しがっていたものの、ニュースの内容はしばしば観ていて非常につらく、気を滅入らせるものだった。

  ある日の報道で、私の家の外の舗道にひろがる私の血が突然クローズアップで映し出されたのを目にして、私たちはみな動転した。フレッドがすぐさまテレビを消したが、私たちの誰ひとりとして、そのおぞましいイメージを忘れ去ることはできなかった。

  それでもある点において報道を見聞することは、私たちが襲撃事件を真実の目線のなかに据え置くことの助けにはなった。私たちは病院の隔絶した世界にあって、時としてそこに存在するもの以外のすべてが夢のように感じられることがあった。しかし6時のニュースで事件を伝えるリポーターの声を聞くことは、夢を否定すべくもない事実へと変えることにつながったのである。

  この恐ろしい災厄は家族全員に犠牲を強いた。皆が張り詰め、疲れ切って、問題はいつ終わるとも知れなかった。襲撃が招いた直接の肉体的、精神的な問題に対処することに加えて、私たちは膨れ上がっていく治療費が引き起こす経済的な問題とも格闘しなければならなかった。カラス刑事は私たちに、犯罪被害者、目撃者とその家族の援助を目的とする「カリフォルニア州検察官・犯罪被害者/目撃者支援プログラム」を紹介した。

  支援プログラムを率いるロリ・ネルソンがシーダーズ・サイナイの私のもとを個人的に訪ねてきた。彼女は、州管理委員会に医療費の補償を申請する資格が私にはあるが、州が支払う額の上限は1万ドルと定められていると説明した。続けて彼女は、1万ドルを超える費用は私個人の負担になること、また、補償金の支払いには通常1年以上を要することを説明した。

  ロリ・ネルソンの言葉が突き付けた現実に対する私の反応は、声高で敵意に満ちたものだった。私は自分が刺されたがために支払いをさせられることに、あの苦痛に満ちた治療のために、あの終わりなき投薬のために、あの精根尽き果てる検査のために、あの長引く病院暮らしのために支払いをさせられることに憤りを覚えたし、いまでも覚えている。

  私に対する請求書が天文学的な額になることは疑問の余地がなかった。保険と州からの最高額の補償金をもってしてもなお、私は何千ドルもの支払いを、自分がまったくの偶然によって犯罪被害者になってしまったがためにさせられる羽目になるのだった。

  幸い私は保険に入っていた。しかし、私が一年以上にわたって必要としていた心理的あるいは肉体的な療法のような重要な医療処置の多くが、保険の対象外だった。そしてそのほかのたくさんの医療費が部分的にしか保険の対象となっていなかった。もしも私が保険を受けていなかったら、襲撃は私を破産宣告へと追い込んでいただろう。私ほど恵まれていない多くの被害者はそうすることを余儀なくされているのである。

  私たちは犯罪の容疑者や確定囚に住む場所を与え、衣服を与え、食事を与え、医療的あるいは心理的なケアを施すいっぽうで、傷ついた、罪のない被害者に対して同じ手当を与えようとはしない。誰がこれを正義だと考えるだろうか?

 

 訪問者の面会を許されるようになって、私の友人の多くが私に会いに集まってきた。自分の周りに人がいるのは楽しかった。彼らとのやりとりや会話が私を喜ばせ、私を再び活気づけた。訪問者のおかげでフレッドと私の両親は、彼らがひどく必要としている休息をとることもできるようになった。

  もちろん私の友人の誰一人として、刺傷事件の被害者との応対を以前に体験したことはなかった。それで彼らはたいていはじめのうちは神経質でぎこちない様子で、私のそばでどう振る舞っていいものか戸惑っていた。点滴の管や包帯や私のずたずたになった体が彼らを怖がらせていることに気づいてからは、私は訪問者とつとめて冗談を言い合い、対面直後のぎこちない空気を和らげようとした。私は彼らに、私の性格もユーモアのセンスも奪い去られてなどいないことを示したかったのだ。

  ところが残念なことに、人の訪問を受けたことは予期せぬ憂鬱な副作用をもたらすことになった。私の友人が帰ってしまうと、私は一人きりで取り残されたように感じた。私はベッドに横たわりながら、友人たちが病院を出たあと何をしているかについて思いをめぐらせた。ダンスのレッスンを受けたり、演劇や映画を観たり、オーディションに行ったり。彼らのように外に出てみたいと私は切望した。しかし私の家族と私はシーダーズ・サイナイの病院の一角に囚われていた。

  病室の静寂は、訪問者が立ち去った直後にもっとも耐え難いものになった。フレッドと両親も同じく憂鬱な気分に襲われていた。何時間ものあいだ、私たちは首を振りながらお互いを黙って見つめ合っていた。 

  フレッドは内にこもりがちになり、消耗しきっていた。夫と妻としてかつて分かち合っていた親密さを私たちは懐かしんだ。いまや私たち二人は病院の世界という機械に組み込まれた二つの小さな歯車の歯でしかなかった。私たちは二人きりでいる時間をほとんど持つことがなく、私はいまだ小さな子供のように両親にべったりと依存していた。フレッドと私はともに苦痛と孤独感でいっぱいだったが、お互いにどう対処していいものか分からなかった。私たちのあいだには、どうやって埋めていいものか見当もつかない大きな溝ができていた。

 

 私の全般的な身体の状態は日を追うごとに良くなっていった。ドクターは薬の投与量を少し減らすことができ、一つだけを残して点滴の管も取り外された。襲撃からわずか1週間後にスタイン先生が私にはじめての歩行――彼の言葉で言えば「はじめてのびっこ」――をやってみるように言ったとき、私はぞくぞくした。

  看護師が私をベッドから起こし、私はフレッドと父の腕にもたれかかった。胸の痛みのせいで私は前かがみになった。足をひきずりながらほんのわずかな歩幅を踏み出しただけで、体じゅうの傷という傷が痛んだ。看護師が点滴のポールを私の脇に押しやり、悲痛な様子の行進がもたもたした足取りで廊下へと歩を進めていった。

  とにもかくにも、私は再び自分の足で立った!背中を丸め、憐憫をさそうごくささやかな数歩を歩んだだけだったけれども、少なくとも私は動いていた。素晴らしい気分だった。私は自分が文字通りにそして見た目通りに、完全なる回復へ向けて歩み出したと思った。

  右手の指の傷は順調に回復していたが、犯人のナイフを握りしめて深い傷を負った左手の薬指と中指のほうは問題を抱え込んでいた。これらの二本の指はまだ動かないままだった。スタイン先生は損傷を受けた筋肉、神経、腱を治すためにはマイクロサージャリーが必要だと考えて、手の専門医を呼び出した。

  そういうわけで私は襲撃から10日後には二度目の手術を受け、手術は2時間半続いた。麻酔から覚めると、大きなギブスが指先から肘まで伸びているのが目に入った。腕全体が牽引されていた。そして手のすべての神経が苦痛の悲鳴をあげていた。

  私はそこではじめて、手の手術があらゆる手術のなかでももっとも苦痛をもたらすもので、特に神経が関与している場合はそうだということを知らされた。ドクターはデメロールの投与量を増やし、私はICUでの最初の数日間とあまり変わらない激痛状態に連れ戻された。私は痛みと戦おうとはせず、痛みが私のうえに押し寄せるがままにさせていた。痛みに抵抗したり狼狽したりすることは、単に自分をいっそう痛みで苛むことでしかないので、私はできるかぎり静穏を保って、エネルギーを治癒と休息のためにとっておいたのだ。そうしているあいだ、私は意識をポジティブな物事や人々に集中させようとしていた。

  私の心のなかに常に浮かんでいたひとりの人物はジェフ・フェン――加害者の手から私の命を救った、スパークレッツの水配達屋さんだった。私はジェフに会うことを希望し、彼がシーダーズの私のところに会いにくるつもりだと聞いたときは歓喜した。

  ところが面会が行われる前日に、記者がそのことに気づいて、家族と私にリポーターの同席を許可するよう求めてきた。私は常日頃から記者に敬意は抱いていたけれども、この特別な対面はプライベートなものにしたかった。そこでジェフと彼の妻のクラーレと、カラス刑事と私の家族だけが列席することになった。

  私の命を勇敢にも救ったその男性が部屋に入ってきたとき、私は少しまごつき混乱した。この人こそが、文字どおり私を死の顎から引き離したブロンドの「天使」だと把握することは容易ではなかった。

  フレッドと両親は、彼の行いに対して熱のこもった心からの謝意を捧げた。それからジェフがベッドサイドに歩いてきた。彼が私の隣に来るやいなや、私たちは手を差し伸べ抱擁した。この勇敢な男性に対する感謝と愛情の念がほとばしるのを私は感じた。私たちのあいだのきずなは断ち切ることのできないものだった――彼は私の命の恩人だった。抱き合っているあいだ、私は溢れる感情で胸がいっぱいになるのを感じた。その場にいた誰もが心を洗われる思いだった。

  それから私はジェフに、彼のために作ったトロフィーを贈った。そこには「私のヒーロー、ジェフ・フェンへ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。永遠の愛と感謝とともに。テレサ・サルダナ」と文字が彫られていた。ジェフが病院を出るとき、彼は外のリポーターにトロフィーを見せ、ずっと手元に置いておくつもりだと言った。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 4/7

 手の手術からわずか三日後に、裁判の予審が開かれた。腕をまだ牽引された状態で、私は夫に付き添われ、車いすに乗って裁判所へ向かった。フレッドも目撃者として呼び出しを受けていた。私は警察の車でシーダーズから法廷へと連れていかれた。

  震えながら私は車から降ろしてもらい、車いすに座った。リポーターが至るところにいて、フラッシュを焚き、質問をしてきた。あまりにも多くの見知らぬひとびと。私は多くの異なるレベルで怖気づいた。

  犯人が私を傷つけようとするのではないか?裁判所内には別の「イカれた奴」がいるのではないか?群衆のなかの誰かが事故で私にぶつかり、私を傷つけるのでは?私は証言の最中に頭が真っ白になってしまうのではないか?

  リポーターが質問してきたが、私はカラス刑事から審理の不都合になるようなことは何も言わないようにと指示されていたので、最小限のことを話すだけにとどめた。

  待合室で私はフレッド、ジェフ・フェンとほかの目撃者たちに囲まれ座っていた。犯人に会い人物を特定しなければならないという宣告を受けて、私の血は氷水に変じた。私はほどんと息ができなかった。

  聴聞室に車いすで引かれていった。私の要望で、女性判事が私の車いすを犯人に向き合うのではなく平行になるように置いた。審問に私はロボットのようなモノトーンで答えていたが、私の鼓動は早まり、のどはからからに乾き、締めつけられるようだった。判事が私に犯人を特定するよう求めた。ほんの2週間前、私を十度にわたってナイフで刺し貫いたその人物のほうに私は向き直らされた。

  その日、彼を一瞥した私の心に去来した思いは、邪悪という言葉を人格化したのが彼だということだけだった。悪意と錯乱のオーラが彼の存在から発散されていた。彼の姿を見たことは私を病ませ、深く言いようもなく憂鬱にさせた。

  ようやく聴聞が終わり、私は車いすで法廷から出て速やかに病院へと車で運ばれていった。警察の車でシーダーズ・サイナイへと戻っていくあいだ、私の心は起こったことすべての強烈さとおぞましさでくらくらしていた。

  私の生は丸ごとひっくり返された。私は自分が見世物小屋の一員で、檻に入れられ法廷のカーニバルで展示されている傷ついた動物のようだと思ったことを覚えている。気違いじみたサーカスの呼び込みが「あわれな刺傷事件の被害者をごらんください。さぁさぁいらっしゃい!」と叫んでいるのがほとんど聞こえてきそうな気すらした。

  シーダーズに着いてからしばらくして、法廷の派遣した写真屋が外で待っていると看護師が知らせにきた。彼らの求めに応じて看護師は私のガウンを脱がせ、私の体の上に3枚の小さなタオルを慎重に置いた。写真屋が入ってきて、私の体の傷をひとつひとつ、整然と撮影していった。私は自分を安置所の死体のように感じた。あの残忍なフォト・セッションは、私が人生で味わったもっとも屈辱的な体験のひとつだった。

  その夜病院で、私は昼間の法廷での出来事を合理的に客観的に振り返ろうと努めていた。どうして報道陣や見物人があの場にああも大挙して押し寄せていたのか?彼らはこの不気味なちょっとした余興にスリルを求めて集まってきたのだろうか?そう、たぶん彼らのうちの幾人かは本当にのぞき趣味だったのだろうと私は考えた。しかし報道陣や群衆のほとんどは純粋に、私があの試練のあとでどんな状態にあるのかを気にかけ、それを見届けることに関心を抱いているようにみえた。私は法廷の傍聴人の多くが、実際のところは善意のひとびとだったと認識した。そして私は確かに皆から親切な丁重な扱いを受けていた。

  その日以来私は、ひとびとの私に対する興味をポジティブなものとして受け止めるようになった。彼らから私が受けた配慮や援助がなければ、犯罪被害者支援の分野で公に働くことを自分が考えたりすることも決してなかっただろう。次の決定的な一歩は私のほうから踏み出さなければいけなかった。私は自分自身を「見世物小屋の動物」としてではなく、犯罪被害に遭った他のひとびとにとっての手本となる人物として考えていくことを必要としていた。

 

 襲撃から3週間後、私は回復への新たな段階に入った。私の状態はなお重篤だったが、もはや危篤ではなかった。それでも私の生活はまったくバランスを欠いているように感じられた。痛みと医療処置と薬剤が、鈍重で、パターン化された、退屈な、日々繰り返される病院縛りのルーチンの要素をなしていた。

  襲撃から約18日後に、スタイン先生が私の傷の状態を視るためにやって来た。彼は私の包帯とステリストリップ(傷をくっつけると同時に部分的に隠すための、バタフライスティッチのようなみかけの特殊なテープ)を両方とも外さなければならなかった。ありがたいことに、私の縫い糸はひとつひとつ切って引き抜かなければならないような種類のものではなかった。それはその場で自然に溶けていくはずだった。

  スタイン先生が作業を終えたとき、私は鏡を見せてと頼んだ。彼は、傷の張れが引くまで自分の体を見るのは待ったほうがいいのではないかと薦めた。けれども好奇心と不安の入り混じった私の感情は抑えがたいものだった。再度私は鏡を求め、看護師がためらいがちにそれを用意した。

  まず私は、幸いにも犯人のナイフによって傷つけられずに済んだ自分の顔を見た。それから私は鏡を下していき、胸と上体の前に置いた。目に飛び込んできたものを見て、私はショックで息を呑んだ。あらゆる最悪の懸念が現実のものとなった。私は醜く、損なわれて、恐ろしい見た目だった。泣きそうになるくらい動転して、嫌悪感で凍り付いた仮面を顔に張り付かせながら、私は石像のように前方を凝視していた。

  スタイン先生は、腫れはすぐに引いていき、赤味は薄れていき、数週間、数カ月のうちに劇的な改善をみることになるだろうと話した。私はなおもぼんやりとして鏡を見つめ、彼の言葉を自分の心のなかに沈み込ませていった。スタイン先生が言った言葉のなかで最も私を勇気づけたのは、私のようなケースでは整形手術が奇蹟的な効果をもたらすだろうということだった。私は疑わしげに彼を見た。それでも少なくともある程度の希望を私は感じた。

  鏡の像が突き付けた残酷な現実は、さらなる問いへと私を誘った。心も体ももはや元通りにはならないだろうという事実と、私はどうやってうまくつきあっていけばよいのだろう?

  私の体のなかでも一番のすぐれた特徴はいつでも肌だった。よく人は私の肌を「まったく非の打ちどころがない」と言ったものだった。いまやそれは非の打ちどころがあるどころか、おそろしく醜悪になってしまっていた。

  ネガティブな事柄とともに人生を歩んでいかなければならないのであれば、ポジティブなほうの側面に意識を集中させることが必要だと私は了解した。私は自分の顔が損なわれていないことの幸運に毎日のように感謝を捧げた。毎朝私は完璧なメイクアップの仕事のために時間を費やした。口紅、ルージュ、ファンデーション、マスカラ、アイシャドウ――まさに仕事である。それから私の母が私の髪をとかし、編むかおさげにして、着ているものに合うリボンを付けた。私は見ようによっては、彩色のほどこされたリボン付きの中国人形のようだった。

  何か持ってきてほしいものがあるかと人に尋ねられたとき、私はたいてい「ナイトガウンをお願い」と答えた。贈られたガウンはかなりの期間、私の衣装だんすを占拠していて、私はそれらの服の可愛らしさと柔らかさが私を喜ばせ、私を人に会うことのできるような見かけにする助けとなることを頼りにしていた。私はしばしば日に2、3回ガウンを着替え、新しい服をそのたびにじっくり選んだ。それは馬鹿げたことのようだし、無駄なことのようにさえみえたかもしれないけれども、着飾ることも、自分を再び受け入れるために必要なステップだと私は感じていた。

  できるかぎり速やかな回復への助けとなるような心構えを得るために、私は自分に尋ねた、「私をもっとも幸福にするものはなんだろうか?」。答えは「仕事をすること」だった。舞台に立っているとき、あるいはカメラを前にしているとき、私はふるえるくらいにこのうえなく生き生きとして――幸せだったのである。

  とはいえ、犯人が私に目をつけたのも、私の女優としての仕事をとおしてだった。このことは当然私にショー・ビジネスから退くことを考えさせもしたけれども、それはほんの僅かな間だけのことだった!

  仕事を棄てるということは、私がこれまで生きてきたなかでやってきたいっさいを台無しにすることだった。私は自分に言い聞かせた、「この赤の他人は既に私の人生を破壊し、済んでのところで滅ぼそうとまでした。このうえ私から仕事を奪い去ることまでこいつにさせてなるものか!」。

  そして私は誓いを立てた、私の力の一片一片を、人間技でできるかぎり早く仕事に復帰することを可能にする回復を成し遂げることにあてようと。

  私はマネージャーのセルマや代理人や友人たちと、仕事に復帰するためのプランについて何時間も電話で話し合った。牽引された状態で病院のベッドに横たわっている人物から電話を受けたりするのは、彼らにとって妙な感じだったかもしれない。しかし復帰についてただ話し合うことだけでも、それを現実の可能性にみせることの役には立ったのである。

  友人や親類は私が会話に夢中になって、悪くないほうの腕を表情豊かに振り回し出すのを観て楽しんでいた――私はちょっと狂っているように見えたかもしれない――が、もちろん病院のベッドのうえからお芝居をすることはできなかった。それでも私のなかの創造的な部分ははけ口を渇望していた。私が常に愛していた別の表現手段は書くことだった。じじつ、本を書くことはいつでも私にとってのひそかな夢だった。ただ仕事の忙しさのため、そのための時間を私はこれまでもてなかったのである。いまはおそらく書くことが、私の芸術的充足の必要性に対する答えだった。

  私の心のなかにアイディアが駆け巡りはじめた。私がなし得るもっとも有益な事柄は、私の体験を人々に伝えること、このおぞましい犯罪が私と私の家族にもたらした影響について語ることだという考えが浮かんだ。不意に私の無力感は霧散した。私はもはや待ちきれなかった。

  しかし、私の熱意と高揚にもかかわらず、紙の上にペンを置くといった特に努力を要しないはずの作業すらもが私には不可能事だった。私の手の片方には添え木が当てられ包帯が巻かれ、もう片方は牽引されて吊られた状態だった。

  親友のボブ・ゲイルに私の窮状を話した。プロデューサーと脚本家としての多忙をきわめるスケジュールにもかかわらず、彼はなんとか時間を見つけてほとんど毎日私に会いに来てくれていた。ボブが私のジレンマを聞いたとき、彼は作家の直観をつかって完璧な答えを見つけ出した。翌朝、ボブは小さな携帯用テープ・レコーダーを持ってやって来て、私がカセットに吹き込んだ言葉を自分が文字に起こすと言ってくれた。回復への途上にあるそこまでの時点のなかで、これほど素晴らしい贈り物を受け取ったことはなかった。

  襲撃から4週目に入ったとき、私の妹のマリアがニューヨーク大学イースター休暇を私と過ごすためにやって来た。ブルックリンに居て、マリアもまた襲撃がもたらした試練をくぐり抜けていた。昼も夜も彼女は電話口にいて、親類や友人たちに私の状態を伝えていた。最初の数日から数週間にかけて、私の部屋にかかってくる電話はごくわずかだった。つまりみんながマリアに電話したのである。この間の彼女の生活は悪夢のようだった。彼女は授業についていこうとするいっぽうで、夜遅くまで電話の砲撃に襲われ、彼女自身が援助をひどく必要としている時に、何時間をも費やして皆を安心させようとしていたのだ。

  家族は彼女が私たちに加わってみなが一緒になるのがベストだろうと決心した。彼女の存在とその強さは、家族全員を鼓舞した。夜に私の部屋で寝るのは母ではなく、今はマリアだった。ちっちゃな頃のように話し合い笑い合い、私たちはお泊り会をしている二人の少女のようだった。

  私が「書きたく」なったとき、マリアは小さなレコーダーを私の肩にかけ、スイッチを入れた。それから私は何時間も話し続けた、自分がどんな人々に向かって「書いて」いるのかをイメージしようと努めながら。彼らのうちの何人かは犯罪被害者とその愛するひとびとであってほしいと私は望んだ。長い長いあいだ、私は自分の陥った苦境の只中にあって、おそろしく孤独な感情を味わっていた。私の周りには大勢の人がいたけれども、彼らのうちの誰ひとりとして襲われた経験のある人はなかった。小さなテープ・レコーダーに向かって話しかけているとき、私は同じ体験をくぐり抜けてきた、「そこにいる」ほかのひとびととの、ほとんど触知できるほどの絆を感じていた。

 

 4月初旬には私のシーダーズからの退院期日が間近に迫ってきて、私の家族と私はどこでケアと治療を続けて受けるべきかの問題に直面していた。回復期リハビリテーション病院は理想的な選択肢だと思われたので、私たちはいろいろと調べてみた。しかし私の保険はこれらの施設を対象としておらず、この種の入院費用を支払う余裕は私にはなかった。

  フレッドと私は新しい家へと引っ越し、そこに彼と帰宅することについて話し合った。しかし彼は一日中仕事に出ていなければならいし、私は一人でやっていくにはまだあまりにも弱く衰えた状態だった。そして派遣看護師の高額なサービスは私の保険の対象外だった。

  家族とともに飛行機で東部へ向かうことも考えられなかった。私は旅行をできるような状態ではなかったし、L.A.の医師のもとで引き続き治療を受けることがベストだと助言されてもいた。

  他によい場所が見つからないままに、私たちはシーダーズ・サイナイの入院病棟であるThaliansの精神療養施設に私が身を投じる可能性を考えた。結局のところ、私は自分自身の面倒を適切にみることができなかったのである。他のどこに行き場があると言うのだ?

  そこで4月のはじめにジョセフ先生がThaliansの通りを渡って私と両親を案内していった。しかし建物に近づいていく最中から、両親は私にここに入るのはやめてくれと懇願しはじめた。鍵のかかった3階の病棟へとつうじるエレベーターのなかで、もしも私が精神病院の入院患者になったら、汚名が残りの人生をついて回るだろうと言って彼らは諭した。彼らはもっともな理由から、私が精神病院に属すべき人間ではないと感じていたのである。

  まったく心を決めかねていたけれども、少なくともここに入院すれば、私が日々受けている精神科医との面談は保険で支払われるようになるだろうと私は主張した。私がシーダーズ・サイナイから退去しなければならない期日はたったの1週間後であることも指摘した。時は尽きかけていた。

  エレベーターを降りて婦長に会い、病棟の案内を受けた。車いすでホールへと下りていくうちに、私は雰囲気の全般的な華やかさに気がついた。色調は明るくて、壁はアートワークで覆われていた。部屋はすべて個室で、狭いがまずまずのものだった。

  けれどもすぐに私は欠点に気づきはじめた。公衆電話は廊下の真ん中にひとつあるだけで、電話を使いたい患者が列をなしていた。入院患者の大半は騒々しく軽薄なティーンエイジャーかひどくふさぎ込んだ様子の大人で、彼らは時として明らかに奇矯な振る舞いに出ていた。

  両親の表情はこわばり不安げになった。看護師が早口で驚くほど大量の規則や規制をまくし立てた。訪問時間はきびしく制限され、一日のあらゆる時間が管理されていた。看護師は、これらの規則に例外が認められることはまったくとは言わないにせよまずあり得ないことを念押しした。時が経つほどに私の気分は沈み込んでいった。

  立ち去る段になって、私は病室のひとつへ通じるドアののぞき窓にふと目を向けた。太い灰色の鋼の板を鈍く光らせた、重たそうな格子が十字に張られていた。私は両親のほうを見て言った、「ちょっと待って。私はこんな監獄に入れられるような人間じゃないわ。ここは私の居るべき場所じゃない」。私たちは看護師に礼を言って、静かにそこを後にした。