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PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 5/7

 ふさわしい行き場所を見つけなければならないという問題はなお残っていたけれども、決心がついたことで私たちの気は楽になった。ジョセフ先生ですらも、私がThaliansで暮らすことを選ばなかったことを静かに喜んでいる風だった。

  私はしばしばあの日のことを、あの場所を選ばなかった自分の選択に感謝しつつ振り返っている。しかし私は自分が恵まれていたことも分かっている。多くの犯罪被害者にとって、他に安全な代替案はないのである。わたしたちの社会が犯罪被害者に、回復のための安心できる避難所を彼らが必要としている時に提供できるようになるまで、多くのひとびとが不必要な錠と鍵のついた精神病院での暮らしを、ただほかに選択肢がないというだけの理由で余儀なくされているのだ。私のひとつの夢は、肉体的、精神的に家に帰る準備が整うまでのあいだ、犯罪被害者が手厚い支えのある安全な環境のもとでリハビリに専念することのできるような安息の場をつくることである。

  家族と私は、私にふさわしい場所を見つけるための電話キャンペーンにとりかかった。親類や友人、友人のそのまた友人、代理人といったひとびとに電話をかけ、状況を説明した。彼らの多くは、私たちを助けようとしてほうぼうに問い合わせてくれた。私たちは電話をし、そして待った。

  ある晩、少し前にお芝居の仕事でいっしょになった衣装デザイナーのシェリー・ド・サンフアンが病院に立ち寄った。彼女はボーイフレンドのジョン・リマ先生を連れて来ていた。白衣を身につけたこの優しそうな男性に会ったとき、私の直観が、彼こそが私たちの問題に対する答えの鍵を握っているのではないかと私にささやいた。素晴らしいことに、そうだったのだ!

  リマ先生は、ロサンゼルスから1時間ほどの郊外にあるカラバサスの映画テレビ基金病院の医師だと自分を説明した。それは映画やテレビ業界のユニオンのメンバーとその家族のためだけの病院だった。

  病院には、まだ自分の面倒を自分でみることのできる高齢者のためのコテージやロッジと、多少の手当のみを必要とする回復期の人々のためのウイングがあった。このほかにJウイングがあり、二つのセクションに分かれていた。ひとつは集中的な入院治療を必要とする深刻な患者のためのもので、もう一方は熟練した看護を必要とする患者のためのものだった。私はこの2番めのセクションがまさしく自分の必要としている場所だと感じた。

  リマ先生は、映画テレビ基金病院の大多数は年配者であることを強調した。もっとも、若くて具合の悪い人も申し込み可能だった。興奮して私はドクターの知らせに感謝するとともに、病院の運営者に私を受け入れてくれるよう話してくれることを彼にお願いした。

  リマ先生とシェリーが去ったあと、安堵の感情が私のなかに溢れてきた。映画テレビ基金病院に受け入れてもらえるだろうことを、まったくの直観が私に伝えてきた。私の上機嫌は伝染性で、フレッドと両親も希望を抱き始めた。

  病院の運営に問い合わせたリマ先生は、すぐ翌日に電話をかけてきて、私が受け入れを許可されたことを知らせた。数時間後にシーダーズが私に外出許可を出して、私は家族とともに新しい「家」を見に行くことになった。

  病院までドライブしていく途中で、私は刈りこまれた、青々とした芝生と綺麗な花々に魅せられていた。とても美しい土地だった。リマ先生が会いに出てきて、私は車いすで本館へと導かれていった。

  病院に入るやいなや、死にゆくひとびとの存在だけが醸し出し得るその場の雰囲気を私たちは嗅ぎ取らずにはいられなかった。車いすで進んでいくあいだに、道のりを苦労して歩いてくる患者たちとすれ違った。部屋のなかには、明らかに終末期とみられるほかのひとたちの姿があった。例外なく、彼らは非常に、非常に老いていた。ある人は車いすで押されていき、別の人は杖や歩行器にすがってよろよろと歩いていた。多くの人がベッドの上でうめき声をあげていた。私の希望は急速に落胆へと変じていった。

  リマ先生は私をJウイングに連れていき、スタッフに紹介した。彼らの多くはきびきびとして、事務的で、よそよそしくみえた。私は彼らが自分のことを疎ましそうに見ているように感じて、困惑してしまった。

  何週間も経ってから看護師たちは、老いさらばえた往年のハリウッド・スターみたいなタイプの人種を彼らは期待していて、刺傷被害者の抱える心理的な問題に対処していくといったことにはあまり乗り気ではなかったのだと私に語った。彼らの多くは何年ものあいだ老人医学の分野で専門的に働いていて、犯罪被害者の具体的な要求に応えていく経験をほとんど、もしくは全くしたことがなかったのだ。

  婦長のジェーン・ブラドウがウイングをざっと案内していき、規則や規制の長たらしいリストを早口で伝えた。映画テレビ基金病院の雰囲気は真面目で、きびきびとして、体系的だった。それに比べるとシーダーズはカントリークラブだった。

  長い帰路の車中で言葉を発する者はいなかった。しかしその晩、私の置かれた状況の不公正さに対する思いが私を襲った。私はほとんど死にそうになるまでメッタ刺しにされ、言葉に言い表しようのない苦痛を耐え忍んで、そしていま、私にふさわしくない環境のもとで暮らすことを強いられつつある。私は善良な、税金もちゃんと支払っている一市民だった。私は法を遵守していた。私はこの国を支持していた。それなのに、罪なき被害者としての私の立場に対して、政府は行くべき場所をすら私に与えようとしないのだ。そう、加害者は人間的な扱いを享受している。なんのむごいこともおかしなことも、彼の側には起こらない。しかし私はほとんどなんの支援も援助も受けていない。州も連邦政府も私に対して、数え切れないほどの私と同じようなひとびとの誰に対しても、居場所を与えようとはしないのである。

  私は施しを期待しているのではなかった。もしも私が普通に住み、働くことができたら、私はひとりでやっていくことができただろう。しかしそれが可能ではなかったのだ。犯罪が犯され、私が被害者になった。そして私はいま、自分のほうが刑を宣告されているように感じていたのだった。

  私の不幸はさらなる一撃によっていっそう悪化した。私はシーダーズ・サイナイを退院した後も、外来患者というかたちでジョセフ先生のセラピーを引き続き受けられるものと期待していた。ところが、私が映画テレビ基金病院に移る少し前に、愕然とするような知らせが舞い込んできた。私が彼の治療を受けているあいだに示した状態の改善にもかかわらず、ジョセフ先生が私の担当から外れるように命じられたのだ。シーダーズの彼の上司は突如として、このような恐ろしい事件の被害者を扱うことは、まだ一人前とは言えない研修医にとってあまりに荷が重いと判断したのである。

  私と私の家族を苛立たせたのは、ジョゼフ先生に私を受け持たせて、まるまる一カ月のあいだ私の担当を続けさせたのが当の彼らだという事実だった。後になって若い医師の担当外しを力説する結果になるのであれば、そもそもどうして彼らはこの骨の折れる、長期にわたる治療の日々を黙認していたのか?

  憤激した私は決定の変更を要求しようとしたが、すさまじい反発に遭うことになった。ジョセフ先生の上司は断固とした調子だった。この若い医師のシーダーズにおけるキャリアに傷がつくことを望まなかった私は、泣く泣く引き下がることを余儀なくされた。

  いまや私は環境の激変に加えて、新しい精神科医に馴れなければならないことにもなった。すべてが私に対して向かい風であるように思えた。自分ではどうすることもできない状況のせいで叩き落されるためだけに、ここまで前に進んできたというのか?私は怒り、泣いた。誰も私を慰めることはできなかった。二週間のあいだ、私はテープ・レコーダーに向かって語ることすらできなかった。すべてが無駄なことのように思えた。

  私との最後の面談で、ジョゼフ先生はどんなタイプの精神科医についてもらいたいかを私に尋ねた。私は彼に、要望のリストがあるので書き留めてほしいと頼んだ。私のリストは次のとおりである。求む、精神科医。若いことは必須、男性、ユダヤ系、やせ形、魅力的、繊細、知的、創造的、中立的。要するにそれはジョゼフ先生自身についての正確な描写だった!

  私たちはそのことで大笑いしたが、さよならを言わなければならない時が来た。私の目に涙が溢れてきて、彼も泣きそうな様子だった――私たちは長いこと共にやってきたのだ。私は彼にお礼を言い、ぎゅっと彼を抱きしめたあとで踵を返した。

  同じ週の後半に私はピーター・ウェインゴールド先生に面会した。驚いたことに、彼は私の記述にぴったり当てはまっていた!はじめのうち私は、ジョゼフ先生が既に知っている事実を彼に向かって繰り返さなければならないことに対していくぶん抵抗感と腹立たしさを覚えていた。けれども数度の対面のうちに私は彼が好きになり、敬意を抱くようになった。そしてセラピーでは彼に快く応じるようになった。ウェインゴールド先生は私を育て、支えてくれた。過度の依存を招くことには配慮しつつも、先生は私が彼を頼りにすることを許してくれた。私たちは進展と後退のさまざまな段階をくぐり抜け、ともに健康へと向かう着実な歩みを進んでいった。私は自分の健全さの多くを、これらの素敵なドクターたちから受けたすばらしい心理療法に負っていると感じている。

  4月のある朝、出発の時が来て、私はシーダーズ・サイナイで私の看護をしてくれたひとたちに涙ながらのお別れを言った。私は特にアレクサンダー・スタイン先生に感謝していたので、彼のためにヒーローに贈るトロフィーを作っていた。結局のところ、彼が3月15日に私の執刀をすることに同意していなければ、私がこれを作ることも決してなかったわけだ。感動的な別れだった。私は彼にトロフィーと、彼の好きなお菓子を詰めた箱を渡し、シンプルに「ありがとう」と言った。彼は私のドクターであるだけでなく、信頼できる友人にもなっていた。4月5日に私たちは映画テレビ基金病院へ移った。安全のため偽名がつけられ、私は「アリシア・マイケルズ」になった。部屋の外の名札にもこの名前が書かれ、その後の日々のなかで私はすっかりこの名で呼ばれることに慣れたので、今でも誰かがアリシアと名前を呼ぶと反射的に返事をしてしまうほどだ。

  映画テレビ基金病院で、入院患者としての私の生活スタイルは激変した。秩序と規律がいっさいを領していた。ある点でそこの環境は、私を安全で、庇護されていて、手厚い配慮を受けている気分にしたけれども、他方で私は自分が囚人になったかのようにも感じた。

  Jウイングの朝は早く、一日は例外なく苦痛と混乱のうなり声やうめき声の不協和音ではじまった。朝食時に私はごっついビタミンのサプリメントを呑み込まねばならず、その後しばらくの間はむかむかさせられた。朝8時までに私は規律によって、一日二回の理学療法の一回目を受けるべく、部屋の外に車いすで連れ出された。

  私の体の左側の肩にかけては襲撃が招いた圧迫神経によって弱り、ほとんど使い物にならなくなっていた。私の腕は重くてかさばるギプスでいまだに固定されていたので、体のそちら側を動かすことはほとんど不可能だった。私は影響を受けたすべての筋肉の動かし方を文字通り再学習しなければならなかった。

  私の理学療法士のフィルは人なつっこくて豪快な性格だった。彼はしばしば苦痛のなかでも私を笑わせ続けていた。ある朝彼は、部屋のなかのもっとも高齢の男性(少なくとも90歳)を指して、週末の彼とのデートはどんな案配だったかを私に聞いてきた。別の日フィルは、私が自分の部屋で開いていたとされる「やんちゃなパーティ」の騒音が階下のほうに漏れ聞こえてきた件で私を「叱ったり」した。

  私の腕のギプスを取り外したあとフィルは、傷つき腫れあがった私の指を再び動かせるようにするための、苦痛を伴う手順を私に手引きしていった。まずはじめに彼は私の左腕を、私には沸騰水のように感じられる渦巻くお湯のなかに漬けた。熱が私の腕を苛む痛みの波を引き起こした。10分かそこらでお湯の温度は耐えられるくらいにまで下降した。それから30分から60分のあいだ、腕を漬けたままの状態で座っていることを強いられて、私は退屈で気が散り、ブルーになった。周囲の環境も気晴らしにはならなかった。私の前には治療を待つ入院患者の車いすの列が続いていた。多くは老人で、苦痛と不快感のためぐちっぽくなっていた。

  私は映画テレビ基金病院の年配の患者たちとの仲間意識を育むことを望んで、彼らと友達になろうと最善を尽くした。私が子供やティーンエージャーだったころ、私の一番の親友は祖母だった。彼女の活力と知性と生きる喜びによって、彼女は私に年配のひとたちを愛し敬うことを教えた。ハイスクールの頃に祖母が他界したとき、私の心は張り裂けそうだった。

  しかし私は、病院の高齢患者の多くは自分の世界にこもりがちであることを知った。苦痛と老いと憂鬱とが相まって、彼らをほとんど近づきがたくしていた。

  たまに私は元気のよい話好きのおじいさまやおばあさまに会って、彼らがサイレント映画ミュージカル映画に出演していた過ぎ去りし年月の思い出話を聞くこともあった。若い頃のショービジネスの日々の、色褪せてはいるが美しい写真を見せてくれる人もいた。ただ残念ながら、この種の人とのやりとりは稀な出来事だった。