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PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 4/7

 手の手術からわずか三日後に、裁判の予審が開かれた。腕をまだ牽引された状態で、私は夫に付き添われ、車いすに乗って裁判所へ向かった。フレッドも目撃者として呼び出しを受けていた。私は警察の車でシーダーズから法廷へと連れていかれた。

  震えながら私は車から降ろしてもらい、車いすに座った。リポーターが至るところにいて、フラッシュを焚き、質問をしてきた。あまりにも多くの見知らぬひとびと。私は多くの異なるレベルで怖気づいた。

  犯人が私を傷つけようとするのではないか?裁判所内には別の「イカれた奴」がいるのではないか?群衆のなかの誰かが事故で私にぶつかり、私を傷つけるのでは?私は証言の最中に頭が真っ白になってしまうのではないか?

  リポーターが質問してきたが、私はカラス刑事から審理の不都合になるようなことは何も言わないようにと指示されていたので、最小限のことを話すだけにとどめた。

  待合室で私はフレッド、ジェフ・フェンとほかの目撃者たちに囲まれ座っていた。犯人に会い人物を特定しなければならないという宣告を受けて、私の血は氷水に変じた。私はほどんと息ができなかった。

  聴聞室に車いすで引かれていった。私の要望で、女性判事が私の車いすを犯人に向き合うのではなく平行になるように置いた。審問に私はロボットのようなモノトーンで答えていたが、私の鼓動は早まり、のどはからからに乾き、締めつけられるようだった。判事が私に犯人を特定するよう求めた。ほんの2週間前、私を十度にわたってナイフで刺し貫いたその人物のほうに私は向き直らされた。

  その日、彼を一瞥した私の心に去来した思いは、邪悪という言葉を人格化したのが彼だということだけだった。悪意と錯乱のオーラが彼の存在から発散されていた。彼の姿を見たことは私を病ませ、深く言いようもなく憂鬱にさせた。

  ようやく聴聞が終わり、私は車いすで法廷から出て速やかに病院へと車で運ばれていった。警察の車でシーダーズ・サイナイへと戻っていくあいだ、私の心は起こったことすべての強烈さとおぞましさでくらくらしていた。

  私の生は丸ごとひっくり返された。私は自分が見世物小屋の一員で、檻に入れられ法廷のカーニバルで展示されている傷ついた動物のようだと思ったことを覚えている。気違いじみたサーカスの呼び込みが「あわれな刺傷事件の被害者をごらんください。さぁさぁいらっしゃい!」と叫んでいるのがほとんど聞こえてきそうな気すらした。

  シーダーズに着いてからしばらくして、法廷の派遣した写真屋が外で待っていると看護師が知らせにきた。彼らの求めに応じて看護師は私のガウンを脱がせ、私の体の上に3枚の小さなタオルを慎重に置いた。写真屋が入ってきて、私の体の傷をひとつひとつ、整然と撮影していった。私は自分を安置所の死体のように感じた。あの残忍なフォト・セッションは、私が人生で味わったもっとも屈辱的な体験のひとつだった。

  その夜病院で、私は昼間の法廷での出来事を合理的に客観的に振り返ろうと努めていた。どうして報道陣や見物人があの場にああも大挙して押し寄せていたのか?彼らはこの不気味なちょっとした余興にスリルを求めて集まってきたのだろうか?そう、たぶん彼らのうちの幾人かは本当にのぞき趣味だったのだろうと私は考えた。しかし報道陣や群衆のほとんどは純粋に、私があの試練のあとでどんな状態にあるのかを気にかけ、それを見届けることに関心を抱いているようにみえた。私は法廷の傍聴人の多くが、実際のところは善意のひとびとだったと認識した。そして私は確かに皆から親切な丁重な扱いを受けていた。

  その日以来私は、ひとびとの私に対する興味をポジティブなものとして受け止めるようになった。彼らから私が受けた配慮や援助がなければ、犯罪被害者支援の分野で公に働くことを自分が考えたりすることも決してなかっただろう。次の決定的な一歩は私のほうから踏み出さなければいけなかった。私は自分自身を「見世物小屋の動物」としてではなく、犯罪被害に遭った他のひとびとにとっての手本となる人物として考えていくことを必要としていた。

 

 襲撃から3週間後、私は回復への新たな段階に入った。私の状態はなお重篤だったが、もはや危篤ではなかった。それでも私の生活はまったくバランスを欠いているように感じられた。痛みと医療処置と薬剤が、鈍重で、パターン化された、退屈な、日々繰り返される病院縛りのルーチンの要素をなしていた。

  襲撃から約18日後に、スタイン先生が私の傷の状態を視るためにやって来た。彼は私の包帯とステリストリップ(傷をくっつけると同時に部分的に隠すための、バタフライスティッチのようなみかけの特殊なテープ)を両方とも外さなければならなかった。ありがたいことに、私の縫い糸はひとつひとつ切って引き抜かなければならないような種類のものではなかった。それはその場で自然に溶けていくはずだった。

  スタイン先生が作業を終えたとき、私は鏡を見せてと頼んだ。彼は、傷の張れが引くまで自分の体を見るのは待ったほうがいいのではないかと薦めた。けれども好奇心と不安の入り混じった私の感情は抑えがたいものだった。再度私は鏡を求め、看護師がためらいがちにそれを用意した。

  まず私は、幸いにも犯人のナイフによって傷つけられずに済んだ自分の顔を見た。それから私は鏡を下していき、胸と上体の前に置いた。目に飛び込んできたものを見て、私はショックで息を呑んだ。あらゆる最悪の懸念が現実のものとなった。私は醜く、損なわれて、恐ろしい見た目だった。泣きそうになるくらい動転して、嫌悪感で凍り付いた仮面を顔に張り付かせながら、私は石像のように前方を凝視していた。

  スタイン先生は、腫れはすぐに引いていき、赤味は薄れていき、数週間、数カ月のうちに劇的な改善をみることになるだろうと話した。私はなおもぼんやりとして鏡を見つめ、彼の言葉を自分の心のなかに沈み込ませていった。スタイン先生が言った言葉のなかで最も私を勇気づけたのは、私のようなケースでは整形手術が奇蹟的な効果をもたらすだろうということだった。私は疑わしげに彼を見た。それでも少なくともある程度の希望を私は感じた。

  鏡の像が突き付けた残酷な現実は、さらなる問いへと私を誘った。心も体ももはや元通りにはならないだろうという事実と、私はどうやってうまくつきあっていけばよいのだろう?

  私の体のなかでも一番のすぐれた特徴はいつでも肌だった。よく人は私の肌を「まったく非の打ちどころがない」と言ったものだった。いまやそれは非の打ちどころがあるどころか、おそろしく醜悪になってしまっていた。

  ネガティブな事柄とともに人生を歩んでいかなければならないのであれば、ポジティブなほうの側面に意識を集中させることが必要だと私は了解した。私は自分の顔が損なわれていないことの幸運に毎日のように感謝を捧げた。毎朝私は完璧なメイクアップの仕事のために時間を費やした。口紅、ルージュ、ファンデーション、マスカラ、アイシャドウ――まさに仕事である。それから私の母が私の髪をとかし、編むかおさげにして、着ているものに合うリボンを付けた。私は見ようによっては、彩色のほどこされたリボン付きの中国人形のようだった。

  何か持ってきてほしいものがあるかと人に尋ねられたとき、私はたいてい「ナイトガウンをお願い」と答えた。贈られたガウンはかなりの期間、私の衣装だんすを占拠していて、私はそれらの服の可愛らしさと柔らかさが私を喜ばせ、私を人に会うことのできるような見かけにする助けとなることを頼りにしていた。私はしばしば日に2、3回ガウンを着替え、新しい服をそのたびにじっくり選んだ。それは馬鹿げたことのようだし、無駄なことのようにさえみえたかもしれないけれども、着飾ることも、自分を再び受け入れるために必要なステップだと私は感じていた。

  できるかぎり速やかな回復への助けとなるような心構えを得るために、私は自分に尋ねた、「私をもっとも幸福にするものはなんだろうか?」。答えは「仕事をすること」だった。舞台に立っているとき、あるいはカメラを前にしているとき、私はふるえるくらいにこのうえなく生き生きとして――幸せだったのである。

  とはいえ、犯人が私に目をつけたのも、私の女優としての仕事をとおしてだった。このことは当然私にショー・ビジネスから退くことを考えさせもしたけれども、それはほんの僅かな間だけのことだった!

  仕事を棄てるということは、私がこれまで生きてきたなかでやってきたいっさいを台無しにすることだった。私は自分に言い聞かせた、「この赤の他人は既に私の人生を破壊し、済んでのところで滅ぼそうとまでした。このうえ私から仕事を奪い去ることまでこいつにさせてなるものか!」。

  そして私は誓いを立てた、私の力の一片一片を、人間技でできるかぎり早く仕事に復帰することを可能にする回復を成し遂げることにあてようと。

  私はマネージャーのセルマや代理人や友人たちと、仕事に復帰するためのプランについて何時間も電話で話し合った。牽引された状態で病院のベッドに横たわっている人物から電話を受けたりするのは、彼らにとって妙な感じだったかもしれない。しかし復帰についてただ話し合うことだけでも、それを現実の可能性にみせることの役には立ったのである。

  友人や親類は私が会話に夢中になって、悪くないほうの腕を表情豊かに振り回し出すのを観て楽しんでいた――私はちょっと狂っているように見えたかもしれない――が、もちろん病院のベッドのうえからお芝居をすることはできなかった。それでも私のなかの創造的な部分ははけ口を渇望していた。私が常に愛していた別の表現手段は書くことだった。じじつ、本を書くことはいつでも私にとってのひそかな夢だった。ただ仕事の忙しさのため、そのための時間を私はこれまでもてなかったのである。いまはおそらく書くことが、私の芸術的充足の必要性に対する答えだった。

  私の心のなかにアイディアが駆け巡りはじめた。私がなし得るもっとも有益な事柄は、私の体験を人々に伝えること、このおぞましい犯罪が私と私の家族にもたらした影響について語ることだという考えが浮かんだ。不意に私の無力感は霧散した。私はもはや待ちきれなかった。

  しかし、私の熱意と高揚にもかかわらず、紙の上にペンを置くといった特に努力を要しないはずの作業すらもが私には不可能事だった。私の手の片方には添え木が当てられ包帯が巻かれ、もう片方は牽引されて吊られた状態だった。

  親友のボブ・ゲイルに私の窮状を話した。プロデューサーと脚本家としての多忙をきわめるスケジュールにもかかわらず、彼はなんとか時間を見つけてほとんど毎日私に会いに来てくれていた。ボブが私のジレンマを聞いたとき、彼は作家の直観をつかって完璧な答えを見つけ出した。翌朝、ボブは小さな携帯用テープ・レコーダーを持ってやって来て、私がカセットに吹き込んだ言葉を自分が文字に起こすと言ってくれた。回復への途上にあるそこまでの時点のなかで、これほど素晴らしい贈り物を受け取ったことはなかった。

  襲撃から4週目に入ったとき、私の妹のマリアがニューヨーク大学イースター休暇を私と過ごすためにやって来た。ブルックリンに居て、マリアもまた襲撃がもたらした試練をくぐり抜けていた。昼も夜も彼女は電話口にいて、親類や友人たちに私の状態を伝えていた。最初の数日から数週間にかけて、私の部屋にかかってくる電話はごくわずかだった。つまりみんながマリアに電話したのである。この間の彼女の生活は悪夢のようだった。彼女は授業についていこうとするいっぽうで、夜遅くまで電話の砲撃に襲われ、彼女自身が援助をひどく必要としている時に、何時間をも費やして皆を安心させようとしていたのだ。

  家族は彼女が私たちに加わってみなが一緒になるのがベストだろうと決心した。彼女の存在とその強さは、家族全員を鼓舞した。夜に私の部屋で寝るのは母ではなく、今はマリアだった。ちっちゃな頃のように話し合い笑い合い、私たちはお泊り会をしている二人の少女のようだった。

  私が「書きたく」なったとき、マリアは小さなレコーダーを私の肩にかけ、スイッチを入れた。それから私は何時間も話し続けた、自分がどんな人々に向かって「書いて」いるのかをイメージしようと努めながら。彼らのうちの何人かは犯罪被害者とその愛するひとびとであってほしいと私は望んだ。長い長いあいだ、私は自分の陥った苦境の只中にあって、おそろしく孤独な感情を味わっていた。私の周りには大勢の人がいたけれども、彼らのうちの誰ひとりとして襲われた経験のある人はなかった。小さなテープ・レコーダーに向かって話しかけているとき、私は同じ体験をくぐり抜けてきた、「そこにいる」ほかのひとびととの、ほとんど触知できるほどの絆を感じていた。

 

 4月初旬には私のシーダーズからの退院期日が間近に迫ってきて、私の家族と私はどこでケアと治療を続けて受けるべきかの問題に直面していた。回復期リハビリテーション病院は理想的な選択肢だと思われたので、私たちはいろいろと調べてみた。しかし私の保険はこれらの施設を対象としておらず、この種の入院費用を支払う余裕は私にはなかった。

  フレッドと私は新しい家へと引っ越し、そこに彼と帰宅することについて話し合った。しかし彼は一日中仕事に出ていなければならいし、私は一人でやっていくにはまだあまりにも弱く衰えた状態だった。そして派遣看護師の高額なサービスは私の保険の対象外だった。

  家族とともに飛行機で東部へ向かうことも考えられなかった。私は旅行をできるような状態ではなかったし、L.A.の医師のもとで引き続き治療を受けることがベストだと助言されてもいた。

  他によい場所が見つからないままに、私たちはシーダーズ・サイナイの入院病棟であるThaliansの精神療養施設に私が身を投じる可能性を考えた。結局のところ、私は自分自身の面倒を適切にみることができなかったのである。他のどこに行き場があると言うのだ?

  そこで4月のはじめにジョセフ先生がThaliansの通りを渡って私と両親を案内していった。しかし建物に近づいていく最中から、両親は私にここに入るのはやめてくれと懇願しはじめた。鍵のかかった3階の病棟へとつうじるエレベーターのなかで、もしも私が精神病院の入院患者になったら、汚名が残りの人生をついて回るだろうと言って彼らは諭した。彼らはもっともな理由から、私が精神病院に属すべき人間ではないと感じていたのである。

  まったく心を決めかねていたけれども、少なくともここに入院すれば、私が日々受けている精神科医との面談は保険で支払われるようになるだろうと私は主張した。私がシーダーズ・サイナイから退去しなければならない期日はたったの1週間後であることも指摘した。時は尽きかけていた。

  エレベーターを降りて婦長に会い、病棟の案内を受けた。車いすでホールへと下りていくうちに、私は雰囲気の全般的な華やかさに気がついた。色調は明るくて、壁はアートワークで覆われていた。部屋はすべて個室で、狭いがまずまずのものだった。

  けれどもすぐに私は欠点に気づきはじめた。公衆電話は廊下の真ん中にひとつあるだけで、電話を使いたい患者が列をなしていた。入院患者の大半は騒々しく軽薄なティーンエイジャーかひどくふさぎ込んだ様子の大人で、彼らは時として明らかに奇矯な振る舞いに出ていた。

  両親の表情はこわばり不安げになった。看護師が早口で驚くほど大量の規則や規制をまくし立てた。訪問時間はきびしく制限され、一日のあらゆる時間が管理されていた。看護師は、これらの規則に例外が認められることはまったくとは言わないにせよまずあり得ないことを念押しした。時が経つほどに私の気分は沈み込んでいった。

  立ち去る段になって、私は病室のひとつへ通じるドアののぞき窓にふと目を向けた。太い灰色の鋼の板を鈍く光らせた、重たそうな格子が十字に張られていた。私は両親のほうを見て言った、「ちょっと待って。私はこんな監獄に入れられるような人間じゃないわ。ここは私の居るべき場所じゃない」。私たちは看護師に礼を言って、静かにそこを後にした。