PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 1/7

第2章 その後(原書10~44頁)

 手術は4時間半にわたって続いた。シーダーズ・サイナイの集中治療室で目を覚ましたとき、私が見たのは光の万華鏡だった。混乱した私は麻酔薬で曇った心を晴らそうと努力した。視点が定まったとき、私は若いブロンドの看護師が一人、私のそばに背中を向けて立っているのを見た。

  私は自分の周りの奇妙な光景に見入った。私の肉体のあらゆる部位からチューブが突き出ているようだった。顔の大半はゴム製の酸素マスクに覆われ、私の背後でブンブンと音を立てる数え切れない機器に私はつながれていた。

  安堵の波がどっと押し寄せてきた。「私は生きてる、生きてる、生きてる!」、その思いが私のなかを駆け巡った。殺風景な白々とした病院の一室に「生きて」横たわっていることが、私には途方もなく紛れもなく素晴らしく幸福なことだった。

  だがすぐに、痛みが恐ろしい強さで私を鷲掴みにした。呼吸のたびごとに、胸が裂けてしまいそうに感じられた。私は泣き叫ぼうとしたが、弱々しい、乾いたうめき声をあげることしかできなかった。それでも看護師は声に気づいて私のもとに駆け寄り、デメロールの投与を行った。注射はほとんど即座に効果を発揮した。もっとも、痛みは薬物によって鈍らされたマスクの下にわだかまっていた。それはこのあと何カ月ものあいだ、そこにとどまりつづけることになった。

  私は自分の状態をなんとかして知りたいと思った。たいへんな苦労をして、自分の体が見えるくらいにまで頭を起こした。そこで目に入った光景の恐ろしさにぞっとして、私はベッドに沈み込んだ。

  私の両腕は長い木製の板に取り付けられ、私の体は血の滲んだ包帯で巻かれていた。体の上にゆったりと掛けられた一枚の薄い白い布の下はまったくの裸だった。私の手や指には添え木が当てられ、包帯が巻かれていた。静脈という静脈には輸血や点滴の管が挿入されていた。私の脈打つ四肢は持ち上げられ、枕で取り囲まれていた。腕をこんな風に十字架風に広げて、体を血の包帯で覆われて、私はまるで不気味な磔のいけにえのようだと思ったことを覚えている。

  看護師のほうに顔を向けて私は弱々しくつぶやいた、「先生はどういう処置をなさったんですか?」。彼女はアレクサンダー・スタイン先生が行った手術のあらましを説明して、それがどんなに特別なことなのかを私に教えた。スタイン先生が私の一件を知ったとき、彼は精根尽き果てるような7時間の手術を終えたばかりだった。呼び出した執刀医はまだ着いておらず、私は大量の内出血を起こしながらそこに横たわり、死の淵を漂っていた。そこでスタイン先生は私の命を救うために手術室にすぐさま戻ったのだった。

  胸部外科手術を行わねばならず、ドクターは私の胸を鎖骨のすぐ下のところで切り開き、胸骨にそって縫い合わせた。この処置は、看護師が教えてくれた、犯人のナイフによって4箇所に穴を空けられた左の肺を治すために必要なものだった。私はいま、なぜ自分が「引き裂かれ」つつあるかのような奇妙に引っ張られる感覚を感じているのかを理解した。

  私は何度も何度も、「彼は私を殺そうとした」とささやいた。肉体的な痛みにいま強い感情的な苦痛が加わり、目を覚ましてからはじめて私は泣いた。むせび泣いたりすることは、痛めつけられ縫い合わされた私の肺を損なうことになるので、私は声をあげずに鳴き、涙が私の顔を伝い落ちた。それから私は、投与された薬とすさまじい消耗との複合効果で、しばしの眠りについた。

  次に目を覚ましたとき、私の精神状態はまったく変わっていた。痛みを伴わない眠りによって一新され、とにもかくにも生き延びたことの非常な幸運に、私の気分は突然高揚した。私が生きているのは主の、犯人の凶行を止めてくれた男性の、執刀医のおかげだと私は感じた。静かに私は彼らに感謝を捧げた。

  扉の向こう側の声によって私の考えは中断した。フレッドが狭い部屋に入ってきた。彼は私の頬にやさしくキスをして、一瞬、沈黙のうちに私のことを見つめた。私のこの、逞しくて、普段なら活力とエネルギーに満ち溢れている夫は、青ざめ、震えて、悲痛に押しつぶされている様子だった。傷を負ったのが私だけではないことはもはや明らかだった。

  彼は、私の両親がニューヨークからの一番早い便でこちらに向かっていて、あと1時間ちょっとで病院に着くことになっていると知らせてくれた。私は二度と両親に会うことのできないまま死ぬことをずっと恐れていた。安堵の念でいっぱいになって、私は彼らの到着が待ちきれなかった。

  ロサンゼルス保安局のカラス刑事がホールで待っていて、私にすぐ会いたがっているとフレッドは言った。質問に答えられるような状態には程遠かったが、面会は必須のものだと刑事は考えていると言う。しばらくして、看護師が刑事を連れて入ってきた。

  「彼は私を殺そうとしたんです」、しわがれた声で私は繰り返した。私はカラス刑事に、それがただの傷害ではなく意図的な殺人であることを理解してもらおうと必死だった。

  穏やかな口調でカラス刑事は私に教えた、スコットランドからの移民だと称している犯人は、映画に出ている私を見て私に狙いを定めたのだと。彼の携帯品から日記が見つかり、そこには「私を天国へと送る」ために私を殺害するという狂った計画が詳細に書かれていた。彼はその後は「天国」で私と一緒になるために、処刑されることを望んでいた。

  日記によると、犯人は私を、このおぞましく邪悪な世界に生きるにはあまりに愛らしく、あまりに善良な「美しい天使」だと思っているのだった。

  カラス刑事は私に、日記に含まれている記述のサンプルをいくつか示した。私は数語を読むのがせいいっぱいだった。手書きの字は異常に小さく、私の定まらない視点の前で文字が踊っているようだった。そもそも私は、私に対するこの身の毛もよだつような計画の、文字に記された明白な証拠を見ることを恐れていた。私は顔を背け、拒絶した。

  刻々と気力が弱っていくなかで、私は刑事に彼が求めている詳細を伝えようと努力していた。ほとんどの質問には間を置かず答えることができた。しかし私が襲撃のもようを思い出したとき、そのイメージが私を動揺させはじめた。

  私の苦痛を察知して、カラス刑事はどうしても必要な件だけを尋ねると、万事は抜かりなく進んでいますとフレッドと私に請け合い、去っていった。

  刑事が扉の向こうに消えるとすぐに、私はまた「彼は私を殺そうとした!」を繰り返し始めた。その文句を唱えている最中、襲撃のもようの鮮明なフラッシュバックを私は体験していた。それはあまりにも生き生きとして仔細に富んでいて、私は自分が本当にウエスト・ハリウッドのあの通りに連れ戻されたのだと信じていた。私はすすり泣き、うめき、助けを求めて叫んだ。看護師たちが入ってきて、私がヒステリーで自分自身を傷つけないように、強い鎮静剤を注射した。それは、長期にわたる回復期間のあいだじゅう私を悩ませ続けたフラッシュバックの最初のものだった。

  両親が着いたとき、私は薬のもたらした無気力状態からは脱していた。彼らが私の状態に心臓がよじれんばかりのショックを受けていることは、草臥れ果てていた私でもすぐに分かった。後に彼らは、苦悶のなかで彼らのことを見上げていた窪んだ暗い目と、その時に彼らが感じた言いようのない絶望を私に話してくれた。

  ベッドに近寄ってきた彼らに私が投げかけた最初の言葉は、「心配しないで。私が感じているよりも、見た目のほうがだいぶ悪いの」だった。彼らは私にキスして、頬に、額に、切られたりひどい傷を負ったりしていない上腕のわずかな部分に触れた。

  涙を必死にこらえようとする彼らの顔は青ざめていた。本能的に私は、どうか泣かないでと彼らに願った。私の周りの人たちが楽観主義の少なくとも幻のようなものを見せてくれているかぎり、私はどうにか自分を保っていられそうだと感じていたのである。

  私が両親に望んでいたのは、もっぱら私の世話をしてくれることだった。それはこのあと長く続く子供のような依存状態への回帰のはじまりだった。

  母のディビーナはベッドサイドで私のことをずっと見守っていた。5フィートにも満たないこの小柄な女性は聳え立つ精神的支柱だった。母は私に一瞬たりとも、私が死んでしまうのではないかと彼女が思っているのを悟らせるようなことはなかった。彼女はいつでも献身的な妻であり母であり、他人の世話をすることに喜びを覚え、またそのことで自分も大きくなっていく女性だった。

  襲撃の後につづく月日のなかで、母の主への信仰とひとびとへの信頼は過酷な試練をくぐり抜けることになった。彼女は悲嘆と苦悩に引き裂かれた。普段なら明るい彼女の眼は悲しみに曇っていた。母が再び微笑み、笑うことができるようになるまでには1年以上の歳月が必要だった。

  父のトニーもほとんど毎日のように訪ねてきてくれた。物心ついたときから私は、ハンサムで優しい父の応援と、彼が私においている信頼とを頼りに生きてきた。私がステージに立ち始めたとき、父はすべてのショーを見に来てくれた。ダンスホールのバレー・リサイタル、学校のタレントショー、地元の劇団、そして最後にニューヨークのプロの劇場。彼は決して多くを言わなかったが、彼の顔に浮かぶ誇らしさ、喜ばしさは、私がやっていくうえでの励みだった。

  襲撃のあとの試練の日々の中で、父の私に対する静かな信念が、私に必要とする力を与えてくれた。私が回復するということについて彼が抱いている自信は伝染性のものだった。私が回復への道のりをほんの少しでも踏み出すときはいつでも、父の暖かなハシバミ色の瞳が私を見つめていた。

  しかし、訪問の際に見せる自信にもかかわらず、父は心のなかでは苦痛と怒りに押し拉がれていた。父の髪は2週間のうちにすっかり灰色に変わってしまった。

  襲撃後の数週間、私は一人でいることがまったくできなかった。部屋に一人きりでとどまることをただほのめかされただけで私は動揺し、完全なヒステリー状態にすら陥った。看護師のなかには、私が常時の付き添いを求めることを、自分が置かれているたいへんな状況に甘えての子供じみた要求だと言う人もいた。本当のところ、誰かに囲まれていたいという私の切なる願いは、すべてを圧する制御不能の恐怖から来るものだったのである。私は魂に誓って、もしも自分が一人きりにされていたら死んでいただろうと思う。

  私は襲撃後の最初の数日間を集中治療室で過ごし、生きるためにたたかっていた。痛みは毛布のように私を取り巻き、デメロールの投与から次の投与までのあいだを私はかろうじて持ちこたえていた。

  次回の投与に到る最後の半時間までに、私ははじめは静かに、それからだんだん大きな声でうめき始めた。時が経つにつれて私は泣きっぱなしになり、私のうめき声は動物のようなキャンキャン、クンクンいう小声に置き換わった。ついに私は、次の投与を予定より少し早めてくれるよう看護師に懇願する手に出た。時には私のみじめなありさまが彼らの説得に功を奏することもあった。もしもこの激しい苦痛の最中に動くことができたら、私はベッドから飛び降り、近くのトレイに置かれた注射器に手を伸ばして自分で注射していただろう。

  母はいつも私のそばにいた。私が自分の体の傷のことで泣いたり心配したときは、こう言って強く私を諭した。「テレサ、あなたの顔は今でもとても美しいわ。そのことで主に感謝なさい!」。母は包帯をあてがい、私の手を握り、穏やかに私に話しかけ、私がいっさいを耐えるための力を授けてくれた。彼女は私が感じているよりもなお強い痛みを感じていたと私は思う。