PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 6 Family and Friends 2/16

 私たちがいなくなってから、母はこれまでより時間を持て余すようになった。折にふれて彼女の考えは事件とその余波のほうへと向かった。ママは自分の感じていることを人と分かち合いたいと切望していたが、ほとんどの人は、彼女の心を蝕んでいる不穏な事柄を聞かされることに耐えられなかった。

 母ともっとも親しい数人の人々は彼女に手を差し伸べたが、ずっと多くの人は逃げ腰で、彼女の苦痛と向き合うことを拒んだ。しばしば人々は、ただ彼女にこう促した、「みんな忘れてしまいなさいよ――考えないようにしなさい」。

 その種のアドバイスはストレスの溜まるものだったが、母をそれより遥かに悲しませたのは、あらゆる友人のなかでももっとも親しい人だと思って頼りにしていた数人が、彼女の最悪の苦難の時期に、ただ彼女の前から姿を消していたことである。

 

 母の抑鬱の時期と歩調を合わせるように、私たち家族は刑事司法制度への対応を長期にわたって経験することになった。裁判と最終的な加害者への判決に関わるほとんどすべての事柄が、母の失意の感情を悪化させた。

 母ディビーナの視点、そして家族の残りの者の視点からすると、すべての配慮、すべての保護、そして正義それ自体までもがひとりの人間、すなわち犯人に与えられているようにみえるのだった。

 驚きと怒りと混乱の混ざり合った声の調子で母は繰り返し続けた、「正義なんてどこにもない、正義なんてどこにもない」と。私たちのうち同意しない者はいなかった。アメリカの刑事司法制度は――そのあらゆる抜け穴、先送り、被害者への配慮の無さ、馬鹿げているほど軽い判決の仕組みによって、私たち家族の苦しみをおちょくっているようにみえたのである。

 判決から何ヶ月も経ってから私たちは、裁判官が陪審説示を省略したため、私の加害者への有罪判決は第1級の殺人未遂から第2級の殺人未遂へと軽減されたのだということを知らされた。

 「どうして第2級で人を10回も刺せるっていうの?」、私の母は詰問した。しかし、いつものとおり、なんの答えも帰ってこなかった。

 加害者が服役するのは判決の半分の期間だけで、仮出所にあたっての審理すら行われず1988年に釈放されるだろうと私たちが教えられたのはさらに後のことである。

 愕然として母は疑問を口にした、あの残忍な攻撃の壊滅的影響から私たちは自由になることなんてできないのかと。

 

***

 

 何ヶ月もの時を要したが、母は憂鬱の落とし穴からどうにか這い上がってきた。私は何度も彼女にセラピーを薦めたが、彼女は神への信、夫と娘たちへの愛、そして私がたしかに生き延びたことへの感謝にすがり、自分で自分を癒していくことを望んだ。

 時が経つにつれて、母の精神状態と私のそれは高度にシンクロするようになっていった。私が一歩前進したときはいつでも、母のほうも勢いづいているようにみえた。

 11月、私がついに事件後最初の女優の仕事を務めることになった時、母の気分は舞い上がった。私がまったく普通で健常な生活に手が届くところまで回復したと信じてもいいと母が最初に認めたのがその時だったと私は思う。このことを知って、彼女は自分に取り憑いていた苦痛や不安をいくらか振り払い、彼女のもともとの信頼心や楽観主義を取り戻すことができたのだった。

 「パパと私で撮影現場を見に行ってもいいですか?」、私がロケ先から電話したとき、彼女はおどけた調子でそう尋ねた。

 「もちろんよ、ママ、そのためにカリフォルニアまで飛行機で飛んで来るつもりがあるんだったらね」、私は答えた。

 「そうか……じゃあまたの機会にしとこうかな……あ、でもいとこのために役者さんのサインを貰ってきてよ」、彼女は返事をした。彼女がそんなに楽しそうに話しているのを再び聞くことができて、私は心が弾んだ。

 数日後、パパはマリアと私に、ママは大喜びで近所じゅうを駆け回って、もうすぐ娘をまたテレビで観れるようになりますからと皆に宣伝していたよと教えてくれた。

 クリスマス前に、マリアと私が休暇のために飛行機で実家に帰ったとき、ママはずっと、ずっと良くなっていた。凛とした冷たい空気と、クリスマスシーズンの興奮と、あの春の恐怖から私たちを遠ざける時の経過が癒しの効果をもたらしているようだった。

 私たちは素晴らしい、幸せなクリスマスのお祝いの時間を持った。私たちがいっしょになって刈り揃えた木に点るとりどりの色の光の瞬きのもとで、私はママのほうを見やった。彼女は長いリボンのひもでTotsieをじゃらしていて、犬がピョンと跳ねて何度もリボンに飛びついてくるそのたびに笑っていた。

 歳月は彼女の顔貌からはがれ落ちたようだった。蒼白さは消え、彼女の眼は明るく輝いていた。

 私は妹とパパもママのことを見守っているのに気がついた。私たち三人は、みな同じ幸福感と安堵のまなざしを彼女に注いでいた。 

 

***

 

 あの殺人未遂は、私の家族全員に――とりわけ私の母に、終わることのない影響を及ぼした。それは彼女に、罪のない無垢な人間は必ずしも守られ、報われるわけではないということを、危険は潜んでいて、いかなるときにでも襲いかかってくるのだということを知らしめた。

 しかしもっとも苦痛に満ちた教訓は、善はいつでも悪に打ち勝つわけではないということだった。私たちの裁判の、そしてほかの多くの類似の案件の結末は茶番劇にほかならないと母は思っている。加害者に12年の刑を言い渡し、たったの6年だけ服役させるというのは、母の意見では、「さあ街に繰り出して人を刺すなりなんなりしてきなさい、どうせほとんど罰せられることなんざ無いんだから」と言っているようなものだった。

 4年以上の時が過ぎた。母は壊れた欠片をひとつひとつ拾い集めて彼女の人生を元通りにしようとしていたが、多くの破片が失われてしまっていた。

 そう、母は再び微笑むことができるようになった。しかし、今のそれはもの思わしげな微笑みで、かつて彼女の顔全体を照らし出していた、屈託のない、周りの人もつられて笑ってしまうようなあのにこやかな笑顔ではない。

 彼女はひきつづきミサに出席し、聖餐を受けているが、彼女のなかになおも時おり沸き起こる怒りと絶望によって、そして、決して適切な答えの与えられることのない宗教的な疑問によって、苛まれ、心乱されている。

 私の母は、かつて彼女が所有していた心の静かなやすらぎや疑うことを知らない信仰心をもはや持ち合わせていない。彼女はいまでも教会に、神に慰めを見いだしているが、時として疑問や葛藤が内なる心の動揺を引き起こすのである。

 あの犯罪が私の母に植えつけたもっとも悲しく、もっとも長引く影響は、根強い徒労感と絶望感である。「なんになるっていうの?」、かつてそんな言葉を母が口にすることは決してなかった。しかし事件後何ヶ月ものあいだ、彼女はこの問いをさまざまな場面に応じて絶えず発していた。彼女の気分があれだけ劇的な好転を遂げたクリスマスの後でさえ、母は時として以前の状態に後戻りすることがあった。

 1983年の2月、私はいま再びニューヨークの家族のもとを訪れた。ママの気分は比較的明るく落ち着いているようだった。父と妹と私は、母といっしょに家族でお出かけをすることに決めて、ブロードウェイのミュージカル『思い出のブライトン・ビーチ』の昼の部のチケットを買い求めた。

 劇場で、私たちはみなママのことをチラチラと横目で見やって、彼女がお芝居を本当に楽しんでいる様子なのを見てとるたびに嬉しさを感じていた。このところあまり目にすることのなかったちっちゃな微笑みが、彼女の口の両端をずっと持ち上げつづけていた。その後、高揚した気分のままで私たちはみな「ママ・レオーネ」のレストランへ行った。

 注文の後、私たちは、とても体格のよいソプラノの歌手が歌うアリアを陽気に楽しんでいた。ママは前菜をパクパク食べて、食事とレストランの華やいだ雰囲気をともに楽しんでいるようだった。

 でもママの良い気分は、隣のテーブルにいた誰かがこう言っているのを彼女が耳にした途端、消え失せてしまった――「ほらあそこ、刺された子がいるよ」。

 ママの目は涙で溢れ、微笑んでいた彼女の口元は下がり、そして彼女は黙って目の前のお皿を見つめていた。「こんなものなんになるっていうの?」、彼女は言った。「私は決して忘れることができない」。彼女はもう食事に手をつけようとはしなかった。私たちはみなすぐに家路についた。

 両親は私の子犬のTotsieをとても愛していたので、マリアと私は遊び好きな白いコッカプーの子犬をプレゼントした。Snowballと名づけられたその犬は、今では父の親友にして遊び相手である。母は犬を飼うことに伴って増える雑用の件で異を唱えていたが、いまではすっかりちっちゃなSnowyを溺愛して可愛がっている。子犬を飼って面倒をみることによって、母は自分の注意を向けられるものを自分の外側に得たのである。

 ゆっくりと、しかし確実に、彼女は苦痛を克服していった。いま再び、彼女は人生を楽しむことのできる、満ち足りた、陽気な女性になった。

 私たちは冗談を言い合い、休暇をともに過ごし、家族で外出し――事件前に私たちが家族としてともに行ってきたあらゆることを分かちあっている。そして、ともに苦しみを経てきたことで、私たちはのきずなは多くの点でより深まっている。私はそのことを神に感謝している。

 私は犯人を、私の母に負わせた苦しみのゆえに憎んでいる。だが感謝すべきことに、彼女は勇気をもって彼女の絶望を克服し、夫と二人の娘とともに愛情に満ちた人生を送っている。

 私の母は――ほかの多くの罪のない被害者の母と同じように――自分自身のことは一顧だにせず、このうえなく献身的だった。彼女は私たちの誰よりも傷つき苦しんでいたに違いないと私は思う。だが彼女は今日、ここにいる。そして、私にとってこの地上でもっとも美しい光景は、母の――微笑んでいる母の顔である。

 

 以下はさまざまなタイプの犯罪の被害者をめぐる発言からの抜粋である。

 「私がもっとも嫌だったのは、夫の顔に浮かぶ苦痛の表情でした。それは決して消え去ることがありませんでした」

「私の娘はいまも悪夢のなかにいます。彼女はごみを出しに行くことさえ怖がっています。私が犯した性的暴行のせいで彼女は少年も成人の男性も、彼女自身のいとこさえも恐れるようになりました。彼女はまだ9歳です」

「もっともショックを受けていたのは私の父でした。彼は3週間誰ともしゃべりませんでした。一ヶ月後、彼は重い心臓発作を起こしました」

「私の親友のベッシーは私が襲われたあと毎日私のところへ来てくれました。彼女は私の家族の頼れる支柱でした。その後彼女はほとんど神経衰弱に近い状態になり、一年以上にわたってセラピーを受けました」

「私はこの犯人が私の愛する家族に対してやったことを決して許さない」

  これらの抜粋は問題の二つの面を指し示している。第一に、家族や友人は、時には肉体的な破綻に到るほどまでに、本当に酷く苦しむものなのだということ。

 第二に、実際の犯罪被害者は、彼または彼女が被害に遭ったことが、彼または彼女がもっとも大切に思っているひとびとを精神的に苦しめているという事実に――ほかのあらゆる問題に加えて――向き合わなくてはいけないのだということである。