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PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 3 Fear 3/6

Ch.3 Fear
対処メカニズム

 自分は恐れているという事実を認めることができたら、次のステップは行動を起こすことである。もちろん、ある日目を覚まして一気にあらゆる恐怖を鎮圧することなど不可能である。しかしあなたは、たとえそれが圧倒的なものにみえたとしても、少しづつそれを削り取っていくことができる。私たちは、恐怖を払いのけることの役に立つような、自由に使えるさまざまな手段を持っている。そのなかでもとりわけ有用なのが、ユーモア、ほかの人に手を差し伸べること、先のことを考えること、セラピーである。

 私たち人間は強い生き物である。暴力的犯罪を乗り越えるということ自体が、人間の強さと耐久力の証明である。私たちが生き残ることを可能にしているまさにこれらの特性が、恐怖との闘いにおいても核心を占めている。

 

ユーモア

 私がインタビューしたほとんどすべての犯罪被害者は、「もしも自分がユーモアのセンスを失ったらやっていけなかっただろう」という趣旨のことを語っていた。私もまた、単純な笑いのうちに宿る驚くべき治癒力を請け合うことができる。笑うという行為は、もしそれが強力な解放手段でないのだとすれば、なんのためのものだと言うのだろう?

 犯罪の直後に冗談を言ったり戯れたりすることは、あなたの精神状態からもっとも遠くかけ離れた事柄だろうというのは確かなことである。しかし私はここ数年の間に、もっとも悲惨な境遇でさえも晴れやかな一面を持っているものだと知るようになった。あなたがくぐり抜けている状況をあなたが知覚するやりかたが、まさしく鍵である。

 自分の体がさまざまな生命維持装置に繋がれていることにはじめて気づいたとき、私の最初の反応は、ショックと、不快感と、そしてある種の魅惑であった。

 しかし時が経ち、これらの機器が私の生活の不愉快で鬱陶しい一要素となっていくにつれて、私はそれらを呪いはじめた。これらの機器になすすべもなく繋がれていることに対する怒りが着実に膨らんでいくのを感じとった時、私は二つの選択肢があると了解した。毎日マシンを睨みつけ、憎悪し、恐れ、それらを醜悪にして不自然なものと捉えるか、あるいはそれらを、当面のあいだ私にくっついている、少々奇妙でおかしな機械の部品として見るか。

 私はチューブやワイヤーやゲージやモニターを見て、それらが私を宇宙空間へと旅立たせるために設計されたSF的な近未来の装置だと思うことにした。看護師がやって来てボタンを押したりモニターを覗き込んだりしているとき、私は「発射準備よし!」などと頭のなかで考えて一人でクスクス笑っていて、その間看護師は私のことを気でも狂ったかという面持ちで眺めていた。

 時に私はそこに横たわった状態で、私はロボットであると自分に信じ込ませてみた。私の体に繋がっているさまざまなマシンによって機能をコントロールされている、人間サイズの特殊な機械人形である。私の空想のなかの「テレサ・ロボット」はスタイン先生によって開発され、ほかの機械生物と違って自分で考えたり感じたりすることができた。

 私はメタリックなキーキーいう「ロボット声」を真似てこんなことを言い、看護師を笑わせていた。「ワタシハてれさ、ろぼつとデス。ワタシハココデ、アナタノイノママニウゴキマス。ステキナイタミドメヲ、ドウカメグンデクダサイマセンカ?」。

 人間界でロボットとして「生活する」生き方はどんなものだろうと想像することは、私を何時間も楽しませた。もしも私の世話をする人間がぶっきらぼうだったり不親切だったりすると、私はこう思ったものだ、「可哀想に、こいつらはただの人間か!」。そしてそれは私を元気にさせた。

 これらの空想は馬鹿げているか、あるいは単純すぎるようにみえるだろうが、実際それはうまく働いて、私をみじめな現実から、まったく想像上のものとは言えどもより明るい世界へと運び出してくれたのである。

 いっけん住みづらい現実に直面したとき、選択は私たちの側に委ねられている。私たちは悲惨な側面を受け入れるか、それとも晴れやかな側面を受け入れるかを選ぶことができる。私はサニーブルック農場のレベッカのように、絶望の只中でも人はいつでも陽気に楽しく生きることができる――私はまったくそうではなかった――と言う気はないが、それでも時々であれば、自分自身や自分の周りのひとびとを涙から笑いへと変えることができるとは言えるだろう。

 サンフランシスコの銀行で働いているシャイナは毎日仕事の行き帰りにバスを利用する。彼女は30代半ばの、元気のいいブルネットの女性である。一年弱前のこと、家へと帰宅する彼女はバスに乗った。バスの後部に変な様子の男がいるのを見て、彼女は中央に座った。ほかの乗客は6人の若い男性と中年の女性ひとりだった。停留所でバスを降りた彼女はすぐに、自分の背後の不快なくらい近い位置に誰かがいるのに気づいた。

 離れようとしたとき、シャイナは背中にナイフが突き刺さるのを感じた。次の息を吸う間もなく、刃が彼女を繰り返し刺し貫いた。持てる限りの力で格闘していた彼女は犯人の顔を一瞥して、ナイフを振り回している犯人がバスに乗っていた「変な」男であることに気づいた。

 幸いにもバスの運転手が駆けつけてきて犯人をシャイナから引き離し、彼女はよろめきながら安全な位置に逃れた。救急隊がすぐに到着してシャイナは病院へといそぎ搬送され、そこで彼女は背中の4箇所と腕1箇所の刺し傷の治療を受けた。

 緊急治療室のドクターが彼女の傷を縫い終わるのに夜どおしかかった。シャイナはそこに横たわって、彼女を縫い上げるのに何色の糸を使っているのかと彼らに向かって冗談を言ったことを覚えている。

 私が彼女に、あんな残忍な暴行を受けたあとでどうして冗談を飛ばす気分になったのかと尋ねたところ、シャイナは、それはまったく自然なことのように思えたと答えた。「結局のところ」、彼女は言った、「ある意味でそれはバカバカしいくらい滑稽だったの。人生って滑稽なものよ。つまり、私はつまんない仕事から家に帰る途中で、家のほんのすぐそばにいて、するとそこにいたまるっきり変なヤロウがイカレポンチと化して、なにひとつ理由もなく私を刺した。これはまったく気の滅入る恐ろしい状況ではあるけれど、それと同時にあまりにも突拍子がなくて、私を笑わせるの。それに、私は生きていることがとても嬉しかった。あいつが私を刺したとき、私はあっさり殺されていたことだってあり得た。だから私はあの件について、ハッピーになれる理由がいろいろあったってわけ」。

 シャイナは病院で5日間を過ごし、彼女の腕の切断された神経や腱を修復するためのマイクロサージャリーを受けた。病院のスタッフは、彼女があまりにも速やかに回復していくことと、彼女の意気があまりにも「上向き」であることに驚いた。シャイナはジョークを言い続け、もっぱら物事を面白おかし気に語った。彼女は加害者を「あの生き物」と、彼女の腕の縫合線を「注射痕」と言い表した。彼女のギプスを「棍棒」と、彼女に投与される鎮痛剤を「私の麻薬」と呼んだ。

 あなたはこれらを、シャイナが自分の本当の感情を覆い隠すために行使した、一時的で、ヒステリックでさえある反応で、やがて彼女は破綻してボロボロになってしまうのではないかと思うかもしれない。しかしシャイナに関して驚くべきことは、彼女は今でもすべての出来事をユーモアとともに語り、肉体的にも精神的にも劇的な回復を遂げているということである。

 シャイナは手の機能を完全に回復し(良くて部分的な回復どまりだろうと予測していたドクターにとっては驚きだった)、仕事に復帰し、精神科医とは、彼女がもうセラピーを必要としていないと感じる前までにたったの数回しか会わなかった。

 そう、シャイナは今でも怒りを覚えている、しかし彼女は、自分の境遇をユーモラスな視点から見ることがそのときの彼女の役に立ったし、いまでも役に立っていると信じている。

 もしもあなたが犯罪被害者で、自分自身や自分のこれからの見通しを根っからおもしろいものだと考えることができなかったとしても、ユーモアの恩恵を受けることはなお可能である。あなたは、あなたを笑わせてくれると知っている友人や、いつもあなたをからかってあなたを微笑ませている大好きなおじさんやおばさんを訪問客として呼ぶことができる。

 もしもあなたがおもしろい友達や親類を持てるほど十分には恵まれていなかったとしても、好きなコメディアンのテープやビデオを鑑賞して、プロのおもしろい人たちのほうに関心を向けるという手もある。それに、ユーモラスでもあり気分を盛り上げてもくれる本はそこらへんにいくらでもあるものである。

 秘訣はあなたを笑わせてくれるものを見つけ出すことである。あなたが大半の時間を涙ぐんだり欝に沈み込んだりしていたとしても、あなたは自分自身と契約を交わして、「一日のうち一時間でも笑ったり、あるいは少なくとも物事のより明るい側面を眺めること」に合意することができる。家族や友人を巻き込んで助けを求めてもよい。あなたが出来そうなことのいくつかを挙げると、お気に入りの映画のビデオを借りたり、マンガを買ってみたり、好きな看護師に無害ないたずらを仕掛けたり(あるいはちっとも好きではない看護師にも!)、自分の顔にピエロみたいなペイントを施してみたり、ちょっと下品なジョーク集を買ってみたり、などである。

 あなたの気分が良くなっていくにつれて、あなたは自分との契約を、2時間、3時間、あるいはもっと長い時間を、あなたを楽しくさせる娯楽に積極的に携わるというかたちに変更することができる。うまくいけば、じきにあなたは自分の生活に笑いを加味することにすっかり慣れて、契約など交わす必要はもはや全然なくなるだろう。

 私の子犬のTotsieは、私にとって尽きることのない笑いの源だった。私が恐ろしい肉体的苦痛のなかにある時でも、彼女のおどけたしぐさは私を喜ばせた。私は彼女をシーツの下に隠して、彼女が私の包帯や、私に繋がっている装置で遊んでいるのを観察していた。私は彼女の足先を赤いインクにちょっと漬けて、私のギプスに彼女の「サイン」を書いてもらった。彼女がゴムみたいな子犬の足でふらふら歩き回ったり、私の点滴のポールの周りをぐるぐる走り回った末に疲れてぺたんとしゃがみこんだりしているのを見るのは本当の楽しみだった。それは私の恐怖や痛みを消し去りはしなかったけれども、助けにはなった。

 Victims for Victims(訳註:テレサ・サルダナがたちあげた犯罪被害者の支援団体)で、私はさまざまな暴力の被害を受けた人たちとしょっちゅう一緒になっている。外部の人間には異様にみえるかもしれないが、私たちはときどき寄り集まって、加害者や自分の傷や司法制度などについて冗談を飛ばし合うことがある。私たちはそれらの問題について非常に深刻になることもできるけれども、もしも私たちのすることが泣き叫ぶことだけだったら、それは所属していて相当に気の滅入るグループになってしまうだろう。

 私たちの多くは自分を襲った輩どもに、軽蔑的な、しかしコミカルでもある名前をつけている――「クルクルパー氏」、「まぬけ太郎」、「奇怪機械」、「顔面ブサイク」。そしてお互いに尋ね合うのだ、「あなたのキモ男はいつ出所してくんの?」などと。私たちは連中がブチ込まれている監獄を「サマーキャンプ」だとか「カントリークラブ」と呼び、これらの凶悪な犯罪者たちに「更生のための猶予期間」の恵みが与えられていることの真の異常っぷりを笑い合うのだ。私たちは(制度の改変に向けた取り組みを行うことに加えて)それを冗談めかすことができなかったら、気が狂ってしまうだろうと感じていたのだ。 

 私たちのなかでも演説を行うことのある人は、時に自分自身を「プロのspokesvictim」と称している。私たちは、他のひとびと(非・被害者)が犯罪被害者にまつわるタブーを乗り越えることの手助けをしようと努めている。すなわち、たとえ私たちが刺されたり、撃たれたり、犯されたり、撲られたりしたとしても、私たちはジョークを言ったり、笑ったり、再び幸せになったりすることができるということを彼らに認識してもらいたいのである。銃撃を受けて麻痺状態になったメンバーの一人は、彼女の電動車いすを「スピードレーサー」と命名して、いつも小さな子供にそれを乗り回させている。彼女は笑いを愛する心も、生きることへの熱意も失っていなかった。ユーモアを保ち続けることは、目先の素晴らしいこと――私たちは生きているというまぎれもない事実を私たちが確認することの役に立つのだ。

 私たちが会合を開くクラブハウスの雰囲気は、ごく陰鬱な状態から前向きなばかっぽさにまで及ぶ。私たちは感情のバランスを取ろうと努めていて、私たちのうちの一人、あるいは何人かが「沈んだ」状態にあるときは、お互いに最後まで丁寧に話を聞くことにしている。しかしそれでも私たちは、みなが分かち合うことのできるような楽しさを多少なりとも呼び起こそうとしている。