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PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 1/9

第4章 怒り(原書75~117頁)

 襲撃後まもなくして人々が私のもとを訪れたとき、彼らは私が染みひとつない白い包帯にくるまれ、苦痛のベッドの上で青ざめながらも愛らしく、ありえないくらいの僅かな可能性で命を救われた「ラッキーガール」としての感謝の念からくる至福の微笑みをどうにかこうにか浮かべていることを期待していたと思う。要するに彼らは「聖テレサ」の姿が拝めるものとばかり思っていたのだ。私の生還が医師たちからも門外漢たちからも異口同音に「ほとんど奇蹟だ」と形容されていたことは事実であるが、にもかかわらず、私の経験は私を、この世のものとも思われない美徳の化身に昇華させたりはしなかった。私の訪問者たちは、幻滅すべきことに、はらわたを煮えくり返らせて、歯をむき出し、泣きわめき、怒鳴り散らしている、すさまじいばかりの怒れる犯罪被害者に対峙させられている自分自身を見出すことになったのである。

 その事実が私にばつの悪い思いをさせたときはいつでも、攻撃を受けた後で怒りを覚えない人間なんて考えられないと私は自分に言い聞かせている。事実を正直に受け入れよう、刺されたり撃たれたり犯されたり殴られたり脅されたり誘拐されたりすることは、あなたを怒らせるに決まっているのだ。

 ほかの人間があなたのもとに押しかけてきてあなたを肉体的かつ/あるいは精神的に傷つけたとき、あなたが完全な麻痺状態に陥っているのでもないかぎり、あなたは表に出てくる怒りやあるいは内なる怒りに反応を起こすだろう。自分の意志に反して干渉を受け、傷つけられたリ、虐待されたり、変えられることは、私たちを無力感の状態に置く。それが私たちに、世界や、加害者、神や、制度に対する怒りを抱かせる。

 私は襲われた後でもろもろ不自由な状態だったので、怒りのはけ口を見つけ出すことは私にとってとりわけ困難だった。私は出来なかった、

 

蹴ることが――足に包帯が巻かれていたから

泣くことが――泣き声をあげると傷を負った肺が痛んだから

物を投げることが――腕に添え木があてられていたから

叫ぶことが――胸が裂けてしまうだろうから

 

 私の沸騰する怒りは内側に貯め込まれていき、唯一の可能な解放手段は言語によるものだった。私がその当時再三にわたって口走っていたおそろしい事どもを誰もテープに録音などしていなかったことに感謝している。私が自分の言ったこと――その大半はきちがいじみた妄言と五十歩百歩のものである――を誇りに思う理由などあるはずもないが、しかし、口汚い罵りや自殺の脅しやその他の醜い発言の終わりなき奔流は、私のひどい怒りを解き放つ役には立ったのだった。

 看護師のなかには、私の憤激を叱責して、いかに自分が恵まれているかをよく考えるべきだと私を諭し、私の激しい毒舌について互いに舌打ちをするような人もいた。彼らの非難は私に罪悪感と恥ずかしさを抱かせた。しかし、振り返ってみて、私はあれらのやかましい、長たらしい、攻撃的な大演説にふけっていたことに関して、自分自身を許さざるを得ない。なぜなら、いま私がほかに選択肢はあったのかと自分に問うてみたとき、答えはノーだからである。

 

怒っている…しかし生きている!

 怒りの良いところは、それが命を注ぎ込まれた感情だという点である。怒りを体験することは被害者を元気づけることになり得る。怒りはかれに、自分がまだ生きていることを教えてくれる――蹴ったり、わめいたり、かんしゃくを起こしたり、苛立ったり、すねたりしているが、しかし生存してもいるというわけだ。怒りを感じることは、死んでしまってなにも感じなくなることより百万倍よいことなのである。

 私は自分が無感動になったとき――感情を失い、ただ流されていくがままの状態になったとき、自分のことを最も案じていたのを覚えている。そんな日々に、誰かがあるいは何かが自分をポジティブにであれネガティブにであれ刺激してくれたら、それは私にとってありがたいことであった。

 

***

 

 怒りはさまざまな形と大きさで姿を現す。それはあなたの中に潜伏していて、あまりにも静かなのでそこに存在していることにほとんど気づかないこともある。それはちっちゃな痛みのようなもので、日によってはそれが少しばかり煩わしいものに成長して、あなたをピンと張り詰めさせ、とげとげした気分にさせ、むっつり不機嫌にさせることもある。それは誰の目にもすさまじいほどに面食らうほどに明白で、終わりなどなさそうな激情のほとばしりとなって噴出し続けることもある。あるいはそれは、成長はしないが消え失せもしない、深い、不変の、陰鬱な不快感である場合もある。

 多くの犯罪被害者は襲撃後まもなく、怒りを表にあらわし、あるいは怒りの感情と付き合っていくことになる。平穏な心境や、生きていることの感謝の思いを一時的に感じることもある。だがしばしばこれは、諺で言うところの嵐の前の静けさである。怒りの時機やその対象は被害者によってまちまちだが、それはいずれ表面化する。そしてそうなったとき、それを無視してはいけない――注意を払わず放置していると、それはあなたを食い荒らして、おしまいにはあなたを敵意に満ちた否定的な人間に変えてしまうからである。

 もっとも速い、もっとも徹底的な回復を成し遂げる被害者は、自身の怒りを認識し、それに対応していく人である。この点にさらに踏み込んでいこう。あなたが最初に感じた怒りを受け入れ、それをあなたの「バイタルサイン」――あなたが生きており、あなたの置かれた状況に反応を示しているということの具体的な証拠とみなすことは、まったく健康的なことである。

 

今そこにある怒り

 今日、私は怒っているか?私の答えは断固たるイエスである。しかしそれは、2年前、あるいは1年前ですら感じていた、強烈でしばしば制御不能の怒りとは別種の怒りである。

 この頃の私は通常であればごく冷静である。私は非常に活発で、さまざまなことに関わり続けていて、つらい考えや記憶に拘泥することのないよう努めている。しかし時として、襲撃で負った体の古傷が鎌首をもたげ、私を思いがけず怒りへ駆り立てることがある。

 天候が変化して、回復不能な損傷を受けた私の指が痙攣し、痛み、カニのはさみみたいな醜い恰好に変形してしまったとき、私は怒りに駆られる。私はかつて自分の指がどれだけ優美でエレガントで痛みとは無縁だったかを思い出し、おなじみの怒りの気泡がふつふつと数を増していく。

 私がデパートの試着室で、蛍光灯の照明が無慈悲に照らし出している自分の体の傷に向き合ったとき、私は怒りに駆られる。そしてその怒りは、ショックを受けた売り子の哀れむような視線によっていっそう増幅されることもある。

 そうなのだ、服を買うこと――私はそれがとても好きなのだが――は、私の「怒りのボタン」のスイッチを押す行為でもあるのだ。もちろん私は、選ぶ服の種類を自分の傷(それは整形手術によって以前よりずっと目立たなくはなったものの、パンケーキのようなメイクで覆わないかぎり、いまだに目で見てわかる状態である)を隠すようなものにすることを余儀なくされている。

 洋服の陳列棚を見て回っているとき、傷を隠してくれると同時に洗練されて魅力的に見えるファッションを探すことは、既に私の第二の天性になっている。

 素敵な見た目の流行りの洋服を試着してみて、ほかのすべての点では申し分ないのに、ネックラインが私にはあまりにも低すぎたとき、私は怒りに駆られる。自分が二度とつけることのできない可愛いらしいビキニが列をなしている光景を前にして、私は怒りに駆られる。そして、かつては大好きだった肩ひものないイブニング・ガウンを目にしたとき、私は怒りに駆られる。

 そんな時に、私は自分が着ることのできる服を何着も試着して自分を慰めている。それからしょっちゅう自分にこう言い聞かせている、私は済んでのところで――名付けるとすれば――「お空の上のばかでかいショッピングプラザ」に通う羽目になるところだったのだと。

 ほとんどの場合、私は今でもお気に入りのブティックで楽しく過ごすことができている。そしてショッピングの最中に楽しさより怒りのほうを感じている自分に気づいた日には、私は売り場の棚から離れて、代わりになにかほかのことをすることにしている。

 

 ニューヨークやロサンゼルスのショッピングモールだけが私の「怒りのトリガー」ではない。ほとんど毎日、私は自分の日課のひとつとしてダンス教室に通っている。時にはバレーを踊り、時にはジャズダンスを、タップダンスを、エアロビクスを。私は熱心にダンスに取り組むことで得られる芸術的な満足感と肉体的な解放感をともに愛している。しかしこれらの授業の際に、私はしばしばつらいジレンマに直面することになる。

 大半のダンサーは、窮屈感が少なく上半身に綺麗なビジュアルラインを与えてくれる、胸元の大きく開いたVネックやスクープネックのレオタードを着用している。襲撃後に私は、動きを大きく制限することのない、高いネックラインの、可愛らしくモダンダンスウェアをなんとかして探し出していた。

 私は自分の華やかな色のレオタードに満足してはいるけれども、時として、バールに整列しているほかの女性を見回し、彼らのネックラインにどうしても視線が引き寄せられてしまうことがある。私の目は、むき出しになった鎖骨と上体とのあいだの、女性の体のなかでかくも美しい部分の、滑らかで無傷のラインに釘付けになる。そして私は眩暈をおぼえはじめる。私のなかに湧き上がってくるのはほかの女の子の愛らしい肢体への妬みではなく、加害者が私にやったことに対する純全たる怒りである。

 そんな時、私は自分が練習用のバールを握りしめ、歯を食いしばっていることに気づく。その滑らかで優美なネックラインと切れ込みの眺めは、私を一度ならず気絶寸前にまで追い込んだ。そのとき私は自分の内なる力を総動員して、今行っている課題に集中し、音楽に没頭し、ダンスが私をより良い心のありかたへと運んでいってくれるように心がけてみる。たまにそれはうまくいく。

 

ほかにどうすることもできない時

 私は自分の怒りをいつでも可能なときは建設的に利用するべく最善を尽くしているが、時には、私が鏡に見入り、自分が決して完全に振り払うことのできない傷を眼前にしているような日もある。私の体が決して元通りにはならないということを、ひとびとに対する私の純真で誠実な信頼が一人のいかれた男によって永久に奪い去られたことを、そしてこれは悪夢でも空想でもなく、厳しく冷酷で――何より悪いことには――取り消しようのない現実なのだということをつくづく噛みしめているような日もある。

 そんな折には、虚飾のない純全たる怒りが私に押し寄せる。もしも私がその怒りを回避したり、エネルギーを別のことに振り向けてそれを脇へそらすことができなかった場合、私は怒りに屈服させられて終わることになる。私はどこか人の来ない安全な場所を見つけて、怒りを露わにし、怒りに屈し、それが私の感情を溢れさせるがままに――一時的にではあるが――する。

 その際に私が何をするかは場合による。おおむね私は、古くさい空気枕をブン投げたり、長椅子を蹴っ飛ばしたり、叫んだり、がなったり、フラストレーションで泣いたり、私に振りかかった運命に対する怨嗟の声をあげる。私はそれを、自分が完全に疲れ果てるまでひたすら続ける。やり切った後すぐに私の気分はずっと良くなり、再び同じことをしたくなる強い衝動に駆られるまでにたいていは何カ月もかかる。

 だがもしも、怒りをぶちまけたいという圧倒的な欲求が、その種のいかなることをするのにも不向きな場所にいる時あなたを襲った場合には、どうすればいいのだろうか?数々の機会に、レストランや空港や事務所などの不適切な場において、四囲に轟きわたる長広舌をまくしたて始めて後で恥じ入った経験を重ねたあとで、私は「アングリー・ブック」と自分が呼んでいるものを対策として思いついた。私はハンドバッグの中に小さなメモ帳を入れて持ち歩いている。私がもし怒りで爆発しそうになっていて、そしてその憤怒のさまを周りの人に見せたくなかったとき、私は自分の怒りを紙に書き出すことにしたのである。私はただくだんのノートをさっと取り出し、私の頭の中のあらゆる下品な、どす黒い、おぞましい、嫌らしい、怖ろしい考えを猛然と書きつけていく。私のなかで進行しているものを書き終えた頃には、私はたいてい、帰宅するまでのあいだ真っ当にふるまっていられるくらいに落ち着いている。もし帰ってからもなお私が怒りでいらいらしていた場合には、私は吠え声とともにそれを吐き出させるのだ!

 

 最近私は、ほかの女性の痛みによって引き起こされた感情の爆発を経験した。Victims for Victimsでの活動をとおして、私は毎日のように犯罪被害の多くの実例に接している。電話口で、あるいは直接本人に会って、レイプや強盗、傷害、殺人の顛末を次から次へと聞いている。私は自分が関わるおのおのの人に感情移入をするが、自分自身の心の平衡を保ちつつ、彼らに助言をすることができるくらいに自分が強く明晰であるために、彼らの痛みから距離を置くためのある種の方法を編み出さねばならなかった。だが時として、ただ一人の被害者の物語を聞くことが、私を否応なしに激怒へと駆り立てることがある。

 ほんの数週間前、私は中西部に住むバーニスという女性と話した。彼女のかつてのボーイフレンドがバールで彼女に激しく襲い掛かり、彼女を殺害しようとした。彼女の英雄的な奮闘と生きる意志とによって、バーニスはかろうじて生きながらえたが、彼女の怪我と肉体の損傷は甚大だった。彼女の顔の大部分は回復不能の麻痺状態に陥り、彼女が頭部に受けた打撃は、頭皮を剥ぎ取られたといっても過言ではないほど酷いものであった。

 バーニスは大規模な整形手術を受けたが、彼女が自分の「もっとも美しい誇りと喜び」だったと私に語った、ふさふさしたつややかな黒髪は、大部分が二度と元のように生えてはこなかった。そのため襲撃以来、彼女はかつらを付けることを余儀なくされていた。

 バーニスは極度にふさぎ込んでいて、気持ちを奮い立たせることがままならず、強い自殺願望にとらわれている。彼女のかつてのボーイフレンドは今は獄中にいるが、数年のうちに仮釈放される予定である。彼女は私に、出所したら彼が自分につきまとい、殺そうとする――彼は親類をつうじてそのような趣旨のメッセージを送りつけていた――ことを心から確信していて、そのため痛みなく安らかに自殺したい誘惑にかられていると語った。折にふれてバーニスは、この狂った男が彼女のために準備している血まみれのむごたらしい死よりは、自分自身の手で穏やかに安らかに、眠るように死んでいきたいと感じているのである。

 バーニスとの会話の後で、私はあまりにも激しい怒りにとらわれ、受話器を置くのもやっとだった。私は壁を何度も何度も激しく叩き、この冷たく堅固な面に私の憤激をぶつけていた。私の心のなかにさまざまな問いが湧き出てきた。この気の毒な女性は、どうしてこんな絶望的な恐怖と悲惨のなかで生きていかねばならないのか?彼女を襲った邪悪な加害者はなぜこんなにも早く釈放されることになっているのか?人はどうしてこんなにも理不尽に、暴力的に、人を傷つけ殺そうとするのか?すぐに得られるような答えはなかった。それで私は、ぐったりと疲れてベッドに倒れこむまでずっと壁を叩き続けていた。

 この種の行動は大人げないように見えるかもしれないが、ほとんどの精神医療の専門家は、怒りを表にあらわすことは往々にして、怒りという悪魔から逃れるための効果的で健康的な手段だと考えている。もしあなたが誰も傷つけず、ただこのたまの解放にあなた自身だけを巻き込んでいるのであれば、それはあなたのなかの「怒りのエナジー」を一掃して、あなたが人生のなかで他のすべてのことをうまくやっていくための助けになるだろう。