PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評の問題点

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評には被害者の冨田真由さんへの配慮に欠ける面があると私は感じていた。事件直後の2016年5月27日付の「『ツイッターのブロックや着信拒否をするのは危険』ストーカー相談の専門家に聞く」という見出しを掲げた弁護士ドットコムのネット記事で小早川さんは「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「ブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」というきわめて直截的な強い表現で、被害者へのダメ出しを行っている。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。

一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです。着信拒否するなら、その前に別の連絡窓口を作っておいたり、ツイッターをブロックするならツイッターそのものをやめないといけない。

他の人にはリプライしているのに加害者だけを無視している状況でした。書き込み内容からして仕方ないのですが、加害者からすれば、どんどんストレスがたまっていく状況。ブロックは良くなかったと思います。

上の記事も含めて、小早川さんは小金井の事件についてメディアで論評するたびに、ツイッターのブロックがストーカーの感情を悪化させる危険な行為だとの持論を必ず述べ、それが事件の主因のひとつであるかのような印象をひろめてきた。たとえば2016年12月24日付の朝日新聞東京都内版が「小金井女子大生刺傷事件」を取り上げた年末の回顧記事で小早川さんはこう語っている。

「不特定多数が閲覧できる場で特定の人をブロックする行為は、『仲間外れにされた』と強く感じ、憎悪が激しくなる傾向にあります」。そう指摘するのは、ストーカーやDVの相談に乗っているNPO法人「ヒューマニティ」(東京)理事長の小早川明子さんだ。

そしてこの記事のネット版(現在は削除されている)には

 ネットストーカー、どう身を守る 「仲間外れ」怒り増幅:朝日新聞デジタル

 という、冨田さんのしたことが人を「仲間外れ」にする行為だという含意を孕んだ見出しが付けられていた。

 

あのような凄惨な事件の報道にふれたとき、人は誰しもこんな恐ろしい目に自分が遭うことだけはなんとしても避けたいとの思いを抱く。そこで人は半ば無意識のうちにこう考えるようになる、この被害者は襲われるに足るなんらかの理由があったのではないか、いや、そうであってほしい――もしそうならば、私がそれをしないように心がけているかぎり私が被害に遭うことはないだろうから。当の被害者からすれば悪魔的というほかないこの大衆心理について、1982年にアメリカで起きたストーカー刺傷事件の被害者である女優テレサ・サルダナが事件から4年後の1986年に上梓した主著Beyond Survival(Bantam Books刊)からふたつ引用しよう。

ダイアンの身に起きたことを知った人々は、彼女はいくぶんかは自業自得だった、あるいは事件は避けることができたと示唆するような類の意見をしばしば口にします。そんな言葉を聞かされると私の理性は吹っ飛びます。それは心底から私を怒り狂わせます。次第に私は理解しました、人間は恐ろしい状況に対峙したとき、自分の身にはよもやそんなことは起きるまいと信じることができるように、物事に理屈をくっつけ合理化したがるのだと(p. 211) 。

人はこういうことを自分に言い聞かせることがままあります――もしも被害者が用心をしていれば、こんなことは起こらなかっただろう、したがって、もし自分が用心していれば、この手のことは自分の身には起こらないだろう。この種のロジックに基づいて、人は被害者にこんなことを尋ねてしまうことがあります――「どうしてあなたはドアに鍵をかけていなかったの?」「どうしてそんなに夜遅くに外出したの?」「その窓をちゃんと閉めていればこんなことは起こらなかったんだよ」――そんな言葉を声高に口にしてしまうのはよくあることです。そうした無神経な問いかけや意見は、被害者を非常に傷つけます。それは憤りや自分を責める気持ち、戸惑いを被害者の側に引き起こしてしまいます (p. 240) 。

 

小早川さんの唱えるブロック害悪論は凶悪事件の報に接した大衆が抱く不安心理を和らげてくれる格好の処方箋でもあったので、いわば識者のお墨付きを得た「オフィシャルな被害者の落ち度論」として勢いを得て、広く世間に浸透していった。小早川さんは日本でストーカー犯罪が起きればメディアから引く手あまたで意見を求められる抜きんでたオピニオンリーダーである。オピニオンリーダーの言葉は鵜呑みにされ、なお悪いことに受け売りされる。2017年2月の事件の裁判の際に山本寛というアニメ監督が、冨田さんが最終的にツイッターをブロックしたことについて自身のブログで「気のキツイ子」などという酷い言葉を使って冨田さんを誹謗中傷し物議を醸した。ブロックを被害者の決定的な落ち度だとしてああも悪しざまに言う山本の論は明らかに小早川さんの受け売りである。

 

*

 

小早川さんによる小金井事件の分析の根本的な問題点のひとつは、被害者と加害者の関わりがあたかもツイッターだけだったかのような体で論を進めていることである。「SNS時代の新たなタイプのストーカー」というシナリオにはめ込むために、小早川さんは事件に到る経緯を恣意的に編集している。冨田さんの手記や調書にあるように、犯人のSNSへの書き込みは事件から遡ること約2年前の平成26年6月から始まっていた。あの犯人はもともと冨田さんのブログのコメント欄に盛んに書き込みをしていたのである。ただ書き込むだけでなく、冨田さんが出演する演劇の舞台に何度か赴き(冨田さんはメディアの杜撰な報道のせいで肩書すらも正確に伝えられず、それが別の大きな二次被害の源泉になっている。事件直後にメディアはおそらく警察の広報にしたがって冨田さんをアイドルだと一斉に報じ、その後しばらくして、シンガーソングライター、芸能活動をしていた女子大生などへと呼称を変えていった。しかし冨田さんは実績ベースでは、メディアがほとんどふれていない女優として舞台やドラマ、映画でキャリアを積んできた人である)、そのうちの一回で冨田さんに直接交際を申し込んでいる。それに対して冨田さんは、「ごめんなさい、いまは大学の勉強や舞台とかを頑張りたいので付き合えません」と返答した。これはあの事件の裁判の際に検察側の被告人質問で犯人自らが証言していることである。1対1のお付き合いはできませんと冨田さんがじかに対面で断っても引き下がらず、なおもブログに結婚を申し込むメッセージを送り付け、その後音楽活動をはじめた冨田さんのライブにも出向いていって、2016年1月17日のライブ終了後につきまとい行為をして冨田さんに恐怖を与えたその翌日、とうとうツイッターにまで乗り込んできた、これが実際の経緯である。小早川さんはツイッターの書き込みが被害者と加害者のファーストコンタクトであったかのような架空の前提で、「1対1の関係を求めてきている。このときにストーカーの芽を摘まないといけなかった(2016年12月24日付 朝日新聞東京都内版の記事)」などと冨田さんの初期対応のまずさを指摘し続けているが、これは事実に反する言いがかりである。小早川さんが筋書きを書いた脚本の中で、冨田さんはツイッターに書き込みをした1ファンをなんとなく気に入らないとかの漠然とした理由で無視し続けたために相手の感情をこじらせてストーカー化させ、さらにブロックまでして憎悪を煽りたてとうとう襲われてしまった不当に愚かな反面教師の役を演じさせられている。

 

小早川さんが事件の「決定的」な引き金だと断じていたツイッターのブロックに関しては、冨田さんは決してほかの多くの人がやっているように多少気に障ることを言われたという程度の些細なきっかけであっさりブロックをしたわけではない、という点を強調しておかねばならない。小早川さんは冨田さんが犯人に返信をしなかったことを「加害者だけを無視している」として咎めてもいるが、それは今述べたように、ツイッターへの書き込みをしてきた時点で既に犯人は断ってもしつこくつきまとってきた紛れもないストーカーだったからである。いっぽうで冨田さんは、不特定多数が閲覧できるSNSの場で犯人を公然と揶揄しさらし者にするようなことは一切していない。遡れば2年近くに及ぶあの男の好き勝手な言動、ふるまい、要求を、冨田さんは文句を言わずひたすら耐え忍んできた。プレゼントを返せと何度も恫喝されれば言われたとおりに返却した。するとあの男はなぜプレゼントを返したと激昂し、大人しくなるどころかいっそう酷い罵詈雑言の嵐を送り付けてきた。この度を越した理不尽、傍若無人の極みに、それまで我慢に我慢を重ね、深く傷つき苦しんできたであろう冨田さんが文字どおり「仏の顔も三度」でストーカーに対してとった最初にしてほぼ唯一のアクションがブロックである(なおこの点に関して文末に補足)。しかし小早川さんが、最終的にブロックするに到るまでの長い道のりにおける被害者の心中を思いやることはない。小早川さんがもっぱら忖度するのは被害者ではなく、やりたい放題の末にブロックされた加害者の心の傷である――「ブロックされて、絶望的になったんだと思います」。いっぽう小早川さんなりの被害者へのフォローとは次のようなものである――「ただ、被害者のほとんどは、初めてストーキングを経験する人です。こうした指導・アドバイスできる人が回りにいればよかったと思います。とても残念です(2016年5月27日付 弁護士ドットコムの記事)」。要するに小早川さんは、被害者がとった小早川さんの評価では決定的にダメな行動を、最終的には被害者の無知に帰するのである。さらに言えば、小早川さんは冨田さんが被害に遭ったこと自体をも冨田さんがストーカーについて無知であるがためのことだと理由づけようとしている。

 

現実に被害者はストーカーに襲われてしまった。その結果から逆算して、被害者は無知ゆえのヘマをなにかしたはずだという前提に立ち、「指導・アドバイスできる人」の目で被害者のとった行動を逐一チェックしていく、これが小早川さんによる小金井事件の論評の基調である。小早川さんの叙述の中では加害者が後景に退き、被害者である冨田さんが前面に押し出されている。しかし冨田さんは、最大限の配慮をもって遇するべき残酷な犯罪の被害者というよりは残念な失敗者として矢面に立たされているのだ。小早川さんは「残念です」という言葉を、犯罪被害者にその言葉を投げかけることの残酷さを自覚しないまま冨田さんに向かって発している。小早川さんのいう「残念」とは、「貴方は正しくはこうしていれば被害に遭わなかったはずなのに、残念でしたね」という意味での「残念」だからだ。小早川さんが展開する論は事件の原因をもっぱら被害者=失敗者の失策に帰そうとするおぞましい自業自得論の相貌を帯びてくる。

 

昨年12月に出版された小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』では、小金井事件にも一節が設けられている。その中の「もちろん、(プレゼントを)返せという加害者の執拗な要求があったからであって、どうしていいかわからず、苦しんだと思います(40頁)」というくだりに、小早川さんが冨田さんをどういう目で見ているかがよくあらわれている。小早川さんにとって冨田さんは「どうしていいかわから」なかった人なのだ。翻って小早川さんはご自分のことをどうしたらいいかわかっている人、「指導・アドバイスできる人」だと思っている。その自負のもとに、小早川さんは「ここはこうすればよかったのだ」という、ご自分が考えるところの「正解」を教示していく。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります。返す理由と被害者が苦しんでいることを冷静に伝えることです。『これは悪意で返すのではないですよ。お断りをしているのに、返信がほしいとか、あなたの要求が強いので、返さざるをえないんですよ。それで彼女もすごく苦しんでいます』と言ってもらうのです(40頁)」といった具合である。しかしこれはタラレバの話であって、小早川さんのアドバイスどおりに行動してうまくいくかどうかは実際にやってみなければわからない。こんな風にやけに丁寧に応対してもらえたことでまだ脈があると思い込み、あるいは「下手に出ればつけあがる」で調子に乗って、つきまといを継続するストーカーがいるかもしれない。プレゼント返却の際はできれば代理人を立てろとも小早川さんは言っている。あの犯人は小金井の事件の3年前に、ある女性タレントに対して冨田さんの場合と同様の悪質なストーカー行為をしていた。だが事務所の代表によると、その時主に被害に遭ったのは当のタレントではなく事務所のスタッフだった。あの男は間に入って対応していた女性マネージャーに殺すぞ的なニュアンスの言葉を浴びせかけるなどして怒りの矛先を振り向けていたのである。そのマネージャーは小金井の事件を知って震えて涙を流したという(2016年6月23日『スーパーJチャンネル』のテレビ報道による)。この実例のように、小早川さんのアドバイスどおりに代理人を立てた結果、今度はその人が危害を加えられるおそれが出てくる。実際、「それで彼女もすごく苦しんでいます」などという、いかにも私は被害者のことをよく知っています風の物言いがストーカーを刺激する危険性は少なくないだろう。「返すなら自分で返しに来ればいいのに代わりの人間をよこすとはどういうことだ」と被害者への怒りをさらに募らせる人間もいそうだ。小金井の事件では郵送でプレゼントを送り返したら犯人の感情がエスカレートしてしまったが、逆に素っ気なく郵送で送り返されたことでシュンとして大人しくなるストーカーも中にはいるかもしれない。人は千差万別である。小早川さんの教える「正しい物の返し方」が絶対的な正解だという保証はどこにもないのである。小金井の事件で結果的には裏目に出たプレゼントを郵送で送り返すやり方が絶対的に不正解だという根拠もない。小早川さんの論はサッカーの試合の後で解説者がよく言うあれと同じである――「あの場面でシュートではなくパスを選択したのが決定的に痛かったですねえ、あそこは絶対シュートだと思います」。解説者が強気に出られるのは、ひとつにはパスを選択したら現実に失敗したという動かぬ事実のアドバンテージを手にしているからであり、もうひとつは、シュートを選択したら実際にどうなったかは今さら確かめようがない、ということは肯定もされないが否定されるおそれもない絶対的な安全地帯に立っているからである。小早川さんもその安全地帯の高みから冨田さんを見下ろしている。

 

私はあの事件では、もしも自分が冨田さんだったらどうしていただろうと考えることをいつも心がけている。そういう目で事件までの経緯を振り返ったとき感銘を受けるのは、冨田さんは本当に辛抱強い人だということである。私ならあのような罵詈雑言と好き勝手な要求をただ黙って耐えていることなどとてもできなかった。冷静さを失い、売り言葉に買い言葉で醜い罵り合いに発展してしまっていただろう。冨田さんは私なんぞよりよっぽど人間のできた大人だと思う。私は自分が人間の心理を知り尽くしているという思い上がりをもっていないので、あのような常軌を逸した人間にどう対応するのが正解だったか、確かなことは何ひとつ言うことができない。冨田さん、貴方はこうすればよかったのですよなどという台詞を私は口が裂けても言えない。だから小早川さんがその種のことを自信たっぷりの断言口調で話しているのを聞くと、私は驚嘆の念を禁じ得ないのだ、この人はストーカーがどう行動するかをそこまで完璧に読み切っているのかと。小早川さんの頭の中ではきっと、私=わかっている人、冨田さん=わかっていない人という絶対的な上下関係が確立しているのだろう。率直に言って小早川さんは冨田さんに対してしばしば上から目線である。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります」、この言葉の言外の意味は「冨田さん、貴方は慎重さが足りなかったのですよ」である。その言外の意味が孕んでいる冨田さんに対して失礼なニュアンスにも、冨田さんは慎重さを欠いた人だというネガティヴなイメージを読者に植えつけてしまうリスクにも無頓着なこの物言いは、冨田さんをどこかしら下に見ているからこそできる物言いである。小早川さんの小金井事件評は結局のところ、指導者の立場から繰り出される冨田さんへのダメ出しの連続である。負け試合の後で、あの場面はパスではなくシュートすべきだった、もっとサイドに展開すればよかった、クロスの精度が低すぎた、選手交代が遅かったなどと、ああだこうだと思いつくがままに敗因を挙げていくサッカー解説者の言葉と同じ調子を小早川さんの言葉は帯びている。サッカー解説者の唱える評に対しては主に二通りの反応がある、「やれやれ、お気楽な評論家ふぜいが」と呆れる否定的反応と、「まったくだ、ダメな選手だな」と迎合する肯定的反応と。だが小早川さんの唱える評に対して小早川さんのことをお気楽な評論家だと思う人は圧倒的に少数だろう。ストーカー問題の分野で小早川さんはこの国の圧倒的な権威だからである。つまり小早川さんの意見を聞いた大多数の人間は、小早川さんの尻馬に乗って自分も冨田さんを被害者ではなく失敗者として上から目線で見下ろしはじめるのだ。

 

*

 

小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』ではSNSを介した新たなタイプのストーキングを詳しく論じている。ところが、この本ではSNSのブロックに関する論調が従来とは一変している。

長々と続くようならば、相手をブロックするのは悪くないのですが、自分だけ拒否されたという怒りにつながりやすいので、むしろいったんSNS自体を閉じてしまうことをお勧めします(71頁)。

驚くべきことに、この本の中でブロックすることの是非についての言及は上記の一箇所だけである。「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」という、あの取り付く島もない全否定から比べると目を疑うような「ブロックするのは悪くないのですが」への大幅なトーンダウンは、ブロックすることをあまり否定的に言うのはまずいという判断が、自主規制か、あるいは外部からクレームがついたかなどのなんらかの理由ではたらいたためだと想像する。実はこの本の第一章で小金井事件に一節を設けて事件の経過を辿っていく中で、被害者がブロックをしたことに小早川さんはまったくふれていない。いっぽうでは「小金井の事件は市川や三鷹の事件とは違い、被害者と加害者はSNS上だけでやりとりのある間柄でした(36頁)」と事実の歪曲までしてこの事件をSNSに紐づける意図を示しているにもかかわらずである。おそらく小早川さんは遅ればせながら認識したのだろう、ブロックについての自分の発言により冨田さんが二次被害を受けていることを。だがしかし、小早川さんが小金井事件の報道に際してメディアであれだけ何度も繰り返してきた主張はそう簡単に変えられるものではない。事件直後にメディアが総がかりで冨田さんに貼りつけた「(地下)アイドル」のレッテルが、その後多くのメディアが冨田さんの呼称をこっそり変更してからも到底剥がしきれてはいないように(「こっそり」という意味は、私の知る限り、冨田さんの肩書変更に際して「これまで冨田真由さんをアイドルだと報じてきましたが、不適切でした。訂正します」といったことわりを明示した誠実な報道機関は皆無だからである。また「多くの」という意味は、日刊スポーツのように事件の裁判に到るまでアイドルの呼称を執拗に使い続けてレッテルの貼り直しにいそしむ少数の陰湿な報道機関も存在したからである)。

 

下に引用するのは小早川さんの新刊『ストーカー』に寄せられたAmazonの読者レビューの一部である。

小金井の事件でも、被害者が対処方法についての知識を事前に得ているか、あるいは誰か知識のある人に助けを求めていたなら惨事には至らなかったかもしれない。大切なのは、確かな知識を得て的確に対処すること、それに尽きる。気味の悪い相手からのメッセージを放置したりSNSをブロックするといった行為は最もやりがちな行為ではあるが、著者によるとそれらの行為は絶対にNGという。無視すると、加害者側に「断られていない」と受け取られ、さらなるメッセージが送られてきたり、あるいは加害者側の自尊心を傷つけ、より危険な状態へと進ませる呼び水になることもあるという。

繰り返すが、この本の中でブロックの是非についての言及は先に引いた71頁の3行のみである。絶対にNGなどという趣旨のことはどこにも書いていないし、小金井事件の被害者がブロックをした件の記述もない。小早川さんによる小金井事件の論評が伝える「確かな知識」を人はこういう風に記憶しているのだ。今さらこっそり主張を変えたところでもはや手遅れである。小金井事件で小早川さんがメディアに呼ばれるたびに繰り返していた再三の発言によって、ストーカーのツイッターをブロックするのはまったくの悪手であるという印象、そしてきわめておぞましいことに、冨田さんはブロックという「絶対にNG」の失策を犯して被害に遭ってしまった人だという印象がもはや多くの人の心に強力に刷り込まれてしまっている。それを大勢の前で表立って口にする山本寛のような人間が少数派なだけである。先に引いた弁護士ドットコムの記事は現在でも公開されている。ネット上で小早川さんは今もなお、冨田さんのブロックという「決定的」な失態(だと小早川さんがみなしていること)を不特定多数の前で日々叱責し続けて止むことがない。二次被害は現在進行形で継続中である。

 

小早川さんの論評の異常性は、発言内容を別の――たとえば性犯罪に置き換えてみればよく実感できる。

 ――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

 という弁護士ドットコムの記事の問いは、一般化すれば被害者の側にも事件の原因あるいは責任の一端があったのではないかという、これ自体相当危うい問いである。それを性犯罪の文脈に変換すればたとえばこうなるだろう。

 ――今回の事件で、夜間に肌の露出の多い服装で一人きりの外出をしたことは、加害者の劣情を刺激してしまったのでしょうか?

 この問いに対し私的な場で無責任にそうだと言う人はたぶんいるだろうだが、少なくともメディアから意見を求められた性犯罪被害に関する識者が公の場面で肯定的な答えを返すことはあり得ない。百人が百人とも、卑劣な性犯罪の原因を被害者の側に帰するようなことは決してすべきではないと答えるはずである。

 

弁護士ドットコムの取材者の質問に小早川さんはたとえばこんな風に答えることもできた(というかふつうはこの種の答え方をするのが常識である)。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

もし仮にそうだとしても、プレゼントを送り返したのは加害者が返せと執拗に要求してきたからですし、ブロックについても加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。加害者がしろと要求してきたことを(たとえそれが加害者の本意ではなかったとしても)言われたとおりにしたことで被害者を責めるのは酷ですし、何よりも、被害に遭った原因、責任が被害者自身にあるかのような論は厳に慎むべきです。

だが小早川さんがしたことはまったくの正反対だった。くだんの質問に「そのとおりです」とばかりに諸手を挙げて応じたのである。決定的だったのはブロックだと思います、たしかに加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしていますが、この言葉を額面通りに受け取ってはいけません、これはブロックしてほしくないという気持ちの裏返しなのですよ、被害者にブロックされて加害者はさぞ絶望したことでしょう、一般論としてもストーカーに対してブロックしてはダメです、良くなかったと思います。――それを聞いて人はなるほどね、と思う。そして、ああよかったと思う。なるほどね、ツイッターを安易にブロックしたのがいけなかったんだ。間違いない、だってあの小早川さんが言ってることだもの。小早川さんといえば日本でいちばんストーカー問題に精通している人なわけで、その小早川さんが「決定的」とまで言ってるんだからこれはよっぽどのことだ。やはり襲われる人にはそれなりの理由があるんだね。そしてブロックをしたという「決定的」なミスのせいで襲われたのであれば、ブロックしなければ安泰ってことか。やれやれ、じつに簡単だ、これを守っているかぎり私はストーカーに刺されたりはしない、ああよかった。こうして人は傷ついた被害者に「ヘマをして襲われた人」というレッテルを貼って貶めさらに傷つけることと引き換えにして、自らの安心感を得る。だがそれは、この道の権威の過信を盲信することからくる偽りの安心感である。

 

日本国内でひとたび凶悪なストーカー犯罪が発生したら、メディアから真っ先に声がかかるのはもちろん小早川明子さんである。「ストーカー問題にくわしい」と聞いてほとんどの日本人が真っ先に思い浮かべるのも小早川明子さんだ。テレビで、ラジオで、新聞で、雑誌で、書籍で、ウェブで、小早川さんはあらゆる媒体で事件に論評を加え、持論を唱え、それが日本中に拡散していく。日本において小早川さんはストーカー問題の絶対的なオピニオンリーダーである。多くの日本人はストーカー問題を考えるときに、語るときに、小早川さんをお手本とするのだ。小早川さんの意見、考え方、姿勢が、日本人全般のこの問題に対する意見、考え方、姿勢の趨勢を決するといっても過言ではない。つまりストーカー問題に関する小早川さんの意見は小早川さんひとりの私的な意見ではなく、日本人の総意とまではいかないにしても、日本人の多数派の意見になるのである。もしも小早川さんが、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しが加害者の感情を逆なでさせてしまったのではないかという取材者の問いに、あのような理不尽な犯罪に遭い深い傷を負った被害者の側を責め立てるような非人間的なことはするべきでないと、そう強く言ってくれていたら、多くの日本人はその真っ当で常識的、倫理的なお手本にならってストーカー被害者を、より限定的にはあの事件で被害に遭った冨田さんを遇するようになっていただろう。しかし小早川さんが言い放ったのは、被害者への配慮がなされているとは到底言い難い容赦なきダメ出しであった――「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」。犯罪被害者支援の観点からみれば、小早川さんのこうした発言はまったく常識外れの、それこそ決定的にダメで良くない物言いである。しかしストーカー犯罪の領域では、あの小早川さんの非常識が日本の常識になる。小早川さんはこの分野の絶対的なオピニオンリーダーだからである。小早川さんは自身の発言で日本中にあるお手本を示したのだ。ストーカー犯罪の被害者に対しては、たとえその人が意識不明の重体に陥って生死の境をさ迷っていようとも、被害者側の落ち度(だと自分が思う事柄)を公然と言い立ててもかまわないという、おそろしいお手本をである。

 

補足:山本寛がブロックの件で冨田さんをブログで中傷した際に、ブロックは警察の指示によるものであるとの反論が出て一部ネット記事にもなっているので、この点について短く補足する。くだんの反論は2016年12月16日に公表された冨田さんの手記の中の「警察からは、『使っているSNSから犯人のアカウントをブロックしてください』『何かあればこちらから連絡します』と言われました」の一文を典拠としている。もしこのくだりを「警察からの指示を受けてブロックをした」と読むのであれば時間的な齟齬が生じる。山本とのツイッターのやり取りの中で春名風花さんが、ネット絡みのストーカー被害で警察へ相談に行くとマニュアル的にSNSのブロックを薦められると自身の体験をもとに語っていた。春名さんと同じように冨田さんは相談に行った警察でもブロックを薦められた、と読めば齟齬は解消する。むしろ考えるべきは、なぜ冨田さんはあの手記でブロックについて言及したのか、という点だと私は思う。冨田さんは小早川さんの主導でメディアが盛んに流布していたブロックは良くないことである(そしてその良くないことを貴方はしたのだ)という論を気に病み、傷ついていたのではないだろうか。

おわりに

Theresa Saldanaの著書『Beyond Survival 生き残ることのその先へ』をひととおり訳し終えたので、全体を1頁めから最終頁の順に並び替えた。原文で270頁に及ぶテルサ・サルダナからのメッセージに私がつまらぬ解説や感想を加える必要はないので、二、三の事務的な事柄にだけ触れて終わりとする。

 

原書では冒頭に謝辞が掲げられているが、基本的に個人名の列記なので省略した。謝辞の前に置かれている献辞は「私の愛する家族、アンソニー、ディビーナ、マリア・サルダナへ そして私の命を救ってくれたジェフリー・アラン・フェンへ」、謝辞の後に置かれている献辞は「この本はジョン・ドライバーの手引きと援助なくして書くことはできませんでした」である。

 

原文はイタリックによる強調を多用しており、当初は該当箇所の訳文にアンダーラインを引くというかたちで再現していた。ただしすべてをそのまま踏襲するとくどくなるので、3割ぐらいは見て見ぬふりをした。そして第4章以降はイタリックの箇所をまったく無視することにした。

 

この本の翻訳作業は、8月20日から9月29日までの約40日をかけて、別に翻訳業を生業にしているというわけでもない素人が、精度よりは速度重視で進めていったものである。作業が予想外に捗ったことに関しては、来る日も来る日も飽きもせずにザーザーと雨を降らしまくり、「さあさあ、書を捨てて町にでも山にでも海にでも繰り出しましょうかね」という私の意欲を連日にわたって挫き続けた2016年秋の日本列島の気圧配置に感謝を捧げたい。とは言えもちろんお天気のせいばかりではなく、もしもこの本が読んでいて苦痛になるような本だったら、こんなペースで訳し切ることは決してできなかっただろう。テルサ・サルダナの魂にふれたこの40日間は充実した日々だった。

 

このブログはBeyond Survival全訳のためのものなので、これ以上余計な記事を付け加えることはしない。ただし今後翻訳の精度を高めていく作業は必要だろうと思う。

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Beyond Survival - Prologue

 1982年3月、私は幸福で充実した日々を送っていた。私の女優としてのキャリアは上り調子で、私は臨時で大学通いを楽しみ、私のハンサムな夫と私は流行の先端をゆくウエスト・ハリウッドの素敵な集合住宅に住んでいた。フレッドと私はお互いの家族と仲良しで、多くの良き友人に恵まれ、社会的に活発だった。

  しかし1982年の3月15日、愛する我が家からほんの数ヤードの所で私は、陰惨で、計画的な、粗暴きわまる暴力犯罪の被害者になった。

  とある朝の時の経過のなかで私は、健康的で楽天的で元気はつらつとした若手女優から、恐怖に怯えて息も絶え絶えの、苦痛に苛まれる病人の立場に転じて、生そのものに弱々しくしがみついていたのである。

  私の肉体に加えられた暴行はほんの数分間だけ続き、ただその数分は私を死の淵へと連れ出すには十分な長さだった。しかし私の精神に、心に、魂に加えられた暴行はずっと、ずっと長く続くものだった。

  あの陽光に満ちた愛すべき春の日に、私は、過ぎ去った日々の安寧や普通さを欠いたまったく新たな現実のもとへと放り出されたのだった。いま私は暴力的犯罪のほかの被害者たちと、私たちを残りの世界から分け隔てるきずなを共有するようになった――ひとりの人間がほかの人間に対して負わせ得る苦痛やトラウマの深さについての、個人的で強烈な知識である。突如として私は、平和や安全、信頼といったものがもはや存在しないようにみえる世界のなかに再び産み落とされたのだった。突如として私は被害者になった――洪水や事故や疫病ではなく、別の人間がもたらした禍いの。その考えは私の気分を滅入らせた。

  私がチューブや機器やモニターにつながれ、目がくらむほどの苦痛に苛まれながら生きるために必死に戦っていたとき、私は自分が浮氷の上にたった一人取り残された生存者のように、切り離され、隔絶され、奔流が私をひとびとの暮らす社会からさらに遠くへ、遠くへと運び去るのを感じていた。

  数日が、数週が経つにつれ、私は私自身の体験によってますます孤独感を深めていった。ある一人の人間によって傷つけられる――殺されかけるという比類のない恐怖を、ほかの人たちが把握したり、完全に理解するのはおそろしく困難なことのように思われた。

  そこで私は書くことにした、ほかの人たちにそれがどんなものであるかを知ってもらうために。当事者の視点から、被害者がどのように感じるものなのかを説明するために。体と心の苦痛の深淵から帰還した私の旅を語り伝えるために。

  私の本の目的は、他人に私の味わった苦悶を私に成り代わって体験させることにあるのではなく、おぞましい、身をよじるような、苦痛に満ちた体験のなかから、なにかしら前向きなものを産み出すことがいかに大切であるかを示すことにある。

  私はまだ入院中の頃に執筆をはじめていたが、この本のコンセプトが変化したのは、私が完全な回復への道のりをさらに歩んでいき、「被害者のための被害者Victims for Victims」の団体をたちあげ、ほかの犯罪被害者たちと忙しく活動するようになってからである。そう、私はまったき絶望の淵からの生還を果たした私自身の非常に個人的な物語を語りたいと思っていた。しかし私は、私を惹きつけ、高め、刺激してくれた、ほかの多くの被害者たちの悲劇と勝利の体験を分かち合いたいとも思うようになっていったのである。

  この本で取り上げた被害者たちとかれらの愛するひとびとは、実在する。かれらの強さ、耐久力、決断力も。ただし名前や住所などの、個人の特定につながるような仔細は変更している。

  私は精神科医でも心理学者でもないが、犯罪被害者にとってはあまりに馴染み深い苦痛と孤独の世界についての、じかにこの手で得た深い知識を持っていることはたしかである。 

 自身が犯罪被害者である読者に対しては、私はこの本が、あなたはひとりではないのだということを――たくさんの、たくさんのひとびとが、あなた自身が経験したような途轍もない試練をくぐり抜け、さまざまなやり方で恐怖や窮状を乗り越え、くじけることなく毎日を前向きに生きているのだということをあなたが知り、あなたを元気づけることに役だつものであることを願っている。

  しかし私は、被害に遭った人とそうでない人とのあいだの溝をつなぐ橋渡しもしたいと思っている。本当のところ、私たちはみな、多くのものを共有している。あまりにも多くの犯罪が毎日発生しているなかで、ドアに鍵をかけたり、子供たちの無事を気遣ったり、夜間に外出する際は注意したりといったような、身の安全のためのもろもろの用心をすることなしに生きている人はほとんどいない。多くの人々は(幸いにも)現実の犯罪被害者ではないけれども、かれらは実のところ、犯罪に対する恐怖の被害者なのである。そしてその点でかれらは、じかに襲われた経験のある人たちと多くを共有している。

  この本に収められたさまざまな体験が、最悪の時だけでなくもっとも輝かしい時のなかでの人間のありようをも照らし出すものであることを望む。

 

テレサ・サルダナ

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Beyond Survival - Chapter 1 The Attack 1/2

第1章 襲撃(原書1~9頁)

 十代の前半から私ははっきりとキャリア志向だった。私はまずニューヨークの舞台女優から始めて、そののち映画やテレビの仕事のためにロサンゼルスへと移った。

  襲撃の前までに、私はDefiance(ジャン=マイケル・ヴィンセントの相手役)、ユニバーサル・スタジオ制作のI Wanna Hold Your HandやNunzio、ブライアン・デ・パルマ監督のHome Moviesといった映画の主演や助演をつとめていた。数多くのテレビ番組にしばしばゲスト出演し、Gangster Chroniclesでは準レギュラーの役を担い、NBC制作の映画Sophia Loren: Her Own Storyではソフィア・ローレンの妹役を演じた。ただ1982年3月の時点で、私はたぶんマーティン・スコセッシ監督『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロの義理の妹の役でもっとも名前を知られていた。

  仕事と家庭生活とのあいだで、私はいつも極度に忙しかった。私の夫のFred Felicianoはアルコール依存症者や薬物常習者のカウンセラーで、ウエスト・ハリウッド近郊の快適な一角に住んでいた。フレッドは私に負けず劣らず活動的で、日中はずっと働き、夜にはUCLAの授業に出席していた。彼は私のハードワークぶりを誇りに思っていて、私の仕事を応援してくれていた。

  でも1982年の3月8日にすべてが変わりはじめた。フレッドと私が夕食をとっていた6時ごろに、私の母がニューヨークから電話をかけてきた。興奮した様子で、彼女はたった今マーティン・スコセッシのアシスタントから電話を受けたのだと話した。スコセッシさんはどうやらロンドンにいて、私と至急連絡をとることを必要としている。母はそのアシスタントに私の電話番号を伝えたが、彼は私の住所も教えてくれと言ってきた。彼の説明によると英国では電話回線がダウンしていて、スコセッシ氏は私に電報を送らなければならなくなるかもしれないとのことだった。電話の主があまりにしつこく熱心に求めてきたので、母は彼に改めて私のマネージャーのところへ電話をかけ直させたりするよりも、じかに情報を教えたほうが得策だろうと判断した。仕事上のコンタクトで母が私の住所を誰かに知らせたりすることはこれまでに一度もなかったけれども、彼女は電話の相手がスコセッシのアシスタントであると信じこんでいた。とにもかくにもスコセッシの事務所は、電話帳には載っていない私の両親の家の電話番号を知っていたわけだが、母は電話の主がそこにいる誰かから伝え聞いたのだろうと思っていた(あとで私たちは、彼が探偵を雇って私のことを調べていたのだと知ることになる)。

  私も母と同じく、スコセッシがそんなにも急に私と連絡を取りたがっていることに興奮するとともに、不思議に思いもした。

  母からの電話のあとの半時間のことを私は鮮明に覚えている。私はフレッドにニュースを伝えた。私の母や私がそうだったように、彼も不思議がると同時に喜んでいた。スコセッシが別の映画の役に私を抜擢したんだと確信して、私は歌い踊りながらそこらへんを跳ね回っていた。こんなにも高揚した気分なのに、まだ自分が荷造りもしていなければパスポートも取り出していなかったのは驚きだった。フレッドは私のふるまいをおもしろがっていたが、もうUCLAに出かけなくてはならない時間だった。かばんに本を詰め、私におめでとうのキスをして彼は出ていった。

  しばらくして、私のマネージャーのセルマ・ルービンが電話をかけてきた。取り乱した調子で彼女は言った、「テレサ、あなたのことを嗅ぎまわっている奴がいるの。とても心配だわ」。セルマは続けてこう言った、彼女のところに男が4度電話をかけてきたのだと。そのつど別の名を名乗り、プロデューサーだ、写真家だ、代理人だ、出版社の人間だと称して。電話のたびに彼は私の住所と電話番号を教えるように彼女に求めてきた。セルマは情報を伝えることを断り、そして2度目の電話の最中に、電話をかけているのが同じ人物であることに気がついた。彼女をもっとも不安がらせたのは、4度目の電話の最中にその男がクスクスと笑いはじめ、錯乱した様子をみせたことだった。その時点でセルマは、二度と彼女のところへ電話をかけてこないよう彼に警告し、さもなければ警察に通報すると伝えた。

  セルマが電話主の名乗っていた名前のひとつを私に告げたとき、私の体は恐怖でこわばった。それは私の母に電話をかけてきた「監督のアシスタント」の名だったのだ。

  すぐさま私は彼女に、両親の家にかかってきた電話のことと、その電話の主が母から私の住所を聞きだしていたことを伝えた。一瞬の沈黙のあと、セルマは言った、「家から出なさい」。

  ぞっとして私は受話器を置くと、ドアのところへ駆け寄り、覗き穴から外の様子をみた。私たちの家はウエスト・ハリウッドでは典型的な、中央にプールのある中庭つき住宅だった。覗き穴からは誰の姿も認めることはできなかったが、私の視界は限られていた。

  心臓をドキドキさせながら、私はホールを挟んでほんの数フィートのところにあるお隣のハーンさんの家の戸口に駆けていった。戸を叩くと、年配の女性がすぐに私を中へ入れてくれた。

  震えながら私は彼女にこれまでの事情を説明し、電話を貸してくれと頼んだ。まず私はUCLAにいる夫と連絡を取ろうとした。管理課、警備課、総合案内…と順にダイアルを回した。20分後、私は大学の警備課の人から、フレッドが正確にどの教室にいるのかが分からないかぎり、授業が終わるまで彼と連絡を取ることはできないと伝えられた。ハーン夫人は私に心配しないでと言った。私はフレッドが帰宅するまで彼女の家に居られることになった。

  すると今度は、電話主がフレッドに危害を加えるのではないかと不安になった、そこで私たちは、家のドアの下からフレッド宛ての伝言を差し入れておくことにした。ハーン夫人は私についていくと言ってくれた。私たちは文字通りに家から駆け出し駆け戻り、フレッドへのメッセージを残してきた。

  続いて私はウエスト・ハリウッドの保安官事務所に電話をかけ、当直の保安官に事情を説明して、パトロールカーをよこしてくれるように頼んだ。私は保安官から、実際に私がなんらかの迷惑行為を受けているのではないかぎり、彼らのほうから人員を派遣することは出来ないと知らされた。呆然として私は返事をした、「もし彼が私を殺しにきたらどうするんですか?」

  保安官は私に、この種の電話はメディアに出るような人間にとってはよくあることなのだと言い聞かせた。たいていの場合、電話の主は単にファンレターを送るための住所を知りたがっているだけである。この電話の主が危険人物である可能性は僅かなものです、そう彼は説明した。受話器を置いた時までに私はすっかり安心して、これまでの一部始終にばつの悪い思いをしかけたくらいだった。それでも私はハーン夫人の家に留まっていた。

  11時にフレッドが帰宅して、ハーン夫人の家に私を迎えに来た。安全な我が家のなかで、私たちはどうすべきかを話し合った。悲観的な結論へ飛びつくことは二人とも望んでいなかったが、ある種の危険性の要素が含まれていることは明らかだった。

  フレッドは空手の黒帯の三段で、私たち二人をともに危害から守る彼の能力に私たちは信頼を置いていた。とはいえ彼が夜昼となく私のそばについているわけにもいかない。私たちは代替案を考える必要があった。

  引っ越すことについても話し合った。しかしフレッドと私はこの家が好きだったし、家を出ることは性急かつ早急にすぎる判断だと思われた。友人に頼んでしばらく彼らの家に滞在させてもらうことも考えたが、誰だかも分からない電話主のせいで私たちがまんまと離れ離れにさせられるという考えは、私たち二人のどちらにとっても腹立たしいものだった。

  疲れ切ったフレッドと私は、しばらく休んで朝になってから事を決めることで同意した。6時間後に私たちが目を覚ましたとき、前夜の出来事は差し迫った現実の脅威というよりは一場の不快な夢のように思われた。私たちはそのことで実際にお互いをからかい合ったりもしたけれども、私たちの笑いの下には不安が潜伏していた。私たちは、フレッドが家から私の車までと車から家までの間を私に付き添うようにすることと、彼が家にいない時はハーン夫人の家かほかの友人の家に私がいるようにすることを決めた。

  その朝の歌の授業の終わったあとで、私は教授に起こった出来事を話した。教授は私に、事務局に行ってファイルから私の出欠記録を取り外し、誰かがそれを利用して私の行動を追跡できないようにすることを奨めた。電話主が大学に勤めているか出席している誰かだということはあり得ることだった。すぐさま私は事務局に赴いた。音楽科の責任者はとても理解のある人で、ただちに私の記録を外させてくれた。

  授業のたびに、私は一人か二人の人に私のことを見張っていてくれるようにお願いした。その日の午後までに、私は少なくとも大学にいるあいだは安全だと感じるようになっていた。

  その週の終りまでのあいだに、なにもおかしなことは起こらなかった。フレッドと私はともに、たぶん私たちは過剰に反応し過ぎていたのだと思い始めていた。結局のところ――私たちは自分自身に言い聞かせた――電話の主は私の電話番号と住所を知ってから5日間のあいだ、私に接触しようとするいかなる試みもすることがなかった。日中のほとんどを家で過ごしているハーン夫人は、建物の入り口を注意深く見張り続けてくれていた。フレッドと私は、外出するときはいつも中庭や車庫や路地をチェックしていた。私たちの誰ひとりとして、不審な人物を見かけるようなことはなかった。

 

* * *

 

 母のもとに電話があってから一週間後、私はロサンゼルス・シティー・カレッジの音楽の授業に行くための支度をしていた。フレッドは今日の君は素敵だよと言ってくれた。私は自分の陽気な気分に合わせてマリンスタイルのシャツと赤白のストライプのセーラーブラウスを身につけていた――気分は上々だった。私は数日前にオーディションを受けたHill Street Bluesへのゲスト出演の役を得られるものと確信していた。そして私は二日前に教会へ行き、怖がることなく日々を生きていくと誓っていた。

  私が持っていく本を集めていると、フレッドが私に、車まで付き添っていくから服を着るまでしばらく待っていてくれと頼んできた。私はフレッドにキスをすると、ベッドで休んでいてと彼に言った。外出する前に私が彼に言った最後の言葉は、「心配しないで、私はだいじょうぶだから」だった。

  10時少し前に私は家を出た。明るい、お天気の日だった。入口の門をくぐって正面の階段を下りていくとき、私は自分自身に向かって「私はなにも恐れないし、いかなる危害も私のもとに振りかかることはない」と断言していた。

  私の車は隣家の建物の前の通りに停めてあった。私がドアにキーを差し込んでいたとき、声がして、それ以来ずっと私の心のなかにこだましているあの言葉を言った――「テレサ・サルダナですか?」。私はあたりを見回し、一人の人物が私のすぐ左にいるのを見た。

Beyond Survival - Chapter 1 The Attack 2/2

 直観的に、私はこの男が電話の主だと気づいた。答えることなく私は走り出そうとしたが、彼は万力のような力で私を鷲掴みに捕らえた。それと同時に彼は肩から掛けていたバッグに手を伸ばし、頭上高く腕を振り上げた。

  ぞっとする刹那のなかで、男の拳に5インチのキッチンナイフが固く握りしめられているのを私は恐怖のうちに凝視した。私が動こうとする前に、男は私の胸にナイフを深々と突き刺した。

  男の体を引き離そうとする私の口から叫び声が迸り出た。しかし彼は私の体を何度も刺した。世界がぐるぐると回り始めた。私は自分自身が文字どおり引き裂かれていくのを感じていた。

  「殺される、殺される!(He's killing me!)」、私は自分がこれらの言葉を繰り返し叫んでいるのを聞いた。人々が通りに出てきたのを私は感じたが、私を救うために近づいてくる人は誰もいなかった。

  私は加害者に蹴りを入れると、両腕で彼の振り下ろす刃をブロックしようとした。けれども間断なく続く彼の攻撃を止めることはできなかった。

  この凶悪な攻撃はもちろん肉体的に耐え難い苦痛だったが、私が覚えているもっとも鮮烈で恐ろしい記憶は、肉体的な苦しみではなく心理的な苦悶からくるものだった。私は生涯にわたり決して、私が加害者の目を覗き込み、彼の意志が私を殺害することだと悟ったときに感じた言い知れぬ恐怖を忘れることはないだろう。

  「殺される!殺される!」、私は叫び続けた。それでも助けに来る人はなく、男のナイフが私の体を繰り返し切り裂いた。

  ついに私は左手を伸ばし、ナイフの刀身をつかむことに成功した。しかし私が刃を強く握りしめても男はかまわずナイフを振り下ろし続け、腱を、神経を、筋肉を切断していった。

  その肉体的な責め苦にもはや耐えられなくなった私は刃身を手放し、再び刃が私を刺し貫くのを感じた。

  私の力の最後の一片が私のもとから逸し去りつつあるかに思えたその時、私は見上げる視線の先に天使の姿を見た。加害者の背後にいるのは、背の高い、美しいブロンドの男性だった。まるでスローモーションのように、私は彼が加害者を私から引き離すのを見た。

  私は地面に崩れ落ち、10秒ほどのあいだ動かずにいた。そのとき、加害者が再び私を刺しに来るという絶望的な恐怖に私はとらえられた。突然の恐慌が私の脚に電撃を加えた。どうにかして私は、家に向かってよたよたと歩いていく力を見つけ出したのだ。

  視線を落とすと、私の服が真っ赤に染まっているのが見えた。血はまさしく私の体に穿たれた穴から流れ出しているようだった。よろめきながら歩いていると、おぞましい音が聞こえてきた。呼吸のたびごとに胸の傷から血液が吹き出し、ズルズルと音を立てていたのだ。本能的に私は右手で傷を押さえると、自分の流した血で滑りながら階段をふらふらと上っていった。

  門をくぐり、人気のない中庭にまで来たとき、私は圧倒的な悲しみと孤独の感情に呑み込まれていた。私は、隣人たちの何人かが窓から私のことを見ているのを感じていた。しかしそれでも彼らは私を助けに出てくるリスクを冒そうとはせず、私が血を流して死んでいくさまをまさに彼らの眼前でほしいままに享受しながら、恐怖のうちに身を潜ませていたのだった。私は血だらけの腕を上げ、隠れている顔に向かって泣き叫んだ、「助けて。死んでしまう」。

  私が倒れそうになったとき、フレッドが家から走り出て、私を腕に抱きかかえた。彼は叫んだ、「誰が君にこんなことをした?」

  「よ」、私はつぶやいた。

  フレッドは私を家に運び入れ、ドアを開けてすぐの所に私を横たえた。半狂乱で彼は病院と警察に通報した。

  私の肺は完全に壊れていて、私は空気を求め格闘していた。何度も何度も私はつぶやいた、「もう死ぬわ」。

  フレッドは言い続けた、「いや、そんなことはない。君は良くなっているよ」。

  隣人のジョーが入ってきて、私の傍に跪いた。加害者が戻ってくるのではないかと考えたフレッドは、私とジョーを残して外に出ていった。家の前に駆け出した彼は、犯人が既に保安官の車の中にいるのを見つけた。

  フレッドが戻ってきたとき、彼は私が静かに唱しているのを聞いた。「私は家族を愛します。私は主を愛します」。しかし、痛みは私をとらえてはなさなかった。あまりにもそれは激烈で、私は死に向かって祈りを捧げているようなものだった。私はじゅうぶんに息を吸うことができず、自分が窒息しつつあるように感じていた。私の肉体は機能停止の途上にあった。死が一歩一歩、不気味に迫ってきていた。それでも私は必死に空気を求め、喘ぐたびに私の肺がごぼごぼ、ざあざあと音を立てるのを聞いた。

  私の目は上方に向けられていた。高いところに架かる白い天井を私は見つめていたが、私の視界はそこで終わりではなかった。私は未来の光景を見はじめていた――あらゆる苦痛が終わりを迎える未来の時の。不意に私は、ここで起こった一部始終と、私がいま耐え忍んでいるいっさいの向こう側にいる自分自身を感じたのだ。といってもこれは「体外離脱」体験のようなものではない。私はなおもそこの床の上にいて、おびただしく血を流し、名状しがたい苦悶のなかにあった。しかし私はどうにかしてこれらすべての事柄の向こう側を見はるかし、やがてこの苦痛にも終わりが来ると知ったのだ。苦痛の終りが死を意味するものなのか、その時の私は知らなかったし、気にもしなかった。ただ、それが永遠に続くものではないと知ったことで、肉体的な苦しみはなぜかしら耐え得るものになっていったのである。

  数瞬が経つあいだに、私はますます弱っていった。いまや隣人たちが何人も周りに集まってきていて、彼らが私のことを見やるしぐさから、私が死につつあると彼らが信じているのがうかがわれた。ひとりの少女が私のもとにかがんで口移しの蘇生術を施しはじめたが、心肺蘇生術の経験のある別の隣人が止めるようにと彼女に言った。彼女が唇を放して顔を上げたとき、彼女の口が私の血で覆われているのを私は見た。

  フレッドは私の胸の傷の上にまくらカバーを掛けていた。そのパステルピンクの色はいまや鮮やかな赤色に染め上げられていた。

  私の目は上方を見続けた、私の唇は「私は家族を愛します。私は主を愛します。私は死んでいきます」の言葉を唱え続けた。この時点で私の呼吸はあまりにも浅くそして苦しくて、私はもう自分が長くないだろうと思っていた。

  不意に救急救命士たちがドアを荒々しく押し開けて入ってきた。そしてフレッド以外の皆にこの場を立ち去るように命じた。緊張感に満ちた大声が部屋のなかに響き渡った。医療チームが私の上にかがみこんで、酸素マスクを私の顔にあてがった――なんと素晴らしい解放感。ほとんど魔術のように、酸素が私の感覚を一新した。痛みは強烈なままだったけれども、襲撃以来はじめて私は自分がこの危機を切り抜けられるのではないかと感じた。

  私の服のほとんどを切り取りながら、救命士たちは一箇所、また一箇所と傷を見つけていった。新たな傷が見つかるたびに、一人がパートナーに大声で簡単な状況を伝え、パートナーはシーダーズ・サイナイ・メディカルセンターに無線で情報を回していた。傷は10箇所に及んでいた。

  救命士たちは私にtrauma suitなるものを着せた。ゴム製のパンツのようなもので、膨らませると、血流を私の肢から重要な器官へ強制的に送り込むしくみだった。私は自分が心臓を刺されたと思っていた。救命士たちの会話から、彼らもその可能性を考えていることが分かった。

  永遠に思える時間のあとで救急車が到着し、私はサイレンの叫びとともにシーダーズ・サイナイに搬送されていった。救命士たちは車内での作業のために1インチの空間でも必要としていたので、フレッドが私といっしょに乗車することは許されなかった。

  私の体は救急車の激しい揺れによって何度も突き動かされていた。体じゅうが苦悶の悲鳴をあげ、私は痛みそれ自体が私を殺してしまうのではないかと恐れた。それでも私は生の最後の面影にしがみつき、気を失うことは死を意味すると感じて、なんとか意識を保とうと奮闘していた。

  激しいブレーキの音を立てて車がシーダーズ・サイナイに停まった。瀕死状態を意味する「コード・ブルー」の叫び声があがった。私は手術準備室へとつうじる廊下を運ばれていった。

  医師と看護師のチームが私の命を救うための作業をはじめた。傷は広範囲にまたがっていたので、医師たちは私の体を文字通り、個々のセクションごとに受け持たなくてはならなかった。奇妙な眺めだった。一人の医師は私の足を担当し、もう一人は胸を、別の医師たちは腕を担当した。

  こうした処置が施されているあいだ、私はどうにかこうにか意識を保ち続けていた。私は周りにいるひとたちに休みなく話しかけていた、これが私の最後の言葉になるかもしれないと思いながら、また、実際に何が起こったのかを誰かに知らせることの止むにやまれぬ必要性を感じながら。

  「彼は私を殺そうとした……殺そうとした……殺そうと」、私は彼らにささやいた。私は、加害者が単に私を傷つけるだけではなく私を殺害しようとしたのだということを彼らに知らせることが重要だと感じたのだ。看護師たちは私の肩を軽く叩き、もう安全だからと言った。

  何度となく私は医師や看護師に私は死ぬのかと尋ね、彼らは繰り返し、あなたはきっとこれを乗り越えられますよと私に保証した。でも彼らの顔に浮かぶ表情や声にこめられた悲しみは、彼らの言葉に背いていた。

  私の右腕の治療を行っていた医師が、これから手術を行うことになると私に告げた。皆が驚いたことに私はそれに対して、どうか私の目のコンタクトレンズを外しておいてと頼んでいた(あとで彼らは、このことが私を角膜の損傷から守る結果になった可能性が高いと教えてくれた)。

  私の胸の傷の処置をしていた医師が、これから非常に苦痛を伴うあることをしなくてはならないと知らせてきた。私の考えでは、苦痛がこれ以上ひどいものになることなどありえないと思っていた。私は間違っていた。

  医師が太い中空の金属製パイプを、私の体の左側から直接私の肺に挿し込んだ。ショックを受け、苦痛に目がくらんだ――こんな痛みがこの世に存在するとは考えたこともなかった。私はもう弱り果てていたが、それでもつんざくような叫び声をあげた。それから、消耗しきって、このいっさいの拷問はいつかやがて終わるのだと自分に言い聞かせていた。

  手術に向かおうとしていたその時、一人の看護師が私のそばにかがんで、「なにか望むことはありますか、テレサ?」と涙ながらに尋ねた。その時私は、彼らがみな私が死ぬものと思っていることに気が付いた。私はつぶやいた、「両親に会いたい」。

  それから間もなくして彼らは私を手術準備室から廊下へ運び出した。フレッドが私のもとに駆けよってきて、私にキスをして言った、「愛してるよ。きっと良くなるよ」。私は手術室へと台車で押されていった。

  執刀医に対面したとき、私は彼の目を見てこう言った、「私は女優です。どうか傷の処置は慎重にお願いします」。彼はベストを尽くすと約束してくれた。

  それから麻酔師が「すぐに眠くなります」と言った。不意に痛みが消え、私はどこかへ流されていった。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 1/7

第2章 その後(原書10~44頁)

 手術は4時間半にわたって続いた。シーダーズ・サイナイの集中治療室で目を覚ましたとき、私が見たのは光の万華鏡だった。混乱した私は麻酔薬で曇った心を晴らそうと努力した。視点が定まったとき、私は若いブロンドの看護師が一人、私のそばに背中を向けて立っているのを見た。

  私は自分の周りの奇妙な光景に見入った。私の肉体のあらゆる部位からチューブが突き出ているようだった。顔の大半はゴム製の酸素マスクに覆われ、私の背後でブンブンと音を立てる数え切れない機器に私はつながれていた。

  安堵の波がどっと押し寄せてきた。「私は生きてる、生きてる、生きてる!」、その思いが私のなかを駆け巡った。殺風景な白々とした病院の一室に「生きて」横たわっていることが、私には途方もなく紛れもなく素晴らしく幸福なことだった。

  だがすぐに、痛みが恐ろしい強さで私を鷲掴みにした。呼吸のたびごとに、胸が裂けてしまいそうに感じられた。私は泣き叫ぼうとしたが、弱々しい、乾いたうめき声をあげることしかできなかった。それでも看護師は声に気づいて私のもとに駆け寄り、デメロールの投与を行った。注射はほとんど即座に効果を発揮した。もっとも、痛みは薬物によって鈍らされたマスクの下にわだかまっていた。それはこのあと何カ月ものあいだ、そこにとどまりつづけることになった。

  私は自分の状態をなんとかして知りたいと思った。たいへんな苦労をして、自分の体が見えるくらいにまで頭を起こした。そこで目に入った光景の恐ろしさにぞっとして、私はベッドに沈み込んだ。

  私の両腕は長い木製の板に取り付けられ、私の体は血の滲んだ包帯で巻かれていた。体の上にゆったりと掛けられた一枚の薄い白い布の下はまったくの裸だった。私の手や指には添え木が当てられ、包帯が巻かれていた。静脈という静脈には輸血や点滴の管が挿入されていた。私の脈打つ四肢は持ち上げられ、枕で取り囲まれていた。腕をこんな風に十字架風に広げて、体を血の包帯で覆われて、私はまるで不気味な磔のいけにえのようだと思ったことを覚えている。

  看護師のほうに顔を向けて私は弱々しくつぶやいた、「先生はどういう処置をなさったんですか?」。彼女はアレクサンダー・スタイン先生が行った手術のあらましを説明して、それがどんなに特別なことなのかを私に教えた。スタイン先生が私の一件を知ったとき、彼は精根尽き果てるような7時間の手術を終えたばかりだった。呼び出した執刀医はまだ着いておらず、私は大量の内出血を起こしながらそこに横たわり、死の淵を漂っていた。そこでスタイン先生は私の命を救うために手術室にすぐさま戻ったのだった。

  胸部外科手術を行わねばならず、ドクターは私の胸を鎖骨のすぐ下のところで切り開き、胸骨にそって縫い合わせた。この処置は、看護師が教えてくれた、犯人のナイフによって4箇所に穴を空けられた左の肺を治すために必要なものだった。私はいま、なぜ自分が「引き裂かれ」つつあるかのような奇妙に引っ張られる感覚を感じているのかを理解した。

  私は何度も何度も、「彼は私を殺そうとした」とささやいた。肉体的な痛みにいま強い感情的な苦痛が加わり、目を覚ましてからはじめて私は泣いた。むせび泣いたりすることは、痛めつけられ縫い合わされた私の肺を損なうことになるので、私は声をあげずに鳴き、涙が私の顔を伝い落ちた。それから私は、投与された薬とすさまじい消耗との複合効果で、しばしの眠りについた。

  次に目を覚ましたとき、私の精神状態はまったく変わっていた。痛みを伴わない眠りによって一新され、とにもかくにも生き延びたことの非常な幸運に、私の気分は突然高揚した。私が生きているのは主の、犯人の凶行を止めてくれた男性の、執刀医のおかげだと私は感じた。静かに私は彼らに感謝を捧げた。

  扉の向こう側の声によって私の考えは中断した。フレッドが狭い部屋に入ってきた。彼は私の頬にやさしくキスをして、一瞬、沈黙のうちに私のことを見つめた。私のこの、逞しくて、普段なら活力とエネルギーに満ち溢れている夫は、青ざめ、震えて、悲痛に押しつぶされている様子だった。傷を負ったのが私だけではないことはもはや明らかだった。

  彼は、私の両親がニューヨークからの一番早い便でこちらに向かっていて、あと1時間ちょっとで病院に着くことになっていると知らせてくれた。私は二度と両親に会うことのできないまま死ぬことをずっと恐れていた。安堵の念でいっぱいになって、私は彼らの到着が待ちきれなかった。

  ロサンゼルス保安局のカラス刑事がホールで待っていて、私にすぐ会いたがっているとフレッドは言った。質問に答えられるような状態には程遠かったが、面会は必須のものだと刑事は考えていると言う。しばらくして、看護師が刑事を連れて入ってきた。

  「彼は私を殺そうとしたんです」、しわがれた声で私は繰り返した。私はカラス刑事に、それがただの傷害ではなく意図的な殺人であることを理解してもらおうと必死だった。

  穏やかな口調でカラス刑事は私に教えた、スコットランドからの移民だと称している犯人は、映画に出ている私を見て私に狙いを定めたのだと。彼の携帯品から日記が見つかり、そこには「私を天国へと送る」ために私を殺害するという狂った計画が詳細に書かれていた。彼はその後は「天国」で私と一緒になるために、処刑されることを望んでいた。

  日記によると、犯人は私を、このおぞましく邪悪な世界に生きるにはあまりに愛らしく、あまりに善良な「美しい天使」だと思っているのだった。

  カラス刑事は私に、日記に含まれている記述のサンプルをいくつか示した。私は数語を読むのがせいいっぱいだった。手書きの字は異常に小さく、私の定まらない視点の前で文字が踊っているようだった。そもそも私は、私に対するこの身の毛もよだつような計画の、文字に記された明白な証拠を見ることを恐れていた。私は顔を背け、拒絶した。

  刻々と気力が弱っていくなかで、私は刑事に彼が求めている詳細を伝えようと努力していた。ほとんどの質問には間を置かず答えることができた。しかし私が襲撃のもようを思い出したとき、そのイメージが私を動揺させはじめた。

  私の苦痛を察知して、カラス刑事はどうしても必要な件だけを尋ねると、万事は抜かりなく進んでいますとフレッドと私に請け合い、去っていった。

  刑事が扉の向こうに消えるとすぐに、私はまた「彼は私を殺そうとした!」を繰り返し始めた。その文句を唱えている最中、襲撃のもようの鮮明なフラッシュバックを私は体験していた。それはあまりにも生き生きとして仔細に富んでいて、私は自分が本当にウエスト・ハリウッドのあの通りに連れ戻されたのだと信じていた。私はすすり泣き、うめき、助けを求めて叫んだ。看護師たちが入ってきて、私がヒステリーで自分自身を傷つけないように、強い鎮静剤を注射した。それは、長期にわたる回復期間のあいだじゅう私を悩ませ続けたフラッシュバックの最初のものだった。

  両親が着いたとき、私は薬のもたらした無気力状態からは脱していた。彼らが私の状態に心臓がよじれんばかりのショックを受けていることは、草臥れ果てていた私でもすぐに分かった。後に彼らは、苦悶のなかで彼らのことを見上げていた窪んだ暗い目と、その時に彼らが感じた言いようのない絶望を私に話してくれた。

  ベッドに近寄ってきた彼らに私が投げかけた最初の言葉は、「心配しないで。私が感じているよりも、見た目のほうがだいぶ悪いの」だった。彼らは私にキスして、頬に、額に、切られたりひどい傷を負ったりしていない上腕のわずかな部分に触れた。

  涙を必死にこらえようとする彼らの顔は青ざめていた。本能的に私は、どうか泣かないでと彼らに願った。私の周りの人たちが楽観主義の少なくとも幻のようなものを見せてくれているかぎり、私はどうにか自分を保っていられそうだと感じていたのである。

  私が両親に望んでいたのは、もっぱら私の世話をしてくれることだった。それはこのあと長く続く子供のような依存状態への回帰のはじまりだった。

  母のディビーナはベッドサイドで私のことをずっと見守っていた。5フィートにも満たないこの小柄な女性は聳え立つ精神的支柱だった。母は私に一瞬たりとも、私が死んでしまうのではないかと彼女が思っているのを悟らせるようなことはなかった。彼女はいつでも献身的な妻であり母であり、他人の世話をすることに喜びを覚え、またそのことで自分も大きくなっていく女性だった。

  襲撃の後につづく月日のなかで、母の主への信仰とひとびとへの信頼は過酷な試練をくぐり抜けることになった。彼女は悲嘆と苦悩に引き裂かれた。普段なら明るい彼女の眼は悲しみに曇っていた。母が再び微笑み、笑うことができるようになるまでには1年以上の歳月が必要だった。

  父のトニーもほとんど毎日のように訪ねてきてくれた。物心ついたときから私は、ハンサムで優しい父の応援と、彼が私においている信頼とを頼りに生きてきた。私がステージに立ち始めたとき、父はすべてのショーを見に来てくれた。ダンスホールのバレー・リサイタル、学校のタレントショー、地元の劇団、そして最後にニューヨークのプロの劇場。彼は決して多くを言わなかったが、彼の顔に浮かぶ誇らしさ、喜ばしさは、私がやっていくうえでの励みだった。

  襲撃のあとの試練の日々の中で、父の私に対する静かな信念が、私に必要とする力を与えてくれた。私が回復するということについて彼が抱いている自信は伝染性のものだった。私が回復への道のりをほんの少しでも踏み出すときはいつでも、父の暖かなハシバミ色の瞳が私を見つめていた。

  しかし、訪問の際に見せる自信にもかかわらず、父は心のなかでは苦痛と怒りに押し拉がれていた。父の髪は2週間のうちにすっかり灰色に変わってしまった。

  襲撃後の数週間、私は一人でいることがまったくできなかった。部屋に一人きりでとどまることをただほのめかされただけで私は動揺し、完全なヒステリー状態にすら陥った。看護師のなかには、私が常時の付き添いを求めることを、自分が置かれているたいへんな状況に甘えての子供じみた要求だと言う人もいた。本当のところ、誰かに囲まれていたいという私の切なる願いは、すべてを圧する制御不能の恐怖から来るものだったのである。私は魂に誓って、もしも自分が一人きりにされていたら死んでいただろうと思う。

  私は襲撃後の最初の数日間を集中治療室で過ごし、生きるためにたたかっていた。痛みは毛布のように私を取り巻き、デメロールの投与から次の投与までのあいだを私はかろうじて持ちこたえていた。

  次回の投与に到る最後の半時間までに、私ははじめは静かに、それからだんだん大きな声でうめき始めた。時が経つにつれて私は泣きっぱなしになり、私のうめき声は動物のようなキャンキャン、クンクンいう小声に置き換わった。ついに私は、次の投与を予定より少し早めてくれるよう看護師に懇願する手に出た。時には私のみじめなありさまが彼らの説得に功を奏することもあった。もしもこの激しい苦痛の最中に動くことができたら、私はベッドから飛び降り、近くのトレイに置かれた注射器に手を伸ばして自分で注射していただろう。

  母はいつも私のそばにいた。私が自分の体の傷のことで泣いたり心配したときは、こう言って強く私を諭した。「テレサ、あなたの顔は今でもとても美しいわ。そのことで主に感謝なさい!」。母は包帯をあてがい、私の手を握り、穏やかに私に話しかけ、私がいっさいを耐えるための力を授けてくれた。彼女は私が感じているよりもなお強い痛みを感じていたと私は思う。

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 2/7

 ICUでの2日めまでに、私は周りの環境にだんだん注意を向けるようになった。小寝室に毛が生えたていどの広さの私の部屋は、生命維持装置や医療機器でぎゅうぎゅう詰めになっていて、一人の人間が私のベッドサイドを歩くことのできるスペースがかろうじて残されているだけだった。面会が許されているのは私の身内だけだった。フレッド、私の母、そして父。

  部屋にあるもので私を最も惹きつけたのは、私の体がつながれている不思議な器械の数々だった。ブンブンとドローン調の唸り声をあげて、彼らは私よりも生命感に満ちた鼓動を奏でているようだった。

  私は動くことができなかったが、私に対する医療手当はしょっちゅう行われた。血が採られ、注射がされ、検査が行われた。それらすべてが不快感をもたらし、多くは極度に苦痛だった。一日二度の胸部X線はなかでも特に耐え難いものだった。小型のX線装置が部屋に運び込まれ、二人の看護師が私の体を持ち上げ座位をとらせた。胸の傷と手術の切り口の痛みが私をほとんど狂わさんばかりだった。ロボットみたいな見た目でたくさんのダイヤルのついたX線装置が運び込まれるたびに、私は自分がイカれた儀式の人身御供に供されつつあるかのように感じた。

  それよりなお悪いのは、看護師がベッドを整えるために私に寝返りを打たせる毎日のルーチンだった。体を押し動かされることによって、涙を流し、うめき、悲鳴をあげてしまうほどに私の傷は痛めつけられた。百か所以上にのぼる手術の縫い目のひとつひとつがはじけ開くのではないかと思われるほどだった。時には体の動きが手術の縫合跡から実際に血が滲んでくるほどの支障をもたらすこともあり、それが私を怖れさせた。何度も何度も、私は自分の体が引き裂かれようとしている感覚を覚えた。

  夫は私への医療処置が施されているあいだもしばしば部屋にいた。彼は黙ってそこに座っていて、私が感じていると彼が知っている痛みを憎悪していたが、それを止めさせることはできなかった。私はフレッドが深く悩み、苦しみ、困惑しているのを感じていた。彼は憂い、感じ、傷ついた。しかしすべては彼の裡に封じ込められていた。皆は私を生かし、回復させることに忙しくて、彼の味わっているひどい憂鬱が顧みられることはなかった。 

  感情面では、私は劇的な上げ下げの波を経験していた。気分の浮き沈みは毎時間ごと、場合によっては毎分ごとの周期で揺れ動いた。時として私はとにかく生き延びたことで高揚した気分になり、完全な回復への希望に満ち肯定的だった。そんな時の私は、女優としての復帰を果たし自分が生きていると世界に知らしめることについて、あれこれとしゃべり続けていた。

  それからほんの数分ののちに私は憂鬱と絶望の泥沼に沈み込んでいき、肉体的、精神的な痛みが私を翻弄するがままにさせていた。無力感と怒りに囚われながら、私は自分の体のなかで唯一動かせる部位である頭部を前後に揺すっていた。

  私の命を救う手術を執刀したスタイン先生は、この騒乱の時期にもしょっちゅう姿を見せた。彼は私を頻繁に検査し、体の状態のいかなる変化も私の家族に報告した。彼の皮肉っぽい英国風のユーモアのセンスが私の緊張を和らげるのに役立った。スタイン先生は私をからかうのがお好きだった。彼は私の示すいかなる自己憐憫の兆候も好ましからざるものだと考えていて、私の方で前向きな能動的なアプローチをとることを求めた。私がもっとも落ち込んでいるときでさえも、スタイン先生はたいてい私から笑顔を引き出すことに成功していた。

  ある日彼は、ゴディバの小さな箱詰めのチョコレートがどれほど美味なものであるかを私に語っていた。ならばご自分で食べてみればと私が薦めると、彼はたちまち8個のチョコレートをすべてむさぼり食い、「すばらしく美味いお菓子ですよこれは」と言って私にウインクし、部屋を出ていった。半時間のあいだ私は笑いが止まらなかった。

  別のある日、私はスタイン先生に向かって、私の身に降りかかったことで病院の人たちが私のことを気味悪がっているのではないかという不安を口にした。顔色ひとつ変えずに彼は言った、「まあそれは馬鹿げた杞憂でしょうね。うちの医師たち全員にあらかじめ意識調査をしたところによると、彼らはみな、刺傷事件の被害者はセクシーだしミステリアスでもあると思っているという結果が出ていますよ」。すぐれた外科手術の技術を持っているだけでなく愉快な人でもあるお医者さんに受け持ってもらったことを私は幸運だと思う。

  新たな恐怖がしだいに私のなかに巣食い始めた。私は犯人がどうにかして脱走し、私を殺すため病院内に潜んでいると信じるようになっていったのだ。私を守るため非常に厳重な警備体制が敷かれていることを皆が請け合った。それでも私の恐怖は抑えがたいものだった。新しい男の技官や用務員が部屋に入ってきたときはいつでも、彼が病院に元からいたスタッフだと私を説得して確信させるまでのあいだ、私は恐怖に震え、赤ん坊のようにすすり泣き続けた。

  ある時、カトリックの牧師が私に恵みを授けるためにやって来た。私が良き手のもとに委ねられていると信じて、両親もフレッドも部屋を後にした。私は背の高い、がっしりした体格の牧師を見上げ、聞き取りにくい外国訛りで彼が祈りの言葉を詠唱するのを聞いていた。彼は虚空で手を動かし十字を切った。そのちょっとした動きが私のなかの何かの引き金を引いた。パニックに囚われて私は思った、「この人は牧師じゃない!私を殺しに来ている!」。私は何としてでも彼から離れなければならなかった。ベッドの彼からもっとも遠い側へと這いずっていった。私の苦悩を察知して、牧師は私のほうにいっそう身を乗り出し、私を祝福するため腕を振り上げた。彼が拳で私の胸を殴ろうとしていると心底確信して、私は助けを求める悲鳴を上げた。家族と看護師が部屋に駆け入ってきた。善意の牧師も含めた全員がすっかり困惑していた。

  私はすすり泣くことしかできなかった。「出ていってもらって。怖いの。お願い、お願い、彼に出ていってもらって」。牧師は私の恐怖を理解して、静かに立ち去った。

  後で私はその牧師さんに申し訳なく思った。私のふるまいは間違いなく彼を当惑させただろう。ただ私は自分の反応をどうにも制御することができなかったのだ。

  通常、鎮痛剤を処方されてから最初の一時間のあいだ、私は自分の心情を両親やフレッドと、私の治療をしている医師や看護師とさえも話し合うことができた。私はいつでも人と話すことを好み、よい会話によって刺激を受けていた。結局のところ、話すことを求めることはひとつの有効な治療手段だったのだ。私は自分の差し迫った恐怖や不安の感情を取り上げ、それについて他人と話し、そしてその後、安心感を得た。しかし私は、私が直面しているような種類の問題には良い話の聞き手以上のものが求められていることにも気づき始めた。私は専門家の助けを必要としていた。そこで私は精神科医に会わせてくれるように頼んだ。

  シーダーズ・サイナイの3日めから私は精神科研修医のポール・ジョセフ先生の訪問を受けた。私たちは週5回面会した。彼との面談はかけがえのないものだった。彼らなくして、私の心理面での回復がこうも迅速に完全に進むことはなかっただろう。

  さまざまな問いが私を襲った。「なぜ私なのか?このことはどのようにして起こったのか?主は私を見守っているのではなかったのか?私はまた人を信頼できるようになるのか?この怪物的な殺人嗜好者のような人物を擁するおぞましい世界に戻るがだけのために、なぜ私は苦労して回復に努めているのか?私は再び通りを歩けるようになるのか?私は完全なノイローゼになってしまうのか?私はそもそも生きていけるのか?」。私の肉体はまともに働かなかったが、私の心は問うことを決して止めようとはしていないようだった。

  ICUでの3日めに、スタイン先生が空気ポンプのように見える青色のプラスチックの器械を持ってきて、これは肺を強くするためのものだと説明した。私の胸は全域にわたって激しい痛みのなかにあったので、おのずと私の呼吸はごく浅くなった。このことが私を肺炎の第一候補者にしていた。器械のマウスピースを通して深く息を吸い込むようにとスタイン先生は言った。吸い込んだ空気が小さなボールをプラスチックのシリンダーのてっぺんまで持ち上げる。私は毎時間、ボールを少なくとも10回、一番上まで持ち上げるように言われた。

  しかし、私が器械に向かって息を吸ったり吐いたりするたびに、刺すような痛みが肺や胸に走った。すぐに私は「おもちゃ」――と私たちはその器械のことを呼ぶようになっていた――を見たり、ただその話をするだけで、泣き出してしまうようになった。

  そして課題そのものが私をフラストレーションで涙ぐませるようになった。できるかぎり深く息を吸い込んでみても、ボールは持ち上がるどころか、ピクリとも動かなかったのだ。

  スタイン先生は再三にわたって肺炎の危険性を私たちに警告した。フレッドと私の両親は私に懇願し、頼み込み、甘い言葉で私を諭した。私はより深く呼吸しようと必死になった。ようやく私はボールを動かし、ついにそれを数インチ浮かび上がらせることができた。しかし何度試みても、ボールをてっぺんまで持っていくことはできなかった。

  子供の頃から私は強い意志を持ち、目標を目指して進んでいく性質だった。そのボールを動かせなかったことは私を敗者の心境にし、私の自信を打ち砕いた。私は課題を、痛みを、自分の無力さを、そして何よりも、この見たところ些細な仕事を成し遂げるのに自分が失敗したことを憎んだ。

  二日のうちに私は肺炎にかかった。痰の塊が肺のなかに留まっていて、私がそれを深く咳をすることで排出させられないかぎり、医師たちはひどい苦痛を伴う処置を私に施さなければならないことになった。胸から肺に挿入した道具で痰の塊を取り除くのだ。その宣告が私を凍り付かせた。

  熱と恐怖に苛まれながら、私は何度も咳を繰り返した。そのたびに、金属板とともにワイヤーで留められた私の癒えていない胸骨がひび割れていくかのように感じられた。私は泣き、母は狼狽し、父とフレッドはどうすることもできず青ざめてその場に立ち尽くした。熱は40度にまで上昇した。もはや選択の余地はないと医師たちが言った。処置を施さなければならなかった。

  この知らせを聞いて私は抑えようもなくむせび泣いた。泣いたことがさらなる痛みを引き起こし、ひどい咳の発作へと私を誘い込んだ。ありがたいことに、あまりにも激しい咳がついに異物を私の肺からはじき飛ばした。鬱血が緩和するとともに、肺炎は快方へと向かった。数時間のうちに私の熱は下がり、危機は去った。

  

 私が医師から、同じく看護師から受けていた治療の質の高さにも拘わらず、また、家族の愛情のこもった世話にも拘わらず、時として私の痛みと不安が、私をヒステリックであまりにも要求の多い人間にしてしまうことがあった。手短に言うと私はしばしば、愚痴っぽい厄介者になったのだ。ひどい傷を受けた犯罪被害者たちは、しばしば周囲の人間が対処することが困難になるような振る舞いに出ることがある。私の個人的経験から言えることはただ、このような行動は自然な反応なのだということだけである。あなたのそれまでは健康だった肉体が、容赦のないストレスと苦痛の種になってしまった時、あなたが感じる無力感と苦悩はあなたに大きな――たとえそれが通常一時的なものであるとしても――性格の変化をもたらす。私はその好例だった――私は物を投げ、どなり、泣き喚き、枕を叩き、さまざまな混乱を引き起こした。

  ある日私は、誰かが私に贈ってくれたナイトガウンを試してみようとした。それはピンクのシルク地で、綺麗な刺繍が施されていた。母が私の胸に巻かれた厚い包帯を取り外そうとしていた時、胴についていたピンクの華奢なレースの花がはじけ落ちた。怒りと苛立ちで、私は文字どおりガウンを引き裂き、床に投げつけ、その間ずっと呪いの言葉をわめき散らしていた。ガウンはぼろきれと化した。

  私が許容できるレベルは現実的には存在しなかった。ちょっとした問題や落胆さえも、私には途方もないことのように思えた。私は既にあまりにも大きな困難と恐怖を抱え込んでしまっていたから、今はすべてのことがスムーズにいくよう望んでいたのだ。だが残念ながら、人生はたいていそんな具合にはいかないものである。それで私の憤怒はしょっちゅう表面化し、私は呼び起こすことのできるあらゆる力をもって、私の怒りにはけ口を与えた。そのあとで私はばつの悪い思いをして、皆に謝ることになった。

  私の傍にいて、私が自分の感情を露わにすることを許してくれた人たちにとても感謝している。時として不快に見えるとしても、患者が自分の感情について話し、場合によってはそのことで泣いたり叫んだりするのは健康的なことなのである。これらの感情を心のうちに沈めて、わだかまらせ、いつか大噴火を招いてしまうよりははるかに得策である。

  ジョセフ先生は、私の中のもっともどす黒い考えでも表に出してみるよう励ましてくれた。彼は私の家族が私の極端な反応に対処するための手助けもした。私は彼との面談を毎回待ち望んでいた。彼は犯罪被害者の治療に関して特別なトレーニングは受けていなかったけれども、とても協力的で、思いやりがあり、心理的に過酷なこの最初の数週間を私が乗り越えるための助けに彼がなれるよう、気を配っていた。私が取り乱しそうになったときはいつでも、ジョセフ先生に「ビーッと警報を鳴らせば」よかった。彼は即座に応えて、しばしば電話越しに私を助けてくれた。

  私の精神科医男性だったことを私は特に喜ばしく思っていた。場合によっては、男性に襲われた暴力的犯罪の被害者は女性のカウンセリングを受けることを希望する。しかし私は、自分が男によって傷付けられたからこそ、いま男によって助けてもらうことが自分には望ましいことだと感じていた。私は男を憎み、永遠に男を怨んでさえしまう危険を冒したくはなかった。私の肉体面と心理面の健康を請け負ってくれたジョセフ先生とスタイン先生がともに男性だったことを私は嬉しく思う。