PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 1/5

捏造報道

岩田華怜さんに5年間つきまとっていたストーカーが今年6月にストーカー規制法違反で逮捕されて以降の一連の報道で、メディアの多くは岩田さんを「元AKBで現在は女優」と報じている。「元AKB」とだけしているものもあるが、少なくとも、かつてアイドル活動をしていたからといって今でもアイドルであるかのような報道のされ方はしていない。それと比べたとき、小金井ストーカー刺傷事件(小金井ストーカー殺人未遂事件)の被害者の冨田真由さんをアイドル扱いした事件直後の一斉報道がいかに異常な組織的捏造だったかがよく分かる。

 

共に執拗なストーカー被害を受けていた岩田さんと冨田さんのうち冨田さんの事件では、被害者をなんとかしてアイドルに仕立て上げたいという動機と、その工作が出来るだけの力を有する者がいた。被害者から事前に相談を受けていながら不手際によりみすみす凶行を許してしまった警察である。事件直後に書かれた新田樹の記事が伝える夕刊紙記者の談が「アイドル捏造事件」の真相をほぼ言い当てているのだろう。

 もしも岩埼容疑者の状況を警察が確認し注意喚起などを行っていれば、このような痛ましい事態には発展しなかった可能性が高く、今回の事件はどこからどう見ても、事態を軽く考えていた警察側の怠慢により起きてしまったものと言える。


 しかし、そのような警察対応への批判の声がメディアにはあまり出てこず、むしろ、「『アイドルファン』と『アイドル』の近すぎる関係性の是非」といった別の議論に収斂されている。フジテレビ『直撃LIVE!グッディ』にいたっては、被害者となんの関係もないアイドルグループの過剰なCD特典商法をあげつらっていた。そこには、意図的な情報誘導があると夕刊紙記者が語る。


「報道では冨田さんが『アイドル』ということになっていますが、実際は『シンガーソングライター』で、『アイドル』じゃない。本人もそう自称してますし、ファンもそういう認識でした。過去に、元アイドリング!!!朝日奈央伊藤祐奈らとともにシークレットガールズという企画ものアイドルユニットを組んでいた時期があることから、『アイドル』という経歴が押し出されている。これはもちろん、我々マスコミが視聴者、読者受けを狙っているというのもありますが、もう一つは、警察自ら冨田さんがアイドルをやっていた時の情報を中心にメディアに流しているからです。警察側としては、ストーカー対策の不手際からメディアの目をそらさせたい。だから、『アイドル』時代の情報をどんどんメディアに流して、AKBの刺傷事件の時にも盛んに交わされた『アイドルとファンの近すぎる距離感』という方向に議論をもっていこうとしているのではないでしょうか」 *1

実のところ上の発言は警察の非道の告発であるだけでなく、視聴者、読者の受けが良くなるように犯罪被害者の肩書を粉飾して報道するという耳を疑うような犯罪的行為を、うちらの業界では常識だとばかりに「もちろん」の一言で片づけて憚らない「我々マスコミ」の非道の告白でもある。アイドル冨田真由さんは、警察とメディアがそれぞれおのれの保身と読・視聴者受け狙いというまったく身勝手で利己的な思惑に沿って共同プロデュースした架空のバーチャルアイドルである。

 

冨田真由さんは女優・シンガーソングライターである

冨田さんがどういう芸能活動をしていたかは、本来ならば一次資料――つまり冨田さん自身による公式の活動記録を参照して判断すべき事柄である。Ameba冨田真由オフィシャルブログ「Living.」は、月刊少女漫画雑誌『ちゃお』2012年8月号~2013年5月号の付録DVDに収録されたドラマ『シークレットガールズ Season 2』の撮影がちょうどクランクアップした2012年4月に開設されているので、ブログの記事を辿っていけばシークレットガールズ後の冨田さんの芸能活動の全体像を把握することができる。それを時系列に沿ってリストにまとめたものが以下の表である。

 

シークレットガールズ後の冨田真由さんの芸能活動

ジャンル 演目
2013年7月 映画 ボクが修学旅行に行けなかった理由 ※
2014年5月 演劇 タイムポンポン ※
2015年2月 即興演劇 谷中コメディーショー
2015年2月 演劇 繋ぐ!
2015年3月 即興演劇 王子コメディーショー
2015年6月 演劇 たりない写真、歌えなかった唄のために ※
2015年7月 演劇 谷中コメディーショー
2015年7月 演劇 ロマンス(主演) ※
2015年9月 演劇 姦しく嬲る
2015年9月 音楽ライブ SOLID GIRLS NICHT VOL. 3
2015年9月 ミュージカル バックホーム
2015年10月 即興演劇 OvObライヴ vol.1
2015年10月 音楽ライブ Aco Life 149
2015年11月 音楽ライブ ガールズバンド企画『ロジウラ革命』
2015年11月 演劇 吾木香 ~ワレモコウ~
2015年12月 演劇 モノクローム~FOLK US~
2016年1月 音楽ライブ Aco Life 158
2016年2月 音楽ライブ SOLID GIRLS NIGHT VOL. 8
2016年3月 音楽ライブ Kopepe CS Live
2016年4月 音楽ライブ Aco Life 168
2016年5月 音楽ライブ SOLID GIRLS NIGHT VOL. 11

冨田真由オフィシャルブログの公式活動記録による
緑色は女優の活動
青色はシンガーソングライターとしての音楽活動
公演・上演が月を跨ぐ場合は初日の月とした
※印の作品はDVDが発売されている

 

冨田さんはアイドルではないと報道に異を唱える良識派の人々は口を揃えて「冨田さんはアイドルではなくシンガーソングライターだ」と言っている、が、冨田さんを単にシンガーソングライターとだけ呼ぶのは冨田さんの芸能活動の大幅な矮小化にほかならない。上の表を見れば一目でわかるように、冨田さんの芸能活動は女優(緑色)とシンガーソングライター(青色)の二本柱からなる。このうち時系列で先行しているのは女優の活動で、実績ベースでも女優がキャリアの過半を占めている。

 

冨田さんはアイドルではないと報道に異を唱えていた人でも冨田さんがかつてアイドル活動をしていたことは認めていた、そのアイドル活動が「シークレットガールズ」である。シークレットガールズについてまず知っておくべきことは、それが少女漫画雑誌『ちゃお』の付録DVDに収録のアイドル役を演じる同名の連続ドラマから派生したアイドルユニットだということである。「女優」という冨田さんの終始一貫した活動の幹を認識できてさえいれば、女優の一環としてアイドル役を演じたことから派生して分岐した、冨田さんの活動履歴をとおして一際目立つとはいえあくまでも幹ではなく枝のひとつとしてシークレットガールズを正しく位置づけることができるようになる。要するに、冨田さんの芸能活動の中でアイドルが幹の位置にきたことはかつて一度もない。シンガーソングライターのほうにばかり目を向けて女優のキャリアを無視するから枝を幹と誤認するのである。シークレットガールズに関してもう一つ重要なのは、それが少女漫画雑誌の付録DVDのドラマに由来するアイドルであって、ということは基本的に女の子が応援するアイドルなのであって、男性ファンの疑似恋愛感情をくすぐるようなタイプのアイドルとはもっとも縁遠い位置にあるという点である。冨田さんをシークレットガールズのEYEちゃんだと記憶している人はネット上でたしかに少なくないが、シークレットガールズのメンバーとしての冨田さんのことを思い入れをもって語っている人の大半は女性である。そして最後に、アイドルユニットとしてのシークレットガールズの活動期間は事件から3年以上も前の2011年7月~2013年4月である。

 

冨田さんのブログに一通り目を通せば、冨田さんのアイドル活動がシークレットガールズにまったく限定されたものだったこともはっきり確認できる。ブログ開設後まだしばらくは続いていたシークレットガールズの活動の中では、ちゃおガールセレクトショップなどでのイベントで一日店長や2ショットポラ撮影会、握手会などもこなしていた冨田さんがひとたびシークレットガールズを終えて以降の芸能活動は、上の表にまとめた映画1本、舞台12本の女優の活動と、シンガーソングライターとして自作の曲を歌う8回のライブ活動のほかには映画上映に際しての舞台挨拶、上映イベントのゲスト出演があるだけで、握手会・サイン会・チェキ会などのファンとの交流イベントやあるいはグラビア撮影、特典付きCDの販売といった、「アイドル活動」と聞いて人が連想するような類の活動の告知や報告は皆無である。アイドルとして活動している人が一時的に女優としてお芝居をするのは珍しいことではない。実際、シークレットガールズの5人のメンバーのうち3人はアイドリング!!!からの参加者である。しかし冨田さんの場合は明らかに女優がアイドル役を演じた機会にあわせてその時限りのアイドル活動をしていたのであって、その逆ではない。

 

ただ、シークレットガールズ後に冨田さんが取り組んでいた舞台女優・シンガーソングライターは小さな劇場やライブハウスを主な活動の場としていたので、公演の際にある程度ファンとの交流の機会があり、そこで会話だけでなくたとえば差し入れを渡したりすることも可能だった。舞台女優・シンガーソングライターの冨田さんとファンの間の相対的な距離の近さとは、小規模な公演形態で活動している芸能人全般に当てはまる昔ながらの距離の近さなのであって、AKB以降台頭してきた近頃の「会いに行けるアイドル」とファンの距離の近さとは似て非なるものである。女優にしろシンガーソングライターにしろ、一人一人のお客さんと自然に顔なじみとなるような環境に身を置いての下積みの期間をまったく経ず一足飛びにメジャーデビューを果たす芸能人は稀だろう。「ファンとの近すぎる距離」と、近いほうが不自然で異常であるかのようなことを人は口々に言うが、芸能界全体を見渡してみれば、自分を応援してくれる人の顔も名前も皆目分からないほどのメジャーシーンで活躍するほんの一握りの芸能人とファンとの間の遠い距離のほうこそむしろ異例なのではないか。冨田さんとファンの距離関係は、女優とシンガーソングライターを志して芸能の道を歩み始めたまだ20歳になるかならないかの若い人の活動形態としてなんら特殊なものではない。冨田さんは誰に咎を受けるいわれもない普通の芸能活動をしていた人である。

 

事件との関わりにおいても冨田さんをアイドルと呼ぶべきではないし、シンガーソングライターという呼称も不十分である。その点は、メディアが流布している偏向報道とは大きくかけ離れた事実が述べられている裁判の検察側冒頭陳述を見ればただちに理解できる。

 被告人は被害者の掲載されている雑誌を見て被害者の存在を知り、好意を持つようになり、インターネットで被害者が女優として活動していることなどを調べ、被害者のブログに書き込みをしたり、被害者が当時所属している事務所に手紙を送るなどしていました。被告人は被害者のブログにコメントを寄せるなどしたほか、平成27年2月頃からは実際に被害者の出演する舞台を観に行き花束を渡すなどするようになりましたが、実際に被害者をみてますます好意を強め、被害者と交際したいと思うようになりました。
 被害者は平成27年夏頃からはシンガーソングライターとしてライブ活動も行うようになりましたが、この頃には被告人の被害者に対する好意はさらに強くなり結婚したいと思うようになりました(検察側冒頭陳述より)。 *2

検察側冒頭陳述は事件経緯のいわば公式見解である。その公式見解の中にアイドルのアの字も見当たらないことをまず確認しよう。あの犯人が冨田さんの存在を雑誌の記事で知ったのは、シークレットガールズの活動が終了した後の2014年ごろだった。したがって明らかにあの犯人は、シークレットガールズ時代に冨田さんへのつきまといをはじめたアイドルのストーカーではない。かといってシンガーソングライターのストーカーで片づけるのも言葉足らずである。冨田さんに関心をもってネットで調べた犯人は冨田さんを女優だと認識している。この頃の冨田さんはもっぱら女優の活動をしていたのだから当然である。事件までにあの犯人が観に行った冨田さんの芸能活動は計5回で、そのうちの3回目、冨田さんがシンガーソングライターの活動をはじめる前の2015年7月の舞台で公演終了後に直接交際を申し込んでいる。それに対して冨田さんは「ごめんなさい、いまは大学の勉強や舞台とかを頑張りたいので付き合えません」と、大学生活の傍ら演劇の舞台に立つ女優の立場から返答した。 *3 これは裁判の際に検察側の被告人質問で犯人自らが証言していることである。最後の5回目はシンガーソングライターとしての2016年1月17日のライブであるとして、計5回のうち少なくとも3回は冨田さんが女優として出演する舞台をあの犯人は観に行っているのである。ギター弾き語りで自作の歌を歌うシンガーソングライターの冨田さんの姿を見て犯人が思いを募らせていったという、メディアの杜撰な報道をとおしていまや当然の事実のごとく定着しているイメージは端的に誤りである。この事件を「SSWおじさん(シンガーソングライターおじさん)」の危うさを訴えるための材料に利用しようとする人も後を絶たないが、それも事実に照らし合わせて妥当性を欠いている。舞台女優につきまとっていたらその舞台女優がシンガーソングライターの活動を始めたので自動的にシンガーソングライターのつきまといに変じただけの男を、SSWおじさんの暗部を代表する闇の帝王のごとく祀り上げるのは、あの男の身に余る過大評価である。

 

2012年10月4日付のブログの記事で冨田さんはこう書いている。

昨日は「ボクの四谷怪談」と言うミュージカルをみてきました!

 

(中略)

 

私もいつか舞台に立って、見ている人を魅了出来るような役者になれるように、もっと勉強しないとな(`・ω・´)

 

「頑張る」とか「努力する」って、言葉にすると簡単だけれど、行動ってなるとすごく難しい。

でも、もっと頑張りたいと思います! *4

その言葉どおり、シークレットガールズ後の冨田さんは2013年7月公開の初出演映画を経て2014年5月に『タイムポンポン』で初舞台を踏んだ。『タイムポンポン』の稽古の最中に冨田さんは「繋がり」というテーマでこんなことを語っている。

両親が出逢っていなかったら、私はここに存在していないし、生きている中で女優になりたいと思っていなければ、応援してくれるみんなにも逢えないの。 *5

そして翌年にはじつに11本の舞台に出演してそのうちの一作『ロマンス』で主演(宮木智子役)を務めあげている。舞台女優の修業時代ともいうべき2015年に先立つ2014年8月31日に、冨田さんはブログ上の次のようなコメントと共に所属事務所のホリエージェンシーを卒業していた。

事務所と話し合いをし、新しい環境で活動を行うことがお互いにとって1番良いのではないかという結論になり、所属事務所ホリエージェンシーからの卒業を決めました。辞めさせられたとか、仲が悪くなったわけでもなく、お互いのことを考えた上での前向きな想いからの決断です。

 

今後の活動についてはまだ一切決めていないけど、後悔することは絶対にしたくない。
不安がないと言えば嘘になります。それでもたくさんの曖昧があるまま活動を継続して行くことは、違うと思いました。 *6

卒業に際してそう記した冨田さんのその後の活動の軌跡を辿っていけば、事務所の一所属タレントとして与えられた仕事をこなしていくのではなく女優としての研鑽を積んでいきたいという強い思いが、所属事務所を離れる決断を冨田さんに促した大きな動機であったろうことを推し量るのは難しくない。

 

冨田さんにとって2015年は、前年の大晦日

2015年は、また新しいことに挑戦しようと思っています。

もちろん、今までよりもっと好きなお芝居を、2月の舞台だけじゃなくて、どんどんやっていきたいし、少しずつ進めている音楽も早く皆様に届けたい。 *7

と抱負を語っていた音楽活動の始動の年でもあった。冨田さんがお客さんの前でギターを弾くのはギター女子の役を演じた6月の舞台『たりない写真、歌えなかった唄のために』が初めての経験で、そのときの心境をブログで「わー緊張したぁ。舞台で楽器を触るの始めてでどっきどき。心臓でなくてよかた笑」 *8 と打ち明けている。そんな冨田さんのシンガーソングライターとしての初ライブはそれから3カ月後の9月19日で、すべて自作曲によるプログラムだった。2016年に入ってから冨田さんの芸能活動が月1回の音楽活動に絞られている理由の一つは前年末のブログに書かかれている。

まだぼんやりとだけど、来年は舞台の本数、今年より少なくしようって考えています。私はいま大学生で、しっかり勉強したいという気持ちを応援してくれる両親の気持ちに応える責任があるんじゃないかなって。お勉強すきなんだ~  せっかく大学生してるから、いましか学べないこと学びたい。

 

お芝居はもちろん大好きだけど、舞台はとくに本番より稽古期間が長くて、大学に通ってる意味が無くなるくらい行けなくなっちゃう。大学に行きたくても、仕事は仕事だと言いくるめられることも、最初だけ都合のいいことを言ってくる人もまだいるから、後ろ向きな考えになる前にゆっくりペースでね。 *9

5月の事件当日、一年足らず前には舞台上で心臓が飛び出そうなくらい緊張してギターを弾いていた冨田さんは既に7度のライブをこなしており、自身8度目のライブ出演のため初回と同じ小金井のライブハウスに向かう途中で被害に遭ったのだった。

 

女優とシンガーソングライターという二本柱の目標を見据えて具体的な活動プランを自ら組み立て、そのプランどおりに映画初出演の後は舞台女優として、2015年秋以降はそれに加えてシンガーソングライターとしてもキャリアを積み重ねてきた着実な歩みの軌跡と、その過程でお芝居と音楽へ寄せる折々の思いが冨田さんのブログには綴られている。一次資料を参照するという正当な手続きにしたがって冨田さんの芸能活動の内訳を吟味するかぎり、この人は女優・シンガーソングライターであるという以外の結論が出てこようはずがない。ところがその明白な事実を強引に捻じ曲げ、踏みにじり、冨田さんのこれらの活動のいっさいを「アイドル活動」の一言で片づけようとした者がいる。事件直後に被害者はアイドルだと一斉に報じたメディアのあの足並みの揃いっぷりを思い出そう。あの時点で被害者の肩書に関する虚偽の情報を全メディアにトップダウンで一斉入力することができた者は警察をおいてほかにない。だから私は、冒頭に掲げた夕刊紙記者の談がこの異常な「捏造事件」の真相をほぼ言い当てているとみているのである。

「報道では冨田さんが『アイドル』ということになっていますが、実際は『シンガーソングライター』で、『アイドル』じゃない。本人もそう自称してますし、ファンもそういう認識でした。過去に、元アイドリング!!!朝日奈央伊藤祐奈らとともにシークレットガールズという企画ものアイドルユニットを組んでいた時期があることから、『アイドル』という経歴が押し出されている。これはもちろん、我々マスコミが視聴者、読者受けを狙っているというのもありますが、もう一つは、警察自ら冨田さんがアイドルをやっていた時の情報を中心にメディアに流しているからです。警察側としては、ストーカー対策の不手際からメディアの目をそらさせたい。だから、『アイドル』時代の情報をどんどんメディアに流して、AKBの刺傷事件の時にも盛んに交わされた『アイドルとファンの近すぎる距離感』という方向に議論をもっていこうとしているのではないでしょうか」

冨田さんをアイドルに仕立て上げた黒幕は警察であり、メディアはいわば主犯格の警察の指示を受けて動いた実行犯である。ここにみられる警察とメディアの悪魔の共犯関係は、1999年の桶川ストーカー殺人事件のぞっとするほど正確な再現である。桶川事件で警察がメディアを利用して流布した「被害者はブランド好きの女子大生」に相当する世論誘導のための工作が、小金井事件の場合は「アイドル活動をしていた女子大生」なのである。

*1:新田樹「“アイドル”刺傷事件は警察のずさんな対応に責任あり! 目くらまし「ファンとの距離の近さ」議論に騙されるな」 [link]

*2:出典は2017年9月に出版されたムック本に収録された高橋ユキによる小金井事件の記事。内容は別として本の表題と記事の表題が共に酷いのでここでは明記しない。この記事については後述する。

*3:同上

*4:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-11371235749.html

*5:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-11852698401.html

*6:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-11917982777.html

*7:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-11971551756.html

*8:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-12037103511.html

*9:https://ameblo.jp/mayu-tomita-blog/entry-12111629657.html

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 2/5

桶川事件と小金井事件で警察は被害者に何をしたか 

桶川事件

 

桶川事件の被害者をブランド好きの女子大生に仕立て上げるため警察がとった世論誘導の手口は表向きシンプルなものだった。「捜査一課長代理ですから厳しい質問のないようによろしくお願いします」というヘラヘラ笑いの挨拶からはじまる、事件当日に上尾署でひらかれたいまや語り草になっているメディア向けの会見では、被害者が刺された傷の部位について「あのまあ、なんちゅうんだろうな?フヘッ(笑)」「脇腹のちょっと後ろのほうですね」「まあ、埼玉言葉で言うわきっぱらかな?フフッ(笑)」とじつに楽しげに満面の笑みを浮かべながら、まるで蚊に刺された位置でも話しているかのように署長と捜査一課長代理が談笑したり(警察の発言は誇張して書いているのではなく、実際の会見の映像を見て彼らが喋った言葉を極力正確に写し取ったものである)、警察官が「告訴」の文言を「届出」に書き換えた改竄がのちに発覚することになる被害者からの告訴状を「被害届」だと平然と言い切ったり、「本件の殺人とストーカーと関連があるとみているのか」という記者の質問に対して食い気味、キレ気味に「それは分かりませんよ」とぶっきらぼうに言い放ち、「視野に入れているのは間違いない?」との重ねての質問に「そこまでも申し上げられません。その辺のところは何回も同じこと言わせないでください」と署長が記者を説教したりといった粗雑で尊大な応対に終始するなかで、被害者が身につけていた遺品について、リュックはプラダである、時計はグッチである、服装のうち履いていたものは厚底ブーツに黒のミニスカートであるとそこだけはやけに詳しい説明がなされた。警察は白と黒の碁石の山から黒だけを選り分けるようにして、被害者の所持品のある一部分だけを意図的に選び出しメディアに開示したのである。

 

いっぽう事件の翌年末に被害者の両親が埼玉県警に対して「適切な対応を怠った」と国家賠償請求訴訟を起こした民事裁判の際に、警察は被害者へのなりふり構わぬあからさまな人格攻撃に走っている。「性に対し自由奔放で、高価なプレゼントを求め、束縛を嫌って自由に行動する」 *1 ――被害者をまるで犯罪者のようにこき下ろしている、警察の口から発せられたとは到底信じがたい言葉を聞いて、事件から一年以上も経過した時点で警察の態度が豹変したと受け取るのは誤りである。時を遡って、事件前に警察が被害者にとっていた誠意も無ければ礼儀も無い言動、態度の数々をみれば、民事裁判の折に警察が被害者に吐いた暴言は、被害者が相談に訪れたことのはじまりから警察が抱いていた被害者への終始変わらぬ本心を表したものだとうかがわれるからである。民事裁判での警察の主張とは要するに、被害者が殺害されたのは私らが悪いのではない、そもそも被害者の人間性に問題がある、自業自得だということである。事件前に警察が抱いていた被害者への偏見が、事件後に警察が責任逃れをするための口実にそのまますり替わっている。

 

事件直後のメディア向けの会見で警察が内心言わんとしていたことももちろんその変わらぬ本心、偏見だったはずである。その会見の際に警察がメディアに直接語った内容と、後の民事裁判の際に警察が語った被害者を公然と非難する誹謗中傷の言葉とのあいだには明らかに大きな落差がある、だがその落差はメディアが埋め合わせしてくれると警察は踏んでいたのだ。メディアとは一種の崖なのだと想像すること。警察がメディアに伝えた内容は、いわば崖を転がり落ちて大衆のもとに届く。警察がメディアに伝えた内容を小石だとすれば、メディアが大衆に伝える内容は崖を転がり落ちた果ての、はじめの小石とは似ても似つかぬほどに嵩を増した大岩になる。桶川事件の報道でメディアは、警察の流した被害者の所持品の一部の情報やプレゼントの受け渡しが事件の発端になっているという外形的事実を下劣な妄想で膨らませて、ブランド物に身を包み高額なプレゼントを男にねだる架空の悪女に被害者を仕立て上げていったのだった。警察がメディアに伝えた被害者の所持品情報は、それをメディアが大衆に伝える段にはまったく別の姿に変貌して、もはや代弁者に頼るわけにはいかなくなった警察が遂に本性を顕し自らの口で語り始めた後のあのおぞましい誹謗中傷とほぼ同じ内容と化していたのである。

 

警察のメディア戦略が奏功するかどうかはひとえにメディアの質と品性次第である。もしもメディアが警察の広報内容を鵜呑みにせず、徒に煽情的なゴシップに走ることもせず,真偽を自らの目で足で確認し十分なチェックを経たうえで、偏りのない公平で正確な情報を大衆に送り届けるだけの高い質と品性を具えていれば、警察が小石ひとつで引き起こそうと目論んだ報道被害という名の災害はことごとく未然に食い止められるだろう。だが桶川事件の報道をみれば、そしてこの後詳しく検証する小金井事件の報道をみても、実態はまったくその逆であった。メディアは警察の流した情報をただ鵜呑みにするよりもなお性質の悪いことを、警察の流した情報に尾ひれをつけ話を膨らませて、警察が0を1にしたものをさらに10にして100にして視聴者・読者に送り届けるということをやっている。メディアは警察がその上の高みに立って小石ひとつで意のままに大落石を起こすことのできる剥き出しの危険な、しかし警察にとってはじつに便利な崖なのだ。

 

小金井事件

 

冨田さんが危険を感じて警察にまで相談しに行ったのにその後も芸能活動を続けて被害に遭ったことを軽率だとして非難する声がある。私は冨田さんに結果論として多少油断した面があったとしたら、それは警察へ相談に行った「のに」ではなく行った「から」だと思う。もし仮に冨田さんが警察から高いリスクを警告されたのに耳を貸さなかった結果被害に遭ったというのであれば、冨田さんはいささか無謀だったとの評に一理あると言えるかもしれない。だが現実はまったくそうではなかった。警察は冨田さんから相談を受けたこの事案を、早急に被害者の身の安全を確保すべき重大な案件だとは露ほどもみなしていなかったのである。警察は冨田さんの相談内容を受けて問題の人物を逮捕もしなければ警告を発することも、そもそも接触を試みることすらしなかった。危険だから芸能活動を控えたほうがよいとも、芸能活動を行う際は一人で行動しないほうがよいとすらも冨田さんに伝えていなかった。警察が冨田さんに示した対処策は「十分注意してください」「何かあればこちらから連絡します」といったような漠然としたものだけだった。そして事件発生までに三度ばかり冨田さんのもとに様子見の電話をかけてきた、それだけである。警察は冨田さんがわざわざプリントアウトして持っていった問題の人物によるSNSの書き込み内容に目を通し、冨田さんから直接ここまでの経緯の説明を聞いたうえで、今すぐどうこうなるような問題ではないだろう、まあ多少は気をつけていたほうが良いだろう、「何かあ」るまでとりあえず様子見でいこう、という程度の危険度の診断を下していたのである。

 

いま「診断」という言葉をつかったのは、市民にとって警察はいわば犯罪部門の総合病院のような存在だと思うからである。私たちが体の不調を感じたとき病院へ行くのは、もちろんその症状を治してほしいということであるとともに、素人の自分では判断できない医学的な問題について専門家の判断を仰ぐためである。同じように、私たちが身の危険を感じて警察に赴くのは、問題をできることなら解消したいということであるとともに、素人では判断の難しい犯罪リスクに直面した自分がこの先どのように行動すればよいかの指針を専門家であるはずの警察から教示してもらうことを期待してでもある。冨田さんが2016年12月に公表した手記にも、「犯人が急に目の前に現れて殺されそうになったとしても、私も家族も周りの人も素人なので、自分のことや誰かを守る方法は何も知りません。 / そんな中でも希望を持っていたのが、警察に助けを求めることでした」と記されている。自分が素人であると自覚したうえで、プロであると見込んだ警察を信頼して相談に行っているのだ。多くの人は専門家である医師の下した診断には今晩お風呂に入っても良いかどうかといった些細なことに到るまで逐一したがって行動する。同じように、不安を抱えて相談に訪れた人に警察が伝える所見は、その人のその後の行動を細部に到るまで規定するほどのたいへんな重みをもつ「プロの診断」になるのである。

 

冨田さんの警戒レベルは警察へ相談に行く前と行った後とで、明らかに後者のほうが下がっているように見受けられる。2016年1月17日に催されたライブの終了後あの男のつきまといを受けた冨田さんは、そのライブの翌日にツイッターのアカウントを開設して書き込みをはじめたあの男が冨田さんに送り付ける内容が過激さを増しつつあった4月24日のライブ終了後、「怖くて一人で帰れない、外で(ストーカーが)待ち伏せしているかもしれない」と訴えてライブの主催者に車で送ってもらっていた。 *2 いっぽう警察への相談を経てからの5月の事件当日、冨田さんは小金井のライブハウスへ一人で赴き、駅前で待ち伏せしていた犯人につきまとわれ、駅近くのライブハウス前で犯人に襲われて被害に遭った。結果を知ったうえでの勝って当然の後出しじゃんけんで、もしも冨田さんが誰かの付き添いを伴い会場入りしていたら被害に遭うことはなかっただろうにとタラレバの話をしている人間の中には、ストーカー問題の専門家だということになっている小早川明子も含まれている。 *3 ここではっきりさせておきたいのは、一人で会場入りするという冨田さんの判断は警察のアドバイスに背いてのものではない、その逆だという点である。冨田さんは最初に武蔵野署へ赴いたときも、被害に遭った5月のライブの前日にかかってきた武蔵野署からの電話の中で明日のライブの予定を伝えたときにも、警察からライブをするのは止めたほうが良いとも、一人で行動しないほうが良いとも教示を受けていない。言い換えると、現場入りの際に誰かに付き添ってもらったほうが良いかどうかについて、そこまでするには及ばないという所見を警察は暗に冨田さんに示していたということである。今晩お風呂に入ってはだめですよと医師に言われたわけではないのにお風呂に入ることを控えた人がいたとしたら、それはその人が医師の判断に頼らず、つまりは医師を信用せずに独自の判断をしたからである。その点からみれば、冨田さんは警察を犯罪分野のプロフェッショナルとして全面的に信頼していたと言える。真剣に身の危険を訴えている自分の立場からすればおそらく「気のない」と映っただろう警察の対応に納得のいかない思いを抱えていたかもしれない、だがそれでも冨田さんは、ストーカー犯罪に関しては当然自分より遥かに詳しいはずの警察の判断を信頼して、警察が見積もった危険度のレベルに自身の警戒レベルを忠実にアジャストして行動を取っていた。冨田さんは警察の教示を守らなかった結果被害に遭ったのではなく最後まで忠実に守った結果、被害に遭ったのだ。この点は冨田さんの名誉のため強調しておかなければならない。

 

結果論から言えば、警察の見立ては癌の症状を花粉症の症状と取り違えるくらいの大誤診だったことになる。冨田さんの相談を受けた武蔵野署の生活安全課の担当署員は、当面のところ差し迫った危険はないと判断してストーカー犯罪の専門部署である人身安全関連事案総合対策本部に報告することすらしなかった。担当署員がまさにその人身安全関連事案総合対策本部の出身だったにも拘らずである。*4 警察はこの件をストーカー被害と呼ぶにすら値しない事案だと評価していたのだ。ではストーカー被害でないのならなんだと思っていたのだろうか。「アイドル」という呼称が答えを指し示しているように私には思われる。要するに警察はこれをアイドルがファンとトラブっているだけの案件だとみていたのではないだろうか。私は事件後に冨田さんはアイドルだという誤情報がメディアを経由して瞬く間にひろまっていったことを、事件前に警察が冨田さんをアイドルだと誤認識していたことを裏付ける証左だとみている。

 

女優・シンガーソングライターとして活動していた冨田さんがそもそもどうしてアイドルだということになってしまったのか。オードリーの若林正恭南沢奈央が交際発覚のニュースで,坂上忍が「オレ的に許せない、よりによってアイドルとかと付き合うって」と司会を務める番組で発言したことがあった。南沢奈央さんはたまにバラエティ番組に出演したり過去にはグラビアに登場したことがあったとしても普通なら女優と呼ぶべき人だと思うが、世の中には芸能活動をしている若い女性を皆ひっくるめてアイドルに分類してしまう大雑把な物事の捉え方をする人がいるのである。私は冨田さんの相談を受けた武蔵野署の署員も坂上忍のようにかなり大雑把な世界把握をする人だったのではないかと想像している。冨田さんが女優業の一環でアイドル役を演じた関係で一時的にせよアイドル活動に携わっていたことが(といっても3年以上前のことだが)誤解につながったのかもしれない。桶川事件で警察が被害者に吐いた暴言の数々を手本にして想像をさらにたくましくすれば、「アイドルとファンのゴタゴタの世話をさせられるなんざかったるい、警察は便利屋じゃないんだよ」ぐらいのことをひょっとしたら内心思っていたのかもしれない。

 

いずれにせよあの男の正体は、おそらく警察の眼にはそう映っていただろう口だけは勇ましいアイドルオタクではなく、紛れもない、そして稀に見る凶悪なストーカーだった。そうしてひとたび事件が起きてしまった後で、桶川事件のときと同じく、事件前から警察が被害者に抱いていた偏見がそのまま警察の責任逃れの口実にすり替わったのだろうと私は推測する。

 

こんなことになってしまい被害者に申し訳ないという思いをもちろん警察は抱いていたはずだと私は信じたい。小早川明子のようにタラレバの話をすれば、もし警察が襲撃の可能性を視野に入れたうえで、被害者の所在が予測できてしかも一人でいる時をおそらくストーカーは狙うだろうからライブ会場の行き帰りは特に危険だ、というプロの的確な読みにしたがって冨田さんに注意喚起さえしていれば、別に警察が自ら警護を務めなくてもここまでの被害は回避できていた公算が高かった。ストーカーが近々襲ってくる可能性をそもそもまったく想定していなかったようにみえる警察が事態の危険度を大幅に軽く見積もっていたことは否みようがない。とはいえ警察も人の子であるから、被害者への罪悪感と同時に、これほどの重大事件を未然に食い止めるどころか、切迫した危険を感じて相談に訪れた被害者におざなりな対応で大したことではないかのような見通しを示して逆に被害者の警戒心を大幅に低下させ、事件を招く呼び水にすらなってしまったことの責任を少しでも軽くしたいという心理に(多少なりとも)駆られたとしても不思議はない。そこで警察は、被害者はアイドルだという事件前からの誤解ないし偏見に沿ってこんな思惑を(多少なりとも)抱いたのではないだろうか――この事件を2年前のAKB刺傷事件と同じ枠に仕分けして近頃のアイドルとファンの距離感の問題を事件の主因に前景化させれば、こちらへ向かう批判の目をそらすことができるのではないか、と。前景化などとしゃちほこばった言い回しはやめて普通の言葉で言い換えよう――警察の不手際よりも被害者の活動形態に事件の主因を帰そうとしたのではないかということである。回りくどい表現はやめてもっと直截に言えば、警察にも不手際があったとしても、それ以前にそもそも「刺されるのはアイドルなんてやってるのが悪い」という方向に世論を誘導しようと企んだのではないかということである。

 

私はメディアの人間ではないので、小金井事件で警察がメディア向けにどのような広報をしていたのか具体的なところは知り得ない。だが、事前にメディア合同の企画会議でも開いていたのかと思えるほどに全メディアが足並みを揃えて被害者にアイドルという同じ肩書を冠し、全メディアが足並みを揃えて事件を「会いに行けるアイドルの受難」という同じ題目で物語化していった小金井事件の初期報道のあの異様な光景をみれば、警察が被害者はアイドルであるという虚構をメディアに周知徹底させるというその一点に相当の力を注いでいただろうことは想像に難くない。冨田さんをアイドルに仕立て上げる企てに、警察は年来の共犯者であるメディアへの信頼に裏打ちされた確かな勝算を抱いていたはずだ。信頼とはひとつには、アイドルが刺されたという視聴者・読者受けのする「おいしいネタ」を目の前にぶら下げれてやればこの国のメディアはこぞってヨダレを垂らしながら飛びついてくるに違いないという信頼であり、もうひとつは、被害者がどのような芸能活動をしていたのかをいちいち一次資料にまで遡って確認する質の高いメディアなどこの国に存在するわけがないという信頼である。被害者はアイドルだという嘘の小石をメディアという崖にひとつ蹴り落とした警察は、桶川事件のときの経験からその小石が崖を転がり落ちて大衆の待つ崖下に達したときどんな姿に変貌しているかも十分予測できていただろう。そのうえでそれを期待していたのだろう。警察の読みがじつに的確だったことはその後の報道が証明している。メディアは警察の期待どおり、いや期待以上のはたらきをしてくれたのである。

*1:清水潔『桶川ストーカー殺人事件―遺言(新潮文庫)』、385頁

*2:田村JINさんの証言。テレビ朝日系列『スーパーJチャンネル』2016年6月23日の報道のほか、『週刊現代』2016年6月11日号の記事にも書かれている。週刊現代の記事の表題は極めて酷いものなのでここでは明記しない。この記事については後述する。

*3:小早川明子『ストーカー(中公新書ラクレ)』、153頁

*4:週刊文春』2016年6月30日号

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 3/5

小金井事件でメディアは被害者に何をしたか

小金井事件の初期報道は二重の捏造の産物である。第一に被害者の肩書の捏造、第二に捏造された被害者の肩書を偽りの前提とした事件の原因の捏造。アイドルユニットとしてのシークレットガールズ東京ドームシティホールNHKホールでライブを開催し、ポニーキャニオンからCDをリリースしている、まったくのメジャーシーンで活躍するアイドルであった。事件の3年以上前に活動を終了しているそのシークレットガールズの地下性は微塵も孕んでいない「アイドル性」と、シークレットガールズ後の舞台女優・シンガーソングライターにおける比較的小規模な公演形態、とりわけ、2015年を中心に舞台女優の活動に打ち込むなかで籍を置いていた芸能事務所マージを事件の数週間前に退所して以降はフリーになっていた冨田さんの直近の活動状況のある種の「地下性」――冨田さんの芸能活動のキャリアの中で時間的にもかけ離れたこの二要素をキメラのように合成してでっちあげたのが「地下アイドルの冨田真由さん」という架空の人物である。その実在しない人物の全身に、白と黒の碁石の山から黒だけを選り分けるようにして外部から調達してきた、地下アイドルとはこんなにも危険な稼業だと印象づける事例のソースをべったりとなすりつけて、「地下アイドルとファンの近すぎる距離」という架空の犯罪原因を造作もなくでっちあげていく。ネット右翼によく似た手口である。一方では虫の好かない人物を出鱈目な理由を挙げて在日認定し、一方では在日の犯した悪行とやらをあることないこと並べ立て、こんな物騒な連中はこの人物も含めて今すぐまとめて日本から出ていけなどと煽り立てているネット右翼の暴論が、在日だということにされた人と実際に在日の人をどちらも傷つけるのと同じように、小金井事件の報道は、地下アイドルに仕立て上げられた冨田さんと実際に地下アイドルとして活動している人の両方に辛酸を嘗めさせる、二重の意味で残忍な言葉の暴力であった。

 

地下アイドルという被害者の架空の活動形態に凶悪事件へとつながるリスクをもっぱら求めようとする粗暴な一般論を、NHKを含めたあらゆるメディアがいかに強引に、異議を力ずくで捻じ伏せてまでごり押ししていたかは、当時取材を受けた多くの人が憤りをもって証言しているとおりである。被害者は地下アイドルだとの捏造にしがたって殺到したメディアの取材依頼を、「そもそも被害者の女性がアイドルではなかったことと、地下アイドル業界が危険でないことを知ってもらいたい一心で」 *1 すべて引き受けた地下アイドルの姫乃たまさんを待ち受けていたのは、警察の取り調べまがいのきびしい追及であった。 

 事件の翌日にライブを控えていた私は、のちに識者も言うように彼女が地下アイドルではないことと、アイドルファンが報道されているような危険な存在ではないことを伝えるために、依頼が届いた報道番組からの取材をすべて引き受けました。
 しかし、NHKを除くすべての報道陣は、意地でもアイドルファンの人たちの危険なエピソードを聞き出すまで取材を止めようとしませんでした。
 反論を続ける私と、コメントを取ろうとする取材陣の攻防は、終電間際までライブハウスで何時間も続きました。
 ついには、恣意的な編集がなされ、あたかもアイドルファンの人たちが危険だと私が話しているような映像が報道番組で流されたのです。
 取材に来ていた報道陣の中でも、事情を汲んでくれていたスタッフの方から、「放送された内容が少し違っていたと思うのですが……」と謝罪の電話が来た時は落胆しました。
 私はその時、報道番組は最初から放送する内容が決まっていて、それに当てはまるコメントを探していただけだと思わずにいられませんでした。 *2

 

被害者はアイドルだという虚構にしたがってアイドルに詳しい吉田豪さん(SNS上では吉田光雄)のもとにもメディアの電話取材が舞い込んできた。吉田豪は実際アイドルに詳しいので、冨田さんが地下アイドルの範疇に属する人ではないことを正しく把握していた。そこで吉田豪は「そもそも彼女はシンガーソングライターで、犯人もアイドルヲタとかじゃないから、地下アイドルの問題とはまた別」だと説明を試みたのだったが、番組の「企画趣旨」にそぐわないこうした不都合な証言は当然のごとく揉み消された。「地下アイドルと高額なプレゼント」などの件で根掘り葉掘り問いただしても期待どおりのコメントをしてくれない吉田豪に手を焼いたフジテレビが結局手を染めたのは、恥も外聞もない捏造報道であった。「アイドルに詳しい吉田豪氏によると…」として、本人が言った覚えのない地下アイドルとファンの取引の一構図をパネルで紹介したのである。

Twitterのフォローと物販購入が等価交換だと語る吉田豪……。そんな発言した記憶ないですよ!

f:id:dubius0129:20181104234828j:plain

https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/735100337283964929

 

優月心菜さんもTBSのインタビュー取材で、現役の地下アイドルであるかのような「地下アイドル 優月心菜さん」のテロップを付けられたうえで、「ファンと個人的に外で一対一で会い写真を撮ってもらったりとかしていた」との事実と異なる発言要旨を流される捏造の被害に遭っている。

こんな風に編集されていてびっくりです。撮影会を通して、外撮をやっていたことはありました。勿論スタッフはいました。撮影会に参加されてる皆様ならご存知であるかと思いますが。私は個人的に、ファンの方とは外で会ってません。酷すぎる。

f:id:dubius0129:20181104234853j:plain

https://twitter.com/kibiruu/status/736578686292365312/

 

注目すべきは、小金井の事件でNHKニュースにコメント出演予定だった宇野常寛さんが警察の不手際にも言及しようとしたところ、出演が急遽キャンセルになったという内訳話である。

 宇野氏と言えば、アイドル文化にも精通しており、番組は彼に「握手会ビジネス」やSNSが普及して以降のファン心理などについて捕捉説明(原文ママ)をしてもらうためオファーをした。基本的には彼も、その番組の意図に沿って捕捉しつつ、一言だけ、警察の捜査の不手際についても触れておきたいとしていた。たった一言だけである。にも関わらず、NHKは突然キャンセルを言い渡してきたのだ。

 

 その顛末について、宇野氏は、23日深夜放送のラジオ番組『THE HANGOUT』(J-WAVE)のなかでこのように語っている。

 

「この事件に関してコメントしてくれっていう依頼があったんですよ。録画でね、インタビュー受けたものを編集して放送すると言っていて。ほんのちょこっと、数10秒しか使わないんだけど、30分撮らせてくれと。これ、俺、まずいなと思ったのね。都合のいいところだけ抜き取られて、どう編集されるか分かったもんじゃないから、「それ嫌だ」って言ったの。「使う分、プラスアルファぐらいの分数だったら受けます」って言って、で、「だいたいこういう内容を話したいと思います」って言ってOKが出て、もうね、渋谷に向かってる途中かな、電話があって、「やっぱダメです」と。それは何でかっていうと、僕が警察の捜査の不手際についてやはり一言入れておきたいと言って、それが引っ掛かったんだよね」

 

 今回の事件での警察の対応について、宇野氏は同ラジオ番組のなかでこのように語っている。

 

「僕はね、明確にね、今回の事件は警察の捜査に不手際があったと思う。かなりはっきりしたかたちで嫌がらせの形跡が、しかもソーシャルメディア上に残っているかたちであったし、本人もかなり真剣に相談していたのに、割りかし、たらい回しに近いような扱いをやっちゃってるわけね。で、それでここまでの事態に発展して、なにかこう認識が甘かったんじゃないかというコメントはね、やっぱフェアネスの観点からせざるを得ないと思うわけ」

 

 至極真っ当な意見である。にもかかわらず、NHK側は突然、宇野氏に出演キャンセルを言い渡してきたのだ。 *3

 公共放送の呆れた実態を暴露するこのエピソードは、「被害者=(地下)アイドル」の虚構が警察批判を封じる方途として機能していたことを雄弁に物語っている。冒頭に掲げた夕刊紙記者の推測が正鵠を射ていることを裏付ける証言である。

 

上に列記した被取材者の被害報告が揃って示しているのは、姫乃たまさんが看破しているとおり、最初から報道する内容が決まっていてそれに当てはまるコメントを探していただけだというメディアの見下げ果てた取材姿勢と、あらかじめ決まった結論にそくした歪曲、歪曲の域を通り越した捏造は平気で行ういっぽうで、あらかじめ決まった結論にそぐわない不都合な事実は平気で隠蔽するメディアの、信じがたいほどのモラルの欠落ぶりである。

 

大手メディアの明らかに異常な報道姿勢に批判の声が上がるのは当然の流れだった。

2016年5月24日

吉田豪

アイドルでもないしヲタでもない!小金井刺傷事件の報道に感じるモヤモヤ

http://tablo.jp/serialization/yoshida/news002249.html

徳重辰典

関係者、ファンは語る「冨田真由さんはアイドルでなくシンガーソングライター」

https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/tomitamayu?utm_term=.cjpENAlrb#.qc5elGNwM

*

2016年5月26日

北村篤裕

「女子大生シンガー」の刺傷事件を「アイドル」と報道することの怖さと誤解される“事件の本質”

https://nikkan-spa.jp/1119468

*

2016年5月27日

ロマン優光

女子大生シンガー刺傷事件で思うこと

http://bucchinews.com/subcul/5755.html

*

2016年5月30日

田中秀臣

小金井女子学生刺傷事件と「アイドル」偏向報道

https://www.newsweekjapan.jp/tanaka/2016/05/post-3.php

*

2016年6月2日

姫乃たま

小金井市・女性襲撃事件で受けたインタビューはなぜねじ曲げられたのか? 世間の偏見と地下アイドルの覚悟

http://otapol.jp/2016/06/post-6831.html

 しかし一連の記事のなかで、本来なら当然真っ先に言わねばならないはずの事柄――いま行われている報道はこれ以上絶対に傷つけてはいけないはずの犯罪被害者の心をズタズタに傷つけるむごたらしい二次被害を招いてしまっているという問題の核心をはっきり指摘できていたのは、私の知るかぎりロマン優光のコラムだけであった。

 変な話だが、自分が何らかの事件に巻き込まれて「お笑い芸人」として報道されたら凄くいやだと思う。自分は確かにロマンポルシェ。という笑いの要素を含むバンドをやってきたし、芸人の方と対バンをしたこともあるわけだが、お笑い芸人かと言われると違うわけで。芸人を目指してるわけでもないし。芸人が嫌いとかそういう話ではなく、本人の志す方向性を認めてほしいというか。冨田さんもシンガーソングライターを志して活動してきたのに、他人が「アイドル」と言うのは凄く本人に失礼な話だと思う。本人の意志をないがしろにするなんて。地下アイドルでないのに「地下アイドル現場の闇」の象徴にされているような現状とか、本当に理不尽な状況でしかない。冨田さんが自分の活動にかけた想いを尊重しなければいけないのではないだろうか。「どっちだっていいじゃん」とかそういうことではない。自分の身になって考えてみてほしい。ただでさえ理不尽な凶行にあったのに、その上自分が自分でない人間に仕立て上げられるとか、酷すぎる話ではないか。そこを汲み取らないでどうするのか、ということなのだ。

 

実際のところ、冨田さんが受けた報道被害は単に本人の意に沿わない肩書を冠せられたというていどの生易しいものではなかった。メディアが総がかりで冨田さんに貼りつけた地下アイドルのレッテルは、その地下アイドルという活動形態にこそ事件の原因があるとするまぎれもない「自業自得論」を被害者に浴びせるための一斉射撃の標的にほかならなかったからである。被害者は地下アイドルだという狂った前提を即席の土台に据えて、「昨今の会いに行けるアイドルとファンの距離の近さが招いた凶悪事件」という大衆受けのするフィクションの醜悪なプレハブ小屋を我れ先にと手抜き工事で乱立させていくメディアの粗野で下品な身振りに、被害者への配慮など微塵も含まれてはいなかった。地下アイドルの危険な活動実態(より正確に言えばメディアが偏見によって危険視している活動実態)のあれこれ――たとえば、フジテレビが吉田豪から聞いた話だということにして捻じ込んだ、物販購入の見返りにファンをフォローするSNS活用術や、「アイドル刺傷」のお題目で一括りにされたAKB刺傷事件を経由して蒸し返されてきた握手会ビジネスの問題や、これまたフジテレビが「そんな肉体接触をされたらファンが恋愛感情になってしまうのも仕方ないですよね」とのコメント付きで紹介した、ファンの耳かきをしてあげる地下アイドルのサービスだとかを、それらがことごとく被害者自身の活動実態と混同されるおそれがあるという重大な二次被害リスクにまるで頓着することなくメディアは垂れ流していた。

 

では実際はどうだっただろうか?冨田さんはフジテレビが取り上げたような手をつかってSNSのフォロワーを囲い込んでいたのだろうか?冨田さんのツイッターのアカウントを一目見て気づくのは、冨田さんのフォローの人数、いいねを付けた数の少なさである。事件後に削除されたわけではないことを確認するために、Wayback Machineに保存されている事件当日のスナップショットを掲げる。

 

f:id:dubius0129:20181104234915j:plain

ツイッターでしょっちゅうエゴサーチをかけては多少なりとも自分に肯定的なツイートを見つけると誰彼かまわず片端からいいねを付けて回るような人は芸能人だけでなく、アスリートや知識人にも少なくないが、冨田さんのフォロー、いいねの内訳をみれば、冨田さんがその種の人々とは対極にある、

  • ファンはフォローしない
  • ファンにはいいねを付けない

の禁欲的な自己ルールにしたがっていたことがうかがわれる。想像するに、ファンへのフォロー・いいねに関して完全な公平さを保つことは不可能であり、どれだけ気を配ってもなにかしらの不公平感、蟠りがファンの間に生じることは避け難いというSNSのリスクを踏まえたうえでの冨田さんの方針なのかもしれない。憶測で思いつきの理由を勝手に挙げるのは慎まなければいけないが、少なくとも冨田さんがフォローやいいねをファン取り込みの道具に活用していなかったことは確かである。ファンのほうでもそのへんは心得ていて、やれもっとレスをくれいいねをくれフォローしてくれ反応してくれと物欲しげにねだる人もいなければ、プロデューサー気取りでああしろこうしろと上から目線で指図するといったSSWおじさん的振舞いに走る人もなく、和やかで落ち着いたやり取りを交わしていたのが冨田さんのツイッターであった。そこへひとりあの犯人だけがまったく場違いに、ギラギラと邪な下心を漲らせて闖入してきたのである。

 

握手会についてはどうだろうか?先に記したとおり、冨田さんが握手会に参加したのはシークレットガールズのメンバーとしての活動時のみである。シークレットガールズ後の冨田さんが握手会をまったく催していない理由はごく単純なことで、冨田さんはアイドルではなく女優・シンガーソングライターだったからである。耳かきの件についてはわざわざ言うまでもない。

 

  • 冨田さんはファンと適度な距離を保ってSNSで交流していたこと
  • 犯人が冨田さんを知る以前のシークレットガールズの活動時を除いて握手会を開いていないこと
  • 過剰な接触サービスももちろんしていないこと

 

これらの、被害者自身の活動実態に関するメディアにとっては不都合な真実をことごとく隠蔽し、「地下アイドル」というそもそも間違った枠組みのもとで同列視された、「被害者と同じアイドル」をやっている赤の他人のそれ風なエピソードにすり替えていくご都合主義によって、最近のアイドルとファンの関係が近すぎるせいで起きた事件だという印象をお手軽に意のままに醸成していく、これが小金井事件でメディアのとった世論誘導の手口である。メディアの人間は自分たちがどれだけおぞましいことをやっているかを自覚しているのだろうか。最近注目を集めた事件に置き換えるなら、伊藤詩織さんが訴えているレイプ被害の報道で伊藤さんとはなんの関係もない赤の他人の枕営業の事例をあれこれ並べ立ているようなものである。先に挙げた、宇野常寛が警察批判にも一言言及しようとしたところ出演が急遽キャンセルになったNHKニュースのインタビュー取材で、NHK宇野常寛に「握手会ビジネスやSNSが普及して以降のファン心理などについて補足説明をしてもらうためオファーをした」のだった。握手会などしていなかった人が被害に遭った事件の報道で握手会ビジネスの問題を取り沙汰することをかろうじて正当化するのは「アイドル刺傷」というAKB刺傷事件との共通項だけであるが、これまでみてきたように、その唯一の共通項を成立させる根拠である「アイドルの冨田真由さん」はメディアの完全なる創作である。NHKがやろうとしていたことは、火のないところに火種をまいて視聴者をミスリードし被害者の名誉を傷つける悪質な印象操作以外の何物でもない。

 

こうして冨田さんは、生死の境で生きるためのぎりぎりの格闘を続けている最中に日本中のメディアによってまったく身に覚えのない地下アイドルに仕立て上げられたうえ、冨田さんとは縁もゆかりもないどこかの地下アイドルがどこかで冒したらしい冨田さんとはまったく無関係なあらゆる「危険行為」の濡れ衣を一身に着せられていった。その結果なにが起きたかは言うまでもない。

地下アイドルのファンが、好きな地下アイドルを刺してしまう危険な存在だと印象づけられる報道がなされ、さらに驚くべきことに、インターネット上では、被害者の女性の落ち度を指摘するような声も上がりました。
「ファンの気を引くような活動をしていたのだから、刺されても仕方ないのではないか」 *4

姫乃たまさんは事件後すぐに沸き起こった被害者の自業自得論を「驚くべきこと」だとしているが、人の注目がもっとも集まる事件発生からの数日間あのような報道に明け暮れていたにも拘らず被害者を悪く言う声が世間からまったく上がらなかったら、そのほうが「驚くべきこと」である。メディアは「地下アイドルのファンが、好きな地下アイドルを刺してしまう危険な存在だと印象づけられる報道」と同じかそれ以上の熱意をもって、「地下アイドルが、まかり間違えばファンに刺されかねない過激な営業に走っている向こう見ずな存在だと印象づけられる報道」をも流布していたのだから。

 

小金井事件の報道とそれがもたらした世間の反応の正視に堪えないほどの惨状は、それがおそらく警察にとっては「驚くべき」どころか「狙いどおり」の成果だったのだろうという考えに思い至ったとき、いっそうのおぞましさをもって眼に映るようになる。NHKから「握手会ビジネス」などの件で補足説明を求められた宇野常寛が警察の不手際にも一言ふれようとした途端に出演がキャンセルになったというかの証言が端的に示しているように、警察の至らなさを問題視する報道を押しのける形で「会いに行けるアイドル」の危うさを問題視する報道に多大な時間が割かれ、その会いに行けるアイドルの一員に数え上げられた被害者が矢面に立たされるいっぽうで警察がその陰に隠れてまんまと批判を逃れおおせている様をみるにつけ、警察は桶川事件とまったく同じことを小金井事件でもしたのだと感じずにはいられない。桶川事件でも小金井事件でも、警察は事件前に相談を受けていながら自分たちがストーカーから守れなかった被害者を、事件後に自分たちを国民の批判から守るための盾として利用しようとした。被害者を盾に作り変えるために施した細工が、桶川事件の場合はブランド好きの女子大生、小金井事件の場合はアイドル活動をしていた女子大生である。

 

桶川事件から20年近くを経て警察に進歩したところがあるとすればひとつ、狡猾さを増した点である。小金井事件の警察は事件前に相談に訪れた被害者に対し、桶川事件の時のように傲岸不遜な態度を少なくとも表向きは取らなかったのだろう。メディア向けの会見でも、桶川事件の時のようなあからさまに尊大な挙には及ばなかったのだろう。小金井の警察は桶川の時のような表立った「ボロ」を出さず本性を押し隠して巧妙に事を進めている。自身はもっぱら裏に回って黒幕に徹し、桶川事件から20年近くを経ても未だ進歩のないメディアの質と品性の低さを最大限に利用して、狙いどおりの世論誘導をひそやかに成し遂げている。桶川事件では警察の目に余る横暴に黙ってはいられなくなった一人のジャーナリストが立ち上がり、警察が被害者にしたことの一部始終を告発した。被害者の猪野詩織さんはそこでようやく、警察とメディアという二匹の悪魔の共謀によって著しく傷つけられた名誉を取り戻す機会を得たのだった。いっぽう小金井事件での警察の振舞いは、ジャーナリストの正義感に火を点けるきっかけを与えるような悪目立ちするところに乏しい。事実を冷静に見つめれば、小金井事件の報道は明らかに桶川事件の報道とまったく同じことをやっている。批判の目をそらしたい警察にとって都合の良い被害者像を桶川事件の時とまったく同じようになりふり構わずでっちあげ、それが警察を利するいっぽうで被害者には桶川事件の時とまったく同じように甚大な二次被害をもたらしている。にも拘わらず、この極めて異常な報道がどのような経緯でまかり通ってしまったのか、そもそも誰の仕掛けでこうなったのかをきびしく問う声があがることは無いに等しかった。そして冨田さんは名誉回復の機会を奪われたままである。

*1:姫乃たま 地下アイドルの炎上とガチ恋問題を総括 [link]

*2:姫乃たま『職業としての地下アイドル(朝日新書)』、205~206頁

*3:新田樹「宇野常寛NHKの自主規制を暴露!“アイドル”刺傷事件で警察の捜査ミスを批判したら『NW9』出演中止に」 [link]

*4:姫乃たま『職業としての地下アイドル(朝日新書)』、206頁

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 4/5

関係者の知る冨田真由さん

とかく参照されることの多いウィキペディアが小金井事件の記事(記事の表題は「小金井ストーカー殺人未遂事件」:2018年11月現在)で被害者の肩書を正確に記述していることはせめてもの救いである。

Aは東京都内の私立大学に在籍している大学生で[8]、女優やシンガーソングライターとして活動していた[9]。なお事件当初はかつてAがアイドル的な活動を行っていたことから『アイドル刺傷』とした見出しがマスメディアに掲載され[10]、その後関係者や第三者の抗議により後の報道では表記を修正した。

ここにある「女優やシンガーソングライターとして活動していた」という記述自体はもちろん正確だが、その出典に挙げられている産経新聞の記事 [9] はそこらへんの素人が書き散らかしたブログの記事にも劣る粗悪きわまりない記事である。

 重体になっている冨田真由さんは学業のかたわら、芸能活動に熱心に取り組んでいた。最近はアイドルからの路線変更も公言するなど、夢に向けて邁進(まいしん)している矢先の事件だった。「アイドルとしてやってきたが、これからはシンガー・ソングライターでやりたい」。事件現場となったイベント会場のオーナー男性によると、冨田さんは最近こんな目標を打ち明けていたという。冨田さんは約4年前、アイドルグループのメンバーとしてCDデビューを飾っていた(5月23日付 産経新聞のネット記事)。

被害者が結局はアイドルの亜流だったと読者に印象づけたいがためにアイドルアイドルと連呼し、記事に付されたタグも「アイドル刺傷」である。女優についてはそもそもいっさいふれていない。4年前にCDデビューしたアイドルユニットが女優としてアイドル役を演じたドラマから派生したユニットだったことも書かれていない(「伏せられている」と言うべきかもしれない)。女優業から派生したいっときのアイドル活動を3年以上前に終えてからは2015年秋のシンガーソングライターの活動開始までもっぱら女優としてやってきた冨田さんが言うはずのない「アイドルとしてやってきた」の台詞や「最近はアイドルからの路線変更も公言する」の記述は、シンガーソングライターだとの異論におびやかされつつあった「被害者はアイドル」の嘘の設定になんとか辻褄をつけるために記者がひねり出した苦し紛れの嘘の上塗りである。信じがたいことに、冨田さんが女優・シンガーソングライターとして活動していた人だという基本的事実の典拠として引けるような記事は大手メディアの報道には本当に皆無なのである。ウィキペディアは被害者の実名を一切出さない編集方針を取っているので致し方ないのだが、冨田さんがどのような芸能活動をしていた人なのかを伝える記述の出典とするのに本来一番ふさわしいのは一次資料、すなわち冨田さんの公式ブログである。

 

おそらくどこかの素人が書いたのだろうウィキペディアの記述は、この国の「プロ」のメディアが被害者の肩書を報じるにあたって一次資料を参照するという基本中の基本を終始怠っていた恥ずべき事実も的確に指摘している。「その後関係者や第三者の抗議により後の報道では表記を修正した」――そう、たしかに多くのメディアは冨田さんの肩書を後に修正した。だがその修正とは、ここに書かれているとおり、事実を自ら調べたうえで修正したのではなく、「関係者や第三者の抗議により」、要は他人に言われて変えたのだ。関係者、つまり冨田さんの芸能活動をよく知る共演者やプロデューサー、脚本家、演出家、映画監督、あるいは以前からのファンは、事件直後にメディアが冨田さんをアイドルだと一斉に報じたことに憤りを覚え異を唱えている点では共通していたが、女優の冨田さんとシンガーソングライターの冨田さんのどちらをよく知っているかに応じて、冨田さんはアイドルではなく女優だと言う人とシンガーソングライターだと言う人に分かれていた。

 

冨田さんが根岸佳苗役で映画初出演を果たした作品『ボクが修学旅行に行けなかった理由』の監督である草野翔吾さんは事件発生直後にツイッターで次のように記している。

SNSなんて開きたくもない気分だけど、眠れないので一つだけ。アイドルが良い悪いという話ではなく、冨田真由さんはアイドルではなく、女優です。ここ数年はシンガーソングライターとしても活動しています

https://twitter.com/KusanoKid/status/734058031969800192

*

冨田真由さんの件、やはりアイドルとして報道されているのに違和感と危機感を覚える。冨田さんは女優でありシンガーソングライターだし、もし本人がどこかで自分はアイドルだと言っていたとしても(僕の知る限り、そんなこと無いけど)少なくとも事件が起こったのはアイドル活動をする日ではない。

https://twitter.com/KusanoKid/status/734595381099651074

 草野さんはシンガーソングライターの活動のほうにもふれているけれども、順番はあくまで女優・シンガーソングライターであってその逆になることはないだろう。事件当夜のツイッターの返信にあるように、草野監督にとって冨田さんは「非常に思い入れのある映画に出てくれた非常に思い入れのある女優さん」なのだから。

非常に思い入れのある映画に出てくれた非常に思い入れのある女優さんです。また必ず一緒に仕事したいと思い続けてます。

https://twitter.com/KusanoKid/status/734217062373941248

 

後の裁判の際に冨田さんが被害者参加制度を利用する意向であることを伝える報道を受け、

冨田真由さん、被害者参加制度を利用。「自分が被害に遭った事件の裁判を、自分の目で見て、聞きたかったことと、自分にしか言えないことがたくさんあるので、そのことは伝えなければいけないと思った」。
凄い。本当に強い。強く生きてる。

https://twitter.com/KusanoKid/status/833534269674778624

そう言って冨田さんの強さを讃嘆していた草野監督の翌日のツイートが一転して悲痛な色を帯びているのは、なによりも冨田さんの調書の中に「もう女優は無理だと思う」の言葉があることを知ったたためだろうと思う。

冨田さんに始めて会った日のことを何度も思い出してしまう。ギターを背負ってきた冨田さんと、好きな音楽の話をして、ギターの練習をした。本当にお芝居と音楽が好きなんだなと感じた。高校卒業後の進路を悩んでいた冨田さんに、東京の大学に進学して、女優を続けたらいいと言ってしまった。

https://twitter.com/KusanoKid/status/833653302139068416

*

舞台挨拶を見に来てくれた冨田さんのご両親は「東京は怖い所だから不安だ」と言っていた。その時、「そんなことないですよ」と言ってしまったことを、死ぬまで後悔し続けると思う。犯人も法律に守られているということは理解しつつも納得は出来ない。死ぬまで服役し後悔して欲しい。

https://twitter.com/KusanoKid/status/833653426466623488

 

*

 

冨田さんが出演した多くの舞台作品の脚本、演出を手掛けており、冨田さんの主演作『ロマンス』の脚本を「真由のために書いた」園田英樹さんはやはりツイッターで冨田さんを「演劇仲間」と呼んでいる。

演劇仲間である冨田真由さんが、被害にあったというのを聞いた日から、心が安まる日はありませんでした。
ご家族に迷惑がかかったりするかもしれないと思い、沈黙するしかない日々でした。
意識が回復したという情報を知り、本当に安堵しました。

https://twitter.com/sonodahideki/status/741044078465323012

 

*

 

冨田さんをアイドルに仕立て上げるため、警察とメディアは冨田さんのキャリアをとおして唯一のアイドル活動であるシークレットガールズを最大限に「利用」した。警察はメディアに向かって3年以上前のシークレットガールズ時代の被害者の情報を選択的に流し、TVメディアは冨田さんがシークレットガールズのライブでアイドルの衣装を身に着け歌っている3年以上前の映像を何度も何度も繰り返し流して、この人はアイドルだという印象を日本中の視聴者に刷り込み続けた。その汚い工作がドラマ『シークレットガールズ』の脚本家の三浦有為子さんを苦悩に逐いやっている。

一番思ってしまったのは、もし彼女がEYEちゃんに選ばれなかったら
こんな事は起こらなかったのではないか……という事だ。
たくさんの美しい候補者の中から、ダントツの魅力で彼女はEYEに選ばれた。
この子がEYEちゃんだよと聞いて、すごく嬉しかったのを今も覚えている。
加害者の動機はまだ完全には分からないし、
彼がEYEちゃんのファンだったかどうかも分からない。
でも、もしEYEちゃんに選ばれなかったら、彼女は普通に女優として活動して
「アイドル活動していた」なんて報道はされなかったんじゃないか?とか。
と同時に彼女のEYEちゃんが私は大好きだったし、
たくさんの視聴者のみんな(主に小中学生女子)もそうだったし、
勇気と希望を与えられてきた。(と思う)
セカンドシーズンの義理のお母さんを受け入れる話も、
彼女のEYEちゃんだから書く事を許されたように思っている。
だから、彼女がEYEだった事に私は感謝しているし、否定もしたくない。
だが、それが悲劇の一因だったのかも……。
そんな事を思うと、もうどうしていいか本当に分からなくなってしまっていた。

http://blog.livedoor.jp/oui0214/archives/52156453.html

「もし彼女がEYEちゃんに選ばれなかったらこんな事は起こらなかったのではないか」の「こんな事」には二つの意味が籠められている。ひとつは、もしも冨田さんがシークレットガールズのドラマでアイドル役を演じたことがきっかけで一時的であれアイドル活動をすることがなければ、女優は女優でもアイドル役ではない別の役を別の作品で演じてきていれば、アイドルオタクだったのかもしれないあの男の目に留まることはなかったのではないかということである。これについてははっきりと否定できる材料がある。あの男が冨田さんを知ったのはシークレットガールズの活動が終了した後の2014年であり、裁判の検察側冒頭陳述で述べられているように、冨田さんに興味をもってネットで調べたあの男は冨田さんを「女優」だと認識している。さらに付言すれば、シークレットガールズはあわよくばメンバーの一人と交際したいなどと下心を抱いている男のアイドルオタクが現場にいたら相当浮いてしまうような、三浦さんのブログの記述にあるとおりの「主に小中学生女子」が応援するアイドルである。

 

「こんな事」の二つめの意味は、「もしEYEちゃんに選ばれなかったら、彼女は普通に女優として活動して『アイドル活動していた』なんて報道はされなかったんじゃないか」、女優であるにも拘わらずいわれなきアイドルのレッテルを貼られて誤解や中傷を受けることはなかったのではないかということである。しかしその点に関して三浦さんが負い目を感じる必要はいっさいない。人の作品を世論誘導の好都合な材料だとしか思っていないこの国の腐った警察とメディアが100%悪いのだ。自身が脚本を手掛けるドラマの役に冨田さんが抜擢されたことを本当に嬉しく思い、冨田さんの演じるEYEという役を本当に愛しながら冨田さんと共に作品を創り上げていた人にこんなにも悲しく苦しい思いを抱かせた警察とメディアは、自分たちがしたことを胸に手を当ててよく考えてみるがいいだろう。

 

*

 

田村JINさんの知る冨田さんは何よりも、主催者であり共演者でもあるライブで自作の歌をギター弾き語りで歌っていた冨田さん、そしてそのライブの折などに会話を交わす中で音楽への思いやこれからの音楽活動の夢を語っていた冨田さんであったはずだから、田村さんが強く願うことは、冨田さんを自分が知っているとおりの「シンガーソングライター」だとメディアに正しく報道してもらうことだった。

【私の知る冨田真由ちゃん】
 
私は取材を請ける際にお願い(条件)を3つ出しています。
1、彼女の状況を教えてもらいたい。
2、二次災害もあるので慎重に取り扱ってもらいたい。

そして3つ目はとても重要で言い続けています。
段々マスコミの方もご理解いただけ始めた気がしているのですが、
 
3、彼女はアイドルでは無い。
 『弾き語り』をしているミュージシャン、
 オリジナル(自分の歌)を持っているアーティスト、
 『シンガーソングライター』です。
 そう表記してもらいたい。

https://www.facebook.com/joypopjoy/posts/10209592022818899

https://ameblo.jp/joypopjoy/entry-12164246103.html

 

女優とシンガーソングライターの二本柱で活動してきた冨田さんの肖像が関係者のあいだでも二様に大別されるのは自然なことである。どちらかが正しくてどちらかが間違っているわけではない。片方だけ拾い上げて片方を捨て去ってよいわけでもない。いっぽう「アイドルではなく〇〇」の前段の「アイドルではなく」に関しては関係者の一致をみているが、草野監督が言うようにそれは別に「アイドルが良い悪いという話ではなく」、端的に事実と異なっているということである。関係者が口を揃えてアイドルではないと言っている以上、冨田さんをアイドルだと報じることはアイドルが良い悪いの問題ではなく端的に「誤報」なのである。実際に冨田さんと共に芸能活動を行ってきた関係者の言葉より、被害者はアイドルだとどうやら言い張っていたらしい警察の広報のほうが信頼に足る理由などあるはずがない。これらの関係者よりもさらに信頼性の高い情報源があるとすればそれはただ一つ、冨田さんご本人である。だから私はこの稿の冒頭で、冨田さんがどのような芸能活動をしてきた人かを冨田さんの公式ブログを参照して検証した。その結果は明白で、冨田さんは草野監督が言うとおり女優・シンガーソングライターである。

 

冨田さんが被害に遭ったのがたまたまシンガーソングライターの活動時であったためか、
被害者をアイドルだとすることに問題があるようだと気づきはじめたメディアは関係者および第三者が訴える「アイドルではなく女優」と「アイドルではなくシンガーソングライター」の二様の声のうち後者だけに耳を貸した。メディアが冨田さんに冠した「アイドル」に替わる新呼称は主に

  • 芸能活動をしていた女子大学生
  • 音楽活動をしていた女子大学生
  • シンガーソングライター

である。メディアの言う「芸能活動」の中には女優も暗に含んでいるつもりなのかもしれないが、シンガーソングライターの呼称がしばしば明記されるいっぽうで、女優の表記がつかわれることは無いに等しかった。メディアは女優の活動を実質的にほぼ無視したのだ。そのせいで、冨田さんの芸能活動の中身を事件前から知っていた人と、メディアの報道に頼らず真実を自分の目で確かめようとした一部の人を除いて、冨田さんが長らく女優としてキャリアを積んできた人であることはほとんど知られずじまいになってしまっている。冨田さんはアイドルだと言う人に、良識派の人は口を揃えてアイドルではなくシンガーソングライターだと反論する。するとそれに対してシンガーソングライターも結局アイドルと似たようなものではないかと再反論する人がいて水掛け論が繰り返されている。まったく不毛な議論である。冨田さんを(地下)アイドルと呼ぶのか適切かどうかは、小さなライブハウスで自作の歌をギター弾き語りで歌っていた、シンガーソングライターの活動をはじめてまだ一年にも満たない冨田さんを(地下)アイドルと呼ぶのか適切かどうかの問題というよりはむしろ、事件の約4年前にアイドル「役」を演じたドラマの後も引き続き女優として映画初出演を果たし、さらに活動の場を演劇に移して2015年を中心に十本以上の舞台に立ち、うち一本では主演を務め上げている人を、2015年秋にシンガーソングライターの活動を並行してはじめるまでもっぱらそのような活動をしてきた人を、そしてその舞台女優としての活動の最中あの男に目をつけられた人を(地下)アイドルと呼ぶのが果たして適切なのかどうかという問題である。

 

だが少なくともアイドルだという誤表記が正されたのであればそれだけでもまだ救いがある、と言いたいところだが、「メディアが事件当初のアイドルの表記を後に修正した」とするウィキペディアの記述は残念ながらこの国のメディアの質をあまりにも過大評価してしまっている。現実にはその基本事項の修正を徹底させることすらメディアは満足にできなかった。いや修正しきれていないというよりも、メディアは「アイドルの冨田真由さん」という視聴率や発行部数、アクセス数を稼げる架空の客寄せパンダにストーカーのごとく未練たらたらで、隙あらば冨田さんをアイドルと呼んでやろうというこだわりをストーカーのごとく執拗に持ち続けたのである。

 

ストーカーのごとくアイドルに執着するメディア

ウィキペディアの評価では「表記を修正した」ことになっている後の報道がどんな有様だったかをいくつか拾ってみよう。

 

週刊現代2016年6月11日号の

小金井「地下アイドル」ストーカー刺傷事件、こりない警察の大失態
いったい何度同じことを繰り返すのか

の見出しの記事が世にも滑稽で醜悪なのは、その記事で記者が鼻息荒く糾弾している小金井事件で警察が犯した数々の失態を締めくくるのが、「事が起こってしまった後にメディアを利用して被害者を地下アイドルに仕立て上げ責任逃れをしようとした」という姑息な企みだからである。要するにこれは、警察の奸計の片棒をまんまと担がされている警察の犬が飼い主の警察に噛みついている記事である。

  • まともに調査すらせず
  • いったい、何度同じことを繰り返すのか
  • いい加減学んでほしい
  • 誰も責任を取らず、反省もしない
  • 同じ過ちが繰り返されるのも当然だろう

――これらの、冨田さんを地下アイドル呼ばわりした記者がその同じ口で警察に言い放った舌鋒鋭い台詞は、警察の流した被害者情報の真偽を「まともに調査すらせず」、それどころかさらに尾ヒレをつけてブランド狂いだの風俗嬢だのといったデマを撒き散らかしていた20年近く前の桶川事件からまるで進歩のないメディアにそっくりそのままお返ししたい。いったい、何度同じことを繰り返すのか?いい加減学んでほしい。

 

その週刊現代は2カ月後の8月6日号で再び小金井事件を取り上げ、今度は冨田さんの実家に家族のコメントを取るべく乗り込んでいる。2カ月前の記事の見出しに公然と「地下アイドル」の字を掲げたのが桶川事件の記事の見出しに「ブランド好きの女子大生」の字を入れるのと同等の本当に失礼な行為だったという自覚が微塵もないから、こうやって臆面もなく被害者の実家にまでノコノコ押しかけていくことができるのだろう。いきなりやって来て「回復に向かわれて本当に良かったです」などと言い出した不躾な記者に冨田さんのお母さんはそれでも「ありがとうございます」と丁寧に応対している。その記事が「『お騒がせ事件』の主役たちはいま」という表題のワイド特集の枠に入れられていることは紙面の構成上やむを得ないものと百歩譲るとして、記事の見出しは「小金井ストーカー刺傷事件 女子大生アイドルのその後」、文中の表記は「アイドル、シンガーソングライターとして活動していた大学生の冨田真由さん」である。地下アイドルから地下が取れたほんの僅かな進歩をこいつらにしては上出来だと褒めてやったほうがいいのだろうか。

 

事件当初にとどまらず事件から1年近くが経過した裁判の報道に到るまで執拗にアイドルの呼称をつかい続けてレッテルの貼り直しにいそしんでいたストーカー気質の日刊スポーツは、わけても裁判の際の記事のひとつに「アイドル冨田真由さん『死んでほしい』極刑求める」の見出しをつける暴挙に及んでいる。記事の中では「歌手活動をしていた冨田真由さん」としているにも拘わらずである。冨田さんのフルネームにわざわざアイドルの肩書をくっつけて、いいですか、この冨田真由という人はアイドルですよと念を押している見出しには、冨田さんサイドに取材を断られでもして逆恨みしているのではないかと勘繰りたくなるほどに陰湿な悪意が籠められている。日刊スポーツは冨田さんが被害者供述調書で「犯人は死んでしまってほしい」と述べたことを冨田さんが裁判で極刑を求めていることとみなしているが、言葉を扱う仕事に携わっているのであれば、この「犯人は死んでしまってほしい」という言葉(意見陳述の中では「もうこの世の中に出てきて欲しくない。今すぐに消えて欲しい」となっている)が裁判で死刑判決が下されることを現実に求めてのものではない、犯人に極刑を課すことがかなわないことは百も承知のうえでの言葉であることは分かって当然である。それが読み取れないような輩は今すぐ新聞記者などやめたほうがいい。日刊スポーツのこの記事は、「殺人未遂で死刑判決が下るわけがないだろう、アイドルふぜいがなにを言ってる」と見出しをつかって犯罪被害者を愚弄している記事である。犯罪被害者の報道のあり方が大きく問われることになった後の座間事件で、日刊スポーツがどうか実名報道は控えて頂きますようにという遺族の切実な願いを記した自宅玄関の張り紙をわざわざ写真に撮り、被害者の実名をわざわざ見出しに掲げたうえで記事にするという、報道人としてどころか人としてどうかしている頭抜けて悪魔的な行為に及んでいたのは偶然ではないだろう。

 

活字媒体に比してテレビ報道はそれこそいちいち挙げていったらきりが無いほどの一層ひどい状況だった。ここでは私が心底やるせない思いに駆られたひとつの番組だけを取り上げる。2016年10月12日――この日はたまたま冨田さんの誕生日だった――に日本テレビ系列『ザ!世界仰天ニュース』の枠内で放映された桶川ストーカー殺人事件のドキュメンタリーである。桶川事件で警察が事件前も事件後もいかに無責任で粗雑で卑劣な振舞いに終始していたかに焦点をあてたドキュメンタリーの末尾で、「しかし、その後もストーカー行為の果ての凶悪事件は続く」として数カ月前に発生した小金井の事件にふれた、その際に、画面のテロップは「小金井女子大生ストーカー刺傷事件」としながらも、ナレーションは被害者を「アイドル活動をしていた大学生」の呼称で呼んだのだった。小金井事件の被害者をアイドルとするのが不適切だということはウィキペディアにだって書いてあることで、実際メディアの多くは事件後数日内にその呼称を止めているのである。事件から数カ月も経ってなおアイドル活動などという言い方をしているのはだからただでさえダメなことをしているのだが、よりにもよって桶川事件のドキュメンタリーでそれをやるとはもはや絶句するほかない。本当に制作関係者の誰一人として問題点に気づかなかったのだろうか。この稿で述べてきたとおり、桶川事件の被害者に貼られた「ブランド好きな女子大生」のレッテルに相当するのが小金井事件においては「アイドル活動をしていた女子大生」なのである。桶川事件の被害者と小金井事件の被害者はどちらもその事実無根のレッテルによって名誉を傷つけられ、心ない中傷に曝され、言い知れぬ辛酸を味わっている。桶川事件のドキュメンタリーが訴えた警察の悪行三昧の中にはもちろん、警察が被害者を「ブランド好きな女子大生」に仕立て上げようとした件も含まれている。事件当日に上尾署で開かれた警察のメディア向け会見の、署長と捜査一課長代理がヘラヘラニタニタ笑いながら被害者が刺された傷の部位を説明している、誰が見ても吐き気を催す実際の映像を流した後に、「ところが、詩織さんがその日身につけていた遺品はバッグはプラダ、時計はグッチと具体的に詳しく説明した。これで詩織さんは、ブランドが大好きな女子大生とイメージづけられた」と、その会見で警察が責任転嫁のために仕掛けた悪辣な世論誘導の企みを告発していた同じナレーションの声が、小金井事件の被害者を「アイドル活動をしていた女子大生」だと伝えたところで数十分にわたるドキュメントが締めくくられる。今の今までさんざん糾弾してきた警察が桶川事件の被害者にやったのと同じ仕打ちを小金井事件の被害者に食らわせることが番組の「オチ」になっているのだ。このドキュメンタリーでそれまで訴えてきたことの全てを最後に自ら踏みにじったも同然である。制作者は桶川事件からいったい何を学んだというのだろうか?ストーカー問題に関心を持っている人が多数観るだろう番組で冨田さんの芸能活動をアイドル活動だと公然と言い切り、「桶川基準」に照らし合わせても小金井事件の被害者をアイドルと呼んで構わないかのようなお墨付きを与える格好になってしまったのは本当に罪深いことだと思う。

 

桶川事件から小金井事件までの間にもたらされた報道環境の変化のひとつは、「正規の」メディアより質はさらに劣るが現実に相当数の人が閲覧しており影響力は看過できない「まとめサイト」のようなニュースメディアもどきがネットに大きく発達してきた点である。アクセス数稼ぎを至上命題とするそれらのメディアによる小金井事件の報道――それを報道と呼ぶのであれば――では事件当初から判で押したように一貫してアイドルの呼称を見出しに掲げており、いっさい修正されていない。最近になってかなり改善されるまでの間、ツイッターで冨田さんのフルネームを検索すると、冨田さんの名前の四文字とアイドルの四文字が互いに置換可能な同義語であるかのように隣り合っているまとめサイトの記事の見出しばかりが延々と表示される時期がずっと続いていた。もしも冨田さんがエゴサ―チをしたら嫌でも目にすることになるのだと考えれば、あの光景は小金井事件を機にストーカー規制法の規制対象となったSNSの連続送信と実質的に同じようなものである。

 

こうして「アイドル冨田真由さん」という架空の人物がメディアの世界にいつまでも住み続ける中で、弁護士のような「識者」の中にも小金井事件の被害者はアイドルだったという思い込みをいつまでも持ち続けている人が現れている。

「’16年5月に、ファンによるアイドル刺傷事件がありました。加害者はツイッターを使って、殺人予告や暴言などの嫌がらせを執拗に繰り返していました。しかしいま、一般の方からも、SNS投稿に執拗に反応してくる、個人情報や誹謗中傷が書き込まれる、性的や脅迫的なメッセージを何百通も連続送信されるなどの相談が後を絶ちません」こう語るのは、ネット犯罪に詳しいアディーレ法律事務所の吉岡一誠弁護士(2017年1月10日 『女性自身』のネット記事より)。

もっともこの記事の「」内の台詞を吉岡弁護士の発言そのものだと単純に受け取るのは事によると間違いかもしれない。もしも吉岡弁護士がアイドルではない別の表現をつかっていたのに勝手にパラフレーズして記事にしているのであれば、吉岡弁護士をいいかげんな事実認識で物を言う人物だと読者に誤って印象づける不義理を女性自身の側がはたらいていることになる。

 

2017年9月に洋泉社から出版された『殺しの手帖』というムック本に収録された高橋ユキの小金井事件の記事の表題が「小金井アイドル刺傷事件」となっているのは、洋泉社の編集が勝手につけたものだろうということをもちろん私は承知している。「殺しの手帖」という不謹慎なだけで少しも面白くないおふざけのタイトルの名付け親でもあるのだろう編集が、アイドルが刺されたことにしておいたほうが面白おかしくて人目を引くと思ってこの表題にしたのだろう。高橋ユキは事件直後の記事でも冨田さんはアイドルではなくシンガーソングライターだと書いているし、事件の翌年3月に東スポの取材に答えた記事の表題が「女子大生アイドル刺傷事件」となっていた時には、冨田さんの冨の字を間違えつつも「富田さんはアイドルではありません」とわざわざ自身のツイッター東スポの間違いを正している。

昨日の東スポの記事はウェブにも掲載されていました。今回はコメント掲載なので、初めて知りましたが、タイトルが「アイドル」になっています。が、富田さんはアイドルではありません。

https://twitter.com/tk84yuki/status/848043112261763072

「アイドル刺傷」を表題に掲げた洋泉社の記事も含めた高橋ユキ名義による小金井事件の記事の文中で冨田さんがアイドルだと書かれた箇所はもちろん皆無である。だからこの表題は高橋ユキとは無関係だ――ということにはならない。この記事を出典に引いた際の引用文献の表記は 

高橋ユキ「小金井アイドル刺傷事件」、『殺しの手帖』、洋泉社

となる。高橋ユキの作品リストを作る際にもこの表題が高橋の作品名になる。表題の「文責」は執筆者が負わされるのである。東スポの記事のように取材に応じただけなら責は免れるとしても、小金井事件の被害者をアイドル呼ばわりしているのはこの場合、編集者ではなく執筆者の高橋ユキだということになる。この表題は被害者の冨田さんにアイドルのいわれなきレッテルを貼りつけると同時に、小金井事件の裁判傍聴に留まらず、拘置所の犯人への実質的な「独占取材(あの犯人への直接取材はテレビ局などの大手メディアも行っていたようだが、そこで犯人が口頭または文書で語った内容は流石に報道するのは憚られると判断されたのであろう、ごく断片的にしか報じられていない。犯人の放言の数々を事細かに記事にしたのは高橋ユキだけなので、実質的に独占取材のような形になっている)」までしてその詳細をたびたび記事にしてきた高橋ユキというライターに、そこまで深く小金井事件に関わっておきながら被害者をアイドル呼ばわりしているダメライターのいわれなきレッテルを貼りつけているのだ。高橋ユキはこの表題によって、小金井事件をアイドル刺傷事件とするのが不適切だと正しく認識している人たち皆から白い目で見られるようになる。記事の中身を丁寧に読めば誤解は解ける?世の中の人間はそんなに暇ではない。たいていは見出しで判断してそれで終わりである。「アイドル刺傷」と見出しに入れれば、記事の中身でいくら女優だシンガーソングライターだと書こうとも有無を言わさず被害者はアイドルだとされてしまうように。不本意なレッテルを貼られるとはそういうことだ。

 

ところで、東スポの記事の時は見出しの「アイドル」の間違いを自身のツイッターで正していた高橋ユキ洋泉社の記事について自身のツイッターでしたことは、読者の一人が「小金井アイドル刺傷事件」のタイトルをでかでかと掲げた見出しの画像入りで記事の感想を書いたツイートをリツイートすることだった。

https://twitter.com/tani_akkanbee/status/915257454971310081

しかもその際に、「読んでくださりありがとうございます」と読者にお礼を言っているだけで、画像に映し出された「アイドル」の表題については一言もふれていない。これをみる限り、高橋ユキは自名義の記事に「小金井アイドル刺傷事件」の表題が冠されたことについて「ま、いっか」程度の認識であったか、あるいはそもそもなにか問題があるとすらも思っていなかったようである。高橋ユキは本当にダメライターなのかもしれない。

 

事件発生から一年、二年と時が経過するにつれて、小金井事件が関連する事件の報道のなかで時たま軽く言及されるだけの「過去の事件」になりつつあることは否めない。しかしその風化する事件の記憶の中でも、メディアと警察が共同で創作した架空の「アイドルの被害者」は脈々と生き続けている。ごく最近の例から一つだけ、自殺したご当地アイドル(地下アイドルともされている)の遺族が2018年10月に所属事務所に対し損害賠償を求めたことを伝える日刊ゲンダイDIGITALのネット記事を引いておこう。

それにしても、改めて驚くのが、地下アイドルを取り巻く悲惨な環境だ。2年前に地下アイドル活動をしていた女子大生が男に刺され、一時重体となる事件があったが、リスクを伴う割にギャラが安くて待遇が悪過ぎる。AKB48クラスの人気グループでも新人時代は月収10万円台が当たり前といい、地下アイドルの中には交通費すら支給されず、ノーギャラで働く女性が少なくないという。

この記事を吉田豪が未だにこんなことをやっていると呆れ果ててリツイートしている。

「それにしても、改めて驚くのが、地下アイドルを取り巻く悲惨な環境だ。2年前に地下アイドル活動をしていた女子大生が男に刺され、一時重体となる事件があった」って、そんな事件はないですよ。

https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/1051485183948419072

残念ながらこの呆れた報道は例外ではない。それどころか氷山の一角である。事件以来メディアが冨田さんにやってきたことは気色の悪いストーカー行為そのものである。お付き合いはできませんと言っているのに聞く耳を持たず、何度も交際や求婚のメッセージを送り付けて人を苦しめる。つきまとわないでくださいと言っているのに聞く耳を持たず、何度も目の前に姿を現して人を苦しめる。アイドルではありませんと言っているのに聞く耳を持たず、何度もアイドルだと報道して人を苦しめる。小金井事件の教訓を生かして、ストーカー規制法の規制対象にSNSの連続送信だけでなく「人の間違った肩書を繰り返し報じる行為」も追加してはどうだろうか。

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 5/5

もはや取り返しのつかない二次被害

私が小金井事件におけるアイドルの呼称の使用にここまで拘っているのは、小金井事件の報道が招いている二次被害の大本にあるのがその四文字だからである。桶川事件の世論誘導の目標だった「ブランド好きの女子大生」と小金井事件の「アイドル活動をしていた女子大生」を比べたとき、前者にはそれ自体にあからさまな悪意の色が顕れている。先ほど高橋ユキのくだりでたいていの人は記事の中身など読まず見出ししか見ないと私は言ったが、かなり低俗なメディアでない限り「ブランド好き」の語をそのまま見出しに入れることには多少なりともためらいを覚えるだろう。いっぽう「アイドル」の語は、低俗なメディアであろうとなかろうとなんのためらいもなく堂々と見出しに掲げることができる。アイドルの語の使用を躊躇させるハードルは無いに等しい。ところが「アイドル」はそのいっけん無害な外見にも拘わらず、冨田さんを傷つける語彙のなかで他を寄せつけない圧倒的な破壊力を秘めている。「アイドル」はそれを唱えるたびに、そのアイドルの名のもと冨田さんとなんの関係もない「会いに行けるアイドル」のAKB商法的なものに事件の原因をことごとく帰そうとしていた事件当初の一連の醜悪な報道を人の脳裏によみがえらせる、記憶のカスケードの最上流部に位置するトリガーだからである。小金井事件の文脈でつかわれる「アイドル」の語はデノテーションより重たいコノテーションを背負い込んでしまっている。決して良い意味ではない。「ファンに夢と希望を与えるアイドル」の「アイドル」ではなく、「刺されるのはアイドルなんてやってるのが悪い」の「アイドル」である。被害者をいわれなき自業自得論の汚穢に繰り返し突き落とすための「アイドル」である。だからこの語は使用を厳に禁じなければいけないはずなのだ。小金井事件の報道が招いている二次被害の元凶、根本にあるのが「アイドル」なのだから、必死になって廃絶させなければいけないはずなのだ。しかし現実には、冨田さんを傷つける言葉の凶器のリストの中で核兵器に相当する「アイドル」をメディアは未だに廃棄せず保持しているし(「廃棄せず」とは、事件直後の「アイドル」表記の記事がネット上でいっさい削除も修正もされずそのまま残っていることを指す)、それどころか生産も、時には使用もしている。結局メディアには真面目に訂正しようという気がないのである。

 

「多くのメディアが事件当初のアイドルの表記を後に修正した」ことの中身をより具体的に言えば、メディアの多くは事件後数日して冨田さんの肩書を「芸能活動をしていた女子大生」「音楽活動をしていた女子大生」「シンガーソングライター」などに「こっそり」「しれっとして」変え始めたということである。私の知る限り、冨田さんの肩書変更に際して、「これまで冨田真由さんをアイドルと報じてきましたが不適切でした。訂正します」といったことわりを明示した報道機関は皆無である。人の肩書ではなく名前を間違えたとき、メディアは必ず謝罪とともに訂正する。小金井事件の報道でもあるワイドショーが冨田さんの名前をVTRの中で冨田真由美さんと呼んだことがあった。その際もVの終了後間髪入れず、「只今のVTRで冨田さんのお名前を冨田真由美さんとしていましたが、正しくは真由さんでした。お詫びして訂正します」とアナウンサーが謝罪したうえで正しい名前を伝えていた。メディアは冨田さんの肩書をアイドルだと報じてしまった過ちを、冨田真由さんの名前を冨田真由美さんと間違えることよりもなお些細な、被害者本人にも視聴者・読者にも詫びるに値しないどうでもいいようなことで片づけたのだ。

 

変更するにあたっての謝罪も事情の説明もなしにこっそり呼び方だけを変えたところで、そんなおざなりな訂正が読者・視聴者にまともに伝わるわけがない。「芸能活動をしていた女子大生」と言うことでメディアは「アイドル活動」を否定しているつもりなのだろうが、多くの人はこの呼称をアイドル活動の否定ではなくアイドル活動をより一般的な上位のカテゴリーで言い換えただけだと受け取るだろう。「アイドル」を否定したいのならば冨田さんの芸能活動の具体的な中身を明示しなければいけない。「アイドル」に代わる正しい呼称は「女優・シンガーソングライター」とすべきなのである。しかしメディアはシンガーソングライターの呼称を明示することはあっても、冨田さんの芸能活動においてシンガーソングライターに勝るとも劣らない比重を占めており、事件に到る経緯においてもシンガーソングライターに劣らぬ重要な位置づけにある女優の活動をほぼ無視した。冨田さんがアイドルではなくシンガーソングライターだということは報道によりかろうじて一部の人に伝わっただろう、だが冨田さんが女優として活動していた人だと報道で知った人は果たして日本人の百人に一人もいるだろうか。

 

メディアが自分たちのついた「被害者はアイドル」という嘘を取り消すことに関して冨田さんが事件前に相談に行った武蔵野署並のやる気のなさである以上、北条かやというライターが今年の3月にウェブの連載コラムのストーカーの話題で冨田さんのことを「フリーで活動していた女性アイドル」と書いているのを目にしても、沸き起こってくるのは憤りよりも「無理もない」という諦めの感情のほうである。「フリーで活動していた女性アイドルが、元ファン(アンチともいえる)に刺された事件は、メディアで生々しく報じられました」 *1 ――そう書いているからと言ってこの北条かやという人は冨田さんに特別悪意を抱いているわけではなく、事件当初はNHKも含めた全メディアが被害者はアイドルだと大々的に報じていたのを当たり前に信じて本当に冨田さんを地下アイドルだと思っているのだろう。そんな北条かやが特別に無知で愚かな人だと言うこともできない。むしろ、京大院卒で著書も何冊かありウェブ媒体でコラムを執筆もしているこの人は平均的な日本人よりは時事に関心があり詳しくもあるはずだ。それが意味するのは、おそらく半数以上の日本人が小金井事件の被害者を地下アイドルだと今も記憶しているのだろうということである。言い換えれば、冨田さんがメディアの杜撰な報道によって受けた二次被害は「もはや取り返しがつかない」ということである。もし私が冨田さんだったら、大多数の人が自分のことを犯罪被害者として認識しているうえにそのうち半数以上が自分をアイドルだと誤解しているような社会には恐ろしくてもう帰る気にならないだろう。道ですれ違う人の誰もが自分の敵に見えてしまうだろう。

 

このような甚大な報道被害を招いてしまったことに対して、メディアは反省の弁を少しでも口にしているだろうか。唯一それらしきことをメディア側の人間が言っていたのが下に掲げる裁判直後の産経新聞の記事である。

インターネット上などでは冨田さんについて「アイドルとしてファンを勘違いさせた」などとする心ない意見も少なくない。しかし、冨田さんに落ち度は見当たらない。弁護側が「冨田さんにも非があった」とする弁護をしなかったのがその証左だ。事情を伝えきれていない報道側にもその責任の一端があるとしても、心ない書き込みに心が痛む。 *2

私がこのくだりを読んで当初覚えたのはかなり大きな憤りであった。事情を伝えきれていない報道側にもその責任の一端があるとしても?一端?本気で自分たちメディアに「一端」ていどの責任しかないと思っているのか?記者が挙げている「心ない意見」の例文にも「アイドル」の語が出てくる。そうなのだ、冨田さんは「アイドルとして」心ない意見を浴びせられているのである。ではそもそも、女優・シンガーソングライターの冨田さんがなぜアイドルだということにされているのか?メディアがさんざんそのデマを撒き散らかしたせいだろう。それどころか、そのアイドルという被害者の架空の活動形態に事件の原因があるかのような論、要は自業自得論にほかならぬものをさんざん煽り立てたせいだろう。「事情を伝えきれていない」どころではない、メディアが捏造した架空の事情のせいで冨田さんは揶揄中傷を受けているのだ。この産経新聞の記者の当事者意識を欠いた他人事のような物言いは、冨田さんを襲ったストーカーの男がおのれの犯した罪について語っているときの言い草に瓜二つだ――と私はいっときそこまで思ったのだが、たとえ一端であってもメディアの責任を自覚し心を痛めているぶんだけ、この記者にはまだ良心があると言うべきなのかもしれない。

 

小金井事件の報道は桶川事件の報道とまったく同じことを繰り返している。そのことを思ったとき、桶川事件で殺害された猪野詩織さんの父、憲一さんの言葉は非常に重い。猪野憲一さんは「娘は3度殺された」と言っている。3度目の殺人の犯人はマスメディアである。

そして3度目の殺人は、マスコミによるものです。娘は一方的に犯人側から贈られた高価なブランド品などはすべて返送しているのですが、バイト代を貯めてやっと購入した中古のプラダのリュックを引き合いに「ブランド狂いで男におねだりしていた」とか「いかがわしい店でアルバイトをしていた」などと事実無根の話を報じられました。虚偽の情報を鵜呑みにして「女性にも落ち度がある」「自業自得」などとテレビで話すコメンテーターもいました。 *3

ここで語られているメディアによる「殺人」の手口は小金井事件のそれに酷似している。メディアは事件の3年以上前に被害者が女優業の一環としてアイドル役を演じたことがきっかけでいっとき携わっていたアイドル活動を引き合いに被害者をアイドルに仕立て上げ、被害者とは縁もゆかりもない赤の他人のエピソードまで材料に担ぎ出して、近年のアイドルとファンの近すぎる距離が招いた凶悪事件という虚構を築き上げていった。そしてその虚偽の情報を鵜呑みにした人のあいだでアイドルなんぞをやっている「被害者にも落ち度がある」「自業自得」の声が燎原の火のごとくひろがっていくのをただ傍観し、知らんぷりを決め込んでいた。小金井事件の報道をみる限り、猪野憲一さんが清水潔『桶川ストーカー殺人事件』の文庫化に寄せて綴った一文の末尾に置かれた心からの願いは届かなかったと言うほかない。

 この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどのようなものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真に持つべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にする事で分かって頂けると信じ、心から願っている。 *4

 

20年近く前の桶川事件で被害者にしてしまったことの反省をなんら生かすことなく、メディアは小金井事件の被害者にそっくり同じ仕打ちを繰り返した。そこで桶川事件の被害者の父の言葉を小金井事件に置き換えるなら、小金井ストーカー殺人未遂事件とは、ストーカーの残忍な凶行を受けたがかろうじて生き延びた被害者をメディアが残忍な言葉の暴力を駆使して殺害した殺人事件だということになるのではないか。

 しかし私たちがそうやって家の中に閉じこめられている間、テレビや新聞、雑誌などでは、殺された娘の名誉をズタズタに貶めるような報道が次から次へと流れていた。面白おかしく書かれた、見る者の興味をそそれればそれでいいというような憶測記事も目についた。その影響からか、いつしかマスコミ取材陣の背後には、心無い野次馬たちも我が家を取り巻く包囲網の一部に加わるようになっていた。
 罪も無く殺害された娘に、これ以上の汚名を着せる必要が、権利が、何でマスコミにあるのか。 *5

そう憤る猪野憲一さんと同じような思いを冨田さんのご家族もメディアの報道に抱いていたのではないかと私は想像する。ただし小金井事件が桶川事件と一点違うのは、被害者が奇跡的に生き延びたことである。その事実が意味するのは、家族どころか第三者ですら目をそむけたくなるようなメディアの報道とその報道がもたらした世間のおぞましい反応を被害者本人が目の当たりにしたということである。それがどれだけ心をえぐられる残酷な追い打ちであったかはもはや私の想像の域を超えている。ストーカー行為の果てあの男に30回以上もナイフで刺されることの苦痛や恐怖、絶望をわがこととして想像するのが困難なように。小金井事件の想像を絶する凄惨さは半ば二次被害の凄惨さなのである。

 

もし私が冨田さんだったら生きる気力すら挫かれていたかもしれない過酷な二次被害に曝されながら、冨田さんは自分が被害に遭った事件の裁判に被害者参加制度を利用して加わり、9カ月前に自分を襲った犯人が衝立越しに対峙している法廷で、まだ口元に麻痺も残るなか意見陳述に臨んだ。その意見陳述の最中にあの男が二度にわたって暴言を吐いたことをとらえて、あのような形での意見陳述はするべきでなかったという人もいる。しかし冨田さんはあの男が途中で口を挟んでくるかもしれないことはもちろん覚悟のうえで陳述に臨んでいたはずだ。いや覚悟だけでなく半ば計算もしていたのではないか――「お前はこう言われて黙っていられるような人間ではなかったはずだ、さあ食いついてこい、正体を現せ」と。別室からモニターを介して陳述を行うビデオリンク方式をとれば犯人の言葉を浴びるリスクは回避できる。より安全なビデオリンク方式を薦める声も当然あったはずだ。ただリスクが回避できるということは、見方を変えれば犯人がその場で口答えしてくる状況を作り出せないということでもある。冨田さんはある意図をもって、ビデオリンク方式ではなく敢えて遮蔽ごしの陳述を選択したのではないかと私は思っている。明らかに、裁判の全過程をとおしてあの男の本性を誰よりも巧みに暴き出したのは冨田さんである。あの場に臨んでいた裁判官、検事、弁護人、証人らの中で冨田さんはただひとり、他の誰にも及びのつかない豊富な舞台経験をもつ女優であった。主演を務めたこともあり、即興芝居の舞台にも三度立っている。文字どおり役者が違うのだ。弁護人の質問では猫をかぶりとおし、検事の追及ではしばしば不遜な態度に及びつつも致命的なボロは出さなかったあの男は、女優の計略にまんまと引っかかって遂に本性を曝け出し、おのれがいかに危険極まりない輩であるかを日本中の人々に自ら証明してみせたのだった。

 

冨田さんと同じようにストーカーの凶行を生き延び、冨田さんと同じように犯人の同席する法廷の場でたたかった二人の女性、1982年に米国で起きたストーカー刺傷事件の生還者テレサ・サルダナ *6 と2008年に英国で起きたストーカーによる酸攻撃事件の生還者ケイティ・パイパー *7 を、人は共に a brave woman として記憶し語り継いでいる。私たちが冨田真由さんという人についていつまでも忘れずに記憶しておくべきことは地下アイドルという捏造された肩書などでは断じてない。卑劣な暴力に屈することなく敢然と立ち向かっていった冨田さんの強さ―― bravery である。だから私は、昨年2月の裁判の際に『シークレットガールズ』の脚本家の三浦有為子さんがブログで冨田さんをヒーローだと呼んだことを、本当にその通りだと思う。それとともに、「彼女はヒーローだ」という言葉の後に三浦さんが続けて記していることにも心から同意する。 

加害者と同じ法廷にいること。
どれほど苦しく、辛いことか。
でも、加害者にちゃんとした裁きを与えてほしいから、
そして同じような事が繰り返されて欲しくないから、
日々、心をすり減らし、戦っているんだと思います。

 

彼女は、ヒーローです。
でも、こんな形でヒーローになってほしくなかった。
彼女の望んでいた世界……。
歌やお芝居で、たくさんの人を励ますヒーローになってほしかった。 *8

 

おそらく三浦さんも、最後の一文が文字どおり過去形のもはやかなわぬ願いだとは信じていないだろう。歌やお芝居で、たくさんの人を励ますヒーローになってほしい――女優としてシンガーソングライターとして、あるいは別の表現のかたちであっても、冨田さんの新しい作品に接する日が来ることを私は今でも待ち望んでいる。ただ、そう願う一方で、あの男がナイフという凶器をつかって冨田さんにうち振るった暴力を言葉という凶器に替えてそのままなぞっていったかのようなメディアのむごたらしい暴力とそれがもたらしたおぞましい余波によって、冨田さんが主演の舞台『ロマンス』で演じたラストシーンの智子のように再び立ち上がり、歩み出すための力がもはや取り返しのつかないほどにすり減らされてしまっているのではないかというおそれを私は振り払うことができない。

*1:https://hbol.jp/161986

*2:https://www.sankei.com/premium/news/170307/prm1703070003-n1.html

*3:桶川ストーカー殺人事件「娘は3度殺された」、『文藝春秋』2018年2月号 [link]

*4:猪野憲一「文庫化に寄せて」、清水潔『桶川ストーカー殺人事件―遺言(新潮文庫)』、418頁

*5:同上、410~411頁

*6:Theresa Saldana (1986), Beyond Survival. Bantam Books.

*7:Katie Piper (2011), Beautiful. Ebury Press.

*8: http://blog.livedoor.jp/oui0214/archives/52180501.html

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評の問題点

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評には被害者の冨田真由さんへの配慮に欠ける面があると私は感じていた。事件直後の2016年5月27日付の「『ツイッターのブロックや着信拒否をするのは危険』ストーカー相談の専門家に聞く」という見出しを掲げた弁護士ドットコムのネット記事で小早川さんは「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「ブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」というきわめて直截的な強い表現で、被害者へのダメ出しを行っている。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。

一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです。着信拒否するなら、その前に別の連絡窓口を作っておいたり、ツイッターをブロックするならツイッターそのものをやめないといけない。

他の人にはリプライしているのに加害者だけを無視している状況でした。書き込み内容からして仕方ないのですが、加害者からすれば、どんどんストレスがたまっていく状況。ブロックは良くなかったと思います。

上の記事も含めて、小早川さんは小金井の事件についてメディアで論評するたびに、ツイッターのブロックがストーカーの感情を悪化させる危険な行為だとの持論を必ず述べ、それが事件の主因のひとつであるかのような印象をひろめてきた。たとえば2016年12月24日付の朝日新聞東京都内版が「小金井女子大生刺傷事件」を取り上げた年末の回顧記事で小早川さんはこう語っている。

「不特定多数が閲覧できる場で特定の人をブロックする行為は、『仲間外れにされた』と強く感じ、憎悪が激しくなる傾向にあります」。そう指摘するのは、ストーカーやDVの相談に乗っているNPO法人「ヒューマニティ」(東京)理事長の小早川明子さんだ。

そしてこの記事のネット版(現在は削除されている)には

 ネットストーカー、どう身を守る 「仲間外れ」怒り増幅:朝日新聞デジタル

 という、冨田さんのしたことが人を「仲間外れ」にする行為だという含意を孕んだ見出しが付けられていた。

 

あのような凄惨な事件の報道にふれたとき、人は誰しもこんな恐ろしい目に自分が遭うことだけはなんとしても避けたいとの思いを抱く。そこで人は半ば無意識のうちにこう考えるようになる、この被害者は襲われるに足るなんらかの理由があったのではないか、いや、そうであってほしい――もしそうならば、私がそれをしないように心がけているかぎり私が被害に遭うことはないだろうから。当の被害者からすれば悪魔的というほかないこの大衆心理について、1982年にアメリカで起きたストーカー刺傷事件の被害者である女優テレサ・サルダナが事件から4年後の1986年に上梓した主著Beyond Survival(Bantam Books刊)からふたつ引用しよう。

ダイアンの身に起きたことを知った人々は、彼女はいくぶんかは自業自得だった、あるいは事件は避けることができたと示唆するような類の意見をしばしば口にします。そんな言葉を聞かされると私の理性は吹っ飛びます。それは心底から私を怒り狂わせます。次第に私は理解しました、人間は恐ろしい状況に対峙したとき、自分の身にはよもやそんなことは起きるまいと信じることができるように、物事に理屈をくっつけ合理化したがるのだと(p. 211) 。

人はこういうことを自分に言い聞かせることがままあります――もしも被害者が用心をしていれば、こんなことは起こらなかっただろう、したがって、もし自分が用心していれば、この手のことは自分の身には起こらないだろう。この種のロジックに基づいて、人は被害者にこんなことを尋ねてしまうことがあります――「どうしてあなたはドアに鍵をかけていなかったの?」「どうしてそんなに夜遅くに外出したの?」「その窓をちゃんと閉めていればこんなことは起こらなかったんだよ」――そんな言葉を声高に口にしてしまうのはよくあることです。そうした無神経な問いかけや意見は、被害者を非常に傷つけます。それは憤りや自分を責める気持ち、戸惑いを被害者の側に引き起こしてしまいます (p. 240) 。

 

小早川さんの唱えるブロック害悪論は凶悪事件の報に接した大衆が抱く不安心理を和らげてくれる格好の処方箋でもあったので、いわば識者のお墨付きを得た「オフィシャルな被害者の落ち度論」として勢いを得て、広く世間に浸透していった。小早川さんは日本でストーカー犯罪が起きればメディアから引く手あまたで意見を求められる抜きんでたオピニオンリーダーである。オピニオンリーダーの言葉は鵜呑みにされ、なお悪いことに受け売りされる。2017年2月の事件の裁判の際に山本寛というアニメ監督が、冨田さんが最終的にツイッターをブロックしたことについて自身のブログで「気のキツイ子」などという酷い言葉を使って冨田さんを誹謗中傷し物議を醸した。ブロックを被害者の決定的な落ち度だとしてああも悪しざまに言う山本の論は明らかに小早川さんの受け売りである。

 

*

 

小早川さんによる小金井事件の分析の根本的な問題点のひとつは、被害者と加害者の関わりがあたかもツイッターだけだったかのような体で論を進めていることである。「SNS時代の新たなタイプのストーカー」というシナリオにはめ込むために、小早川さんは事件に到る経緯を恣意的に編集している。冨田さんの手記や調書にあるように、犯人のSNSへの書き込みは事件から遡ること約2年前の平成26年6月から始まっていた。あの犯人はもともと冨田さんのブログのコメント欄に盛んに書き込みをしていたのである。ただ書き込むだけでなく、冨田さんが出演する演劇の舞台に何度か赴き(冨田さんはメディアの杜撰な報道のせいで肩書すらも正確に伝えられず、それが別の大きな二次被害の源泉になっている。事件直後にメディアはおそらく警察の広報にしたがって冨田さんをアイドルだと一斉に報じ、その後しばらくして、シンガーソングライター、芸能活動をしていた女子大生などへと呼称を変えていった。しかし冨田さんは実績ベースでは、メディアがほとんどふれていない女優として舞台やドラマ、映画でキャリアを積んできた人である)、そのうちの一回で冨田さんに直接交際を申し込んでいる。それに対して冨田さんは、「ごめんなさい、いまは大学の勉強や舞台とかを頑張りたいので付き合えません」と返答した。これはあの事件の裁判の際に検察側の被告人質問で犯人自らが証言していることである。1対1のお付き合いはできませんと冨田さんがじかに対面で断っても引き下がらず、なおもブログに結婚を申し込むメッセージを送り付け、その後音楽活動をはじめた冨田さんのライブにも出向いていって、2016年1月17日のライブ終了後につきまとい行為をして冨田さんに恐怖を与えたその翌日、とうとうツイッターにまで乗り込んできた、これが実際の経緯である。小早川さんはツイッターの書き込みが被害者と加害者のファーストコンタクトであったかのような架空の前提で、「1対1の関係を求めてきている。このときにストーカーの芽を摘まないといけなかった(2016年12月24日付 朝日新聞東京都内版の記事)」などと冨田さんの初期対応のまずさを指摘し続けているが、これは事実に反する言いがかりである。小早川さんが筋書きを書いた脚本の中で、冨田さんはツイッターに書き込みをした1ファンをなんとなく気に入らないとかの漠然とした理由で無視し続けたために相手の感情をこじらせてストーカー化させ、さらにブロックまでして憎悪を煽りたてとうとう襲われてしまった不当に愚かな反面教師の役を演じさせられている。

 

小早川さんが事件の「決定的」な引き金だと断じていたツイッターのブロックに関しては、冨田さんは決してほかの多くの人がやっているように多少気に障ることを言われたという程度の些細なきっかけであっさりブロックをしたわけではない、という点を強調しておかねばならない。小早川さんは冨田さんが犯人に返信をしなかったことを「加害者だけを無視している」として咎めてもいるが、それは今述べたように、ツイッターへの書き込みをしてきた時点で既に犯人は断ってもしつこくつきまとってきた紛れもないストーカーだったからである。いっぽうで冨田さんは、不特定多数が閲覧できるSNSの場で犯人を公然と揶揄しさらし者にするようなことは一切していない。遡れば2年近くに及ぶあの男の好き勝手な言動、ふるまい、要求を、冨田さんは文句を言わずひたすら耐え忍んできた。プレゼントを返せと何度も恫喝されれば言われたとおりに返却した。するとあの男はなぜプレゼントを返したと激昂し、大人しくなるどころかいっそう酷い罵詈雑言の嵐を送り付けてきた。因みに、小早川さんが言及している加害者の「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みとは(書き写すのも汚らわしいのだが)次のようなものである――「ところで、こうやって書けるのは訴訟狙いですか?ブロックせずにほったらかしにしているのは、僕が下手を打つのを待ってるんですかねー。いやはや怖いわ~冨田真由怖いわ~((笑」。冨田さんがブロックをしないでいることを手前勝手に邪推してネチネチとそれを嘲り、なじる内容である。プレゼントが本人のかねてからの要望どおりに送り返されてきてからの加害者は、これを含めた口汚い罵り文句を次から次へと冨田さんのツイッターに送信している状況であった。この度を越した理不尽、傍若無人の極みに、それまで我慢に我慢を重ね、深く傷つき苦しんできたであろう冨田さんが文字どおり「仏の顔も三度」でストーカーに対してとった最初にしてほぼ唯一のアクションがブロックである(なおこの点に関して文末に補足)。しかし小早川さんが、最終的にブロックするに到るまでの長い道のりにおける被害者の心中を思いやることはない。小早川さんがもっぱら忖度するのは被害者ではなく、やりたい放題の末にブロックされた加害者の心の傷である――「ブロックされて、絶望的になったんだと思います」。いっぽう小早川さんなりの被害者へのフォローとは次のようなものである――「ただ、被害者のほとんどは、初めてストーキングを経験する人です。こうした指導・アドバイスできる人が回りにいればよかったと思います。とても残念です(2016年5月27日付 弁護士ドットコムの記事)」。要するに小早川さんは、被害者がとった小早川さんの評価では決定的にダメな行動を、最終的には被害者の無知に帰するのである。さらに言えば、小早川さんは冨田さんが被害に遭ったこと自体をも冨田さんがストーカーについて無知であるがためのことだと理由づけようとしている。

 

現実に被害者はストーカーに襲われてしまった。その結果から逆算して、被害者は無知ゆえのヘマをなにかしたはずだという前提に立ち、「指導・アドバイスできる人」の目で被害者のとった行動を逐一チェックしていく、これが小早川さんによる小金井事件の論評の基調である。小早川さんの叙述の中では加害者が後景に退き、被害者である冨田さんが前面に押し出されている。しかし冨田さんは、最大限の配慮をもって遇するべき残酷な犯罪の被害者というよりは残念な失敗者として矢面に立たされているのだ。小早川さんは「残念です」という言葉を、犯罪被害者にその言葉を投げかけることの残酷さを自覚しないまま冨田さんに向かって発している。小早川さんのいう「残念」とは、「貴方は正しくはこうしていれば被害に遭わなかったはずなのに、残念でしたね」という意味での「残念」だからだ。小早川さんが展開する論は事件の原因をもっぱら被害者=失敗者の失策に帰そうとするおぞましい自業自得論の相貌を帯びてくる。

 

昨年12月に出版された小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』では、小金井事件にも一節が設けられている。その中の「もちろん、(プレゼントを)返せという加害者の執拗な要求があったからであって、どうしていいかわからず、苦しんだと思います(40頁)」というくだりに、小早川さんが冨田さんをどういう目で見ているかがよくあらわれている。小早川さんにとって冨田さんは「どうしていいかわから」なかった人なのだ。翻って小早川さんはご自分のことをどうしたらいいかわかっている人、「指導・アドバイスできる人」だと思っている。その自負のもとに、小早川さんは「ここはこうすればよかったのだ」という、ご自分が考えるところの「正解」を教示していく。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります。返す理由と被害者が苦しんでいることを冷静に伝えることです。『これは悪意で返すのではないですよ。お断りをしているのに、返信がほしいとか、あなたの要求が強いので、返さざるをえないんですよ。それで彼女もすごく苦しんでいます』と言ってもらうのです(40頁)」といった具合である。しかしこれはタラレバの話であって、小早川さんのアドバイスどおりに行動してうまくいくかどうかは実際にやってみなければわからない。こんな風にやけに丁寧に応対してもらえたことでまだ脈があると思い込み、あるいは「下手に出ればつけあがる」で調子に乗って、つきまといを継続するストーカーがいるかもしれない。プレゼント返却の際はできれば代理人を立てろとも小早川さんは言っている。あの犯人は小金井の事件の3年前に、ある女性タレントに対して冨田さんの場合と同様の悪質なストーカー行為をしていた。だが事務所の代表によると、その時主に被害に遭ったのは当のタレントではなく事務所のスタッフだった。あの男は間に入って対応していた女性マネージャーに殺すぞ的なニュアンスの言葉を浴びせかけるなどして怒りの矛先を振り向けていたのである。そのマネージャーは小金井の事件を知って震えて涙を流したという(2016年6月23日『スーパーJチャンネル』のテレビ報道による)。この実例のように、小早川さんのアドバイスどおりに代理人を立てた結果、今度はその人が危害を加えられるおそれが出てくる。実際、「それで彼女もすごく苦しんでいます」などという、いかにも私は被害者のことをよく分かっています風の物言いがストーカーを刺激する危険性は少なくないだろう。「返すなら自分で返しに来ればいいのに代わりの人間をよこすとはどういうことだ」と被害者への怒りをさらに募らせる人間もいそうだ。小金井の事件では郵送でプレゼントを送り返したら犯人の感情がエスカレートしてしまったが、逆に素っ気なく郵送で送り返されたことでシュンとして大人しくなるストーカーも中にはいるかもしれない。人は千差万別である。小早川さんの教える「正しい物の返し方」が絶対的な正解だという保証はどこにもないのである。小金井の事件で結果的には裏目に出たプレゼントを郵送で送り返すやり方が絶対的に不正解だという根拠もない。小早川さんの論はサッカーの試合の後で解説者がよく言うあれと同じである――「あの場面でシュートではなくパスを選択したのが決定的に痛かったですねえ、あそこは絶対シュートだと思います」。解説者が強気に出られるのは、ひとつにはパスを選択したら現実に失敗したという動かぬ事実のアドバンテージを手にしているからであり、もうひとつは、シュートを選択したら実際にどうなったかは今さら確かめようがない、ということは肯定もされないが否定されるおそれもない絶対的な安全地帯に立っているからである。小早川さんもその安全地帯の高みから冨田さんを見下ろしている。

 

私はあの事件では、もしも自分が冨田さんだったらどうしていただろうと考えることをいつも心がけている。そういう目で事件までの経緯を振り返ったとき感銘を受けるのは、冨田さんは本当に辛抱強い人だということである。私ならあのような罵詈雑言と好き勝手な要求をただ黙って耐えていることなどとてもできなかった。冷静さを失い、売り言葉に買い言葉で醜い罵り合いに発展してしまっていただろう。冨田さんは私なんぞよりよっぽど人間のできた大人だと思う。私は自分が人間の心理を知り尽くしているという思い上がりをもっていないので、あのような常軌を逸した人間にどう対応するのが正解だったか、確かなことは何ひとつ言うことができない。冨田さん、貴方はこうすればよかったのですよなどという台詞を私は口が裂けても言えない。だから小早川さんがその種のことを自信たっぷりの断言口調で話しているのを聞くと、私は驚嘆の念を禁じ得ないのだ、この人はストーカーがどう行動するかをそこまで完璧に読み切っているのかと。小早川さんの頭の中ではきっと、私=わかっている人、冨田さん=わかっていない人という絶対的な上下関係が確立しているのだろう。率直に言って小早川さんは冨田さんに対してしばしば上から目線である。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります」、この言葉の言外の意味は「冨田さん、貴方は慎重さが足りなかったのですよ」である。その言外の意味が孕んでいる冨田さんに対して失礼なニュアンスにも、冨田さんは慎重さを欠いた人だというネガティヴなイメージを読者に植えつけてしまうリスクにも無頓着なこの物言いは、冨田さんをどこかしら下に見ているからこそできる物言いである。小早川さんの小金井事件評は結局のところ、指導者の立場から繰り出される冨田さんへのダメ出しの連続である。負け試合の後で、あの場面はパスではなくシュートすべきだった、もっとサイドに展開すればよかった、クロスの精度が低すぎた、選手交代が遅かったなどと、ああだこうだと思いつくがままに敗因を挙げていくサッカー解説者の言葉と同じ調子を小早川さんの言葉は帯びている。サッカー解説者の唱える評に対しては主に二通りの反応がある、「やれやれ、お気楽な評論家ふぜいが」と呆れる否定的反応と、「まったくだ、ダメな選手だな」と迎合する肯定的反応と。だが小早川さんの唱える評に対して小早川さんのことをお気楽な評論家だと思う人は圧倒的に少数だろう。ストーカー問題の分野で小早川さんはこの国の圧倒的な権威だからである。つまり小早川さんの意見を聞いた大多数の人間は、小早川さんの尻馬に乗って自分も冨田さんを被害者ではなく失敗者として上から目線で見下ろしはじめるのだ。

 

*

 

小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』ではSNSを介した新たなタイプのストーキングを詳しく論じている。ところが、この本ではSNSのブロックに関する論調が従来とは一変している。

長々と続くようならば、相手をブロックするのは悪くないのですが、自分だけ拒否されたという怒りにつながりやすいので、むしろいったんSNS自体を閉じてしまうことをお勧めします(71頁)。

驚くべきことに、この本の中でブロックすることの是非についての言及は上記の一箇所だけである。「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」という、あの取り付く島もない全否定から比べると目を疑うような「ブロックするのは悪くないのですが」への大幅なトーンダウンは、ブロックすることをあまり否定的に言うのはまずいという判断が、自主規制か、あるいは外部からクレームがついたかなどのなんらかの理由ではたらいたためだと想像する。実はこの本の第一章で小金井事件に一節を設けて事件の経過を辿っていく中で、被害者がブロックをしたことに小早川さんはまったくふれていない。いっぽうでは「小金井の事件は市川や三鷹の事件とは違い、被害者と加害者はSNS上だけでやりとりのある間柄でした(36頁)」と事実の歪曲までしてこの事件をSNSに紐づける意図を示しているにもかかわらずである。おそらく小早川さんは遅ればせながら認識したのだろう、ブロックについての自分の発言により冨田さんが二次被害を受けていることを。だがしかし、小早川さんが小金井事件の報道に際してメディアであれだけ何度も繰り返してきた主張はそう簡単に変えられるものではない。事件直後にメディアが総がかりで冨田さんに貼りつけた「(地下)アイドル」のレッテルが、その後多くのメディアが冨田さんの呼称をこっそり変更してからも到底剥がしきれてはいないように(「こっそり」という意味は、私の知る限り、冨田さんの肩書変更に際して「これまで冨田真由さんをアイドルだと報じてきましたが、不適切でした。訂正します」といったことわりを明示した誠実な報道機関は皆無だからである。また「多くの」という意味は、日刊スポーツのように事件の裁判に到るまでアイドルの呼称を執拗に使い続けてレッテルの貼り直しにいそしむ少数の陰湿な報道機関も存在したからである)。

 

下に引用するのは小早川さんの新刊『ストーカー』に寄せられたAmazonの読者レビューの一部である。

小金井の事件でも、被害者が対処方法についての知識を事前に得ているか、あるいは誰か知識のある人に助けを求めていたなら惨事には至らなかったかもしれない。大切なのは、確かな知識を得て的確に対処すること、それに尽きる。気味の悪い相手からのメッセージを放置したりSNSをブロックするといった行為は最もやりがちな行為ではあるが、著者によるとそれらの行為は絶対にNGという。無視すると、加害者側に「断られていない」と受け取られ、さらなるメッセージが送られてきたり、あるいは加害者側の自尊心を傷つけ、より危険な状態へと進ませる呼び水になることもあるという。

繰り返すが、この本の中でブロックの是非についての言及は先に引いた71頁の3行のみである。絶対にNGなどという趣旨のことはどこにも書いていないし、小金井事件の被害者がブロックをした件の記述もない。小早川さんによる小金井事件の論評が伝える「確かな知識」を人はこういう風に記憶しているのだ。今さらこっそり主張を変えたところでもはや手遅れである。小金井事件で小早川さんがメディアに呼ばれるたびに繰り返していた再三の発言によって、ストーカーのツイッターをブロックするのはまったくの悪手であるという印象、そしてきわめておぞましいことに、冨田さんはブロックという「絶対にNG」の失策を犯して被害に遭ってしまった人だという印象がもはや多くの人の心に強力に刷り込まれてしまっている。それを大勢の前で表立って口にする山本寛のような人間が少数派なだけである。先に引いた弁護士ドットコムの記事は現在でも公開されている。ネット上で小早川さんは今もなお、冨田さんのブロックという「決定的」な失態(だと小早川さんがみなしていること)を不特定多数の前で日々叱責し続けて止むことがない。二次被害は現在進行形で継続中である。

 

小早川さんの論評の異常性は、発言内容を別の――たとえば性犯罪に置き換えてみればよく実感できる。

 ――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

 という弁護士ドットコムの記事の問いは、一般化すれば被害者の側にも事件の原因あるいは責任の一端があったのではないかという、これ自体相当危うい問いである。それを性犯罪の文脈に変換すればたとえばこうなるだろう。

 ――今回の事件で、夜間に肌の露出の多い服装で一人きりの外出をしたことは、加害者の劣情を刺激してしまったのでしょうか?

 この問いに対し私的な場で無責任にそうだと言う人はたぶんいるだろうだが、少なくともメディアから意見を求められた性犯罪被害に関する識者が公の場面で肯定的な答えを返すことはあり得ない。百人が百人とも、卑劣な性犯罪の原因を被害者の側に帰するようなことは決してすべきではないと答えるはずである。性犯罪被害者に浴びせかけられる心ない自業自得論は被害者を深く傷つける深刻な問題であり、性犯罪被害の識者はその愚かな論に歯止めをかける大切な役割を担っている。いっぽう日本のストーカー被害の分野では、あろうことか、識者が被害者の「落ち度」を間違い探しのようにあれこれ指摘して自業自得論の旗振り役を務めるという異常な文化が根付いている。その中心に君臨しているのが小早川明子さんである。

 

弁護士ドットコムの取材者の質問に小早川さんはたとえばこんな風に答えることもできた(というかふつうはこの種の答え方をするのが常識である)。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

もし仮にそうだとしても、プレゼントを送り返したのは加害者が返せと執拗に要求してきたからですし、ブロックについても加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。加害者がしろと要求してきたことを(たとえそれが加害者の本意ではなかったとしても)言われたとおりにしたことで被害者を責めるのは酷ですし、何よりも、被害に遭った原因、責任が被害者自身にあるかのような論は厳に慎むべきです。

だが小早川さんがしたことはまったくの正反対だった。くだんの質問に「そのとおりです」とばかりに諸手を挙げて応じたのである。決定的だったのはブロックだと思います、たしかに加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしていますが、この言葉を額面通りに受け取ってはいけません、これはブロックしてほしくないという気持ちの裏返しなのですよ、被害者にブロックされて加害者はさぞ絶望したことでしょう、一般論としてもストーカーに対してブロックしてはダメです、良くなかったと思います。――それを聞いて人はなるほどね、と思う。そして、ああよかったと思う。なるほどね、ツイッターを安易にブロックしたのがいけなかったんだ。間違いない、だってあの小早川さんが言ってることだもの。小早川さんといえば日本でいちばんストーカー問題に精通している人なわけで、その小早川さんが「決定的」とまで言ってるんだからこれはよっぽどのことだ。やはり襲われる人にはそれなりの理由があるんだね。そしてブロックをしたという「決定的」なミスのせいで襲われたのであれば、ブロックしなければ安泰ってことか。やれやれ、じつに簡単だ、これを守っているかぎり私はストーカーに刺されたりはしない、ああよかった。こうして人は傷ついた被害者に「ヘマをして襲われた人」というレッテルを貼って貶めさらに傷つけることと引き換えにして、自らの安心感を得る。だがそれは、この道の権威の過信を盲信することからくる偽りの安心感である。

 

日本国内でひとたび凶悪なストーカー犯罪が発生したら、メディアから真っ先に声がかかるのはもちろん小早川明子さんである。「ストーカー問題にくわしい」と聞いてほとんどの日本人が真っ先に思い浮かべるのも小早川明子さんだ。テレビで、ラジオで、新聞で、雑誌で、書籍で、ウェブで、小早川さんはあらゆる媒体で事件に論評を加え、持論を唱え、それが日本中に拡散していく。日本において小早川さんはストーカー問題の絶対的なオピニオンリーダーである。多くの日本人はストーカー問題を考えるときに、語るときに、小早川さんをお手本とするのだ。小早川さんの意見、考え方、姿勢が、日本人全般のこの問題に対する意見、考え方、姿勢の趨勢を決するといっても過言ではない。つまりストーカー問題に関する小早川さんの意見は小早川さんひとりの私的な意見ではなく、日本人の総意とまではいかないにしても、日本人の多数派の意見になるのである。もしも小早川さんが、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しが加害者の感情を逆なでさせてしまったのではないかという取材者の問いに、あのような理不尽な犯罪に遭い深い傷を負った被害者の側を責め立てるような非人間的なことはするべきでないと、そう強く言ってくれていたら、多くの日本人はその真っ当で常識的、倫理的なお手本にならってストーカー被害者を、より限定的にはあの事件で被害に遭った冨田さんを遇するようになっていただろう。しかし小早川さんが言い放ったのは、被害者への配慮がなされているとは到底言い難い容赦なきダメ出しであった――「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」。犯罪被害者支援の観点からみれば、小早川さんのこうした発言はまったく常識外れの、それこそ決定的にダメで良くない物言いである。しかしストーカー犯罪の領域では、あの小早川さんの非常識が日本の常識になる。小早川さんはこの分野の絶対的なオピニオンリーダーだからである。小早川さんは自身の発言で日本中にあるお手本を示したのだ。ストーカー犯罪の被害者に対しては、たとえその人が意識不明の重体に陥って生死の境をさ迷っていようとも、被害者側の落ち度(だと自分が思う事柄)を公然と言い立ててもかまわないという、おそろしいお手本をである。

 

補足:山本寛がブロックの件で冨田さんをブログで中傷した際に、ブロックは警察の指示によるものであるとの反論が出て一部ネット記事にもなっているので、この点について短く補足する。くだんの反論は2016年12月16日に公表された冨田さんの手記の中の「警察からは、『使っているSNSから犯人のアカウントをブロックしてください』『何かあればこちらから連絡します』と言われました」の一文を典拠としている。もしこのくだりを「警察からの指示を受けてブロックをした」と読むのであれば時間的な齟齬が生じる。山本とのツイッターのやり取りの中で春名風花さんが、ネット絡みのストーカー被害で警察へ相談に行くとマニュアル的にSNSのブロックを薦められると自身の体験をもとに語っていた。春名さんと同じように冨田さんは相談に行った警察でもブロックを薦められた、と読めば齟齬は解消する。むしろ考えるべきは、なぜ冨田さんはあの手記でブロックについて言及したのか、という点だと私は思う。冨田さんは小早川さんの主導でメディアが盛んに流布していたブロックは良くないことである(そしてその良くないことを貴方はしたのだ)という論を気に病み、傷ついていたのではないだろうか。

おわりに

Theresa Saldanaの著書『Beyond Survival 生き残ることのその先へ』をひととおり訳し終えたので、全体を1頁めから最終頁の順に並び替えた。原文で270頁に及ぶテルサ・サルダナからのメッセージに私がつまらぬ解説や感想を加える必要はないので、二、三の事務的な事柄にだけ触れて終わりとする。

 

原書では冒頭に謝辞が掲げられているが、基本的に個人名の列記なので省略した。謝辞の前に置かれている献辞は「私の愛する家族、アンソニー、ディビーナ、マリア・サルダナへ そして私の命を救ってくれたジェフリー・アラン・フェンへ」、謝辞の後に置かれている献辞は「この本はジョン・ドライバーの手引きと援助なくして書くことはできませんでした」である。

 

原文はイタリックによる強調を多用しており、当初は該当箇所の訳文にアンダーラインを引くというかたちで再現していた。ただしすべてをそのまま踏襲するとくどくなるので、3割ぐらいは見て見ぬふりをした。そして第4章以降はイタリックの箇所をまったく無視することにした。

 

この本の翻訳作業は、8月20日から9月29日までの約40日をかけて、別に翻訳業を生業にしているというわけでもない素人が、精度よりは速度重視で進めていったものである。作業が予想外に捗ったことに関しては、来る日も来る日も飽きもせずにザーザーと雨を降らしまくり、「さあさあ、書を捨てて町にでも山にでも海にでも繰り出しましょうかね」という私の意欲を連日にわたって挫き続けた2016年秋の日本列島の気圧配置に感謝を捧げたい。とは言えもちろんお天気のせいばかりではなく、もしもこの本が読んでいて苦痛になるような本だったら、こんなペースで訳し切ることは決してできなかっただろう。テルサ・サルダナの魂にふれたこの40日間は充実した日々だった。

 

このブログはBeyond Survival全訳のためのものなので、これ以上余計な記事を付け加えることはしない。ただし今後翻訳の精度を高めていく作業は必要だろうと思う。