PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 2/5

桶川事件と小金井事件で警察は被害者に何をしたか 

桶川事件

 

桶川事件の被害者をブランド好きの女子大生に仕立て上げるため警察がとった世論誘導の手口は表向きシンプルなものだった。「捜査一課長代理ですから厳しい質問のないようによろしくお願いします」というヘラヘラ笑いの挨拶からはじまる、事件当日に上尾署でひらかれたいまや語り草になっているメディア向けの会見では、被害者が刺された傷の部位について「あのまあ、なんちゅうんだろうな?フヘッ(笑)」「脇腹のちょっと後ろのほうですね」「まあ、埼玉言葉で言うわきっぱらかな?フフッ(笑)」とじつに楽しげに満面の笑みを浮かべながら、まるで蚊に刺された位置でも話しているかのように署長と捜査一課長代理が談笑したり(警察の発言は誇張して書いているのではなく、実際の会見の映像を見て彼らが喋った言葉を極力正確に写し取ったものである)、警察官が「告訴」の文言を「届出」に書き換えた改竄がのちに発覚することになる被害者からの告訴状を「被害届」だと平然と言い切ったり、「本件の殺人とストーカーと関連があるとみているのか」という記者の質問に対して食い気味、キレ気味に「それは分かりませんよ」とぶっきらぼうに言い放ち、「視野に入れているのは間違いない?」との重ねての質問に「そこまでも申し上げられません。その辺のところは何回も同じこと言わせないでください」と署長が記者を説教したりといった粗雑で尊大な応対に終始するなかで、被害者が身につけていた遺品について、リュックはプラダである、時計はグッチである、服装のうち履いていたものは厚底ブーツに黒のミニスカートであるとそこだけはやけに詳しい説明がなされた。警察は白と黒の碁石の山から黒だけを選り分けるようにして、被害者の所持品のある一部分だけを意図的に選び出しメディアに開示したのである。

 

いっぽう事件の翌年末に被害者の両親が埼玉県警に対して「適切な対応を怠った」と国家賠償請求訴訟を起こした民事裁判の際に、警察は被害者へのなりふり構わぬあからさまな人格攻撃に走っている。「性に対し自由奔放で、高価なプレゼントを求め、束縛を嫌って自由に行動する」 *1 ――被害者をまるで犯罪者のようにこき下ろしている、警察の口から発せられたとは到底信じがたい言葉を聞いて、事件から一年以上も経過した時点で警察の態度が豹変したと受け取るのは誤りである。時を遡って、事件前に警察が被害者にとっていた誠意も無ければ礼儀も無い言動、態度の数々をみれば、民事裁判の折に警察が被害者に吐いた暴言は、被害者が相談に訪れたことのはじまりから警察が抱いていた被害者への終始変わらぬ本心を表したものだとうかがわれるからである。民事裁判での警察の主張とは要するに、被害者が殺害されたのは私らが悪いのではない、そもそも被害者の人間性に問題がある、自業自得だということである。事件前に警察が抱いていた被害者への偏見が、事件後に警察が責任逃れをするための口実にそのまますり替わっている。

 

事件直後のメディア向けの会見で警察が内心言わんとしていたことももちろんその変わらぬ本心、偏見だったはずである。その会見の際に警察がメディアに直接語った内容と、後の民事裁判の際に警察が語った被害者を公然と非難する誹謗中傷の言葉とのあいだには明らかに大きな落差がある、だがその落差はメディアが埋め合わせしてくれると警察は踏んでいたのだ。メディアとは一種の崖なのだと想像すること。警察がメディアに伝えた内容は、いわば崖を転がり落ちて大衆のもとに届く。警察がメディアに伝えた内容を小石だとすれば、メディアが大衆に伝える内容は崖を転がり落ちた果ての、はじめの小石とは似ても似つかぬほどに嵩を増した大岩になる。桶川事件の報道でメディアは、警察の流した被害者の所持品の一部の情報やプレゼントの受け渡しが事件の発端になっているという外形的事実を下劣な妄想で膨らませて、ブランド物に身を包み高額なプレゼントを男にねだる架空の悪女に被害者を仕立て上げていったのだった。警察がメディアに伝えた被害者の所持品情報は、それをメディアが大衆に伝える段にはまったく別の姿に変貌して、もはや代弁者に頼るわけにはいかなくなった警察が遂に本性を顕し自らの口で語り始めた後のあのおぞましい誹謗中傷とほぼ同じ内容と化していたのである。

 

警察のメディア戦略が奏功するかどうかはひとえにメディアの質と品性次第である。もしもメディアが警察の広報内容を鵜呑みにせず、徒に煽情的なゴシップに走ることもせず,真偽を自らの目で足で確認し十分なチェックを経たうえで、偏りのない公平で正確な情報を大衆に送り届けるだけの高い質と品性を具えていれば、警察が小石ひとつで引き起こそうと目論んだ報道被害という名の災害はことごとく未然に食い止められるだろう。だが桶川事件の報道をみれば、そしてこの後詳しく検証する小金井事件の報道をみても、実態はまったくその逆であった。メディアは警察の流した情報をただ鵜呑みにするよりもなお性質の悪いことを、警察の流した情報に尾ひれをつけ話を膨らませて、警察が0を1にしたものをさらに10にして100にして視聴者・読者に送り届けるということをやっている。メディアは警察がその上の高みに立って小石ひとつで意のままに大落石を起こすことのできる剥き出しの危険な、しかし警察にとってはじつに便利な崖なのだ。

 

小金井事件

 

冨田さんが危険を感じて警察にまで相談しに行ったのにその後も芸能活動を続けて被害に遭ったことを軽率だとして非難する声がある。私は冨田さんに結果論として多少油断した面があったとしたら、それは警察へ相談に行った「のに」ではなく行った「から」だと思う。もし仮に冨田さんが警察から高いリスクを警告されたのに耳を貸さなかった結果被害に遭ったというのであれば、冨田さんはいささか無謀だったとの評に一理あると言えるかもしれない。だが現実はまったくそうではなかった。警察は冨田さんから相談を受けたこの事案を、早急に被害者の身の安全を確保すべき重大な案件だとは露ほどもみなしていなかったのである。警察は冨田さんの相談内容を受けて問題の人物を逮捕もしなければ警告を発することも、そもそも接触を試みることすらしなかった。危険だから芸能活動を控えたほうがよいとも、芸能活動を行う際は一人で行動しないほうがよいとすらも冨田さんに伝えていなかった。警察が冨田さんに示した対処策は「十分注意してください」「何かあればこちらから連絡します」といったような漠然としたものだけだった。そして事件発生までに三度ばかり冨田さんのもとに様子見の電話をかけてきた、それだけである。警察は冨田さんがわざわざプリントアウトして持っていった問題の人物によるSNSの書き込み内容に目を通し、冨田さんから直接ここまでの経緯の説明を聞いたうえで、今すぐどうこうなるような問題ではないだろう、まあ多少は気をつけていたほうが良いだろう、「何かあ」るまでとりあえず様子見でいこう、という程度の危険度の診断を下していたのである。

 

いま「診断」という言葉をつかったのは、市民にとって警察はいわば犯罪部門の総合病院のような存在だと思うからである。私たちが体の不調を感じたとき病院へ行くのは、もちろんその症状を治してほしいということであるとともに、素人の自分では判断できない医学的な問題について専門家の判断を仰ぐためである。同じように、私たちが身の危険を感じて警察に赴くのは、問題をできることなら解消したいということであるとともに、素人では判断の難しい犯罪リスクに直面した自分がこの先どのように行動すればよいかの指針を専門家であるはずの警察から教示してもらうことを期待してでもある。冨田さんが2016年12月に公表した手記にも、「犯人が急に目の前に現れて殺されそうになったとしても、私も家族も周りの人も素人なので、自分のことや誰かを守る方法は何も知りません。 / そんな中でも希望を持っていたのが、警察に助けを求めることでした」と記されている。自分が素人であると自覚したうえで、プロであると見込んだ警察を信頼して相談に行っているのだ。多くの人は専門家である医師の下した診断には今晩お風呂に入っても良いかどうかといった些細なことに到るまで逐一したがって行動する。同じように、不安を抱えて相談に訪れた人に警察が伝える所見は、その人のその後の行動を細部に到るまで規定するほどのたいへんな重みをもつ「プロの診断」になるのである。

 

冨田さんの警戒レベルは警察へ相談に行く前と行った後とで、明らかに後者のほうが下がっているように見受けられる。2016年1月17日に催されたライブの終了後あの男のつきまといを受けた冨田さんは、そのライブの翌日にツイッターのアカウントを開設して書き込みをはじめたあの男が冨田さんに送り付ける内容が過激さを増しつつあった4月24日のライブ終了後、「怖くて一人で帰れない、外で(ストーカーが)待ち伏せしているかもしれない」と訴えてライブの主催者に車で送ってもらっていた。 *2 いっぽう警察への相談を経てからの5月の事件当日、冨田さんは小金井のライブハウスへ一人で赴き、駅前で待ち伏せしていた犯人につきまとわれ、駅近くのライブハウス前で犯人に襲われて被害に遭った。結果を知ったうえでの勝って当然の後出しじゃんけんで、もしも冨田さんが誰かの付き添いを伴い会場入りしていたら被害に遭うことはなかっただろうにとタラレバの話をしている人間の中には、ストーカー問題の専門家だということになっている小早川明子も含まれている。 *3 ここではっきりさせておきたいのは、一人で会場入りするという冨田さんの判断は警察のアドバイスに背いてのものではない、その逆だという点である。冨田さんは最初に武蔵野署へ赴いたときも、被害に遭った5月のライブの前日にかかってきた武蔵野署からの電話の中で明日のライブの予定を伝えたときにも、警察からライブをするのは止めたほうが良いとも、一人で行動しないほうが良いとも教示を受けていない。言い換えると、現場入りの際に誰かに付き添ってもらったほうが良いかどうかについて、そこまでするには及ばないという所見を警察は暗に冨田さんに示していたということである。今晩お風呂に入ってはだめですよと医師に言われたわけではないのにお風呂に入ることを控えた人がいたとしたら、それはその人が医師の判断に頼らず、つまりは医師を信用せずに独自の判断をしたからである。その点からみれば、冨田さんは警察を犯罪分野のプロフェッショナルとして全面的に信頼していたと言える。真剣に身の危険を訴えている自分の立場からすればおそらく「気のない」と映っただろう警察の対応に納得のいかない思いを抱えていたかもしれない、だがそれでも冨田さんは、ストーカー犯罪に関しては当然自分より遥かに詳しいはずの警察の判断を信頼して、警察が見積もった危険度のレベルに自身の警戒レベルを忠実にアジャストして行動を取っていた。冨田さんは警察の教示を守らなかった結果被害に遭ったのではなく最後まで忠実に守った結果、被害に遭ったのだ。この点は冨田さんの名誉のため強調しておかなければならない。

 

結果論から言えば、警察の見立ては癌の症状を花粉症の症状と取り違えるくらいの大誤診だったことになる。冨田さんの相談を受けた武蔵野署の生活安全課の担当署員は、当面のところ差し迫った危険はないと判断してストーカー犯罪の専門部署である人身安全関連事案総合対策本部に報告することすらしなかった。担当署員がまさにその人身安全関連事案総合対策本部の出身だったにも拘らずである。*4 警察はこの件をストーカー被害と呼ぶにすら値しない事案だと評価していたのだ。ではストーカー被害でないのならなんだと思っていたのだろうか。「アイドル」という呼称が答えを指し示しているように私には思われる。要するに警察はこれをアイドルがファンとトラブっているだけの案件だとみていたのではないだろうか。私は事件後に冨田さんはアイドルだという誤情報がメディアを経由して瞬く間にひろまっていったことを、事件前に警察が冨田さんをアイドルだと誤認識していたことを裏付ける証左だとみている。

 

女優・シンガーソングライターとして活動していた冨田さんがそもそもどうしてアイドルだということになってしまったのか。オードリーの若林正恭南沢奈央が交際発覚のニュースで,坂上忍が「オレ的に許せない、よりによってアイドルとかと付き合うって」と司会を務める番組で発言したことがあった。南沢奈央さんはたまにバラエティ番組に出演したり過去にはグラビアに登場したことがあったとしても普通なら女優と呼ぶべき人だと思うが、世の中には芸能活動をしている若い女性を皆ひっくるめてアイドルに分類してしまう大雑把な物事の捉え方をする人がいるのである。私は冨田さんの相談を受けた武蔵野署の署員も坂上忍のようにかなり大雑把な世界把握をする人だったのではないかと想像している。冨田さんが女優業の一環でアイドル役を演じた関係で一時的にせよアイドル活動に携わっていたことが(といっても3年以上前のことだが)誤解につながったのかもしれない。桶川事件で警察が被害者に吐いた暴言の数々を手本にして想像をさらにたくましくすれば、「アイドルとファンのゴタゴタの世話をさせられるなんざかったるい、警察は便利屋じゃないんだよ」ぐらいのことをひょっとしたら内心思っていたのかもしれない。

 

いずれにせよあの男の正体は、おそらく警察の眼にはそう映っていただろう口だけは勇ましいアイドルオタクではなく、紛れもない、そして稀に見る凶悪なストーカーだった。そうしてひとたび事件が起きてしまった後で、桶川事件のときと同じく、事件前から警察が被害者に抱いていた偏見がそのまま警察の責任逃れの口実にすり替わったのだろうと私は推測する。

 

こんなことになってしまい被害者に申し訳ないという思いをもちろん警察は抱いていたはずだと私は信じたい。小早川明子のようにタラレバの話をすれば、もし警察が襲撃の可能性を視野に入れたうえで、被害者の所在が予測できてしかも一人でいる時をおそらくストーカーは狙うだろうからライブ会場の行き帰りは特に危険だ、というプロの的確な読みにしたがって冨田さんに注意喚起さえしていれば、別に警察が自ら警護を務めなくてもここまでの被害は回避できていた公算が高かった。ストーカーが近々襲ってくる可能性をそもそもまったく想定していなかったようにみえる警察が事態の危険度を大幅に軽く見積もっていたことは否みようがない。とはいえ警察も人の子であるから、被害者への罪悪感と同時に、これほどの重大事件を未然に食い止めるどころか、切迫した危険を感じて相談に訪れた被害者におざなりな対応で大したことではないかのような見通しを示して逆に被害者の警戒心を大幅に低下させ、事件を招く呼び水にすらなってしまったことの責任を少しでも軽くしたいという心理に(多少なりとも)駆られたとしても不思議はない。そこで警察は、被害者はアイドルだという事件前からの誤解ないし偏見に沿ってこんな思惑を(多少なりとも)抱いたのではないだろうか――この事件を2年前のAKB刺傷事件と同じ枠に仕分けして近頃のアイドルとファンの距離感の問題を事件の主因に前景化させれば、こちらへ向かう批判の目をそらすことができるのではないか、と。前景化などとしゃちほこばった言い回しはやめて普通の言葉で言い換えよう――警察の不手際よりも被害者の活動形態に事件の主因を帰そうとしたのではないかということである。回りくどい表現はやめてもっと直截に言えば、警察にも不手際があったとしても、それ以前にそもそも「刺されるのはアイドルなんてやってるのが悪い」という方向に世論を誘導しようと企んだのではないかということである。

 

私はメディアの人間ではないので、小金井事件で警察がメディア向けにどのような広報をしていたのか具体的なところは知り得ない。だが、事前にメディア合同の企画会議でも開いていたのかと思えるほどに全メディアが足並みを揃えて被害者にアイドルという同じ肩書を冠し、全メディアが足並みを揃えて事件を「会いに行けるアイドルの受難」という同じ題目で物語化していった小金井事件の初期報道のあの異様な光景をみれば、警察が被害者はアイドルであるという虚構をメディアに周知徹底させるというその一点に相当の力を注いでいただろうことは想像に難くない。冨田さんをアイドルに仕立て上げる企てに、警察は年来の共犯者であるメディアへの信頼に裏打ちされた確かな勝算を抱いていたはずだ。信頼とはひとつには、アイドルが刺されたという視聴者・読者受けのする「おいしいネタ」を目の前にぶら下げれてやればこの国のメディアはこぞってヨダレを垂らしながら飛びついてくるに違いないという信頼であり、もうひとつは、被害者がどのような芸能活動をしていたのかをいちいち一次資料にまで遡って確認する質の高いメディアなどこの国に存在するわけがないという信頼である。被害者はアイドルだという嘘の小石をメディアという崖にひとつ蹴り落とした警察は、桶川事件のときの経験からその小石が崖を転がり落ちて大衆の待つ崖下に達したときどんな姿に変貌しているかも十分予測できていただろう。そのうえでそれを期待していたのだろう。警察の読みがじつに的確だったことはその後の報道が証明している。メディアは警察の期待どおり、いや期待以上のはたらきをしてくれたのである。

*1:清水潔『桶川ストーカー殺人事件―遺言(新潮文庫)』、385頁

*2:田村JINさんの証言。テレビ朝日系列『スーパーJチャンネル』2016年6月23日の報道のほか、『週刊現代』2016年6月11日号の記事にも書かれている。週刊現代の記事の表題は極めて酷いものなのでここでは明記しない。この記事については後述する。

*3:小早川明子『ストーカー(中公新書ラクレ)』、153頁

*4:週刊文春』2016年6月30日号