PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

犯罪被害者の二次被害:小金井ストーカー事件の場合 5/5

もはや取り返しのつかない二次被害

私が小金井事件におけるアイドルの呼称の使用にここまで拘っているのは、小金井事件の報道が招いている二次被害の大本にあるのがその四文字だからである。桶川事件の世論誘導の目標だった「ブランド好きの女子大生」と小金井事件の「アイドル活動をしていた女子大生」を比べたとき、前者にはそれ自体にあからさまな悪意の色が顕れている。先ほど高橋ユキのくだりでたいていの人は記事の中身など読まず見出ししか見ないと私は言ったが、かなり低俗なメディアでない限り「ブランド好き」の語をそのまま見出しに入れることには多少なりともためらいを覚えるだろう。いっぽう「アイドル」の語は、低俗なメディアであろうとなかろうとなんのためらいもなく堂々と見出しに掲げることができる。アイドルの語の使用を躊躇させるハードルは無いに等しい。ところが「アイドル」はそのいっけん無害な外見にも拘わらず、冨田さんを傷つける語彙のなかで他を寄せつけない圧倒的な破壊力を秘めている。「アイドル」はそれを唱えるたびに、そのアイドルの名のもと冨田さんとなんの関係もない「会いに行けるアイドル」のAKB商法的なものに事件の原因をことごとく帰そうとしていた事件当初の一連の醜悪な報道を人の脳裏によみがえらせる、記憶のカスケードの最上流部に位置するトリガーだからである。小金井事件の文脈でつかわれる「アイドル」の語はデノテーションより重たいコノテーションを背負い込んでしまっている。決して良い意味ではない。「ファンに夢と希望を与えるアイドル」の「アイドル」ではなく、「刺されるのはアイドルなんてやってるのが悪い」の「アイドル」である。被害者をいわれなき自業自得論の汚穢に繰り返し突き落とすための「アイドル」である。だからこの語は使用を厳に禁じなければいけないはずなのだ。小金井事件の報道が招いている二次被害の元凶、根本にあるのが「アイドル」なのだから、必死になって廃絶させなければいけないはずなのだ。しかし現実には、冨田さんを傷つける言葉の凶器のリストの中で核兵器に相当する「アイドル」をメディアは未だに廃棄せず保持しているし(「廃棄せず」とは、事件直後の「アイドル」表記の記事がネット上でいっさい削除も修正もされずそのまま残っていることを指す)、それどころか生産も、時には使用もしている。結局メディアには真面目に訂正しようという気がないのである。

 

「多くのメディアが事件当初のアイドルの表記を後に修正した」ことの中身をより具体的に言えば、メディアの多くは事件後数日して冨田さんの肩書を「芸能活動をしていた女子大生」「音楽活動をしていた女子大生」「シンガーソングライター」などに「こっそり」「しれっとして」変え始めたということである。私の知る限り、冨田さんの肩書変更に際して、「これまで冨田真由さんをアイドルと報じてきましたが不適切でした。訂正します」といったことわりを明示した報道機関は皆無である。人の肩書ではなく名前を間違えたとき、メディアは必ず謝罪とともに訂正する。小金井事件の報道でもあるワイドショーが冨田さんの名前をVTRの中で冨田真由美さんと呼んだことがあった。その際もVの終了後間髪入れず、「只今のVTRで冨田さんのお名前を冨田真由美さんとしていましたが、正しくは真由さんでした。お詫びして訂正します」とアナウンサーが謝罪したうえで正しい名前を伝えていた。メディアは冨田さんの肩書をアイドルだと報じてしまった過ちを、冨田真由さんの名前を冨田真由美さんと間違えることよりもなお些細な、被害者本人にも視聴者・読者にも詫びるに値しないどうでもいいようなことで片づけたのだ。

 

変更するにあたっての謝罪も事情の説明もなしにこっそり呼び方だけを変えたところで、そんなおざなりな訂正が読者・視聴者にまともに伝わるわけがない。「芸能活動をしていた女子大生」と言うことでメディアは「アイドル活動」を否定しているつもりなのだろうが、多くの人はこの呼称をアイドル活動の否定ではなくアイドル活動をより一般的な上位のカテゴリーで言い換えただけだと受け取るだろう。「アイドル」を否定したいのならば冨田さんの芸能活動の具体的な中身を明示しなければいけない。「アイドル」に代わる正しい呼称は「女優・シンガーソングライター」とすべきなのである。しかしメディアはシンガーソングライターの呼称を明示することはあっても、冨田さんの芸能活動においてシンガーソングライターに勝るとも劣らない比重を占めており、事件に到る経緯においてもシンガーソングライターに劣らぬ重要な位置づけにある女優の活動をほぼ無視した。冨田さんがアイドルではなくシンガーソングライターだということは報道によりかろうじて一部の人に伝わっただろう、だが冨田さんが女優として活動していた人だと報道で知った人は果たして日本人の百人に一人もいるだろうか。

 

メディアが自分たちのついた「被害者はアイドル」という嘘を取り消すことに関して冨田さんが事件前に相談に行った武蔵野署並のやる気のなさである以上、北条かやというライターが今年の3月にウェブの連載コラムのストーカーの話題で冨田さんのことを「フリーで活動していた女性アイドル」と書いているのを目にしても、沸き起こってくるのは憤りよりも「無理もない」という諦めの感情のほうである。「フリーで活動していた女性アイドルが、元ファン(アンチともいえる)に刺された事件は、メディアで生々しく報じられました」 *1 ――そう書いているからと言ってこの北条かやという人は冨田さんに特別悪意を抱いているわけではなく、事件当初はNHKも含めた全メディアが被害者はアイドルだと大々的に報じていたのを当たり前に信じて本当に冨田さんを地下アイドルだと思っているのだろう。そんな北条かやが特別に無知で愚かな人だと言うこともできない。むしろ、京大院卒で著書も何冊かありウェブ媒体でコラムを執筆もしているこの人は平均的な日本人よりは時事に関心があり詳しくもあるはずだ。それが意味するのは、おそらく半数以上の日本人が小金井事件の被害者を地下アイドルだと今も記憶しているのだろうということである。言い換えれば、冨田さんがメディアの杜撰な報道によって受けた二次被害は「もはや取り返しがつかない」ということである。もし私が冨田さんだったら、大多数の人が自分のことを犯罪被害者として認識しているうえにそのうち半数以上が自分をアイドルだと誤解しているような社会には恐ろしくてもう帰る気にならないだろう。道ですれ違う人の誰もが自分の敵に見えてしまうだろう。

 

このような甚大な報道被害を招いてしまったことに対して、メディアは反省の弁を少しでも口にしているだろうか。唯一それらしきことをメディア側の人間が言っていたのが下に掲げる裁判直後の産経新聞の記事である。

インターネット上などでは冨田さんについて「アイドルとしてファンを勘違いさせた」などとする心ない意見も少なくない。しかし、冨田さんに落ち度は見当たらない。弁護側が「冨田さんにも非があった」とする弁護をしなかったのがその証左だ。事情を伝えきれていない報道側にもその責任の一端があるとしても、心ない書き込みに心が痛む。 *2

私がこのくだりを読んで当初覚えたのはかなり大きな憤りであった。事情を伝えきれていない報道側にもその責任の一端があるとしても?一端?本気で自分たちメディアに「一端」ていどの責任しかないと思っているのか?記者が挙げている「心ない意見」の例文にも「アイドル」の語が出てくる。そうなのだ、冨田さんは「アイドルとして」心ない意見を浴びせられているのである。ではそもそも、女優・シンガーソングライターの冨田さんがなぜアイドルだということにされているのか?メディアがさんざんそのデマを撒き散らかしたせいだろう。それどころか、そのアイドルという被害者の架空の活動形態に事件の原因があるかのような論、要は自業自得論にほかならぬものをさんざん煽り立てたせいだろう。「事情を伝えきれていない」どころではない、メディアが捏造した架空の事情のせいで冨田さんは揶揄中傷を受けているのだ。この産経新聞の記者の当事者意識を欠いた他人事のような物言いは、冨田さんを襲ったストーカーの男がおのれの犯した罪について語っているときの言い草に瓜二つだ――と私はいっときそこまで思ったのだが、たとえ一端であってもメディアの責任を自覚し心を痛めているぶんだけ、この記者にはまだ良心があると言うべきなのかもしれない。

 

小金井事件の報道は桶川事件の報道とまったく同じことを繰り返している。そのことを思ったとき、桶川事件で殺害された猪野詩織さんの父、憲一さんの言葉は非常に重い。猪野憲一さんは「娘は3度殺された」と言っている。3度目の殺人の犯人はマスメディアである。

そして3度目の殺人は、マスコミによるものです。娘は一方的に犯人側から贈られた高価なブランド品などはすべて返送しているのですが、バイト代を貯めてやっと購入した中古のプラダのリュックを引き合いに「ブランド狂いで男におねだりしていた」とか「いかがわしい店でアルバイトをしていた」などと事実無根の話を報じられました。虚偽の情報を鵜呑みにして「女性にも落ち度がある」「自業自得」などとテレビで話すコメンテーターもいました。 *3

ここで語られているメディアによる「殺人」の手口は小金井事件のそれに酷似している。メディアは事件の3年以上前に被害者が女優業の一環としてアイドル役を演じたことがきっかけでいっとき携わっていたアイドル活動を引き合いに被害者をアイドルに仕立て上げ、被害者とは縁もゆかりもない赤の他人のエピソードまで材料に担ぎ出して、近年のアイドルとファンの近すぎる距離が招いた凶悪事件という虚構を築き上げていった。そしてその虚偽の情報を鵜呑みにした人のあいだでアイドルなんぞをやっている「被害者にも落ち度がある」「自業自得」の声が燎原の火のごとくひろがっていくのをただ傍観し、知らんぷりを決め込んでいた。小金井事件の報道をみる限り、猪野憲一さんが清水潔『桶川ストーカー殺人事件』の文庫化に寄せて綴った一文の末尾に置かれた心からの願いは届かなかったと言うほかない。

 この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどのようなものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真に持つべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にする事で分かって頂けると信じ、心から願っている。 *4

 

20年近く前の桶川事件で被害者にしてしまったことの反省をなんら生かすことなく、メディアは小金井事件の被害者にそっくり同じ仕打ちを繰り返した。そこで桶川事件の被害者の父の言葉を小金井事件に置き換えるなら、小金井ストーカー殺人未遂事件とは、ストーカーの残忍な凶行を受けたがかろうじて生き延びた被害者をメディアが残忍な言葉の暴力を駆使して殺害した殺人事件だということになるのではないか。

 しかし私たちがそうやって家の中に閉じこめられている間、テレビや新聞、雑誌などでは、殺された娘の名誉をズタズタに貶めるような報道が次から次へと流れていた。面白おかしく書かれた、見る者の興味をそそれればそれでいいというような憶測記事も目についた。その影響からか、いつしかマスコミ取材陣の背後には、心無い野次馬たちも我が家を取り巻く包囲網の一部に加わるようになっていた。
 罪も無く殺害された娘に、これ以上の汚名を着せる必要が、権利が、何でマスコミにあるのか。 *5

そう憤る猪野憲一さんと同じような思いを冨田さんのご家族もメディアの報道に抱いていたのではないかと私は想像する。ただし小金井事件が桶川事件と一点違うのは、被害者が奇跡的に生き延びたことである。その事実が意味するのは、家族どころか第三者ですら目をそむけたくなるようなメディアの報道とその報道がもたらした世間のおぞましい反応を被害者本人が目の当たりにしたということである。それがどれだけ心をえぐられる残酷な追い打ちであったかはもはや私の想像の域を超えている。ストーカー行為の果てあの男に30回以上もナイフで刺されることの苦痛や恐怖、絶望をわがこととして想像するのが困難なように。小金井事件の想像を絶する凄惨さは半ば二次被害の凄惨さなのである。

 

もし私が冨田さんだったら生きる気力すら挫かれていたかもしれない過酷な二次被害に曝されながら、冨田さんは自分が被害に遭った事件の裁判に被害者参加制度を利用して加わり、9カ月前に自分を襲った犯人が衝立越しに対峙している法廷で、まだ口元に麻痺も残るなか意見陳述に臨んだ。その意見陳述の最中にあの男が二度にわたって暴言を吐いたことをとらえて、あのような形での意見陳述はするべきでなかったという人もいる。しかし冨田さんはあの男が途中で口を挟んでくるかもしれないことはもちろん覚悟のうえで陳述に臨んでいたはずだ。いや覚悟だけでなく半ば計算もしていたのではないか――「お前はこう言われて黙っていられるような人間ではなかったはずだ、さあ食いついてこい、正体を現せ」と。別室からモニターを介して陳述を行うビデオリンク方式をとれば犯人の言葉を浴びるリスクは回避できる。より安全なビデオリンク方式を薦める声も当然あったはずだ。ただリスクが回避できるということは、見方を変えれば犯人がその場で口答えしてくる状況を作り出せないということでもある。冨田さんはある意図をもって、ビデオリンク方式ではなく敢えて遮蔽ごしの陳述を選択したのではないかと私は思っている。明らかに、裁判の全過程をとおしてあの男の本性を誰よりも巧みに暴き出したのは冨田さんである。あの場に臨んでいた裁判官、検事、弁護人、証人らの中で冨田さんはただひとり、他の誰にも及びのつかない豊富な舞台経験をもつ女優であった。主演を務めたこともあり、即興芝居の舞台にも三度立っている。文字どおり役者が違うのだ。弁護人の質問では猫をかぶりとおし、検事の追及ではしばしば不遜な態度に及びつつも致命的なボロは出さなかったあの男は、女優の計略にまんまと引っかかって遂に本性を曝け出し、おのれがいかに危険極まりない輩であるかを日本中の人々に自ら証明してみせたのだった。

 

冨田さんと同じようにストーカーの凶行を生き延び、冨田さんと同じように犯人の同席する法廷の場でたたかった二人の女性、1982年に米国で起きたストーカー刺傷事件の生還者テレサ・サルダナ *6 と2008年に英国で起きたストーカーによる酸攻撃事件の生還者ケイティ・パイパー *7 を、人は共に a brave woman として記憶し語り継いでいる。私たちが冨田真由さんという人についていつまでも忘れずに記憶しておくべきことは地下アイドルという捏造された肩書などでは断じてない。卑劣な暴力に屈することなく敢然と立ち向かっていった冨田さんの強さ―― bravery である。だから私は、昨年2月の裁判の際に『シークレットガールズ』の脚本家の三浦有為子さんがブログで冨田さんをヒーローだと呼んだことを、本当にその通りだと思う。それとともに、「彼女はヒーローだ」という言葉の後に三浦さんが続けて記していることにも心から同意する。 

加害者と同じ法廷にいること。
どれほど苦しく、辛いことか。
でも、加害者にちゃんとした裁きを与えてほしいから、
そして同じような事が繰り返されて欲しくないから、
日々、心をすり減らし、戦っているんだと思います。

 

彼女は、ヒーローです。
でも、こんな形でヒーローになってほしくなかった。
彼女の望んでいた世界……。
歌やお芝居で、たくさんの人を励ますヒーローになってほしかった。 *8

 

おそらく三浦さんも、最後の一文が文字どおり過去形のもはやかなわぬ願いだとは信じていないだろう。歌やお芝居で、たくさんの人を励ますヒーローになってほしい――女優としてシンガーソングライターとして、あるいは別の表現のかたちであっても、冨田さんの新しい作品に接する日が来ることを私は今でも待ち望んでいる。ただ、そう願う一方で、あの男がナイフという凶器をつかって冨田さんにうち振るった暴力を言葉という凶器に替えてそのままなぞっていったかのようなメディアのむごたらしい暴力とそれがもたらしたおぞましい余波によって、冨田さんが主演の舞台『ロマンス』で演じたラストシーンの智子のように再び立ち上がり、歩み出すための力がもはや取り返しのつかないほどにすり減らされてしまっているのではないかというおそれを私は振り払うことができない。

*1:https://hbol.jp/161986

*2:https://www.sankei.com/premium/news/170307/prm1703070003-n1.html

*3:桶川ストーカー殺人事件「娘は3度殺された」、『文藝春秋』2018年2月号 [link]

*4:猪野憲一「文庫化に寄せて」、清水潔『桶川ストーカー殺人事件―遺言(新潮文庫)』、418頁

*5:同上、410~411頁

*6:Theresa Saldana (1986), Beyond Survival. Bantam Books.

*7:Katie Piper (2011), Beautiful. Ebury Press.

*8: http://blog.livedoor.jp/oui0214/archives/52180501.html