PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 6 Family and Friends 8/16

ユーモア

 犯罪の被害直後の日々の生活は、関係するすべての人にとって、苦痛に満ち、混沌として、苛立たしいものであるが、そのうち被害者とその内部サークルの人々は、最悪の場面にもそれなりの軽さ、気楽さ、可笑しみが浮かび上がる瞬間があることを発見するだろう。

 最近私はヴェラ・カイリー(銃撃を受けて麻痺に陥ったジャネット・カイリーの母)と再び話す機会をもった。カイリー夫人のもっとも特徴的な、そしてじつに魅力的な点は、彼女の会話のあちこちにちりばめられた、甲高い、こちらもつられてしまいそうな陽気な笑い声である。彼女自身が言うとおり、ヴェラ・カイリーは「腹の底のそのまた底から」大笑いする。

 試練の期間をとおして彼女がどのようにしてユーモアのセンスを保っていたのかを私が尋ねたとき、ヴェラはこう答えた。「そうねえ、私たちが経験していた恐ろしいことのせいで、もしもあの場にいた家族も友だちも、みんなが落ち込んで悲しがっていたとしたら、いったいジャネットはどうやって、セラピーを続けてもう一度元気になるために頑張っていけるだけの強い気持ちを持ち続けることができたのかしら?そして私たちはどうやったら生きていけたのかしら?」。

 「基本として、私たちはあまり塞ぎ込んだり落ち込んだりだけはしないように自分自身で努めていたんです。私たちは良いことのほうに目を向けていました。ジャネットが生きていて、私たちとともにここにいるという事実。私たちがひとつの家族としてこんなにも仲良しだという事実。そして、私たちの人生のなかにはそれでもなお、なにかしらの喜びがたくさんあるんだっていう事実」

 「起きたことについて私たち皆が感じている苦痛を否定することなんてできやしませんでした」、彼女は続けた。「ジャネットは家族のなかでは末っ子で、4人の兄弟はみな彼女のことが大好きだった。かわいい妹が撃たれたとき、兄さんたちは物凄いショックを受けました。でもそのうちに私たちは――ジャネットも私たち自身も――みな分かってきたんです、私たちは気分をハイに保っている必要があるんだって。それで私たちは、彼女の心を活気づけようとしました――たくさんのジョークを言って、世にもバカバカしい、くだらないことでも彼女を笑わせようとして。そして彼女はそれに応えてくれました」

 「幸いなことにジャネットはいつだってとっても『アゲアゲな』女の子だったんです。もちろん、彼女は非常に落ち込んでいました――彼女にはそうする権利があるんですから――でも私の娘は勇敢でストイックなだけじゃなくて、楽しいことの大好きな人間でもあるんです」

 「娘が自分の体の傷のことや、肉体的なハンディキャップ全般のことでジョークを言っているのを聞いて、ショックを受ける人もたぶんいるだろうと思います。でもジャネットはとても素直でまっすぐな女の子で、彼女のこの種のジョークはもろもろのことをうまくやっていくための助けになるんです」

 「ある日彼女はギブズ研究所の水泳プールでセラピーを受けていました。そのとき彼女が言ったんです、『ママ、手も足もなくってプールに浮かんでる男の人向けのいい名前ってなんだと思う?』って。私は彼女に、見当もつかないと言いました、そしたら彼女は『ボブ!』って叫んで笑い転げはじめたんです(訳注:bobには釣りでつかう浮子の意味もある)」

 「私はほかの患者さんがどう思うか心配して、彼女を静かにさせようとしました。でも周りを見たらほかの人もみんな笑ってました!」

 「今からお話しするように、ジャネットは本当はギブズで再び笑うようになったんです。そこの雰囲気は、丸ごとひっくるめて盛大なパーティーみたいです。患者たちはジョークを飛ばします、自分のハンディキャップのこととか、その他、お天道さまの下のありとあらゆることについて。彼らは信じられないくらい過酷な努力をしていますが、楽しい時間も過ごしているんです。スタッフもそれを奨励しています。そしてそこから、患者の症状の改善の進み具合や気持ちのもちように天と地ほどの違いが生じてくるんです」

 「ジャネットがいた前の病院では、そこの人がすることといったら私たちのやる気をそいで気分を滅入らせることばかりでした。彼らの考え方は『この怪我は酷いものデス、深刻デス、障害は回復不能デス、笑いごとじゃあないのデス』ってな感じでした。その病院の雰囲気は陰鬱そのものでした。彼らは決して笑わなかった、それどころか大半の時間、微笑むことすらしなかった」

 「その結果として、患者とその家族の多くはどんどん元気を奪われ、惨めになっていきました。患者や訪問客は、笑ったり微笑んだりすることに申し訳ない思いを感じていました」

 「ですがその後、私たちはついにギブズを見つけ、そこのアプローチがまったく違っていることを知りました。ええ、彼らはそこで患者が取り組まなければならないハードワークに関しては真剣でした、でも彼らは患者のユーモアや個性の発露をおおいに奨励していました。彼らは患者や家族を個々の人間としてみていました。彼らの陽気で前向きな姿勢によって、彼らはセラピーをハッピーな物事に――怖がってビクビクするようなことではなく、待ち望んでウズウズすることに変えたのです。スタッフはとってもフレンドリーで陽気です――あの恩着せがましい、見せかけだけの陽気なふりじゃなくて、本当に明るくて協力的なんです。スタッフは患者のことをニックネームで呼びます、彼らは互いにからかい合います、ジョークを言います――そうしてすべての患者はしまいには自分自身に肯定的で自信をもつようになります。このため、彼らはセラピーの成績も向上して、より早く、より良い改善を成し遂げていくんです」

 「これらの患者が、自分の肉体からほんの最小限でも反応を引き出すため必要とされるつらい課題のいっさいをこなしていくのは本当に大変なことです。彼らに日々付き添って肉体面や精神面でのサポートをしている家族や友人にとってもそれはきついことでしょう。彼らの格闘のさまを眺めているのは心が痛みます。ですから私たち家族や友人は、くつろぐことを許されたときに、たとえ状況がどうであろうとも微笑んだり、しばらくリラックスしたりして、楽しく過ごしている時間をとてもありがたく感じています」

 「時には泣いたり落ち込んだりするのは自然なことです。でもそれは人を衰えさせます。それに対して、笑うこと、ハッピーでいることは、人に活力を与えます」

 「僕もそう思う」、ジャネットの兄のダニエルが言った。「笑いには驚くほどの治癒力がある。そしてジャネットも、僕らのママとまったく同じように、いつでも素晴らしいユーモアのセンスを持っていた。幸い彼女の魂は襲撃によってもまったく鈍ることはなかった。それどころか、彼女はそれまでの人生と比べてもなおいっそう、ユーモアに頼るようになったんです」

 「僕はジャネットがまだICUにいる時に笑っていたのを覚えています。それはとげとげしい、ヒステリックな感じの笑いじゃなくて、場面全体を別の、より明るい視点から見ることのできる才能の表れだった。彼女は、たとえどんなことが起きたとしても、暗い、落ち込んだ気分のままでいさせられることはきっぱり拒否していた。そして僕らはみなそんな彼女をお手本にしたんです」

 「僕はしょっちゅうジャネットを、アポのあるあちこちの場所に運んでいくんですが、彼女がなにかの動作をするのにかなりの時間がかかることがあるんです。彼女が特にゆっくりで、そこにいてじっと待っていなければならないとき、ときどき僕はついいらいらしてしまうことがある、あるいは、以前のように動き回ることのできないジャネットに悲しみや哀れみを感じてしまうことがある。でも代わりに、僕は彼女に冗談を言うんです、彼女のことを『のろま』って呼んだりして。そしてどんな事にも概して軽めの態度を取ります。こうして僕は、ジャネットが自分で感じているだろうもどかしさや苛立ちをさらに膨らませないようにしています」

 「ジャネットも僕たち残りの者も、彼女の以前の動き方と今の動き方を何度も比較対照してしまうことは避けられません。違いは歴然としています。ジャネットはいつだってそれは活発で機敏で、心の面でも体の面でも人に頼らず、どんなことにもひるまず、途方もない肉体的なエネルギーで自分から人生を切り開いていったんです」

 「もちろん、今の時点では彼女の能力は変わってしまっています。比較は避けられません。でも僕たちがしているのは変わり具合をちょっとばかり皮肉めいた調子でやんわりとからかうことで、変化を恐ろしく、哀れで、惨めなものとしてみて、うなだれることではありません。僕はいつもジャネットにうつむかず目を上げよう、そしてこれを成長の体験としてみようって励ましています。それはいつでも簡単なことってわけではありません。でも気軽に考えることは大きな助けになります」

 「彼女はそもそものはじめから、苦しみのなかにあっても自分は笑うことができる、笑う意志があるんだってことを僕たちに示していました。僕たちはみなそんな彼女からヒントを得て、喜びとユーモアのセンスを失わずに保ち続けたんです」

 カイリー夫人には語るべき特別なエピソードがあった。「つい先日、私たちは真ん中の息子のデビッドが牧師をしている教会に集っていました。礼拝が終わって、オルガン奏者が陽気な音楽を演奏していました。足に装具をつけていたジャネットは、体を前後に揺すりはじめました。それから彼女は足をきつく踏ん張って、頭上に上げた手を叩きはじめました。もちろん彼女は腰から下は――いまはまだ――動かせませんが、狂ったみたいに上体をよじらせて、おかしなクネクネした動きをやり出したんです」

 「教会の真ん中で装具の上の体を振り回している彼女はけっこう妙な眺めでしたけど、私は彼女が『踊って』いるのがほんとにおかしくて大笑いしました。そしたらジャネットと彼女の兄さんもクスクス笑いはじめて、なんていうか、それが流行になったんです。集会に来ていた人のほぼ全員が笑い出して、上体をくねらせて手を叩いて『ジャネッドダンス』を踊り始めたの。すてきな時間でした」

 「楽しかったし、ジャネットがほんとに楽しそうに動き回っているのを見るのは素晴らしいことだった。ある意味で、あの体験は大きな、大きな祈りのようなものでした。たぶんそれは主を讃える伝統的なやりかたではなかったでしょうけれども、私たちの笑いと喜びを主に捧げるのも、まったく同じくらいに大切なことに違いないんです。それは苦難のなかにあって主のもとへ赴くことなんですから」

 インタビューを終えたあとも、私はカイリー一家のことを考え続けた。彼らの例は、まったく同じ状況を二通りのやり方でみることが可能だということを示しているのだと私は思い当たった。あなたは装具と車いすに縛られ、ギクシャクと動いている女の子に耐え難い悲しみを覚えるかもしれない。彼女がかつてダンサーだったことを思い出し、喪われたものに対して抑えきれない怒りと絶望を感じるかもしれない。彼女の動作を、彼女が経てきた恐怖を思い起こさせる、ぎこちなくも痛ましいしるしとしてみるかもしれない。

 あるいはあなたは、カイリー一家とまったく同じことをするかもしれない――今のこの瞬間にユーモアや喜劇、喜びを見いだし、笑い声を高らかに晴れやかに響き渡らせ、ジャネットがハンディキャップに打ち勝つ勢いや気迫、ユーモアを今なお失ってはおらず、自分の体の動きに今なお喜びを感じているという事実を褒め称えることである。

 

 犯罪被害者およびその家族との関連におけるユーモアのテーマについて専門家の見解を知りたくなった私は、かつての私の精神科医で、UCLAの臨床精神医学の准教授であるピーター・ウェインゴールド博士に電話をした。

 「悲惨な場面のなかにユーモアを見つけ出すことはたいへん健康的な一手段です」、彼は話を切り出した。「それは未来の方角を見やり、この苦しみを私たちは振り払うことができるということを示すひとつの方法です。被害者とその内部サークルの人々にとって、ユーモアを共有することは一種の視点の切り替えであり、この被害者にとって、この血縁の人たちにとって、この友人たちにとって、この家族にとって、目の前にある悲劇がすべてなのではないということを表すものなのです」。

 「ユーモア、とりわけブラックなユーモアは」、ウェインゴールド先生は続けた、「やられたらやり返すための効果的な手段です。この種のユーモアの背後にはたくさんの怒り、生命力、エネルギーが宿っている」

 「被害者やその家族が事件の後で再び笑うことをはじめたとき、彼らは実質的に、加害者や運命に対してこう言っているんです、『お前は私たちを打ち壊すことができなかった!私たちはいまでもなおここにいる。私たちはいまでもなお笑っている。そう、だから私たちには命があり、希望をもっている』」

 「被害者やその愛するひとびとが笑うことのできる権利を取り戻したとき、彼らは加害者や運命に向かってアッカンベーとやっているわけです」

 「当然ながら、ユーモアは被害者やその家族が問題に対処していくための唯一の方法ではありません。しかしそれは関係する人全員にとって、非常に重要な対処メカニズムです」

 「悲劇に打ちのめされている人々は、いずれは再び笑い方を思い出すことが不可欠です。もしも被害者やその愛するひとびとのすることが、終わりなく泣き続け、完全な絶望に沈み込むことだけだったとしたら、彼らはみな深刻な欝状態に陥ってしまうでしょう。長期にわたる、解放の手立てのない動揺や不安は、それだけで誰をも狂気に逐いやってしまいかねません。笑いは人がしばらくの間苦痛を忘れるための、あるいは少なくともそれに別のかたちで――つまり、涙ではなく笑いを誘うものとして――対処するための、ひとつの方法なのです」

 ウェインゴールド先生は続けて言った、「ユーモアに関しては、家族が被害者から合図を受け取るようにするのが賢明です。被害者がまた楽しむことをはじめること、自分のユーモアのセンスを再び働かせることの用意があり、それを欲していると、全員がまずはじめに感じ取っていることが肝要です。タイミングは非常に重要です。被害者のなかには被害に遭った後すぐにユーモアを取り戻す人もいます。別の人は再び笑うようになるまでに長くかかります。加害者について、事件そのものについて、怪我について、裁判についてジョークを言うこと、いずれもして構いません、それが適切な時期に行われ、被害者がそれについてこれるのであれば」

 「明らかに、加害者によって不具にされたり傷を負った被害者について根っからおもしろおかしいことなどなにもありません。ですが、誰にとっても笑いは、病的な絶望感や抑鬱を撃退することに役立ちます。それゆえ笑いはそれ自体として重要な機能があり、疑いなく望ましいものなのです」

 「そしてもちろん、残酷さや無神経さを孕んだやりかたで被害者のことを、あるいはその場の状況を笑うようなことは誰もすべきではない、この点は強調させてください。そうではなくて、前向きで肯定的なやりかたで何かかついて笑うようにしたいものです」

 「被害者とその愛するひとびとにとって、ユーモアは切に追い求めるべきもの、愛おしく抱き締めるべきものです。それは一歩前へ進むことであり、こういうことを意味しているのです――『悲劇は私たちに降りかかった、しかしそれは私たちを規定してはいない。私たちが経てきた体験にもかかわらず、私たちは自分の人生を前へと進んでいく。そして笑いは、私たちがじじつ今もここにいて、じじつ今も喜びを味わうことができることの証なのだ』」