PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 3/10

セラピー

 最近私は、疼痛管理の分野の3人のエキスパートに同時に会う光栄な機会を得た。ロサンゼルス・セント・ヴィンセント病院のペインリハビリテーション・プログラム(ペインスクールあるいはペインセンターの名でも知られている)のディレクターであるマイケル・スコラロ博士、彼のクリニックの同僚で精神薬理学(脳化学)と神経生物学を学んできたトム・カッペラー博士、ロスのバイオフィードバック研究所の所長であるマージョリー・トゥーミン博士である。

 スコラロ博士はペインリハビリテーション・プログラムについての若干の予備知識を私に語ることからはじめた。「それは慢性の痛みを抱えた患者を治療し、機能的で生産的な生活の回復に向けた手助けをする、包括的な、専従の、3カ月にわたるプログラムです。センターの患者は最初の一週間を入院患者として、残りの期間を外来患者としてケアを受けます」。

 私たちはクリニックで行われているセラピーの具体的な方法だけでなく、痛みそのものについても議論することで同意した。すなわち、痛みの生理学的、心理学的な原因について、痛みが個々の人間に与えるさまざまな影響、痛みの体験に影響する文化的、社会学的要因および環境要因についてである。

 ペインスクールでは、痛みについて学ぶこともセラピーの一部である。患者が痛みについての理解を育んでいくことで、自身の苦しみを制御し軽減するためのずっと優れた力が備わっていく。プログラムは特に、慢性の痛みを抱える患者――痛みの体験と、彼らの被った病気、怪我、暴行への執心があまりに強く、生産的なレベルで機能を発揮することの不可能な患者――を治療する目的のために設計された。スコラロ、カッペラー両博士によって採用されているアイディアやテクニックをいくつか聞いた私は、彼らの手法がある程度の一時的あるいは慢性的な苦痛とともに生きていかなければならない誰にとっても有益なものであろうことをただちに了解した。

 スコラロ博士に会うやいなや、私はなぜ彼の患者が彼の助言や援助にとてもよく反応するのかを理解した。快活にして精力的で、彼は自分が治療しているひとびとへの心からの関心、配慮、思いやりの空気を発散させている。しかし私はスコラロ博士が、彼の患者への心配りと同時に、彼の指揮のもとでスタッフたちが休みなく働くことを期待している、強い、断固たるリーダーでもあるのを感じ取った。

 彼の厖大な体験は彼に、痛みを抱えている人は自分の窮状に対して無力感と絶望感を募らせていくものであることを教えた。「多くの場合」、彼は語った、「彼らは自分の大きく損なわれた身体能力にあまりに意気消沈して、もっとも基本的な技能すらしようとしなくなってしまいます。モチベーションは最低レベル、もしくはまったく失われています」。

 患者が最初にペインセンターを訪れたとき、スコラロ博士は彼らに向かって単刀直入に、今からは彼らが彼ら自身の改善と回復に対して責任を負うようにならなければならないと伝える。そう、彼らは恐ろしい試練――原因は病気であれ事故であり暴力被害であれ――を経てきた。しかし事実は変わらずそこにある――彼らは苦痛のなかにある、そして彼らだけが、それに克服して生き続けていくすべを身につけることができる。そのために、彼らは自分で自分を助けるようにならなくてはいけない。

 スコラロ先生の話は疼痛管理における自立精神の大切さを物語っている。振り返ってみると、入院中に極度の苦痛に陥っていた時、私はほかの健康な人間たちに対する絶え間ない憤りを感じていた。私は彼らに私を助けてほしかった、私の面倒をみてほしかった。私はこんなにも酷く不当に攻撃されたのだから、世界は私になにかしらの借りがあるのだ、私は心の奥底でそう信じていた。私の置かれた状況は不公平で、私の受けている苦痛は悲惨なもので、私は他人にそれを取り除いてもらいたかった、あるいは、生きることを私にとってより容易なものにするために、彼らの力でできるあらゆることをしてもらいたかったのだ。

 これは痛みに苦しむひとたちが抱くごくありふれた感情のように思われる。しかしスコラロ博士によると――「痛みを抱えたひとが自分の状況を受け入れ、さらに、それが公平であるか否かによらず、彼らが自分自身を助けるようにしなければならないと認識することはたいへん重要です」。

 スコラロ博士は続ける、「私たちが真っ先に、声を大にして患者に伝えることは、あなたがどれだけ長いあいだ苦悶のなかにあったとしても、半年だったとしても、二年、あるいは十年にも及んでいたとしても、希望はあるということです。トンネルの終わりには生があります。開かれつつある窓があります」。

 「私たちは彼らにこう言います――あなたはあなたを無力感の状態に陥らせる状況を経験してきました。あなたの衰退の極にあります。そしていま、私たちは別のアプローチを提示します――希望のアプローチです。あなたは痛みを管理し、あなたの人生を再び築いていくことができるようになります」

 「それは本当に驚くべきことです!時として、否定的傾向と無力感にすっかり慣れ切ってしまった人に、言葉による希望の陽の光を差し出すだけで、ほんの少しの間に痛みがほとんど消え失せることもあります」

 スコラロ博士は苦痛の原因について話しはじめた。「ほとんどの場合、苦痛のなかにある人は具体的な痛みの原因(たとえば実際の事故、襲撃、病気)を指し示すことができます。しかしそれに加えて、文化的、社会的な要因、環境要因も状況をさらに悪化させていることがあります。このため、ペインスクールの患者は「全体」として捉えられます。彼らの痛みはそのもともとの原因からだけではなく、そのほかのすべての寄与因子を加味した視点のもとで眺められるのです」。

 私がスコラロ博士に、ドクターたちは痛みの具体的なレベル(重い、中程度、軽い)をどのようにして判断できるのかと尋ねたところ、彼は中核にある重要な判断材料は次のようなものだと私に説明した――「この人物の痛みがどれほどかれを無能力にし、心理的に衰弱させているか?それはどれほど抗いがたいものか?その影響がどれほど広範囲に及んでいるか?」。

 この時点でカッペラー博士が会話に加わった。ペインセンターでの彼の主な責務は、おのおのの患者の脳の生物学的機能の評価と、それと苦痛、不安感、抑鬱、そして――究極的には――回復とのあいだの関係の評価である。

 カッペラー博士は初期段階での介入と心理面のマネジメント――たとえそれが単に助言や相談というかたちであったとしても――の必要性を主張した。なぜならそれは、患者がのちに慢性の痛みに苦しめられることになるか否かに関して劇的な差異をもたらし得るからである。「個々の患者の苦痛とストレスの問題に取り組むことが重要です」、カッペラー博士は述べた。「さらに痛みが彼をどのように感じさせるかということも。そのうえで、短期と長期の両面でそれに対処していくための、実行可能で個人的な方法が模索されるべきです。もしこれが襲撃や怪我の後すぐに行われると、かれがのちに慢性の苦痛を抱え込む可能性は大幅に低下します」。

 ドクターたちは、痛みは実際には多くの因子の総和であり、それがどのように足しあわされているかがひとりの人間の苦しみの度合いを決定するのだとたびたび指摘していた。にもかかわらず、私たちはなんとしばしば人がこんなことを言うのを聞いたものだろうか――「彼女は自分の腕のことでちょっとばかり泣き言を言い過ぎのようだね。私が自分の腕の骨を折ったときは、ただギプスを巻いただけで、なにごとも無かったかのように暮らしていたものだよ」、あるいは、「彼はまったく馬鹿げてる。彼は風邪を引いただけで、肺炎なんかじゃないよ」、あるいは犯罪被害者の場合は、どれだけしょっしゅうこんな意見を聞かされたことか。「ねえお願い、あの事件からもう3年経ってるのよ。彼女がまだあのことで苦しんでるなんて話を私にしないで!」。

 カッペラー博士は、犯罪被害者が感じる付加的なストレスの問題を取り上げた。「予期せぬ凶悪な攻撃は」、彼は言う、「極度にストレスのかかるもので、しばしば人を、服従的な状態で生きていくよう導いてしまいます。あるいは、なにかを見越している状態と言うべきでしょうか。彼らは一面ではなにか悪いことが起こるだろうと期待しているのです。この状況は痛みの閾値を低下させます。するとその人は、警戒心を保ち、攻撃に対して用心することを自分自身が忘れないようするために、肉体的、精神的な苦痛にすがり始めるでしょう」。

 彼は私に、退院後の最初の数週間の、私が再び町の通りを歩き始めた頃のことを思い起こさせた。心臓を激しく鼓動させ、さまざまな考えを頭に駆け巡らせて、私は足早に歩き、悪いほうの腕を堅く自分の体に押し付けていた。不安でいっぱいになりながら、私はあらゆる方向を必死にこそこそ見回し、私がいかなる瞬間にも襲われることはあり得ると――あるいはありそうだとさえ――確信していた。

 私の心と体は緊張でピンと張りつめ、苦痛に満ちていた。私は全ての筋肉、神経、思念を駆使して警戒していた。その結果、私が感じるいかなる苦痛も――それが私のズキズキ痛む手や指であれ、私のまだ回復途上の傷であれ、私の傷つき破壊された精神であれ――大幅に強まったのだった。

 このような反応は私のような酷いトラウマを経験した後ではよくあることなのだと知ることは、後になってからでも助けになる。たぶん、私がこの洞察をもって当時の私の行動を吟味することができていたら、私は容易にそれに順応することができていた――か、あるいは少なくともそれを理解することができていただろう。

 続いてドクターは、私がそれまで知らなかった、苦痛の体験に大きく関わる問題をとりあげた。哲学である。アメリカに住む私たちの多くは明らかに西洋的な哲学を具えている。私たちは物事をあるがままに受け入れようとはせず、それらに立ち向かっていき、それらを変えようとする傾向がある。私たちにはいつでも多くの選択肢がひらかれている、私たちはそう信じるように教えられている。私たちは自分の運命を多かれ少なかれコントロールする強い力を発揮することができると信じている。

 東洋的な哲学の影響のもとで育ったひとびとは往々にして、起こったことを受け入れることのみをとおしてひとは自分の置かれた状況をコントロールすることができるようになると教えられている。基本的な考え方は、ひとは外部の世界を変えようとするのではなく、環境に順応して自己を変えるのだというものである。

 スコラロ博士は言った、「この受容と順応の傾向ゆえに、東洋人の苦痛への耐性は西洋人のそれよりもしばしばずっと高くなっていると私たちは考えるようになりました。東洋人は自分の苦痛を感じ、それを避けることのできない現実として受け入れ、それに順応しようと模索していくのです」。

 「西洋人が暴力的に攻撃されたとき、かれはただちに、起こったことを変える方法はまったくないのだということを知ります――かれは被害者になります。問題の事柄についてなんらの選択の余地もありません、いかなるオプションも与えられていません。肉体的および/または精神的な苦痛を避けたり消し去ったりする手段はありません。『もしもお前がそれを好まないのなら、お前はそれを変えることができる(お前がそのために努力するかぎりは)』という西洋の哲学の基本が突如として無効化されます」

 「その結果はしばしば深刻な抑鬱の状態です。そして、この弱った状態のもとで私たちは苦痛への耐性を失います。比較的小さな苦しみでさえも、心理的には顕著な敗北のしるしになります。そしてそれがさらに苦痛を増すのです」

 スコラロ博士とカッペラー博士はペインセンターで、患者にトラウマを受け入れ、それを否定しようとしたり、消し去ろうとするのを止めることを課している。プログラムはあらゆる点で現実指向である。患者は繰り返し、あるがままの現状に向き合わされる。彼らは障害から逃げ去ったり、それらに挑むことを避けたりするのを許されていない。ペインスクールでは甘やかしは認められないのである。患者はこう教えられる、「もしあなたがなにかを好まないのならば、あなたがそれを認識する仕方を変えなくてはいけない、そしてそれから、困難な状況のもとで最善を尽くさなくてはいけない」。言い換えると、焦点は自分自身を変えることによって苦しみを減らす方向へとシフトしているのである。

 既に起こってしまったことを被害者が操作する手段はない。しかしかれは、その出来事がその後のかれを荒廃させる度合いを操作することはできる。リハビリに積極的に取り組み、かれの苦痛にかれの人生を破壊する力を与えることを拒否することによって、かれは勝利を勝ち取ることができるのだ。

 目標設定はペインリハビリテーション・プログラムの重要な一角であり、とりわけ、自分の力で困難な時期を乗り越えていかねばならないひとびとの助けになる。それは、痛みに苦しむ人が学習性無力感を募らせていくことを回避するのにも役立つ。

 痛みのなかにある人が、そこに向かって取り組んでいくべく選ぶことのできる目標は無数に存在する。深刻なダメージを受けた肢の機能を回復することを目標に決めてもよいし、車いすで大学に通うこと、自分の経験についての詩を書くこと、教会やコミュニティーで積極的に活動すること、ボランティア活動をすること、ペットを飼って世話をすること、義足をつけて使いこなすこと、盲導犬とともに生活することでもよい。

 目標を設定し、それに向かって取り組み始めたとき、かれは自分の人生を操る力をある程度回復している。過去を変えることはできない、トラウマを消し去ることはできないということをかれは受け入れる。しかしかれは、その後において自分の心と体を立て直そうと挑戦もするのである。目標設定は自尊心を高める作用をもたらすとともに、苦痛の耐性レベルを高めてくれる。それは意識の焦点を苦痛から遠ざけ、目先の課題へと向かわせるからである。

 バイオフィードバック研究所所長のトゥーミン博士はセラピーへの統合的アプローチを信条とする心理学者である。彼女は疼痛性障害やストレス障害の治療においてバイオフィードバックと、求めがあれば心理療法を活用する。バイオフィードバック研究所における彼女の仕事はさまざまな患者を対象としているが、トゥーミン博士は痛みに苦しむ人、および、襲撃が招いた問題を抱えて彼女のもとを訪れた犯罪被害者とのあいだで多数の経験を積んできている。

 「バイオフィードバックの計器を用いることで、患者は筋肉をリラックスさせたり発作を消散させたりといった自分の努力の結果を、感じるだけではなく見ることが可能になり、体の動かし方を調節することができるようになっていきます」、トゥーミン博士はそう指摘した。

 「バイオフィードバックを適切に用いることで、患者は自分の体を制御しているという感覚を得ることができます。計器自体は、どのテクニックがある個人に最も適しているかを知るために使う、単なる道具です。ひとたび患者が自分にとって最も有益な方法を理解したら、かれは計器の助けなしで実践してもかまいません」

 私が自身の回復期間中に学んだように、被害者の心がトラウマ――事件がもたらした痛みや犯人についてのことなど――に支配されているとき、肉体的、精神的な回復を成し遂げることはなおいっそう困難になる。バイオフィードバックは、自身の緊張の度合いや肉体の機能をリアルタイムで示すグラフに被害者の注意を向けさせることで、まったく新たな視点をかれに与える。被害者は不快で心かき乱される過去ではなく、現在における達成度やポジティブな結果へと意識を集中することができるようになっていくのである。

 トゥーミン博士は説明した、「バイオフィードバックの計器の助けを借りることで、患者は自分がいつ興奮し、あるいは動揺するか、対照的にいつリラックスするかを知ることができるようになる。そうして患者は、私たちがタイピングや水泳やその他のあらゆることを学ぶときとまったく同様に、別の適切な反応を産み出すことができるよう自分の体をトレーニングしていくことができます。ストレスと苦しみをともに減退させる癒しやリラクゼーションのテクニックを活用できるようになります」。

 「適度な運動は、痛みを抱える患者にとって間違いなく非常に有益です」、トゥーミン博士は言った。「バイオフィードバックは、個々の患者にとってどの程度の運動が有益なのかを見定めることの役に立ちます。筋肉がまだ十分に力を取り戻していない時点で急に過度な運動をすると、痙攣状態に陥ります。その結果はなおいっそうの痛みです。もし患者が計器でモニタリングされていたら、はじめはごくゆっくりと体を動かし、徐々に痙攣が引き起こされるぎりぎりの地点まで運動を激しくしていくといったこともできるようになります。そして、自分のストレスのレベルが上昇しつつあるのを計器で確認したら、運動を止め、ストレッチをするか、もしくはあとほんの少しだけ運動を続けるかといった判断をすることができます」

 「肉体的と精神的の両方のレベルで疼痛患者と協働していくことが重要です」、彼女は続けた。「患者が自身のトラウマのことを考えながらもリラックスした状態を保つことができるように私たちが手助けをすると、かれはモニター上に示されている結果を実際に見て、こんなことを言うことができるようになります――ちょっと待って、その話をしているときにぼくの手は冷たくなっていってるね。いったん戻ってもう一度ぼくにやらせてください。その反応を別な風にするためにはなにをすればいいんだろう?どうやったらぼくはそれをコントロールできるのだろう?」

 「したがって本質的に、私たちは自分の体を、恐怖やストレス、痛みを減退させるために用いているのです。そのなかのあるものは単純な行動の修正で、またあるものは、苦しみを減らすために、それについてどのように考えるかを変えていくことです」

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 4/10

 襲撃によって私が患った圧迫神経は、のちに私の首や背中、肩にかなりの痛みとストレスと緊張を引き起こした。不快感を完全になくすことは二度とできないように思われた。今でも私の首と肩は強張りがちである。しょっちゅう私は苦痛をやわらげるために、首を左右に回したり、肩を指の先でマッサージしたりしている。

 トゥーミン博士は私がこれをやっているのに気づき、バイオフィードバックの実演を私にやってみせてくれた。彼女は私を座り心地の良い椅子に座らせて機器を取り出し、私の首と肩の両側に小さなセンサーを取り付けた。機器のスイッチを入れて、トゥーミン博士は私たちが注意して見るべき一角を指し示し、私の体のセンサーを付けられた部位のストレスのレベルを示す数字を私に教えた。予想どおり、それらの部位の緊張のレベルはかなり高かった。

 次いで彼女は、私が緊張をやわらげるためしょっちゅうやっているとおりに首を回してみるようにと私に言った。数値は上昇した。首を回すことはストレスを付加させることをフィードバックははっきりと示していた。トゥーミン博士は頭を前後にゆっくりうごかすようにと私に言った。私はそれを数回行い、ストレスの数値は下がった。私の体が私の動作によってどのような影響を受けるかをこの目でしかと見るのはじつに興味を惹かれることであった。

 次に私は肩のマッサージを試してみた。やっているうちに、私は自分が指で肩を押し上げていることに気がついた。そしてまたしても、私の習慣的な「緊張緩和」法を実践していくにつれて、緊張のレベルは跳ね上がった。

 「う~ん、どうやら私はまったく間違ったことをやっているみたいですね」、私は言った。

 「そうなんです、でもあなたは今まで、そのことに関するいかなる証明も得ていなかったんじゃありませんか?」、彼女は答えた。

 私たちはいくつかの簡単な肩の運動を試してみて、私にとってもっとも有効なのは、肩を押し下げることと、腕を緩やかにぶらぶらさせることだと発見した。

 その次に私たちが行ったのは、私の首と肩の筋肉をリラックスさせるために役立つ視覚化の技術である。最初にトゥーミン博士は、気力がどれほど私の筋肉に影響を与えるものなのかを私に示したいと語った。

 「なにか本当にいやなことを思い浮かべてください」、彼女は言った。

 最初に私の頭に浮かんだ不愉快な考えは、今週私は納税をしなければいけないということだった。痛っ!私は自分の首に疼きを覚え、モニターの数値はゆっくり上昇をはじめた。

 トゥーミン博士は言った、「もっと嫌なことを思い浮かべてください」。

 それで私は、私を刺した男がたった6年の服役で放免になるだろうことを考えた。目をきつく閉じて、私は心のなかで憤った。「忌々しい!まったくフェアじゃない!」。そのとき私はトゥーミン博士がこう言うのを聞いた。「まあ!あなたはなにかにとても怒っていますね。ほら見て!」。

 私は目を開け、ストレスの数値がロケットのごとく跳ね上がっているのを見た。

 「オーケー、それじゃあ」、トゥーミン博士は言った、「なにか素敵なことを考えてみましょう」。

 喜んで私は愛らしい木だとかさらさら流れる小川、草に覆われた斜面などに意識を集中した。数値はほとんど動かなかった。トゥーミン博士は肩をすくめて言った、「もう一度やってみて」。

 私の心象はあまりにも一般的すぎたのではないかと考えて、私は再び目を閉じ、地球上で私がもっとも好きな場所のひとつを思い浮かべた。イタリアはティボリのヴィラ・デステ。私は自分がそこの美観のなかに立っているところをイメージした。美しい噴水、走る水がいたるところにあった。そよ風が私の顔を撫でた。暖かな陽の光が私の頭上に降り注いでいた。天国的だった。

 トゥーミン博士はつぶやいた、「さあ、数値を見てください」。私は目を上げ、ストレスレベルが私の「トラブルゾーン」より少なくとも10ポイントは下がっているのを確認した。私は魅了された。

 「へえ、これは面白いですね」、私は言った。

 「もちろんそうです」、彼女は答えた。「患者はみなこれを気に入ります。あなた自身の力の証をまさに自分の眼前に見ているとき、あなたが無力感なんて感じるのは難しいんじゃないですか?」。

 私はまったく同意した。たった数分のうちに、私は自分にとってなにが有効でなにがそうでないかを見きわめることができた。プロセスはシンプルで楽しく、結果はまったくもって具体的だった。インチキはまったくなかった。モニター上の数値は嘘をつかないのだから!

 前向きな気力は効力を発揮するということの証明を得て、私は素敵な気分になった。襲撃の後に無力感や抑鬱を感じている被害者にとって、バイオフィードバックは素晴らしい治療手段になると私は心から信じている。

 

 「痛みのプロ」との会談で次なる議題にあがったのは、エンドルフィンと、それがいかに痛みの耐性のレベルに影響を及ぼすかについての議論だった。エンドルフィンはオピエート様物質の一種で、人体では中枢神経系において自然に産生される。それは痛みの閾値を高めて鎮静作用と多幸感をもたらす。

 ペインスクールへやって来るおのおのの新たな患者にとってのゴールは、患者の苦しみを低減させるためにエンドルフィンの分泌量を増やすことである。スコラロ、カッペラー両博士は、肉体的トラウマを受けたときおよびその直後に、人は内因性のモルヒネ様化合物を分泌し、急性の痛みや肉体的傷害から個体を守るためにそれを利用すると説明した。痛みの耐性レベルは、したがって大きく上昇する。エンドルフィンとアドレナリンの産生が昂進するとともに、生存を第一の目的とする態勢が整っていく。警戒レベルと素早く判断する能力が大幅に向上する。

 のちになって危機が去ると、大きな変化が生じる。被害者が自分の苦境と苦痛を感じ、この状況は変更不可能だと認識したとき、かれの痛みへの耐性レベルは下がっていく。かれの免疫系すらもストレス状態に陥るだろう。感染症にかかり、自分が「バラバラになった」と感じるかもしれない。眠ることや食べることができなくなるおそれもある。

 病気や怪我はいまや医学的には鎮静状態にある――つまり患者はトラウマによって死ぬことはなく、かれの医学的な状態は制御下にある――にもかかわらず、かれは深刻な痛みを経験しているかもしれない。

 この時点で患者のエンドルフィンはもっとも欠乏した状態にある。かれはよく眠り、よく食べ、通常の性生活を送り、希望や喜びを体験するのに必要な神経化学物質を欠いている。この欠乏状態は深刻な抑鬱を伴う。患者は自分の悲惨さに終わりを見いだせず、まったく報われず、完全に無力だと感じている。こうした状況のもとで、かれの痛みへの耐性ははるかに小さくなっているだろう。

 抑鬱状態は心理学的観点と同程度に、生物学的あるいは神経生物学的な観点からも捉えることができるとカッペラー博士は信じている。「大半の患者はペイン・プログラムに加わった時点でエンドルフィンを十分産生していません」、彼は言った。「そこで、生理学的、医学生物学的、心理学的観点から、私たちは彼らの苦痛を減らすために、彼らのエンドルフィンの量を増やそうと試みているのです。これは多様な方法を駆使して行われます」。

 「患者は肉体的、心理的なリハビリにおいて積極的であること、瞑想をすること、人間の体とその機能について学ぶこと、日々精力的に運動実習に取り組むことを促されます」

 「疼痛患者が動くことを強いられたとき」、トゥーミン博士が意見を差し挟んだ、「ある程度の不快感が生じることが期待されます。そしてそれに対する応答として、体はエンドルフィンの産生を強いられるのです」。

 クリニックのすべての患者は自転車に乗ったり、ランニングマシーンで歩いたり、活発なゲームを行ったりといった活動に参加している。彼らがやっていることはオリンピックの準備と同じくらい重要なことなのだと患者は教えられる。そしてそれは実際にそうなのだ。

 「私たちは患者たちにこう伝えます」、スコラロ博士は言う、「彼らのために開かれている脱出口あるいは窓がある、彼らの苦痛から逃れる道があるのだと。ですがそこに辿り着くために、彼らは肉体面と精神面のリハビリに、関心を持っておおいに励まなくてはいけません」。

 「オピオイドについて私たちが知っていることのひとつは、それが内因性であれ(エンドルフィンのように)、外因性であれ(モルヒネのように)、人はそれらに対して急速に耐性を発達させるということです」

 「天然のオピオイドが作用を発揮するためには、それらに対する受容体を有する神経細胞に付着しなくてはなりません。神経細胞はエンドルフィンにきわめて急速に順応していきます。したがって、エンドルフィンは数時間か数日しか作用せず、そしてそのとき、エンドルフィンの働きにより苦痛を処理する能力はピークを迎えます」

 エンドルフィンの産生過程を理解することは、深刻な慢性的苦痛に生物学的な要因が関わっているという事実を私たちに再認識させる点で重要である。しかし、それとともに私たちは、心理学的介入を積極的に行う方向へ向けても努力していかなくてはならない。

 「疼痛管理において普遍的に認められているもうひとつの因子は集団力学です」、スコラロ博士は言った。「疼痛患者たちは共通の絆を分かち合っています。そしてアルコール中毒者更生会のように、痛みと付き合ってきた自身の個人的体験を基にして、お互い同士で援助や助言を与えあうことができるのです」。

 トゥーミン博士が同意して付け加えた。「痛そうな行動よりも健康そうな行動を強化することが非常に重要です。活発であり健康であることへと向かうすべてのステップは、積極的で熱烈な支持をもって応えられるべきです」。

 「疼痛患者の友人や親類の側の良い反応は、『ああ、そこで寝てなさいよ。お皿を取ってきてあげる』よりもむしろ、『ほら!今日はもう起きなさいよ。キッチンに行ってお皿を取ってきたら?』なのです」

 スコラロ博士は力強く肯いた。「そのとおりです!そして私たちが痛そうな行動よりむしろ健康さに報酬を与えることを始める際、私たちヘルパーは、助けを求めて私たちのところに来るひとびとからの多くの反抗、敵意、怒りを受け止めることができなくてはなりません。彼らの多くは面倒をみてもらえることに慣れ切ってしまっているのです。いま彼らは、自分の苦しみを操り、減らしていくために、まず彼らが自分自身に対して責任を負うようにならねばいけないと知ります。この修正を行うのは彼らにとってかなり難しいことです」。

 「大半の病院では看護師が朝食を持ってきて『さあ、○○さん、今朝の具合はどうですか?』などと言います。ペインスクールの看護師はこう言います――朝食に遅れますよ。急いで!」

 「私たちはすべての患者に、ペインスクールを卒業したらなにがやりたいかを尋ねます。そして私たちは彼らに、生産的な一個人としての将来の仕事について考えるよう強く促します。彼らのすべてが以前行っていた仕事へと復帰できるわけではありません。肢を失ったり、麻痺したり、ひどい障害を負った人もいるわけですから。しかし彼らは自分のための目標を設定することが求められ、それらの目標を追求していくよう励ましを受けるのです」

 「私たちは一日の全体にわたって運動セッションを組み込んでいます。あなたはハンディキャップを負った人がどれだけ肉体的に活発であるかに驚くでしょう。それは体にとっても心にとっても良いことなのです。私たちは『ストレス管理』と呼ばれるグループセッションも行っていて、そこでは患者はあらゆること、いかなることについても話をします。彼らはさまざまなハードルに関してお互いに助け合い、彼らの不安と苦痛に対処する方法を議論します」

 「体そのものについての講義もあります。私たちは患者に肉体についての理解を深めてもらうことに多くの力点を置いています。それがどのように動くのか、神経はどう作用しているのか、といったようなことです。そのメカニズムを把握したとき、体は管理可能なものにみえてくるのです」

 「私たちは日々、『疼痛管理』のセッションを実施します。これはバイオフィードバックや瞑想、筋肉のリラクゼーションをメニューに含みます」

 「誘導イメージ療法や視覚化をとおして、私たちは彼らに筋肉群のおのおのをリラックスさせるやりかたを教えます。これらのセッションの後で患者は劇的な痛みの低下を報告しています。定期的な活動に加えて、必要とする人に対しては適宜医療処置も施されます」

 「7~10日後に、私たちの生徒たちは入院によるプログラム受講の部から卒業し、朝の5時半に自分で起きて、家から私たちが言うところの「出勤」をするパターンへと移ります」

 コースの修了時にどんなことが起きるのか気になった私は、ペインスクールは決して突然の終わりを迎えるわけではないと聞いて興味を覚えた。3カ月のプログラムの後で、患者は彼らがは切に必要としていた強化を与えられている。彼らは驚くべき達成を成し遂げている。スコラロ博士は声高に言った。「奇蹟は起きるのです。私たちは患者に言います――あなたが二度と歩けないという事実を受け入れましょう、しかしあなたの足の状態の改善に向けて出来得るかぎり努力しましょう。医療技術は常に進歩しています。あなたの症状に関わるあらゆる種類のブレイクスルーが間近に迫っているかもしれません!」。 

 「脊髄に損傷を負って、理屈の上では残りの人生で麻痺状態が続くはずの患者を私たちは何人も受け持ってきました。彼らのなかには車を運転できるようになった人も、一人でアパートに住んでいる人もいて、なかには自分の足で再び歩けるようになった人もいます!」

 「コースが終わってしまう時に患者さんは気落ちしていますか?」、私はスコラロ博士に尋ねた。

 「もちろん、そのとおりです」、彼は答えた。「それは私たちのプログラムに参加した患者がコースのメインの部分を完了した際に経験する自然な感情です。しかしそれでまったく終わりというわけでは決してありません。『あなたはプログラムから卒業しました』と私たちは言います。しかし私たちは彼らに、週に一度か二度、公開のミーティングに参加することを薦めます。これは無料です。これらの集会の席で、彼らはプログラムに新たに加わった人たちにも会いますし、私たちとのコンタクトも保たれます」。

 「何年にもわたって」、スコラロ博士は続けた、「プログラムを受ける前の、当初の痛みの状態へとプログラム修了後に戻ってしまう患者の割合はほんの5~10%です。多くの場合彼らは、ペインスクールとのある種のつながりを保っていなかったか、積極的な疼痛管理のテクニックを自ら実践し続けなかった人です。新たなより良い方法を実践し続けていない限り、もとの習慣へと容易に退行してしまうものなのです」。

 スコラロ博士は付け加えた、「ペインセンターが行っているのは、障害を負って非機能的な状態にある人を受け入れ、彼らが十分なリハビリを受けて、『さあ、ドアは開いている。人生が再び始まるんだ!』と言うことができるような地点にまで彼らを導くことです」。

 「痛みを抱える犯罪被害者に対して、あなたはどのような理由を挙げてかれにペインセンターに来ることを薦めますか?」、私はスコラロ博士に聞いた。

 彼は答えた、「犯罪被害者は、かれの痛みと、かれが受けた暴行に対する心の執着の度合いが、健常な生活能力を長期にわたり深刻に損なう、あるいは完全に破壊するほどのものである場合には、私たちが提供しているような包括的な疼痛管理プログラムを検討するべきです」。

 出口はどこにもないと、自分が体験している苦痛は克服しようのないものであると、自分の人生がまったく無意味なものにさせられてしまったと感じている犯罪被害者にとっても、間違いなく希望はあるのだ。ロサンゼルスのペインリハビリテーション・プログラムで、同様の様々な施設で、援助は用意されている。

 心理療法集団療法、運動実習、瞑想、視覚化とリラクゼーションの技法、バイオフィードバック、さらにもっと、ずっと多くの手段が私たちの手のうちにある。

 痛みはひとを傷つける。そしてそれは私たちの人生を破壊し、変貌させてしまいかねない。しかし感謝すべきことに、痛みを緩和する安全で効果的なもろもろの手法が存在する。セラピーは私たちが痛みを克服し、人生の楽しみを再び取り戻す手助けをしてくれる。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 5/10

Forward Thinking(先のことを考える)

 痛みのもっとも不快な側面のひとつは、それが感覚を圧倒してしまう傾向である。それは接着剤のように私たちにくっつき、満たし、滲みわたり、圧迫し、いったん私たちを手中に捉えると、決して私たちを放そうとしないようにみえる。私たちはそれを止めるためにはほとんどなんでも試してみて、私たちの心をしばらくの間でもそれから逸らそうとする。

 痛みに苦しむ多くの人へのインタビューをとおして、私は大多数の人が、各人に特有の方式のforward thinkingによって、少なくともある程度の痛みの低減を体感していることを知った。

 

 暖かな日曜の朝だった。照明デザイナーでエンジニアのニック・オーティスは、ニュー・イングランドの素敵な家でくつろいでいた。ニックは背が高く、頑健で、見栄えのするバツイチの男性で、実年齢の50歳よりずっと若く見えた。彼は自分の機知と、たいていの状況に対応できる彼の能力にいつも誇りを抱いていた。

 呼び鈴が鳴ってニックは出ていき、ドアを開けた。身だしなみのよい、20代くらいの二人の男が玄関先に立っていた。彼らは地元の新聞デイリー・クロニクルで働く者だと説明し、この通りに住むカールソンさんという購読者の自宅を探しているのだと言った。

 そしていきなり、男の一人がニックを玄関口から乱暴に押しのけた。後ろによろけた彼に拳銃が火を噴き、彼の左腕と胸を撃ち抜いた。咄嗟の判断でニックは隣の部屋に駆け込み、古い22口径のリボルバーを取り出した。彼が考えていたのは、反撃すること、自分の生活を守ることだけだった。部屋につうじる玄関口に出て、彼は犯人に向けて発砲したが、すぐに撃ち返された。バン!バン!二発の銃声が響いた。一発は彼の右の肘を砕き、もう一発は右の上腕を貫通した。ニックは撃たれた腕全体の感覚を失った。彼は使い物にならなくなった右手から武器を持ち替えて、左手で至近距離から発砲をはじめた。彼はいまでも犯人の驚きの表情を覚えている。慌てて彼らは逃げ、車で走り去った。

 ニックはなんとかしてドアを閉めると、足をひきずって電話機に辿り着いた。おびただしく流れ落ちる血が電話の数字を覆い隠したので、救急車の電話番号をダイヤルするのに永遠の時がかかるかと思われた。電話をかけ終わった後、かれは壁にもたれかかり、ゆっくりずり落ちていった。感覚が麻痺し、ぼんやりして、彼はそこにうずくまり、上のほうを見ていた。警察が到着した途端、麻痺状態は消え去り、痛みがぶり返してきた。右腕が灼けるようだった。救急隊員がそこに駆け込んできて、すぐさま胸の傷に注意を向けた。しかしもっとも恐ろしい痛みは何発も弾丸を撃ち込まれたニックの右腕から来ていた。

 ニックは泣き叫び、救急隊員に右腕に添え木をあてるか固定するかしてくれるよう懇願した。しかしその時点で、彼らの関心はもっぱらニックの生命を救うことだった。ぼろぼろになった腕を無頓着に何度も押しのけつつ、彼らは胸の応急処置を続け、彼は再び痙攣状態へと追いやられていった。

 間もなくして救急隊員は彼を待機している救急車へと急いで運んでいった。ニックは、救急隊員がその間ずっと彼の右腕をポンポン弾ませながら彼を乗せて駆けていくあいだに、ストレッチャーの上で自分があげた悲鳴を覚えている。痛みからそれほどの大声で叫んだのは、彼の記憶のなかでもはじめてのことだった。

 数分後、救急車は最寄りの外傷センターに到着した。医師たちは必死になってニックの手当を行った。弾丸の一つは腕の下から胸に入り、脊柱を掠めて、心臓からわずか半インチの所を通っていた。もう一つは右の肘を砕いて貫通していた。三つめはニックの右上腕の骨を完全に粉砕し、筋肉と神経の大部分を破壊していた。

 一流の外科医のドクター・ブリンクリーが呼び出された。彼はあまりにも酷くズタズタにされた右腕の切断を提案した。「この腕が今後のあなたの役に立つとは考えにくいのです、オーティスさん」、ドクターは言った。

 しかしニックは拒否した。「絶対にいやだ」、それが彼の唯一の答えだった。

 弾丸の一つがニックの胸腔に留まっていて、彼は内出血を起こしていた。ドクター・ブリンクリーは容態を安定化させるため胸部手術を行うことに決めた。彼はさらに、ニックが切断することを拒否した傷ついた腕の手術にもとりかかることにした。

 何時間も後に、ニックはICUで目を覚ました。彼の胸は内部の損傷を治療するため、外科的に切開されていた。彼の胸にはいま「ジッパー」的な縫合線が付いていた。そして右腕は、肩から手首まで伸びる巨大なギプスにくるまれていた。

 ニックはICUで意識を回復したり失ったりを繰り返しながら、3日間を過ごした。それから彼は一般病棟へ移され、そこで一週間入院していた。彼は大量の薬剤を投与されており、肉体の痛みは誰か別の人間のものであるかのように遠く感じられた。しかし、自分の腕がこの先どうなるのかについてのぞっとするような不安が彼の脳裏にたえずつきまとっていた。たとえ動くとしても、どの程度まで運動能力が回復するのか、だれも分からなかった。神経が死んでいてまったく動かせないということも考えられた。今から90日後にギプスが取り外されるまで、見きわめる手段はまったくなかった。

 撃たれてから10日後、ニック・オーティスは退院した。5日間を両親の家で過ごし、自分の家に戻るのに十分なだけの力を取り戻したと彼が感じるまで、夜も昼も断続的に眠っていた。自宅に戻ってニックが最初にしたことは、自分の血を掃除することだった。それはあの最悪の日を思い起こさせる陰鬱な目印となって、至るところにこびりついていた。そこで、自分自身の家で、彼の試練がもたらす最大の衝撃がついに彼を襲うのだ。来たるべき月日に備えて、彼は自分の気持ちを引き締めた、自分がこれから痛みや疲弊や抑鬱と闘っていかねばならないことを覚悟しながら。

 その襲撃はニックが瀕死の傷とトラウマを負った最初の機会ではなかった。1974年に、テレビ番組『名探偵ジョーンズ』で照明技術を担当していたとき、彼が歩いていていた足場が崩壊したことがあった。ニックはコンクリートの地面に落下し、脊髄を酷く痛めた。椎間板破裂のため、医師は麻痺が生じることを懸念した。1975年、そして再び1976年に、ニックは脊髄の手術を受けた。

 デリケートな手術はその代償をもたらした。二度目の手術の後、ニックは頭部と背中に慢性の痛みを抱え込むことになった。それは厳しく、容赦なく、休みない痛みだった。彼はその痛みを、もはやこれ以上我慢できないと感じるまでのあいだ、2年にわたって耐え忍んだ。ニックの手術医は、彼を一年間受け持っていた精神科医を相談役として薦めた。ニックはセラピーを有益だと感じたものの、痛みは彼を苛み続けた。最終的に精神科医は、ニックにセント・ヴィンセント病院のペイン・リハビリテーション・プログラムを紹介した。

 ニックは今こう言っている、犯罪被害者であれほかの誰かであれ、自分がもはや万策尽きたと思ったときは、包括的なペイン・プログラムを受けてみることを断固としてお薦めすると。「あなたがそれなりの期間、自分の力で痛みに対処しようと努力してきて、あなたの最善の努力にもかかわらず、なおも慢性かつ制御不能の痛みに悩まされているときは」、ニックは言う、「そのときは専門家の助けを求める時だ」。

 撃たれた後ニックが自宅に戻ってから、彼の肉体に感覚が戻ってきた。彼のあらゆる部分が痛み、強張り、腫れあがった。彼は痛みを感じることなしに動くことがまったくできなかったので、動かずにじっとし続けていた。

 「自分の体の痛みの大半が、体がそれまで経験してきたストレスとトラウマから来ているものだということを私は基本的に知っていたんです」、ニックは最近私にそう語った。「そしてその一部はあのいっさいの麻酔だとか投薬に対する反応でした。だが幸運にも、私はそれらの大半が一過性のものだと認識していたんです」。

 「自分がその時、おぞましい、苦痛に満ちた現実のなかにいることは分かっていました。でもありがたいことに、私の腕と手以外の私の体は回復の途上にあった。それで私は、私の痛みの大半が消え去っている未来を心に思い描きながら、多くの時を過ごしていたんです」

 「ペインスクールで取り組んでいた視覚化の技術と目標設定を思い出して、私はそれを再び活用することにしました。私は自分のために短期の目標を設定したんです、14日かそこらぐらいまでの範囲のね。私は自分が痛みを感じずに歩き回り、動いているメンタルイメージをつくりあげて、私はそれが出来ると誓った。心の目のなかで、私は自分がベッドから起き上がり、家の外を散歩して、新鮮な空気を楽しみ、近所の人たちに話しかけ、スーパーで買い物したり、といった様子を見ていました」

 「私がそう考えるようになってから一週間以内に、痛みの多くは衰えてきました。自宅に帰ってから僅か9日後に、私は最初の散歩に出かけました。もちろん、私はまだ敏感で、ちょっと震えていたけれども、酷い苦しみは感じませんでした。歩き回る適度な運動は治療の効果がありました。そして正直に言うと、私は無力な状態に飽きていたんです」

 ニックの体の大部分の痛みや疼きはかなりの短期間で退いていったが、自分の腕が動くようになるかどうかをめぐる心理的な苦悩は彼を苛んでいた。

 ニックは続く3カ月を、彼の腕からギプスが取り外される日へと思いを馳せながら、肉体的と精神的の両方の力を鍛えていくことに費やしていた。彼は常に腕が動いているところを想像した。欝や恐怖が彼を呑み尽くさんとして脅かしたとき、ニックは反撃に出て、彼の心をもっぱら未来へと指し向けた――自分の腕は動く、それは機能する、それはやがて治癒すると。

 90日が経過したとき、ニックのギプスはついに取り外された。腕は完全に死んでいた――まったくなんの動きもなかった。彼の肘は木のようで、ギプスによって曲げられていた状態のまま堅く硬直していた。ニックは青ざめ弛んだ腕を、他人のもののように見つめていた。

 それからの数週間、ニックは 絶望状態へは沈み込むまいとして必死に戦っていた。幸い彼はドクターを信頼しており、手術が役に立つかもしれないという希望を持ち続けることができた。

 一カ月後、試験的な手術が行われた。手術医はニックの腕の上部を開き、形成されていたカルシウムの袖状のもの――砕けた骨を保護するための自然な生体反応――から神経を掘り出した。彼らは弾丸も除去した。

 手首はぐにゃりと垂れ下がり、手は完全に麻痺していたものの、ニックは理学療法に全力で取り組み、ゆっくりと肘の僅かな運動能力を回復した。そして突然、あらゆる改善が止まった。

 しかしニックはペインスクールで、神経の再生にはしばしば18カ月かそれ以上かかることを学んでいた。これを知っていたことは、彼がセラピーを継続するうえでの支えになった。

 ニックは敗北を認めることを拒否した。傷ついた筋肉と腱は彼の手に、一般に「下垂手」と呼ばれる曲がった状態を引き起こした。それでも彼は筋肉に働きかけ、それらを動かそうと試み続けた。ニックがなにをやっているときでも、もしも手が自由だったら、彼はあの手この手をつかってそれになんらかの運動をさせようとしていた。彼は自分が釘を打つ、バットを振っている、テニスをしている、電灯を吊るしている、材木を割っているなどの、彼が以前にやっていたあらゆる動作をイメージし、再び彼がそれをやると固く心に信じた。

 襲撃から一年半後のある晩、ニックがテレビを観ながら手を動かそうとしていたとき、それまでまったく死んだようだった手首が上に動いた。彼はほとんど信じられなかった。腕にはまったく力がなかったが、少なくとも僅かな動きは生じたのだ。彼は手と手首を動かす試みをいっそう熱心にやりはじめた。

 ニックはさらなる手術を受けた。医師らは彼の手の先の神経を補助させるべく、手の基部から神経を移植した。

 この手術の後、ニックはほとんどの人間が体験することのない、痛みとのまったく新たな関係を発達させた。彼は現実に痛みを待ち遠しく思った、それを感じることを望んだのである。痛めば痛むほど、良くなったしるしだからである。

 数週間のうちに、軽度の疼きがニックの腕にひろがってきた。神経伝達が働いているたしかな証である。そしてとうとう、腕が痛みだした――本当に痛んだ。ニックに関するかぎり、これは怪我の功名だった。

 最近ニックはさらなる手術を受けた。いま、痛みがその腕や手を蹴り上げるたび、ニックはそれを愛でる。時として彼は、チクチクとした、燃えるような痛みを感じることがある。それは明らかに不快な感覚だが、ニック・オーティスにとっては天国のように感じられる。「とっても気持ちよく痛むよ」、ニックは今日そう言っている。

 「ペインスクールでの体験を経てきたことは私にとってラッキーでした」、ニックは言った。「そこのスタッフは私にかけがえのない教えを授けてくれました。もしも人がおのれの痛みや無力に拘泥していたら、その人の人生は痛みと無力に帰着する。私がいま感じている、痛みと対処するためのひとつの方法は、状況を一過性のものと考えることです。一生懸命取り組んでいれば、いつかこのいっさいから脱け出ることができることを私は知っています」。

 たとえごく限られた腕の使い方しかできないとしても、自分ができることに集中することが有益なのだとニックは気がついている。

 「何カ月もの熱心なセラピーの末に、私はついに右手で字を書くことができるようになりました」、最近ニックはそう言った。「手はちょっと震えているけれど、でもできたのです」。

 「あなたの秘訣はなんですか?あなたが考えていることは、あなたが再び健常な動作ができるようになることの助けになっていると思いますか?」、最後の質問として私は尋ねた。

 「そうですね」、彼は答えた、「私はかつてそうだったのとまったく同じ、頑健で、力強く、活発な、自分の手のメンタルイメージを保ち続けています。そして私は、再び釘を打ち、のこぎりを使うといったような、自分がかつて行っていたあらゆる物理的な動作ができるようになっている未来の時を思い描きます。私が頭のなかに抱いているイメージは損なわれた腕ではなく健康な腕のイメージです。自分の手であらゆる種類の事柄をやっているところを、心のなかで視覚化します。視覚化は必須です。より健康になっている未来をイメージすることもね」。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 6/10

Forward Thinking(先のことを考える)

 成功を収めたマイアミの弁護士のイーディス・バーゼイは、活力あり、自立心に富んだ、たたき上げの女性である。35歳にして、彼女はこの分野でもっとも尊敬を集めている人物のひとりである。創造的にして雄弁、鋭いウィットとゆるぎない楽観主義を具え、彼女は真に責任感の強い人である。

 それほど遠くない以前にイーディスは、ショッキングであると同時に苦痛に満ちた刺傷被害を生き抜いてきた。イーディスは、いま23歳のウィリー・オルシーニと、彼がほんの子供の頃からの知りあいだった。イーディスの親友イヴォンヌの息子のウィリーは常に問題児だった。しかし彼はイーディスを彼の友人にして相談相手だと考えていて、しばしば彼女にアドバイスや援助を仰いでいた。

 成長するにつれてウィリーの抱える問題は深刻さを増し、彼のふるまいはいっそう暴力的、強迫的になっていった。彼は精神病院への入退院を繰り返し、ここ数年は暴力事件も含むさまざまな犯罪で逮捕されていた。

 1984年11月、ウィリーはイーディスの家に押し入り、貴重品をいくつも盗み出した。イーディスが彼のやったことでウィリーを問い詰めたとき、彼は激怒して、もし警察を呼んだら彼女を殺すと言って脅した。このところのウィリーの威嚇的で無分別な行動から判断して、彼が殺人を犯すことは十分にあり得るとイーディスは感じた。

 彼女は警察を呼び、ウィリーは窃盗で逮捕された。収監される際、ウィリーはイーディスに何度も電話をかけ、彼女を殺すとまたも脅していた。彼は大真面目で言っているのだと彼女は分かっていた。

 ウィリーから受けた脅迫のことを彼女は当局に報告した。だが数日後、彼の暴行と精神疾患の記録、そして進行中の電話による脅しにもかかわらず、ウィリーは自己誓約によって保釈された。

 11月20日、仕事を終えたイーディスは、彼女が自分のために買った、静かな海辺の集落の小さな心地よい家に帰宅した。彼女は家に入り、寝室へと階段をのぼっていった。

 ウィリーは大きな肉切り包丁を振りかざして彼女に襲いかかった。揉み合いになり、彼女は彼を床に押しつけ、腕に思いきり噛みつき、持てるかぎりの力で彼と格闘した。ウィリーは腕を振りほどき、彼女は階下へ駆け下りていった。彼は彼女のすぐ後を追いかけ、力づくでイーディスの脇に刃を突き刺した。

 苦悶のうちに彼女はナイフを体から引き抜き、玄関から走り出て叫んだ。「助けて!助けて!刺されたの」。それから彼女は家の私道で気を失った。数秒後にウィリーが彼女の横を走りすぎ、そのまま逃げていった。

 近所の住人が助けに駆け寄ってきた。警察と救急車が到着したとき、イーディスは意識を取り戻した。救急隊員は彼女の体の中ほどを、身をよじるほどきつい止血帯で締め付けた。傷と止血帯の圧迫の両方から来る痛みは耐え難かった。血が噴き出ていた。イーディスは恐ろしい悪夢のなかに囚われているかのように感じた。

 灼けつくような痛みはなおいっそう激しさを増した。救急車で運ばれていくあいだじゅう、彼女は眠りに落ちようとしていた。そのたびに救急隊員が彼女を揺さぶり起こし、名前を呼んだ。完全な意識の回復は、そのつどより強い痛みと向き合うことを意味した。彼女は何度も「私は死ぬの?」と聞き、彼らはすぐに、しかし自信なさげに「いいえ」と答えた。

 救急治療室でイーディスの手術の準備が行われた。止血帯の猛烈な圧迫感が彼女を狂わさんばかりだった。彼女はそれが彼女を押しつぶして死に至らしめるのではないかと感じていた。ようやく彼女は手術室に運び込まれ、十分な麻酔薬が彼女に送り込まれた。感謝とともに、彼女は無意識へと滑り落ちていった。

 イーディスがICUで目を覚ましたとき、彼女はぼんやりとして状況がよく分からなかった。そのとき彼女の脇に激しい痛みが襲いかかり、何が起きたのかを彼女に思い出させた。喉へと挿入されたチューブのためしゃべることができず、彼女はうめいた。優しい若い看護師がベッド脇に来てイーディスにメモ帳を手渡し、鉛筆を持たせてくれた。おかしな話だが、イーディスが最初に書いたことは、彼女のクライアントの一人についての覚え書きだった。

 看護師はメモ帳に視線を落とし、イーディスのことを「ミラクル・ガール」と呼んだ。彼女はイーディスに、彼女の肺が刺し貫かれ、肝臓の一部が切断されていたのだと報せた。「すごいことですよ!」、彼女は大声で言った。「あなたは50単位も輸血を受けたんですから」。

 彼女は口をぽかんと開けて看護師を見つめていた。

 「でもあなたはいま良い具合ですよ、本当に」、若い看護師が言った。「心配しないでください。私たちがあなたのケアをしていきます。全然大丈夫ですからね」。イーディスは安心して、睡眠剤の誘う浅い眠りへといつの間にか落ちていった。

 数分後、イーディスの知らないところで、医師たちは彼女の親友に、彼女の生存確率はわずか2%だと伝えていた。彼らは彼女がまだ生きていて、昏睡状態にも陥っていないことに驚いていた。傷の状態はきわめて深刻で、合併症のリスクは非常に高いと医師は言った。

 しかし、襲撃を受けた週の終わりまでに、医師はかれらの予測を5%に改めた。その後、彼らはイーディスが逆境に打ち勝ったことを認めた。

 彼女の最初の数日間は、痛みと眠り、痛みと眠りの繰り返しで埋まっていた。訪問者が次々に来ては去っていったが、イーディスは彼らのことをほとんど意識していなかった。彼女が考えていたのは、次の鎮痛剤の投与までを乗り切ることと、自分の身の安全だけだった。襲撃後の日々に、イーディスはまだ捕まっていないウィリーが、この病院にいる彼女を見つけ出し、彼がやろうとしていたことを完遂させるのではないかと恐れていた。

 彼女にはさらなる懸念があった。ウィリーの母で彼女の親友のイヴォンヌ・オルシーニのことである。イーディスはもう一人の親友のゾーイに、事件は彼女のせいでなく、イーディスは今でも彼女の友人だと電話で伝えて、彼女を安心させてあげてほしいと頼んだ。

 ゾーイが訪れたときはいつでも、ウィリーは見つかったかとイーディスは聞いた。「まだだ」という言葉を聞くたびに、イーディスの全身を恐怖の発作が襲った。5日後ついに彼が捕まった。イーディスの気分は落ち着きを増した。当局は、ウィリーが保釈金を払って出てくることはないだろうと保証してくれた。

 イーディスは容態の改善に向けて集中することができるようになった。きわめて独立心の高い女性として、彼女は自分の体がいろいろな機械につながれた状態にあるのを嫌悪していた。そして、もっとも単純な作業すら意のままに行えないことが彼女を腹立たしくさせていた。

 最近になってイーディスは私に言った。「私が直面していた肉体的苦痛は、それまで経験したことのないものでした。私は自分の心のなかに、I’m in pain, I’m in painとひっきりなしに金切り声をあげているレコード盤があって、レコードの針が同じ位置で空回りを続けているかのように感じていました。私はなんとかして空回りを止めてやらないと、おかしくなってしまうと思っていました」。

 「私が本当に痛みに苦しんでいて」、彼女は続けた、「痛い痛いを連呼しているレコードが頭のなかで空回りを続けているとき、私は自分の考えを私が持っている良いものや良いことに向けようと努めていました。法律の分野での輝かしいキャリアだとか、素敵な友人、私の愛する馬、申し分ない社会生活のことなど。私はこのまともじゃない事件とそれが招いたきびしい肉体的苦痛に、私が懸命に努力して築き上げてきたすべてのものをぶち壊しにさせることを許したくはなかった。私は最悪の時期をくぐり抜けているところで、私は弱々しい哀れな負け犬じゃなくて勝者なんだと、数え切れない回数、自分に言い聞かせていました」。

 「私が自分自身のためにやった唯一無二のもっとも大切なことは」、彼女は断固とした口調で言った、「自分の考えを現在のみじめな現実から可能なかぎり遠くに向けることでした」。

 「私はその殺風景な病院の中にだけは居たくなかった。私は痛みに苛まれているのだけはいやだった。それで私は、自分がこれから経験するつもりの人生について考え続けました。私が会うつもりのひとびと、私が感じようと思っているこのうえない肉体的な安楽。私は自分が強い女性であることは常々知っています、そして私が回復するだろうということも分かっていました。私は未来の視点から自分のことを考えようとしました。私は、健康である/病んでいない、快適である/痛みを感じていない、強い/弱くない自分をイメージしました」

 「私は少なくとも自分の直面する問題に関しては、正反対のことを考えるよう自分に課していました。もしも私が不快さを感じたら、私は静かにこう考える、『イーディス、もうすぐあなたは素晴らしい気分を感じるよ』。もしも筋肉がこわばり痙攣したら、『もうすぐ筋肉はリラックスして落ち着いた状態になるよ』と考える。私は現在の苦痛を自分に経験はさせましたが、それを永続するものと考えることは許しませんでした」

 イーディスは自分自身に、どれだけ痛んだとしても痛みは一過性のものだと絶えず言い聞かせていた。ありがたいことに医師たちは彼女がすみやかで着実な改善に向かっていることを彼女に伝えた。

 愛する我が家に帰宅したときのことと、彼女が秀でている仕事のことを考える、それが彼女の心をその瞬間の苦痛と恐怖から引き離し、健康で、痛みから解放された未来へと焦点を定め直すことにつながっていくのを彼女は発見した。 

 「実際のところ、痛みに対してあなたができることは、それを受け入れること、それを耐え忍ぶこと、それを和らげるために薬を恵んでもらうことのほかにはさほど多くありません」、イーディスは話した。「でもあなたの心を単調で退屈な病院暮らしから遥か遠く隔たったどこかに置くことは、本当に役に立ちます」。

 「もちろん」、今振り返ってイーディスは言う、「私はそこに横たわってこんなことばかり繰り返し考えていることだってできたのです――私はいつも親切にしていた親友の子供に刺された。私の肝臓の一部は失われた。私は一生消えない傷を負った。私はおそらくさらなる手術が必要だ。私の医療費は天文学的数字になる。フェアなことはなにひとつない。私は苦悩の只中にある。私は死にたい…。そしてこれらはすべて真実です。でもこれらのおぞましい考えがどこへ私を連れていってくれるっていうんでしょうか?私はいっそう思い悩み、いっそうふさぎ込み、いっそう傷つくでしょう。ですから、私の心がそんな陰鬱な方向へ向かっているのに気づいたときは、前を見続けようと自分に言い聞かせたのです。私が置かれているみじめな状態にあって、物事がこれから改善へと向かっていくことはまず間違いないだろうと私は思っていました」。

 イーディスが心を集中させたもっとも大切な事柄は、家に帰ることだった。彼女は愛する犬と2匹の猫のことを何時間も心に思い描き、パチパチと爆ぜる心地よい暖炉のそばであたたかなベルベットの長椅子に丸くなって座っていたらどんな具合だろうとイメージした。彼女は友人のゾーイに頼んで、お気に入りの柔らかい、ハート形をした枕とダウンのかけ布団を病院に持ってきてもらい、これらの使い慣れた寝具の存在に彼女は心を落ち着かせた。眠るときも、彼女は居心地の良い小さな自分の家に再び戻っているところを夢みていた。彼女らしいウイットでイーディスはこう言っている。「私はオズの魔法使いのドロシーみたいな気分でした。私が言うこと、考えること、それに夢みることといったら、『おうちが一番!おうちが一番!』、それだけでしたから」。

 「私はよく自分の考えを、非常に具体的な未来の一点に向けていました。例えば、私があの狭くて檻みたいな病院で眠れなかったときは、こんな風に考えていました――10日以内に私は自分の家のベッドに横になっているだろう、脇にいてすり寄ってくる犬や猫といっしょに。そんな想像は私をリラックスさせ、ちょっと一休みさせてくれました。なぜなら、私は終わりを間近に見たからです。私が退院後の出来事や状況を思い浮かべたとき、私は、少なくとも自分の心のなかでは、現実の生活に戻りつつあったのです」

 ほかの傷に加えて、彼女は圧迫神経を患っていた。そのため、彼女は首と肩に絶えず痛みを感じていた。看護師があまり忙しくないとき、かれらは痛みを和らげるためのマッサージをしてくれた。

 彼女の友人のゾーイが名案を思いついた。彼女は近所のヘルスクラブに行って、プロのマッサージを4回受けられるカードを購入した。イーディスの体がとりわけ強張って痛んでいたある日、ゾーイは彼女にカードをプレゼントした。イーディスは笑って友だちを抱きしめた。続く数週間に彼女は、自分の痛む背中を巧みに揉みほぐしリラックスさせていく指圧師の指を実際に感じることができるくらい熱心に、体の奥にまで届く心地よいマッサージのことを想像し続けていた。

 「私はどんな指圧師も私の期待には応えられないくらいのレベルまで、そのマッサージをめぐって夢想を繰り広げてましたね」、イーディスは打ち明けた。「最終的に私はカードを使うことができたんですが、プロの方たちの技より、私を揉みしだいていた看護師の何人かのほうが上手で気が効いているってことを私は発見しました。でもあの想像上のマッサージは最高でしたよ!」。

 彼女は法律家としての職務を愛していた。そこで彼女は、仕事に復帰している自分をイメージし、そのプランを立てることに時を費やした。彼女は自分の同僚とクライアントをともに恋しく思った。

 それができそうだとイーディスが感じるやいなや、彼女はパートナーに頼んでオフィスから書類をいくらか持ってこさせた。彼女は電話で今後の仕事に関しても取り組んだ。彼女は昔からのクライアントに電話して自分の容態を報せ、電話口で相談にも応えた。

 「病院で仕事をしているとき、大きな痛みは滅多に感じませんでした。私の仕事の多くは電話でのやりとりでしたし。もちろん、私は時おり薬のせいでちょっとぼんやりしたり忘れっぽくなることもありました。でも私がすることのできた仕事の時間は、私にとってもまたとない薬でした」

 心の目のなかで、イーディスは彼女の法律事務所を思い描いていた。それを眺めていくなかで彼女は、事務所のなかを模様替えしてみようと心に決めた。座して待つタイプの人間でなかったイーディスは、近所の内装業者を病院に呼び寄せた。彼は建材の見本と数々のアイディアを携えてやって来た。彼女はいくつかを選んで、さらなるスケッチとアイディアを求めた。イーディスが仕事に復帰した頃までに、内装業者は事務所の改装をほとんど終えていた。

 いま彼女は、明るく、美しい、ウルトラモダンな事務所で仕事をしている。「私は数ヵ月くらいかけて事務所を改装したいとずっと思っていたんですが、単純に時間がなかったんです」、イーディスは言った。「それで、病院で寝ているあいだに、私は建材や色を選んだり、アイディアを求めて雑誌を見たりといったことに多くのエネルギーを注ぎこんでいました。私はただ単に未来のことを思っていただけではなくて、実際になにかをしていたんです。そして私は大きな間違いを犯したりはしませんでした。私はオフィスの見栄えをいま本当に気に入っています。私のクライアントがオフィスの装飾を褒めてくれたとき、私はときどき彼らにことの経緯をちょっとばかり話してみることがあります。彼らはたいてい面白がって聞いてくれますよ」。

 医師が痛みを伴う不快な医療処置をイーディスに施しているとき、彼女は自分の頭のなかをいま現在から脱出させることに最善を尽くした。彼女は手作りの宝石が好きで、職工の友だちが細工してくれた美しくエキゾチックな宝石のいくつかを自分が手にしているところを夢みてみるのだった。

 「それは相当奇怪なことでしたけどね」、彼女は思い出して言う。「その間ドクターは、排液チューブを私の胸に差し入れたり引き抜いたりしているんです。いっぽう私はそこに横たわっていて、頭のなかにはおしゃれな宝石ベルトだとか、おしゃれじゃないダサいブレスレットだとかの考えを飛び回らせているんです。でも、厳しくつらい現実に意識を集中させているのに比べればどんなことだってマシでした。これらの単純な心のイメージは痛みを止めてはくれませんでした。ですが少なくとも気散じにはなりました」。

 イーディスは医師をどうにか説得して、3週間後にはもう退院した。それは彼女の傷の程度を考えれば著しく短い入院期間であった。

 「あの事件とその後の回復期は悪夢のようでした」、イーディスは私に語った。「痛みと恐怖とフラストレーションが相まって、私を地獄にいるような気分にさせました。でも私は、あれほどまでに死へと近づいたことで、人生についてのずっと深い理解を得ることもできました。私は自分が相当なラッキー・ガールなのだと気がつきました。私は仕事のキャリアの上での成功を謳歌し、経済的にも恵まれていて、素敵な家があって、私のことを愛してくれる友だちがいる。誰もが立ち止まって自分の人生をじっくり振り返る機会をもてるわけではありません。私はそれをすることができました。そして私は、つらい回復期間中に私がすがっていた夢想の数々は、単に私がそれまでずっと送ってきた現実の日々の暮らしを思っていただけのことだったと気づきました。それらは苦難の時期をとおして私を支え続け、そしていま私は、あの夢のような、心地よい、痛みとはほとんど無縁の日々を実際に生きています。私はただ、今日ここにいるということだけでラッキーだと感じている、そう私は正直に言うことができます」。

 多くの犯罪被害者と話してきて、私は彼らの大半が、より良い未来に意識を集中し、それに向かって計画を立てていくことによって、おぞましく、御しがたく、苦痛に苛まれる現在からのある程度の救いを見いだしていることを確信した。単純だって?そのとおり。しかしきわめて、きわめて効果的なのだ。

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ほかのひとに手を差し伸べる

 襲撃からほどなくして私は、自分の体につけられた傷から完全に自由になることは二度とないだろうという厳しい現実の認識と向き合うことになった。しかし私は残りの人生を、あのおぞましい一日の記憶を呼び覚ます、凄惨な眺めの、やみくもに刻み込まれた、三日月のような形の傷跡とともに生きていくことを受け入れはしなかった。

 そこで事件から半年後に、私はナイフの傷跡を、滑らかでか細くて目立たない手術跡に置き換える整形手術を模索しはじめた。ロスに住んでいることは大きなボーナスだった。美容整形外科医は至るところにいた。私は妹のマリアを引き連れて、整形外科医めぐりに出かけた――ビバリーヒルズ、エンシノ、シャーマンオークス、サンタモニカ、ハリウッド、そしてさらに遠く。私は1ダースを越える人数の、この分野でもっともすぐれた専門家に相談をした。やがて私は、信頼する友人が強く薦めていたドクター・ハロルド・クラビンに決めた。クラビン先生は若いが非常に評判が良く、私は彼の考え方が気に入った。私の体のひとつひとつの傷跡を残さず治したいという私の心理的欲求を、彼は完全に理解してくれた。彼は私に対して単刀直入で率直だった――顕著な改善はみられるだろう、しかし彼は魔法使いではない、傷跡は簡単には消えてなくならない。

 傷は私の体の非常に多くの部位にひろがっていたので、クラビン先生は最初は脚、次いで胸といった具合に、ある程度の期間をかけて施術を行うことを薦めた。しかし私はすべてをいっぺんにやりたいと思っているのだということを、クラビン先生に納得させた。私はこれらの憎むべき傷跡とともにじゅうぶんに長いあいだ生きてきた。私はそれらのおのおのを可能なかぎり早く治したかったのだ。そうした大がかりな手術はおそらく千針を超える縫合を伴うだろうとクラビン先生は警告した。しかし私はそれを行うことを決意した。

 検査のあいだに、私は自分の最初の手術医であるスタイン先生にもうすぐ行われる手術のことを話した。彼は、最初の胸部外科手術に際して私の胸骨を留めるために用いた針金を、私が手術を受けているあいだに取り除くことができるだろうと言った。私の頭に最初に浮かんだ考えは「さらなる苦痛」だったが、私が口にしたのは「ついでだからやっときましょう」の一言だけだった。ここ最近、私の胸の針金は突出しはじめていた。胸にできた小さなこぶのような隆起は、じっさい非常に変な見た目と違和感をもたらしていたのだ。

 1983年1月5日、私は再びシーダーズ・サイナイの入院患者になった。母が付き添いのためニューヨークから飛んできた。彼女が病院で寝泊りできるように、簡易ベッドが私の病室に運び込まれた。私は手術を控えて神経質にはなっていたけれども、同時に高揚した気分も感じていた。私は長いことこれを待ち望んでいたのだ。

 その日の朝、強い手術前鎮静剤が私に投与された。

 私は心地よくハイになり、いたずらっぽい気分になった。手術室へと台車で運ばれていくとき、私はこんなジョークを言って母を不安にさせた、「ママ、もしうまくいかなかったら、私のためにピンクの棺桶とピンクの薔薇を用意してね」。

 スタイン先生が私の胸を再び開いて針金を除去した。それからクラビン先生が仕事に取りかかった。何時間もかけて彼は辛抱強く私の体の傷のひとつひとつを切開し、修正し、再縫合していった。

 彼の見積もりは正しかった。手術には、体の外側と内側に千針を越える縫合が必要となった。

 目を覚ましたとき、最初に私の心に飛び込んできた言葉は「痛み」だった。私の肌に火がついていた!新たに切開され、縫い合わされたばかりの傷という傷が燃え上っているかのように感じられた。私の腕、私の足、私の上体、そしてもっとも酷いのは、私の胸。

 私は自分の哀れなうめき声を聞いた。「ああ神様、こんなのもう耐えられない、とても我慢できない」。涙が顔を流れ落ちた。これほど言いようのない苦悶を感じたのは久しぶりだった。過去に味わった恐怖といま現在味わっている痛みとが私を席巻し、私はひたすら泣き続けた。

 いつものように私の母が救いの手を差し伸べた。彼女は急いで助けを求め、キビキビした有能そうな看護師が私にデメロールを注射した。私はこの強力な薬とは何ヶ月もご無沙汰だった。私はすぐに――むしろ心地よい気分で――デメロールの雲の上を漂っていた。

 私はデメロールでふわふわしながら、私のお気に入りのもうひとつの鎮痛剤の力も借りることにした――電話である。ゆっくりと私は、その当時Victims for Victimsの副理事長だったアイリス・ウィソーンの番号を回した。団体が発足してからその時点でやっと2ヶ月といったところだったが、メディアの露出をとおして、われわれはロスの市民のあいだでにわかに注目を集めていた。助けを求める人たち、そして助けを必要としている人たちからの電話が殺到していた。私も既にピアカウンセラーとして1ダースを上回る人数の被害者の相談に乗り、さらに多くが順番待ちをしていた。10人のボランティアが、危機介入の方法を学ぶ訓練を受けようとしているところだった。

 私たちは巣立ちしたばかりの団体だったが、事態は既に翼を羽ばたかせて飛び回っていた。

 私はそこに横たわり、すっかり慣れ親しんだ病院仕様の受話器を抱きかかえて、コンタクトを取ろうとしていた。パシフィック・ベル経由で私は手を差し伸ばし、アイリスの電話が1回、2回、3回鳴った。私がフラストレーションで受話器を置こうとしたまさにその時アイリスが、息を切らせてちょっとむっとした様子で電話口に出た。「どちら様?」、彼女は言った。

 「私よ!あなたのお気に入りの犯罪被害者」

 「テレサ?あなたは手術中なんじゃなかったの?」

 「ええ――そうだった。いま終わったところ。なにか変わったことはなかった?」

 「信じられないわ。ちょうどいまあなたのところへ行こうとしてたの」

 「まあ、来てよ来てよ!」

 「いまから行く」

 アイリスが着いたときには私はぐっすり寝入っていた。彼女は座って母と話し、母は私が眠りに落ちる直前に語っていたことを繰り返した――Victims for Victimsの仕事を続け、この病室でクライアントに会いたいという私の考えを。

 アイリスと母は多少心配していた。活動的であることと、クレージーであることとは別のことだった。彼らはともに、私が起きたときにはさっき言っていた話の内容を忘れていることを望んだ。

 アイリスと私は団体の初の公開ミーティングの直後にチームを組んだ。彼女は私たちのグループに関心を持っていた心理学者の夫、ハワードとともにやって来た。アイリスは犯罪被害者ではなかったが、最近、身体機能を奪う発作の症状を長期にわたって経験していた。苦痛や疎外感、孤独を味わうのがどういうことか、彼女は分かっていた。彼女は鬼神のごとくに働いた。彼女なくして私は、自分のたちあげた団体をこれほど速やかに軌道に乗せることはできなかっただろう。私の整形手術の日は彼女と知り合ってからまだ7週めだったが、私たちは既に強固な友情で結ばれていた。

 私が次に目を覚ましたとき、痛みはまた戻ってきたが、鈍いうなり声ほどのレベルだった。そして次の「注射時間」が訪れるまでにはまだあと2時間ほどの間があった。そこで私はアイリスに、スケジュール帳を取り出して次週の予定を立てる手伝いをしてくれるように頼んだ。アイリスは言った、「テレサ、あなたは少なくとも一週間はここに入院してるんでしょう。あなたは休まなくちゃ。体が痛くはないの?」。

 「ええ痛いわ」、私は答えた。「じっさい私は、ここに横になって一日じゅうそのことばかり考えているとおかしくなりそうなの」。

 アイリスは母と顔を見合わせ、「たぶんテレサはいちばんよいやり方を知っている」と母が言った。ため息をついてアイリスは同意し、カレンダーを取り出した。

 私たちはさまざまな会合や活動の依頼のリストをじっくり眺めた。やるべきことがじつにたくさんあった!アイリスと私が優先順位を決めてスケジュールを組み立てていくあいだに、痛みは着実に悪化していった。私の額に汗の玉が浮かんだ。しかし私はじっと我慢し、お茶などをすすりつつ、目の前の作業に取り組み続けた。ようやくすべての差し迫った事案が決まり、ひとまずここで終わりにしようということになった。私のナイトガウンは汗でびしょびしょだった。時計を見ると、次の鎮痛剤投与はなお一時間先だった。

 私はできあがった日程表に視線を落とした。そのなかには次の項目が含まれていた。

 

  1. われわれの5人からなる運営委員会は、明日の晩にシーダーズの私の病室で会合をひらく
  2. 女優で最近犯罪被害に遭ったジェリー・ケラーが、私との一対一のセッションのため訪れる
  3. 地域の別の犯罪被害者グループの代表が意見交換のため病院の私に会いに来る
  4. 前の夫により暴行を受けた女性が、被害者影響報告書を書く際の助言を求めて私のもとを訪れる

 

 アイリスは、そんなにたくさんの活動をこなせる自信があるのかと私に聞いた。私は彼女を見て言った、「私はそれをする必要があるの」。そこで彼女は、必要な電話をかけるため家に帰っていった。

 かみそりのように鋭い痛みが私を何度も何度も襲い、私の肉を焼き、焦がした。アイリスがここにいるあいだ、私は自分たちの仕事や会話に没頭していた。私の意識はスケジュールや会合や、助けを必要とするひとびとへともっぱら向けられていた。いま、ここに横たわって自分自身に思いをめぐらせる段になると、状況はまったく変わってしまった。私は自分の考えを痛みからそらすことができなかった。じじつ私は、やっとのことでそれに耐えている状態だった。

 私は自分に言い聞かせようとした――テレサ、あなたは痛みを忘れなくちゃいけない。私は母に頼んで雑誌を持ってきてもらい、そのつやつやしたカラフルな紙面に我を――そして痛みを――忘れようとした。しかしどうもそれはうまくいかないようだった。たしかに、雑誌に見入るのはひとつの活動であるが、それは基本的に、単なる活動のための活動の様相を呈していたのである。

 襲撃直後の日々には、単純な気散じが痛みに対処するための手段として私には有効だった。私はその当時、「システム過負荷状態」を経験していた。私は未だあの恐ろしい体験を自分のなかに組み込むことができていなかった。私の心はそれを把握する用意が100%整っていなかった。私は十分に集中することができず、当然ながら、だれか他の人間の苦しみに専念することはまだできなかった。その時点では 気晴らしがよい鎮痛剤になったのである。

 今はしかし、それから何ヶ月もが経過していた。私の心は常に鋭敏で、常に活動を必要としていた。私は他人を助けること、改善へ向けての貢献をすること、なんらかの積極的な目標に向けてつねに活動していること、毎分毎分を有効に活用すること、これらの必要性を強く意識するようになっていた。雑誌の広告や記事をパラパラめくっていることは、私にとってもほかの誰にとっても、いかなる有用な、積極的な目的の役にも立たなかった。それは単なる気散じであった。私は意味のある活動から(少なくとも私にとっては)無意味な活動へと転じたため、私の痛みのレベルは跳ね上がったのだった。

 アイリスが去ってから私は一時間近く辛抱を続けていたが、無駄であった。彼女の辞去から正確に55分後、私は看護師を呼び出し、彼女は私にすばらしく感覚を麻痺させてくれる鎮痛剤の注射を恵んでくれた。救いはただちに訪れた。私はぐったりとして長い眠りへと落ちていった。

 翌朝、私は胸の痛みで目を覚ました。お馴染みの、胸が引き裂かれていくかのような不快な感覚が戻ってきた。この恐ろしくも不穏な感覚を、私は最初に傷を負った直後の日々以来経験していなかった。顔をゆがめてうめき声をあげながら、私は呼び出しボタンに手を伸ばした。

 やって来た日勤の看護師に、私は注射ではなく錠剤を注文した。まだ午前7時だった。今日が長い、長い一日になることは分かっていた。その日の晩には、Victims for Victims運営委員会の第3回会合が控えていた。グループの将来に関わる重要な決定がそこでなされることになっていた。私は起きることすべてを掌握し、委員会のメンバーとやり取りを交わすことができなければならなかった。これらの人たちは団体の創立メンバーだった。私はリーダーとしてまた一個人として、彼らが必要とするものを得られるように彼ら――その多くは自身の問題とニーズを抱える犯罪被害者だった――を手助けしなくてはならなかった。これらすべてのことを行うために、私は自分の力をコントロールできる状態を保っている必要があった。それで私は作用のより穏やかな鎮痛剤を選んだのである。 

 その日の午前と午後をとおして、私は効き目のあまり強くない経口薬を摂り続けた。そこそこの不快感を感じたが、耐えられる範囲内だった。午前の中頃に、私を本当に元気づける薬が送り届けられた。高い評価を受けているとあるクライシス・クリニックを率いるアデル・ヘッセが電話をよこしたのである。私たちは長いおしゃべりをして、そのなかで彼女が、私たちの10人のボランティアを彼女のところで無料で実地訓練させることに同意してくれた。そして彼らは訓練の成果を生かして、VIctims for Victimsのカウンセラーになるというわけである。夢が実現したのだ。上機嫌になった私はそれからの数時間をデメロールなしで乗り切ることができた。

 1時までに、私は冷や汗をかき、震えて、鎮痛剤の注射を切望するようになっていた。しかし会談が2時にあることを私は知っていた。私は頭が冴えた状態でなければいけなかった。

 一時間後、リビー・ゴールディングがやって来た。彼女は地元で犯罪被害者のための小さなグループを運営していた。私たちは主として、それぞれのアイディアやプランや経験を共有してネットワークづくりをするため、ここに集まったのである。私の応対は朗らかというわけにはいかなかったが、有益な時間を過ごすことができた。彼女はさまざまなクライアントのことについて私と話し合い、彼女の成功譚をいくつか語ってくれた。しかし彼女は私が消耗して神経質な様子なのを見て、会談を短めに切り上げた。

 彼女が辞去してからすぐに、クラビン先生がやって来て術後の状態をチェックし、たいへん順調に回復しつつあると所見を述べた。しかし私はあまりに痛みがひどくて、わずかばかりの喜びしか示すことができなかった。

 母は私がやろうとしていることを話して聞かせ、若い医師は私を穏やかにたしなめた。「いいですか、これらの会合が有用なものなのであれば、私は否定はしません」、彼は心配しながらもそう言った。「ですが、痛みがひどいときは、鎮痛剤の注射はあなたのためになることですよ」。私は弱々しく肯き、それについて考えてみると彼に伝えた。「私はあなたを信用してますから、ね」と彼は言って、回診の残りを済ませるために出ていった。

 横になったままで、私は自分が背伸びし過ぎていたのかもしれないと感じはじめていた。もちろん、今まで――午後3時――比較的弱い錠剤だけで持ちこたえてきたのは結構なことではあるが、私はつい昨日、千針縫ったばかりなのだ!私は自分に対してちょっと厳しすぎたのかもしれない、そう思った。それで、多少の罪悪感を覚えつつも、私は鎮痛剤の注射を頼んだ。ほんのすぐ後に、私は自分が降参したことでこのうえなくハッピーになっていた。母は正しかった。ストイックであることと、クレージーであることは別物なのだ。薬がもたらした心地よさのなかで、私はクッションに沈み込んだ。「う~ん」と安堵のつぶやきが漏れた。私は午後いっぱいを眠って過ごしていた。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 8/10

 その晩早く、運営委員会に出席するため人々が集まり出したころに私は目を覚ました。目を開けるとほとんど同時に、痛みがその醜い顔をもたげた。私はすっかり休息して頭は冴えていたが、肉体は痛みに苛まれていた。すぐさま私は注射を頼みたい誘惑に駆られた。しかしもしそれをしたら、私は議題にもほかの人にも集中できなくなるだろうことは分かっていた。それで私は誘惑に耐え、歯を食いしばり、デメロールの代わりにチョコレート・ミルクシェイクを注文した。それは罪深いばかりに美味なものであったが(私はダイエットを試みて数ポンドばかり体重を減らしていたところだったのだ)、当然ながら、面白いように苦痛を和らげてくれる麻薬的効果は有していなかった。会合が終わる前に、私はシェイクを2杯飲み干していた。

 先立つ週に書き留めてきたメモの数々を指し示しつつ、私は病院のベッドの上から運営委員会の会合を取りしきっていた。ベッドの上に中腰の姿勢で座り、またしてもミイラ化状態に近いぐらい包帯でぐるぐる巻きになって、ベビードールのピンクのパジャマを身に着け、ダイエットの成果を台無しにする、アイスクリームをのっけたシェイクをちびちびと啜っている私のありさまが目を見張るべきものだったことは確かである。はじめのうち、私の意識の一部がズキズキする痛みのほうへともっていかれてしまうことは避けられなかった。時おり、あの定番の歌のふしが私の頭のなかに浮かんでくることもあった。

 

あらゆる人々の人生に雨が降りかかることがある Into all lives some rain must fall.

あらゆる人々の人生に苦痛が降りかかることがある Into all lives some pain must fall.

 

それでも私はエネルギーの大半を目下の議題に集中させることができた。

 発足したばかりの団体の常として、私たちの前には話し合い、解決しなければならないアイディア、問題、考慮すべき事柄が山積みになっていた。私が意思決定の過程に一心不乱でのめり込んでいくにつれて、私は痛みをまったく忘れ去っていった。会合は白熱した様相を呈してきた。これは国じゅうの何千人もの人に手を差し伸べることのできる組織の本当の出発点なのだ、私たちはみなそう感じていた。

 「みなさん、テレサ・サルダナはそろそろ休息が必要なようです」――私たちはいっせいに振り向いて、部屋の入口に両手を腰に当てて立っている夜勤の看護師の姿を見た。3時間もの時が過ぎていたことが私はほとんど信じられなかった。

 委員会のメンバーは荷物をまとめはじめた。彼らの多くは再び私のもとを訪れる予定をたてていた――こんどはただ楽しみと交友のために。

 部屋にいるのがまた私と母だけになってから、私はその晩の出来事をじっくり思い返してみた。疑問の余地はまったくなかった。私が自分のエネルギーをなにか重要なことに注ぎこんでいるとき――とりわけそれが、困っているひとに手を差し伸べ援助することに関わっている場合――、私は痛みとよりうまく付き合えるか、あるいはそれをまったく意識しなくなっていた。

 なぜか?外に目を向けることによって、私は痛みに心を奪われている状態から自分のエネルギーを引き離すことができたからである。そして、より精神的なレベルでは、私は他人に良い、積極的な、創造的な考えをたくさん送り届け、その見返りに深い満足と幸福感を感じていたのである。

 そもそもなぜ私は他人の問題に専念しようとしていたのか?それは私が聖人君子だからだろうか?それともまったくの利己的な理由からだろうか?どちらでもない。

 私が他人に手を差し伸べるのは、私の体と心を苛んでいた激しい苦痛がまったくの無駄ではないと知る必要があったからである。もしも私が自分の艱難辛苦を、他人の手助けを行うためのひとつの契機として活用することができれば、私のいっさいの痛みはある有用な目的を果たしたことになる。そして、そう、私は自分自身の苦しみからの気晴らしと解放とを渇望していた。私は自分を衰弱させるこの破壊的な痛みが蔵する力を、真剣で積極的で創造的な行為のプランへと注ぎ込むことによって、それを抑え込む必要があったのだ。

 整形手術のあとの日々に、私は自主的な方針に忠実に従っていた。それがあまりにも耐え難いとき、私は鎮痛剤を求めて投与を受け、ときには午後や晩の丸ごとをぼんやりした状態で過ごしていた。しかし、いつでも人に会う約束があるときはデメロールの注射を控えて、十分な自制心を保つことができた。

 シーダーズ・サイナイの824号室で、私はVictims for Victimsの仕事を少なくとも一日4時間はこなしていた。その20日間のあいだに、クライアント(助けを必要とする犯罪被害者)のかなり規則的な来訪があった。私の助言や支援を求めている人とのセッションの場ではいつでも、私はほとんどもしくはまったく痛みを感じなかった。痛みそのものが弱まったか、あるいは痛みに対する私の知覚が、私に及ぼす痛みの効果を変化させたのだ。もしこうしたことが一、二度しか起こらなかったのならば、私はそれをまぐれで片づけていただろう。しかし時が経つにつれ、私は明白なパターンに気づいた。ステップ1:私が誰かに手を差し伸べる。ステップ2:その人の気が楽になる。ステップ3:私の気が楽になる。それは極めて一貫していた。

 その病院滞在中に私は、痛みの知覚は自分がどのような心構えを取っているかに応じて大幅に変わり得るものだということを学んだ。痛みのまったく現実的な肉体的、心理的体験を否定するすべはない。しかしあなたは、あなたの心のエネルギーを意識的にあなたの外側へと向けることによって、痛みがあなたに与えるインパクトを大きく変えることができる。私が言えることはただひとつ、「それはうまくいく!」である。

 

***

 

 テネシーに住むコマーシャルモデルのリタ・シャイヤーにとって、信仰と人助けは常に切っても切れない関係にあった。堅い絆で結ばれた、愛情溢れるルター派の家族によって中西部の農場で育てられたリタは、神と、他人を助ける献身とのあいだに強い結びつきを感じていた。作物が不作だったとき、シャイヤー家のモットーは「主はわれらのため備えてくださる」だった。そして主はなんらかのかたちで、いつもそうしてくださったのである。

 シャイヤー家の暖かく居心地のよいキッチンには、刺繍のほどこされた服が額に入れられて吊り下げられていた。聖書から引用された「己の欲するところ人にもこれを施せ」の章句が鮮やかな色の糸で縫いつけられていた。シャイヤー夫妻は子供たちに、友人や隣人の助けとなること、心の糧と善意を分かち合うこと、見返りを期待せず献身的に奉仕することを教えた。家族じゅうが教会の活動に熱心に参加し、しばしば自分たちより恵まれない人々への援助を行っていた。

 2年前、リタの神への信仰とひとびとへの愛は過酷な試練にさらされた。リタはトム・アンガーという男性と半年間つきあっていた。彼女はトムを愛していたが、二人の関係が行き詰まってきたのも感じていた。彼女はトムに、別れるのが二人にとってベストな選択だと思うと話した。彼は悲しんでいたが、それでも理解してくれたようで、リタの決意を受け入れた。二人の親密さが変わることはなく、その後も純粋な友だちとしてしょっちゅう会っていた。

 彼らのロマンスが終わりを迎えてから5ヶ月後、リタはトムのことで懸念を覚えるようになった。彼は経済的に大きく困窮し、仕事上でも深刻な問題を抱えていた。しばしば彼はふさぎ込んで欝な様子だった。ストレスにうまく対処できているようにはまったくみえなかった。リタは彼にメンタルクリニックに行くことを薦めた。トムは助言に感謝しているようで、彼女の言うとおりにした。

 しかし、トムが援助を求めに行ってから間もないある夜、彼は朦朧として混乱した様子で、午後11時ごろリタに電話をかけてきた。彼はアルコールだけでなく錠剤も飲んでいるとリタに語った。最初彼は2錠の錠剤を飲んだと言い、それから数を5に変え、最終的には17錠を摂取済みだと言った。

 リタはトムが果たして本当のことを言っているのかよく分からなかったが、とにかく救急隊員を呼ぶことにした。彼らはリタに、まずはトムのアパートに行って彼がどんな状態なのかを確認してもらい、もし医療手当が必要だったら折り返し電話するようにと伝えた。

 リタはタクシーでトムの家へ急いだ。応対に出てきたトムを見てすぐに、リタは彼がちょっと奇妙で「ハイ」な状態にあるのに気づいた。それでも彼は、せいぜい数錠の錠剤しか飲んでいないような感じでふるまっていた。危険な大量摂取の徴候はまったく認められなかった。救急隊員を呼ぶ必要はなさそうだと判断して、リタはただトムの家じゅうを歩き回りながら、数時間のあいだ、静かに彼に話しかけていた。彼はリタがそばにいてくれることに感謝しているようで、だんだん明晰で落ち着いた様子になっていった。しばらくした後、リタはトムに家に帰ると告げた。

 なんの前触れもなく、彼はかつてのガールフレンドに襲い掛かり、彼女を激しく打ちはじめた。何度も何度も、彼は彼女の顔を殴った。恐れをなしたリタはなんとかトムの家から脱出すると、ホールを駆け抜け、隣家のドアをノックした。しかしトムは彼女を家にひきずり戻すと、容赦のない殴打を続けた。 

 トムが彼女を三度目に床へ叩きのめしたとき、彼女は彼が去ってくれることを期待して死んだふりを試みた。しかしリタがそこに動かず横たわっている光景はトムをなおいっそう激高させた。彼は彼女をぬいぐるみの人形のように掴みあげると、さらなる凶暴さで彼女に殴りかかった。

 再びリタはホールに逃れ出て、声を限りに叫んだ。だがトムはまたも彼女を家に引きずりこんだ。今度は彼は彼女の首を絞めはじめた。リタは息ができなかった。目の前が真っ暗になっていった。命は彼女のもとから去りつつあり、彼女は意識の最後の名残にしがみついていた。「助けて神様、お願い助けて」、彼女は心のなかで祈った。

 リタが気を失いかけたまさにその時、隣人が玄関のドアを叩いて叫んだ、「やめろ!警察を呼んだぞ」。彼らの叫び声にトムはひるんだ。彼は彼女の首にかけていた手の力を弱めると、彼らに立ち去れと告げるため、玄関へと向かった。リタは空気を求めてあえぎつつ、いまは少し開いているドアのほうへ向かってふらふらと近づいていった。外に5人の人間がいるのが彼女には見えた。彼女は開いたドアから彼らのほうへ向かって必死に腕を伸ばし、助けを求めた。しかしまたもトムが彼女の背中を引っ張って家の中に連れ戻し、殴打が再開された。

 突然彼は凶悪な攻撃の手を止めると、重たい鉄製の火かき棒を掴み上げた。彼女の顔の近くでそれを振りかざしつつ、彼は脅しの言葉を吐いた。「もしも警察に言ったら、お前の顔と胸を切り刻んで二度とモデルの仕事ができないようにしてやるよ!」。

 リタはトムに殺人を思いとどまらせることしか考えていなかった。彼女の顔を血が覆った。リタはこう言っているあいだにもほとんどものが見えなかった、「トム、警察はこっちに向かっている。彼らはもうすぐここに来るわ。彼らがやって来たとき私がそんなに酷い様子には見えないように、私に顔を洗わせてくれない?」。

 トムは今では青ざめ震えていて、リタの言ったことを理解しているようだった。急いで彼は彼女をバスルームに連れていき、彼女が血を洗い流すのを手伝った。

 数分後、警察がドアをノックした。トムは戸口に出て、大声でこう言った、「なにも問題はありませんよ、おまわりさん。ちょっと口論をしていただけですから」。警察官は、とにかく中に入って様子を確認する必要があると答えた。

 トムが警察官を中に招き入れるやいなや、リタがバスルームからヨロヨロと歩き出て、玄関通路を辿って彼らの前に立った。彼女の状態を見た警察は、ただちにトムを逮捕した。

 リタは意識を失い、警察の車で病院に運ばれた。警察官が彼女を緊急治療室に運び込み、彼女はそこで意識を取り戻した。看護師が彼女の顔を一目見て「まあ、なんてこと」と息を呑んだ。ある医師は別のひとりに、「彼女はこのすべての下側では、可愛い女性に違いないよ」と言っていた。

 「に違いない」、リタは自分のなかで鸚鵡返しに唱えた。

 その緊急治療室のなかでリタは、ひたむきな、静かなる祈りのよどみない流れによって痛みや恐怖と戦っていた。「主よ、この試練を乗り越えられるよう私に力をお授けください」、彼女は祈った。「もしも私がこれに耐えられるほど強くなければ、貴方はこのような試練を私にお与えにはならなかったでしょう」。いま振り返ってみて、彼女はそのとき、主の御手に自らを委ねようという意識的な決意をしたことを覚えている。「主よ、私は貴方を信じます」、彼女は祈った。「そして私は、貴方が私をお守りくださると知っています」。

 いたるところが痛んだ。最悪な状態だったのはリタの顔面だが、打撲や裂傷は体じゅうを覆っていた。彼女の肌の1インチたりとも、トムの力づくの打撃に手つかずで済んだ部位はなかった。彼女の全身に蔓延する痛みに加えて、リタは氷のように冷たい、骨にまで沁みる寒気を感じていた。どれだけたくさんの毛布を羽織っても、彼女の震えは止まらなかった。彼女は自分がその寒さで死んでしまうのではないかと感じた。

 看護師はリタに、彼女の鼻は2箇所で折れていると知らせた。医師は傷を縫い合わせ、彼女の顔じゅうに氷嚢を置いていった。リタの前歯には亀裂が走り、奥歯の一本は完全に粉々になっていた。頭骨は何箇所かで折れ、顎全体は強く打たれた衝撃で完全にずれていた。

 リタの目は風船のように膨らんでいた。朝までに目蓋は完全にふさがってしまうだろうと医師は彼女に注意した。運が良ければ、わずかな隙間が開いていてものを見ることができるかもしれなかった。

 何時間後かに彼女の手当てが終わったとき、彼女の二人の親友のジョンとエレンが車で病院へ向かった。彼らはリタを拾って彼女を自分たちの家に連れていった。友人は彼女をソファーの上に寝かせ、彼女はそこで休もうとした。

 しかしリタの体はみみず腫れだらけだった。楽な姿勢を見つけることはまったくできなかった。彼女は朝まで断続的に眠った。

Beyond Survival - Chapter 5 Pain 9/10

 リタは眼のくらむような頭痛と全身の痛みで目覚めた。彼女の美しいブロンドの髪は乾いた血でゴワゴワになっていた。彼女はゆっくりとバスルームへ歩いていった。体じゅうがズキズキ痛んだ。

 鏡を見たとき、リタは大声で叫んだ、「これが私なんてありえない」。彼女の目は狂ったカエルのもののようだった。目の周りの肉は文字どおり突出して、顔から1インチ以上盛り上がっていた。目を取り囲む肌全体が鮮やかな紫がかった赤色をしていた。

 彼女の白目の部分は完全に赤くなっていた。後で彼女は、目の内部が挫傷していたのだと教えられた。顔の左側全体が膨れ上がり、原形をとどめないほどに歪んでいた。彼女は自分の鼻をまったく見つけられなかった。その部分はあまりにも腫れてしまっていて、見えるのは鼻の穴だけだった。

 リタは自分の胸に、赤くなった打ち身の傷跡で鮮やかに象られたトムの指紋を見つけた。そして胸全体が恐ろしい見た目のみみず腫れや切り傷で覆われていた。

 リタが鏡に映る像を見つめているうちに、安心させる考えが彼女の心のなかに浮かんだ――「顔の切り傷や打撲傷は実際よりも見た目のほうが悪く見える」。警官のひとりが彼女に整形外科医のリストを渡していたことを彼女は思い出した。いま鏡を見て、彼女は彼がなぜそうしたのか納得した。

 リタの体のショッキングな外観は彼女を絶望へと逐いやりはしなかった。彼女は友だちが用意してくれたソファーに横たわって心と体を静めながら、ほんの8時間ちょっと前に、彼女は済んでのところで絞め殺されそうになっていたということを思い出した。いっさいの痛みと恐怖にもかかわらずリタの心は、この苦境をなんとか自分は乗り越えたのだという事実にもっぱら向けられていた。

 リタは私に語った、「主への信なくして、私はそれを乗り切ることは決してできなかったでしょう。夜も昼も私は祈り、主の恵みを請いました。最初、私は大きな痛みのなかにあったので、私がいっさいを乗り切るための手助けをしていただくことを神に求めました。事態がもっとも過酷だったとき、私は主に、私の置かれた状況を理解するための道をお示しくださるように、私がより良く、より強い人間になるための手助けをしてくださるように、私に起こったことをなんらかの積極的な目的のために活用する方法をお示しいただけるように祈りました」。

 「あなたは自分の身に起こったことで神を責めたことがありましたか?」、私は彼女に尋ねた。

 「いえ一度も」、彼女は答えた。「あれから私は、災厄を起こるがままにさせたことで、はじめのうちは神に憤りを感じていた多くの犯罪被害者に会ってきました――そして私は彼らのその反応が理解できます。でも私自身の考えはそうした方向へ向かうことはありませんでした。そもそものはじめから、私は自分を生かしてくださったことで神に感謝していたのです。そして幸運にも、私は以来ずっとそういう風に考え続けてきています」。

 襲撃後まだ日が浅く、リタが酷い痛みと不快感のなかにあった頃、彼女は自分で定めた「休息療法」を実践して、昼も夜も無理やり眠り続けていた。彼女が眠っているあいだだけ、傷のズキズキ、チクチク、ムズムズする痛みが和らいだからである。彼女は眠っては祈り、眠っては祈りを繰り返していた。リタは、ひとたび治癒の過程がはじまると、彼女の顔は眠っているあいだに色が変わっていくという事実になぐさめを見いだしていた。彼女はそれを、自分が快方に向かっているしるしと受け取った。彼女はよく、数時間の眠りから覚めた後、自分の顔の赤味がほんの少し治まっていることに気がついた。勇気づけられた彼女はソファーに戻り、さらなる睡眠をとるのだった。

 警察は彼女に、初犯だったトムはもう保釈されたことを報せた。彼が再びリタを傷つけることを懸念して、彼らは彼女に、最近彼女がリフォームしたもとのアパートメントには帰らないようにと注意した。さらに彼らは、撮影の現場から現場へと移動し続ける、もとのCMモデルの仕事を彼女に再開しないようにとアドバイスもした。それでリタは親友のジョンとエレンの家に5ヶ月間留まっていた。彼らはみな、その場所を冗談めかしてリタのアジトと呼んでいた。

 リタは、心理的な苦痛が肉体的な苦痛を上回っていることに気づいた。眠っているときでさえも怖ろしい夢が彼女を追い立て、深い心理的苦悩から逃れることを彼女に許さなかった。苦痛と悲嘆のなかで、リタは折にふれて神に向け祈った。

 リタは自分がタイムワープ中であるかのように感じた。眠ってばかりいたせいで彼女はぼんやりとして、自分がいつどこにいるのかよく分からない状態だった。彼女の頭と顔と目は何週間ものあいだ腫れたままだった。そしてリタの心は休まる暇がなかった。医療費のことや、新しい仕事や住み家を見つけることについて、彼女は心配せずにはいられなかった。

 もっとも悪いことに、トムが彼女のあらゆる友人に電話をかけてきていた。彼は彼女を探していた。リタは彼が自分を見つけるのではないかと脅えた。今度こそ、彼女は信じていた、トムは彼女を殺すだろう。

 苦痛と不快感に耐えられないと感じたとき、彼女は自分にこう言い聞かせた――「たぶん、痛みや苦しみの演技をしなければならないお芝居の仕事がそのうち私のところに舞い込んでくるのだろう。私はそれをうまくやってのけるに違いない!そしておそらく私はこの経験を、誰かほかのひとを助けることのために活用することができるだろう」。

 襲撃後の苦痛に満ちた日々に、リタは目のくらむような頭痛に苛まれていた。時が経つにつれて、それはますます酷くなるいっぽうだった。彼女の頭は一日じゅうズキズキと脈うつようであった。

 数週間後、彼女はもはや痛みに耐えられなくなり、何人もの医師に助けを求めた。やがてリタはひとりの歯科矯正医を紹介され、彼が答えを見つけてくれた。

 彼女は頭部と顎の骨の位置を治す必要があった。これらの骨は元の位置に正しく収まっておらず、酷い頭痛の原因となっていたのである。

 彼女は約一年間、咬合治療用のスプリントを装着している必要があると彼は説明した。彼女は彼の指示にしたがった。スプリント自体がもたらす不快感にもかかわらず、それを装着することでリタは、自分の体の状態を制御する力を取り戻しつつあるように感じた。徐々に頭痛は退いていった。数ヶ月後、それは完全になくなった。

 トムの審理が間近に迫っていた。熟慮の末、リタは重要証人として積極的な役割を果たすことに決めた。トムの弁護士が電話をかけてきて告訴を取り下げるように懇願したが、リタは断固として拒否した。警察も含むじつに多くのひとびとが、「殴打事件で女性は常に告訴を取り下げる」と言っていた。リタは、彼女自身のようにひどい殴られ方をしたほかの女性のお手本になりたいと思っていた。彼女は自分の経験した事態に関して陳述をしたかった。そして彼女はトムに、あのような暴虐を犯しておきながら、なんの報いも受けることなしに放免されることがあり得るなどとゆめゆめ考えたりしないよう、はっきり釘を刺しておきたかったのである。

 リタは彼女があらかじめ考えたとおりに事をやり抜いた。やがてトムは裁かれ、有罪の判決を受け、懲役30日の刑を言い渡され、そのうち20日間を刑に服することになった。トムのバカバカしいほどに軽い判決にもかかわらずリタは、やられたらやり返し、彼女に危害を加えた者が実際に裁かれ判決を下されるまで毅然たる態度でその場に臨み続けること、そのための勇気と決意を自分が具えていることを彼女自身に、そしてほかの人々に証明してみせたことを誇りに思っていた。

 

 リタのパーソナリティのタイプが彼女の回復をより困難にしていた。彼女の友人は誰もが常日頃、彼女のことを「強い人」だとみなしていた。彼女は典型的なリーダーであり、ヘルパーだった。ひとは彼女のもとへ助言と援助を求めに行っていた。このため彼女は、弱さを人に見せることに居心地の悪さを感じていた。彼女は自分の苦痛や恐怖を気兼ねなく彼らに示すことが難しかったのである。彼女の友だち仲間は皆、リタが「だいじょうぶ」であることを切に求めているようにみえた。それで彼女は彼らに、表面上は勇気のあるところを見せつけなければならないというプレッシャーを感じていたのだった。そういうわけで、彼女がありのままの本心を打ち明け、すっかり頼ることのできる友人は神であった。

 リタは自分が殴られたのだということを他人に知らせたくなかった。彼女は大半の人間に、怪我の原因は自動車事故だと説明していた。ごく限られた数人だけが真実を知っていた。まだ中西部に住んでいる彼女の両親は、健康面と経済面で非常に困難な時期を経てきたばかりだったので、リタが彼らに話すときは、彼女の体の状態だけでなく事件そのものについても控え目に伝えるようにしていた。

 何週間かが経つうちに、痛みは和らぎ、傷は順調に治っていった。しかし内側の痛みはそうではなかった。彼女は祈りに祈りを重ねたが、内なる傷はまったく癒えることがなかった。

 リタは常に社交的な人間だったが、自分の抱える問題で友人たちに重荷を負わせることを快しとしなかったので、最近は以前より引っ込み思案になっていた。しかし、自分の体験を分かち合いたいという欲求は、無視するにはあまりに切迫したものとなっていた。

 物事を自分のなかにしまい込んでおくことがもはやできなくなったリタは、古くからの、といっても時々顔を合わせるていどの友人だったテリにいっさいを打ち明けた。

 リタは心の内をテリに洗いざらい話した。自分が感じている心理的な苦悩を彼女は言葉に表していった――孤独感、自分を強い人間に見せなければならないという友人からのプレッシャー、トムが再び彼女を襲おうとするのではないかという恐怖、祈りさえも精神的な痛みを止める十分な手立てにもはやならなくなったという事実。彼女はどっと泣き出し、テリの時間を長々と奪ってしまっていることを詫びた。殴打事件の被害者であるということについて深く屈辱を覚えていることも認めた。 

 テリはリタを腕に抱きかかえた。リタが驚いたことに、彼女はすすり泣いていた。「私はあなたがどんな体験してきたかが分かる。それは私にも起きたことなの」。二人の女性は互いに抱き合い、ともに泣いた。

 その晩からリタとテリの友情は深まり、彼らはお互いにとっての力のよりどころになった。リタはテリへの暴行が彼女自身の事件からほんの数週間前に起きていたことを知った。

 テリは肋骨が2本折れ、回復のため病院で4日を過ごした。テリもまた熱心に教会に通い、自分の自立心と才覚に誇りを抱いていた。彼女の年老いた両親は心理面で彼女をサポートすることがほとんどできず、仲間の多くから彼女は理解されていないと感じていた。テリもまた「一人でそれをくぐり抜けてきた」のである。

 いま二人の女性は互いに打ち明け合い、力を貸し合った。痛みを分かち合うことによって、彼らは二人とも、心の重荷と不安が取り除かれていくのを感じた。

 彼らが自身に課した沈黙の誓いがひとたび破られると、リタとテリは殴打についてもっと学びたいという欲求を感じるようになった。なぜそれは起こるのか?だれに対して?どの程度の頻度で?彼らはこのテーマをいっしょに探究していくことに決めた。

 ある日テリは新聞の紙面に、近所の女性たちの避難所で開かれる公開集会の告知を見つけた。殴打の分野の著名な本の著者や専門家が演者になっていた。テリとリタはともに集会に出席する手はずを整えた。

 その木曜の夜に、彼らはそこで何を体験するのかはっきりしないままに、避難所を訪れた。受付のテーブルで参加者のリストを一瞥したリタは、出席者のなかには避難所の住人も含まれているが、大半は外部から来た人だということに気づいた。

 演者が紹介され、スライドの提示でプログラムがはじまった。殴打事件の被害者の写真をリタは本や雑誌で何枚か見たことはあったが、演者が示しているような詳細な拡大写真に向き合うのははじめてだった。スライドは傷ついた女性たちを映し出していた――殴られ……血を流し……損なわれて。一度見たら忘れられないたくさんの悲しげな眼が、傷つき腫れあがった顔が、こちらを見つめていた。若い女の子、熟年の女性、お年寄りまで――みな殴打の被害者である。ひとりひとりが違っている。しかし、ある意味ではショッキングなまでに似かよっている。

 リタは自分が過去からやってきた彼女自身の鏡像を再び見つめているかのように感じた。どうして?どうして?どうしてこんなことが起きるのか?彼女は自分自身に問いかけた。

 照明が点いた。すすり泣きや溜め息や鼻をかむ音が会場を満たした。その時になってリタは自分の顔が濡れていることに気がついた。彼女の横に座っているテリも涙ぐんでいた。

 スライド紹介のあと、演者は殴打の全般的傾向について議論し、この暴力的犯罪の衝撃的なまでに高い発生率の統計を示した。事実。図表。すべてはおぞましかった。すべてはおそろしかった。そして不幸なことに、すべては真実だった。

 演者が話したもっとも悲しい事柄のひとつは、暴行を受けた女性の大半が訴えを起こさないということである。恐怖のため、いやがらせや低い自尊心のため。どれだけ多くの男が、殴る蹴るの虐待をはたらいておきながらなんの代償も支払うことなく自由に表を歩き回っているかと思うと、リタはたまらなく不快になった。自分に暴行を加えた男が――たとえそれが夫であっても――法の裁きを受けるところまでとことん見届けるように、どうしたら女性を勇気づけることができるだろうか?

 公開討論がはじまった。ほぼ全員が議論に加わった。会場の空気はエモーショナルな熱気で包まれていた――痛み、怒り、悲しみ。しかし仲間意識も存在していた。それは議論の助けになった。

 参加者は自己紹介をした。ある人は身の上を語り、ある人は泣いた。自分が一人ではないことの喜びで互いに抱き合う人もいた。リタとテリも話し、自分たちを襲った事件のあらましを短く語った。二人は両方とも、じつに多くの女性が自分を打ちのめした男との生活を続けていることにショックを受けた。