PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 4 Anger 2/9

前向きなはけ口

 もちろんあなたは、怒りの前向きなはけ口を探し求めなくてはいけない。あなたは口汚く罵ったり、ものを蹴ったり壊したりといった、一般的に言って鬼のごときふるまいを永遠に続けることはできない。どれだけ状況が酷いものであっても、またどれだけあなたがつらく感じていたとしても、コンスタントな怒りの表出が――最も怒れる被害者にとってさえも――マンネリ化して無益に感じられだす時がくるだろう。徐々にあなたは、あなた自身の凶暴な怒りとともに生き、それを自分で耳にすることにうんざりしてくるものである。もしあなたが長期にわたる、抑えきれない怒りの噴出の持続的なサイクルを打ち破ることができない場合は、専門家の支援を仰ぐのが賢明だろう。

 ひとたびあなたが、ただ単に怒りを吐き出すだけではもはや治療効果が期待できないとの見解に達したならば、あなたは次のような問いと向きあうことになる。「それでは私はこのいっさいの怒りに対してなにをすればよいのだろう?」。

 私は自分の怒りを箱に詰めて、私のなかのどこか深いところにそれを封印しておくことができればいいのにとしょっちゅう考えていた。一年に一度くらい私は山の頂上に行ってそれを解放する――それが箱を打ち破って、無限に向かって吠えまくるがままにさせる。

 あなたはどうして私が、私のいっさいの怒りを自分の奥底に封印しておくのではなく、それが永久に消え去ることを望まなかったのかと不思議に思うかもしれない。それはなぜかというと、私は自分が今日ここにいる理由のひとつが私の怒りだと感じているからである。私は私の怒りが、死や痛み、そして私を傷付けた人間の病的な欲望と戦い続けるための力を私に与えたと信じている。そしてもし私が、社会における犯罪被害者の待遇にこれほどの怒りを感じることがなかったら、私はVictims for Victimsを設立することもなければ、被害者支援に積極的に関わることもなかっただろう。疑問の余地なく、私の怒りはあるポジティブな結果をもたらしてきている。

 

リーダーシップと怒り

 怒りを建設的な方向へと導いていったひとびとの傑出した事例は数多く存在する。

 

  • マーティン・ルーサー・キングをはじめとする公民権運動の指導者は、黒人が被っていた不正に対して怒っていた。
  • 女性解放運動の先駆者たちは、社会のなかの女性の待遇に怒っていた。
  • MADD(飲酒運転根絶を目指す母親の会)のメンバーは、自分たちの子供を殺した酔っぱらいのドライバーに怒っていた。

 

 これらの運動の指導者たちは、不正に対してただ単に怒鳴り散らしていたのではなかった。彼らの強い、燃えるような怒りを客観的に捉え、注視し、それをよりよい社会のために活動することのために利用したのだ。

 あなたはこう言うかもしれない、「そりゃあキング牧師やグロリア・スタイネムについてはそうかもしれないけどね。彼らは飛び抜けた人間だもの。でも自分は社会運動に携わっているわけではないし、政治的指導者なんぞになりたくもない。そんな自分は怒りに対してなにをすることができるのだろうか?」。

 答えは一語に集約することができる――DISTR/ACTIONである。

 

気散じの行為(Distr/action)

 DISTR/ACTIONとはなにか?それは単純に、あなたのエネルギーをあなたの怒りからそらすために、なにか――なんでも――をすることである。怒りに対処するための唯一の方法がそれを爆発させることだけだというのは不健康で非現実的である。これらの時たまの感情の爆発と、怒りとつきあっていくための代替的な手段との釣り合いをとることが鍵である。

 私のなかに怒りの嵐が起ころうとしているのを感じたとき、私は自分自身に問いかけてみる。「テレサ、あなたはまた新たな噴火を起こしてみたい気分なの?」。たいていの場合、答えはノーである。この時点で私の原則は「家から出ること!」である。なぜか?狭い所に閉じこもって壁に囲まれている状態は、怒りと欲求不満を悪化させかねないからである。あなたを取り巻く環境は、怒りの引き金となるようなものを次から次にみせつけて、そもそもあなたが怒りを感じることになった、まさにその理由を与えていることが少なくない。

 時として、ただ目に入る風景を変えるだけでも、あなたのエネルギーと感情の方向を変えることに役だつ。

 ティーンエイジャーの頃、数学の試験やプロムのデートや、夏休みのバイトを見つけることのプレッシャーが私にのしかかってきたとき、私は地元の映画館に行って二本立てを通しで観たものだった。いま私はまったく同じやり方で私の怒りを散らすことができることを知っている。私がイライラを感じフツフツと怒りを覚えはじめたとき、そして私が怒りの爆発を――あるいはモールでのド派手な買い物の大散財を――回避したいとき、私は自分を映画に連れていく。

 コメディを観るにしても深刻なドラマを観るにしても、私は映画を観ることが、私の厄介事を忘れるのに役立つもっとも手っ取り早くもっともお金のかからない方法であることだと気づく。私はただそこに座って、私の前で明滅しているキャラクターの生きざまにのめり込んでいればよいのである。バターをまぶしたポップコーンの大きなカップをムシャムシャ食べているのも、ブルックリンのロウズ・アルピン・シネマの日曜の午後を思い出させてくれて気休めになる。

 私がDISTR/ACTIONを実践するもうひとつの方法は美術館に行くことである。私が好きでよく行く場所のひとつはニューヨークのメトロポリタン美術館である。展示から展示へと渉り歩いて壮麗な絵画や彫刻に見入り、その美しさに没頭するのは本当に心癒されることである。すぐれた美術を鑑賞する高度な視覚的――そして感情的――体験はほとんどいつでも、私をもっとも暗い心の状態からさえも連れ出してくれる。

 偉大な巨匠の多くが、さらには同時代の美術家たちの何人かも、彼らの芸術性の表現を、彼らの苦痛や怒り、あるいは狂気すらをも解放するための手段として用いているという事実に私は慰められることがある。それは私に、芸術家と私がどうにかして気心の合う者同士であるかのように感じさせる。

 メトロポリタンへの訪問は心理的なものだけではなく肉体的な解放も私に与えてくれる。そこはじつに広大で、たくさんの広い廊下を歩いていったり、装飾の施された大理石の階段を上っていくことそれ自体がほどよく刺激的な運動になり、一日の終わりには私を心地よく疲れさせ、リラックスさせるのである。

 どんなちょっとしたトリックがあなたの怒りを和らげるかを決定づけるのは、もちろんあなたの嗜好や好みである――スポーツやダンスのような肉体的活動、ギャラリーや美術館を訪れること、痛快な小説や偉大な文学作品を読むこと、ガレージでテーブルを造ること、友だちと話すこと、あなたのお気に入りの姪に大人びたレストランでランチをごちそうすること。あなたが何をするかは、それがあなたをどう感じさせるかほどには重要ではない。

 私と、そしてほかの多くの被害者に有効だった怒りの対処法は、「それを利用しろ!」である。怒りがあなたに与える力とアドレナリンを受け取って、あなたの怒りを行動へと導くのだ。

 私たちが恐怖に対処するのに用いた対処メカニズム――すなわち、ユーモア、他人に手を差し伸べること、先のことを考えること、セラピー――はここでも適用可能である。ただし怒りに関しては、あなたは一歩先に進んでいる。怒りは強い、力の籠った感情で、恐怖が具えているような「神秘的で」内向きの性質ははるかに希薄である。したがって、怒りを特定し、それに取り組み、怒りに注ぎ込まれていたエネルギーを前向きな、創造的な行為へと振り向けるにはどうしたら良いかを学ぶことはより容易なのである。

 

怒り狂っていることのなにがそうおもしろいのか?

 あなたは本当に怒っている人のふるまいを見たことがありますか?たとえ怒りの原因が非常に深刻なものである場合でも、かれらの仕草がかなりおもしろくみえることは往々にしてある。

 ちょっと考えてみよう。あなたがカンカンに怒っているとき、あなたはなにをするだろうか?

 

  • 檻のなかの動物みたいに行ったり来たりする?
  • 髪をかきむしる?
  • 赤ん坊のようにふくれっつらをする?
  • 飛び跳ねる?
  • 大量のチョコレートクッキーを口に詰め込む?
  • 叫ぶ?
  • 体を前後に揺する?
  • すべてを心のうちにしまっておく?

 

 時として、あなたが絶対的な怒りを実演している真っ最中にも、あなたはほんの刹那、あなたの感情のテーブルの向きを変えることができる。どうやって?ほんの一瞬でも自分のことを一瞥してみる、そして自分自身の行動にユーモラスなところが見つけられないかチェックしてみるのだ。

 

  • あなたはクリネックスティッシュの箱をズタズタにしていないか?
  • あなたの顔は、顔というものにあるまじき紫の色調を帯びていないか?
  • あなたは怒っているちっちゃなフェレットのように歯を剥き出しにしていないか?
  • あなたは泣きすぎてマスカラがアライグマのような輪っかになっていないか?
  • あるいはあなたは床にしゃがみこんで、2歳児のように足をバタバタさせ文句を並べていないか?

 

 あなたのふるまいが誘った笑いが、たとえ苦く、暗く、渋々のものだったとしても、少なくともそれはあなたに、怒りからのつかのまの休息をもたらしてくれるだろう。あなたは――少なくともいっときは――不機嫌な気分からはなれて自分のことを笑うこともできるかもしれない。

 あなたは友人や恋人と議論していて意見が合わず、怒鳴りたてたり部屋中を駆け回ったりするまでにエスカレートしていった経験がないだろうか?そのとき不意に、どちらかが相手のことを見てお互いの行動のバカバカしさに気づき、たとえ議論が深刻な問題だったとしても、ひとしきりちょっとした笑いを浮かべる。すぐに相手のほうも十中八九それに和して、いさかいは解消する。もちろん、あなたたちは二人とも論争の原因となった事柄についてはなおも強い拘りを抱いていて、それはどうにかして解決されねばならない。しかし少なくともあなたたちは、自分たちの行動のこっけいで人間的な側面を認めたのである。

 さて、タンゴは一人では踊れないが、笑うことに関しては必ずしもそうではない。「わめき散らしているいやな奴」が一人だけのケースも、ユーモアという目覚ましい手段によってしばしば治すことができる。ごく単純である。あなたがしなければならないのは、怒れるあなたのふるまいを、自分の心の目で眺めてみることだけである。