PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 6/7

 私の腕をお湯に漬けているあいだ、フィルは私の手や指を動かすほかのさまざまな処置を実施していた。それらはみな痛みを伴うものだった。私はわめいたり騒いだりすることで多くの患者さんの迷惑になったと思うが、まったく治らないよりもわめきながら治っていくほうがマシだと思ったのだ。止むことのない痛みに対して、免疫がつくか無感覚になることを私はずっと望んできた。しかし、想像し得るもっとも耐え難い肉体的苦痛をくぐり抜けたあとでも、痛みに対する私の低い閾値は少しも変化することがなかった。

  理学療法が終わったあとで私は部屋で休んでいるように言われていたが、たいていその時間のすべてを電話のために費やしていた。ベッドのそばのベージュの受話器は私が健全さを保つための助け船だった――それは「現実世界」につうじるライフラインだった。自分が見放され社会から切り離されていると感じたときはいつでも、私は親友に電話をかけ、平凡きわまりない会話からさえも慰めを得ていた。

  映画テレビ基金病院では私に日々投与される痛み止めの量が半分に減らされていた。薬の影響が弱まったことで私の集中力は改善されて、私は読書を楽しむことができるようになった。むさぼるように私は読んだ。本は私自身の人生の悲惨さから私を連れ出してくれた。

  友人のマイラ・ラングドンとマイケル・リースマンがニューヨークから飛行機で私に会いに来て、ノーマン・カズンズのAnatomy of an Illness(邦題『笑いと治癒力』)を一冊、私にくれた。ジャケットに書かれた文句を読んだだけで、私はこれが自分にとって大切な本であることが分かった。私はほとんど吸い込むようにして、その本をはじめから終わりまで一気に読んだ。

  ほとんど致命的な病を生き延びたカズンズ氏は、私が心から賛同できる論点を次から次へと語っていた。私はその本をよれよれになるまで何度も何度も繰り返し読み、その内容とそこに含まれている前向きなメッセージに決して倦むことがなかった。私自身の本を書き、私自身の経験と関わるかたちでひとびとに思いを伝えたいという私の願望に、カズンズの本が火をつけた。

  それで私は、精神科医を無理やり変えさせられたことからくる落胆のせいで放り出していた執筆作業にまたとりかかることにした。私の右腕はもはや包帯を巻かれていなかったので、私は再びペンを握ることができた。ベッドに座って、去来するさまざまな考えや所見、アイディアを、フェルトペンをたちまち何十本も使い果たしつつ私は書き留めていった。書くことは素晴らしいセラピーだった。それは私に目標への意識を授けたのだった。

  通常、午後の早い時間に、私はウェインゴールド先生のセラピーやほかの専門医の診察を受けるために、病院の車でロサンゼルスに連れていかれた。毎日2時間の往復移動は私を疲れさせたが、それも社会に再び自分を組み込むための最初のステップだった。私はエレベーターに乗り、知らない人と待合室に座って待っていなければならなかった。病院のスタッフがいつも付き添っていたけれども、私にとってはこの簡単な毎日の活動がひとつの挑戦だった。

  私はいまだに自分のそばにいる知らない人々にひどく恐れをなし、怖気づいていた。ウェインゴールド先生のオフィスへとエレベーターで上っていくとき、ドアが開いて別の男の人が乗り込んでくるたびに私の心臓はのどから飛び出そうになった。私は理屈では、これらの男性が無害な技師や医師や配達人やビジネスマンであることを知っていた。それでも私は、彼らのうちの誰かがナイフか銃を取り出して私を襲うことを怖れていたのである。

  この恐怖を克服するための唯一の方法はそれに向き合い、立ち向かうことだった。そういうわけで、エレベーターに乗ることはそのつど一歩前に足を踏み出すことだった。ウェインゴールド先生との面談に行き、帰ってくることが、それ自体セラピーの一環だったのである。

  L.A.への通院からかえってくると、私はフィルとの苦痛に満ちた二回目のセッションのためにトレーニング・ルームに連れていかれた。6時までに私はとことん疲れ果ててベッドに這っていき、夕食をとった。夜は、もし来訪者があれば私は幸せで上機嫌で、なければひとりぼっちでのけ者にされているような気分を味わった。

  大多数の人々は私が映画テレビ基金病院に移ったことを私が良くなったしるしだと受け止めて、訪問を大幅に短縮したり、もしくは止めてしまったりした。これは犯罪被害者の友人によくあるパターンである。皮肉なことに、最初の数日か数週間のあいだ、私は薬の影響と痛みでぼーっとして、訪ねてくれた友人たちと十分なやりとりをすることができなかった。いま、映画テレビ基金病院にいて私の意識がもっとはっきりし、気晴らしや人付き合いや手助けが必要になった段になって、私はそれを享受することができなかったのだ。

  来てくれない友人たちの多くに電話で連絡をとった。何人かはばつが悪そうにおどおどしていたが、それでも彼らは来なかった。なお悪いことに、これこれの日時に会いに来ることを約束したにもかかわらず、姿を見せず電話をかけてもこなかった人もいた。

  誠実に私のもとを訪れてくれた数人の不動の友人に私は感謝したい。彼らの変わることのない気遣いを私はずっと忘れないだろう。彼らは私に生きていくための勇気と支えを与えてくれた。

 

 映画テレビ基金病院に私が落ち着いてからしばらくして、父と妹がニューヨークに帰ることになった。彼らと別れるのはとてもつらかったが、彼らも自分たちの生活を取り戻さねばならなかった。母は残り、病院当局が親切にも提供してくれたコテージで暮らしていた。

  フレッドは二日おきぐらいに訪ねてきたが、襲撃以来わたしたちの心はますます離れ離れになっていった。彼は気遣い、感じ、傷ついた。しかしそれは彼の裡深くに押し込められていた。私はフレッドに心理面での援助を受けることを薦めたが、彼はかたくなに拒否した。訪問のたびごとに彼は痩せていき、ふさぎこんでいった――彼は彼自身のプライベートな地獄にはまっていた。

  後に、私が回復してから、フレッドは私にその当時彼が味わっていたものについていくらか話してくれた――混乱、怒り、寂しさ、無力感の感情。彼もまた鬱積を抱え込んでいた。彼は人々が彼の痛みを無視して、私のことばかり構っていると感じていた。

  振り返ってみて、私は彼がどうしてそんな風に感じていたかを理解することができる。家族全体がセラピーを受け、襲撃の結果生じたさまざまな個々の葛藤を解決していくべきだったのだ。私たちはみな、配慮とトータルケアを必要としていた。しかしその当時、もっとも絶望的に具合の悪い人間ひとりが注目を集めていた――そう、私である。

  フレッドと私は愛し合っていた。私たちはお互いの関係がうまくいくように格闘していた。しかし私たちは、自分たちではどうすることもできない離れ離れの哀れな存在へと追い込まれてしまっていた。恐怖と無力感の島国に隔絶されて、私は自分のすべての力を治癒のために注ぎこむ必要があった。そしてフレッドは私を助け世話をすることであまりにも苦悩し、意気消沈していた。彼は訪ねてきて、話した。しかし私たちはお互いの内なる苦悩について十分に話し合おうとはしなかった。それは私たちが口にするすべての言葉を染め上げていたが、はっきりとそれが表に言い表されることはなかった。

 問題を心のうちに沈めれば沈めるほど、それはわだかまりとなっていく。フレッドは私が変わってしまったことに、彼に背を向け両親に頼りきりになってしまったことに腹を立てていた。私はフレッドがジブラルタルの岩ではないことに腹を立てていた。そして私たちは、結婚カウンセラーに相談に行くような冷静さを持ち合わせていなかった。のちに、私が回復したあとで、私たちが専門的な手助けを探し求めていたとき、もはや時はあまりにも遅すぎたのだった。 

 犯罪被害に遭ってしまったすべてのカップルにいま私が薦めたいのは、二人がともに一緒のセラピーを受けることである。被害者のパートナーは襲撃の後に深く傷ついている。だからカウンセリングが必要である、たとえそれがコミュニケーションの回線を開いておくためだけのものでしかなかったとしても。犯罪被害者は、彼または彼女のパートナーも同様に傷ついていることを知っておくことが求められる。パートナーはともに、どんな人間も、たとえどれだけ献身的で思いやりに満ちていたとしても、寄り掛かることのできる完璧な肩とはなり得ないことを心得ておく必要がある。フレッドと私がもし私の入院中からセラピーを受けていたら、私たちの夫婦関係は守られていただろうと私は信じている。

  私たちがTotsieと名付けたちっちゃなトイプードルの子犬は、フレッドがこれまで私にくれたなかでももっとも素敵でもっとも思いやりに溢れた贈り物だった。病院では飼い犬は許されていなかったので、私たちは彼女をこっそり持ち込んだり運び出したりしなければならなかった。私はその子犬を溺愛した。たとえ一日の限られた時間だけでも、小さなペットを可愛がり世話をする時間を持つのは特別なことだった。どんなに落ち込んでいる時でも、Totsieのおどけたしぐさはいつも私の気分を浮き立たせた。私はその後ペット療法についての文献をいくつか読んだが、私はそれが自分にとって効果的だったことを知っている。

  病院の私の部屋の隣には、映画業界でヘアメイクの仕事をしていたパット・ギャラントがいた。彼女は末期癌の最終ステージにあった。49歳の彼女は私たちのウイングで私に次いで若い患者だった。

  彼女の夫でテレビドラマ『Dr.トラッパー サンフランシスコ病院物語』のロケーション・マネージャーのトムはしょっちゅう訪ねてきて、病に蝕まれた妻のありさまに絶望し、我を忘れた様子だった。終わりが近づいていることは明らかだったけれども、死をそのまま受け入れるにはあまりにも、彼は妻を愛していた。彼は彼女が生き続けることを望み、奇蹟が起きることを必死に願っていた。

  パット・ギャラントは勇敢な女性という以外に形容しようのないひとだった。短くはあったが親密な交友をとおして、私はこの直観に富んで優しい女性から多くのことを学んだ。

  毎日私は自分で車いすを押すか足をひきずって彼女の部屋に行った。青ざめて、やせ衰え、やつれていたけれども、パットはどこか儚く繊細な美しさを保っていた。彼女の痛みがまったく我慢できないほどひどくはない日に、私たちは長く、真剣な対話の時間を持った。

  彼女は夫を、子供を、孫を愛していたが、命はもはや単なる存在にまで衰え、彼女は旅立ちの時が近づいていることを悟っていた。何度もパットは私に、この絶えざる苦痛からの解放を歓迎していると語った。パットは死を受け入れていた。

  私は彼女の傍に座りながら、並び合う私たちの運命の不条理に耐え難い悲しみを感じていた。私はいまここで深い傷を負い、いまだにひどい体の状態にある。しかし私は生き続けていく。日を追うごとに私は体力を取り戻し、完全な回復への道を歩んでいる。しかし私の目の前で、パットの命は潮が引くように遠ざかっていく。私たちはともに、この苦い皮肉を痛切な思いで噛みしめた。それでも私たちは友人になった。

  パットは私に苦痛に対処するやりかたを教えてくれた。彼女は怒りや不満を貯め込まず吐き出すことを私に薦めた。何よりも彼女は、私の幸運な生還を最大限に生かすことがいかに大事なことであるかを私に気づかせてくれた。人生の一秒、一秒をせいいっぱいに生きていくこと。時間という贈り物を大切にし、愛おしむこと。私はいつでも彼女のアドバイスに従おうと努めている。

  暖かな春の日曜の、パットの誕生日に、1歳になる孫も含めた彼女の家族が揃って病院を訪れた。私と母も招待され、病院の環境にもかかわらず、私たちはみんなで大きなケーキを囲んでの素敵なパーティを開いた。パットはピンクのレースのガウンを身につけて、過ぎていくお祝いの時間の一刻一刻を楽しんでいた。しかし彼女は、これが自分の最後の誕生日だと心得ていることを私に耳打ちして打ち明けた。

  ドクターの許可で外出した際に、私はパットの誕生日のために十の小さな贈り物を用意していた。その日曜日の一時間ごとに、私は一つずつ彼女にプレゼントをした。レースのハンカチ、小さなハート型の中国の小箱、香水の小さな瓶……。彼女はサプライズをそのつど喜び、まるでクリスマスのようだと私に語った。

  パトリシア・ギャラントは正しかった。その日曜日は彼女の最後の誕生日だった。その日から間もなくして、彼女は病院から退院を促された。彼女の夫がチョコレートブラウンの立派なリムジンを救急車代わりに雇ってパットを家に連れていき、そこで彼女は派遣看護師の看護を受けることになった。私はそれきり二度とパトリシア・ギャラントに会うことはなかった。彼女は私が映画テレビ基金病院を退院する前に、自分の家のベッドで息をひきとった。私は嘆いた、最後まで彼女の回復を祈っていたトムのために。そして私は自分自身のために嘆いた、親友を失ったことに対して。しかし私はパットのためには嘆かなかった。彼女は死を受け入れ、歓迎していた。止むことのない痛みが生きることを彼女にとって耐え難いものにしていた。私は彼女の幸福と平安を祈った。