PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 3/7

 襲撃から三日後、私はICUから胸部外科の病棟に移されることになった。私が新しい病室へと押されていったとき、ほかの患者がゆっくりと歩いてホールへ下りていくのを私は見た。はじめて私は、自分が再び歩けるようになるまでどれほどかかるのだろうと考えた。

  私を載せた台車が私の個室へ入っていったときのことを、私は決して忘れることはないだろう。私は自分が花屋にやって来たのかと思った。信じられないほどの花々がそこらじゅうに置かれ、床にさえも列をなして並べられていた。最初に届いた花はロバート・デ・ニーロジョー・ペシマーティン・スコセッシスティーブン・スピルバーグからのものだと看護師が知らせた――以前映画でいっしょに仕事をした人たちだ。他にも大勢の映画業界やテレビ業界の人々、ニューヨークの舞台関係の仕事仲間、何十人もの友人や親類から贈り物やカードが届いていた。その花に溢れた、愛に溢れた部屋の光景に私は、自分がいかに幸運な人間であるかを思い知らされた。

  襲撃事件はすさまじいばかりの世間の注目を集めていて、特にロサンゼルスではそうだった。妙な話だが、私の家族と私はテレビを観ることによって事件のさまざまな真相を知ることになった。ニュース番組でその異様な事件が取り沙汰されているのを私たちが観ているのはおかしな気分だった。ときどき私たちは、ハリウッドの連中のなかには事のすべてを売名のためのネタだと信じている奴もいるんじゃないかと冗談を言い合うことさえあった。そんな具合に可笑しがっていたものの、ニュースの内容はしばしば観ていて非常につらく、気を滅入らせるものだった。

  ある日の報道で、私の家の外の舗道にひろがる私の血が突然クローズアップで映し出されたのを目にして、私たちはみな動転した。フレッドがすぐさまテレビを消したが、私たちの誰ひとりとして、そのおぞましいイメージを忘れ去ることはできなかった。

  それでもある点において報道を見聞することは、私たちが襲撃事件を真実の目線のなかに据え置くことの助けにはなった。私たちは病院の隔絶した世界にあって、時としてそこに存在するもの以外のすべてが夢のように感じられることがあった。しかし6時のニュースで事件を伝えるリポーターの声を聞くことは、夢を否定すべくもない事実へと変えることにつながったのである。

  この恐ろしい災厄は家族全員に犠牲を強いた。皆が張り詰め、疲れ切って、問題はいつ終わるとも知れなかった。襲撃が招いた直接の肉体的、精神的な問題に対処することに加えて、私たちは膨れ上がっていく治療費が引き起こす経済的な問題とも格闘しなければならなかった。カラス刑事は私たちに、犯罪被害者、目撃者とその家族の援助を目的とする「カリフォルニア州検察官・犯罪被害者/目撃者支援プログラム」を紹介した。

  支援プログラムを率いるロリ・ネルソンがシーダーズ・サイナイの私のもとを個人的に訪ねてきた。彼女は、州管理委員会に医療費の補償を申請する資格が私にはあるが、州が支払う額の上限は1万ドルと定められていると説明した。続けて彼女は、1万ドルを超える費用は私個人の負担になること、また、補償金の支払いには通常1年以上を要することを説明した。

  ロリ・ネルソンの言葉が突き付けた現実に対する私の反応は、声高で敵意に満ちたものだった。私は自分が刺されたがために支払いをさせられることに、あの苦痛に満ちた治療のために、あの終わりなき投薬のために、あの精根尽き果てる検査のために、あの長引く病院暮らしのために支払いをさせられることに憤りを覚えたし、いまでも覚えている。

  私に対する請求書が天文学的な額になることは疑問の余地がなかった。保険と州からの最高額の補償金をもってしてもなお、私は何千ドルもの支払いを、自分がまったくの偶然によって犯罪被害者になってしまったがためにさせられる羽目になるのだった。

  幸い私は保険に入っていた。しかし、私が一年以上にわたって必要としていた心理的あるいは肉体的な療法のような重要な医療処置の多くが、保険の対象外だった。そしてそのほかのたくさんの医療費が部分的にしか保険の対象となっていなかった。もしも私が保険を受けていなかったら、襲撃は私を破産宣告へと追い込んでいただろう。私ほど恵まれていない多くの被害者はそうすることを余儀なくされているのである。

  私たちは犯罪の容疑者や確定囚に住む場所を与え、衣服を与え、食事を与え、医療的あるいは心理的なケアを施すいっぽうで、傷ついた、罪のない被害者に対して同じ手当を与えようとはしない。誰がこれを正義だと考えるだろうか?

 

 訪問者の面会を許されるようになって、私の友人の多くが私に会いに集まってきた。自分の周りに人がいるのは楽しかった。彼らとのやりとりや会話が私を喜ばせ、私を再び活気づけた。訪問者のおかげでフレッドと私の両親は、彼らがひどく必要としている休息をとることもできるようになった。

  もちろん私の友人の誰一人として、刺傷事件の被害者との応対を以前に体験したことはなかった。それで彼らはたいていはじめのうちは神経質でぎこちない様子で、私のそばでどう振る舞っていいものか戸惑っていた。点滴の管や包帯や私のずたずたになった体が彼らを怖がらせていることに気づいてからは、私は訪問者とつとめて冗談を言い合い、対面直後のぎこちない空気を和らげようとした。私は彼らに、私の性格もユーモアのセンスも奪い去られてなどいないことを示したかったのだ。

  ところが残念なことに、人の訪問を受けたことは予期せぬ憂鬱な副作用をもたらすことになった。私の友人が帰ってしまうと、私は一人きりで取り残されたように感じた。私はベッドに横たわりながら、友人たちが病院を出たあと何をしているかについて思いをめぐらせた。ダンスのレッスンを受けたり、演劇や映画を観たり、オーディションに行ったり。彼らのように外に出てみたいと私は切望した。しかし私の家族と私はシーダーズ・サイナイの病院の一角に囚われていた。

  病室の静寂は、訪問者が立ち去った直後にもっとも耐え難いものになった。フレッドと両親も同じく憂鬱な気分に襲われていた。何時間ものあいだ、私たちは首を振りながらお互いを黙って見つめ合っていた。 

  フレッドは内にこもりがちになり、消耗しきっていた。夫と妻としてかつて分かち合っていた親密さを私たちは懐かしんだ。いまや私たち二人は病院の世界という機械に組み込まれた二つの小さな歯車の歯でしかなかった。私たちは二人きりでいる時間をほとんど持つことがなく、私はいまだ小さな子供のように両親にべったりと依存していた。フレッドと私はともに苦痛と孤独感でいっぱいだったが、お互いにどう対処していいものか分からなかった。私たちのあいだには、どうやって埋めていいものか見当もつかない大きな溝ができていた。

 

 私の全般的な身体の状態は日を追うごとに良くなっていった。ドクターは薬の投与量を少し減らすことができ、一つだけを残して点滴の管も取り外された。襲撃からわずか1週間後にスタイン先生が私にはじめての歩行――彼の言葉で言えば「はじめてのびっこ」――をやってみるように言ったとき、私はぞくぞくした。

  看護師が私をベッドから起こし、私はフレッドと父の腕にもたれかかった。胸の痛みのせいで私は前かがみになった。足をひきずりながらほんのわずかな歩幅を踏み出しただけで、体じゅうの傷という傷が痛んだ。看護師が点滴のポールを私の脇に押しやり、悲痛な様子の行進がもたもたした足取りで廊下へと歩を進めていった。

  とにもかくにも、私は再び自分の足で立った!背中を丸め、憐憫をさそうごくささやかな数歩を歩んだだけだったけれども、少なくとも私は動いていた。素晴らしい気分だった。私は自分が文字通りにそして見た目通りに、完全なる回復へ向けて歩み出したと思った。

  右手の指の傷は順調に回復していたが、犯人のナイフを握りしめて深い傷を負った左手の薬指と中指のほうは問題を抱え込んでいた。これらの二本の指はまだ動かないままだった。スタイン先生は損傷を受けた筋肉、神経、腱を治すためにはマイクロサージャリーが必要だと考えて、手の専門医を呼び出した。

  そういうわけで私は襲撃から10日後には二度目の手術を受け、手術は2時間半続いた。麻酔から覚めると、大きなギブスが指先から肘まで伸びているのが目に入った。腕全体が牽引されていた。そして手のすべての神経が苦痛の悲鳴をあげていた。

  私はそこではじめて、手の手術があらゆる手術のなかでももっとも苦痛をもたらすもので、特に神経が関与している場合はそうだということを知らされた。ドクターはデメロールの投与量を増やし、私はICUでの最初の数日間とあまり変わらない激痛状態に連れ戻された。私は痛みと戦おうとはせず、痛みが私のうえに押し寄せるがままにさせていた。痛みに抵抗したり狼狽したりすることは、単に自分をいっそう痛みで苛むことでしかないので、私はできるかぎり静穏を保って、エネルギーを治癒と休息のためにとっておいたのだ。そうしているあいだ、私は意識をポジティブな物事や人々に集中させようとしていた。

  私の心のなかに常に浮かんでいたひとりの人物はジェフ・フェン――加害者の手から私の命を救った、スパークレッツの水配達屋さんだった。私はジェフに会うことを希望し、彼がシーダーズの私のところに会いにくるつもりだと聞いたときは歓喜した。

  ところが面会が行われる前日に、記者がそのことに気づいて、家族と私にリポーターの同席を許可するよう求めてきた。私は常日頃から記者に敬意は抱いていたけれども、この特別な対面はプライベートなものにしたかった。そこでジェフと彼の妻のクラーレと、カラス刑事と私の家族だけが列席することになった。

  私の命を勇敢にも救ったその男性が部屋に入ってきたとき、私は少しまごつき混乱した。この人こそが、文字どおり私を死の顎から引き離したブロンドの「天使」だと把握することは容易ではなかった。

  フレッドと両親は、彼の行いに対して熱のこもった心からの謝意を捧げた。それからジェフがベッドサイドに歩いてきた。彼が私の隣に来るやいなや、私たちは手を差し伸べ抱擁した。この勇敢な男性に対する感謝と愛情の念がほとばしるのを私は感じた。私たちのあいだのきずなは断ち切ることのできないものだった――彼は私の命の恩人だった。抱き合っているあいだ、私は溢れる感情で胸がいっぱいになるのを感じた。その場にいた誰もが心を洗われる思いだった。

  それから私はジェフに、彼のために作ったトロフィーを贈った。そこには「私のヒーロー、ジェフ・フェンへ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。永遠の愛と感謝とともに。テレサ・サルダナ」と文字が彫られていた。ジェフが病院を出るとき、彼は外のリポーターにトロフィーを見せ、ずっと手元に置いておくつもりだと言った。