PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 2 The Aftermath 2/7

 ICUでの2日めまでに、私は周りの環境にだんだん注意を向けるようになった。小寝室に毛が生えたていどの広さの私の部屋は、生命維持装置や医療機器でぎゅうぎゅう詰めになっていて、一人の人間が私のベッドサイドを歩くことのできるスペースがかろうじて残されているだけだった。面会が許されているのは私の身内だけだった。フレッド、私の母、そして父。

  部屋にあるもので私を最も惹きつけたのは、私の体がつながれている不思議な器械の数々だった。ブンブンとドローン調の唸り声をあげて、彼らは私よりも生命感に満ちた鼓動を奏でているようだった。

  私は動くことができなかったが、私に対する医療手当はしょっちゅう行われた。血が採られ、注射がされ、検査が行われた。それらすべてが不快感をもたらし、多くは極度に苦痛だった。一日二度の胸部X線はなかでも特に耐え難いものだった。小型のX線装置が部屋に運び込まれ、二人の看護師が私の体を持ち上げ座位をとらせた。胸の傷と手術の切り口の痛みが私をほとんど狂わさんばかりだった。ロボットみたいな見た目でたくさんのダイヤルのついたX線装置が運び込まれるたびに、私は自分がイカれた儀式の人身御供に供されつつあるかのように感じた。

  それよりなお悪いのは、看護師がベッドを整えるために私に寝返りを打たせる毎日のルーチンだった。体を押し動かされることによって、涙を流し、うめき、悲鳴をあげてしまうほどに私の傷は痛めつけられた。百か所以上にのぼる手術の縫い目のひとつひとつがはじけ開くのではないかと思われるほどだった。時には体の動きが手術の縫合跡から実際に血が滲んでくるほどの支障をもたらすこともあり、それが私を怖れさせた。何度も何度も、私は自分の体が引き裂かれようとしている感覚を覚えた。

  夫は私への医療処置が施されているあいだもしばしば部屋にいた。彼は黙ってそこに座っていて、私が感じていると彼が知っている痛みを憎悪していたが、それを止めさせることはできなかった。私はフレッドが深く悩み、苦しみ、困惑しているのを感じていた。彼は憂い、感じ、傷ついた。しかしすべては彼の裡に封じ込められていた。皆は私を生かし、回復させることに忙しくて、彼の味わっているひどい憂鬱が顧みられることはなかった。 

  感情面では、私は劇的な上げ下げの波を経験していた。気分の浮き沈みは毎時間ごと、場合によっては毎分ごとの周期で揺れ動いた。時として私はとにかく生き延びたことで高揚した気分になり、完全な回復への希望に満ち肯定的だった。そんな時の私は、女優としての復帰を果たし自分が生きていると世界に知らしめることについて、あれこれとしゃべり続けていた。

  それからほんの数分ののちに私は憂鬱と絶望の泥沼に沈み込んでいき、肉体的、精神的な痛みが私を翻弄するがままにさせていた。無力感と怒りに囚われながら、私は自分の体のなかで唯一動かせる部位である頭部を前後に揺すっていた。

  私の命を救う手術を執刀したスタイン先生は、この騒乱の時期にもしょっちゅう姿を見せた。彼は私を頻繁に検査し、体の状態のいかなる変化も私の家族に報告した。彼の皮肉っぽい英国風のユーモアのセンスが私の緊張を和らげるのに役立った。スタイン先生は私をからかうのがお好きだった。彼は私の示すいかなる自己憐憫の兆候も好ましからざるものだと考えていて、私の方で前向きな能動的なアプローチをとることを求めた。私がもっとも落ち込んでいるときでさえも、スタイン先生はたいてい私から笑顔を引き出すことに成功していた。

  ある日彼は、ゴディバの小さな箱詰めのチョコレートがどれほど美味なものであるかを私に語っていた。ならばご自分で食べてみればと私が薦めると、彼はたちまち8個のチョコレートをすべてむさぼり食い、「すばらしく美味いお菓子ですよこれは」と言って私にウインクし、部屋を出ていった。半時間のあいだ私は笑いが止まらなかった。

  別のある日、私はスタイン先生に向かって、私の身に降りかかったことで病院の人たちが私のことを気味悪がっているのではないかという不安を口にした。顔色ひとつ変えずに彼は言った、「まあそれは馬鹿げた杞憂でしょうね。うちの医師たち全員にあらかじめ意識調査をしたところによると、彼らはみな、刺傷事件の被害者はセクシーだしミステリアスでもあると思っているという結果が出ていますよ」。すぐれた外科手術の技術を持っているだけでなく愉快な人でもあるお医者さんに受け持ってもらったことを私は幸運だと思う。

  新たな恐怖がしだいに私のなかに巣食い始めた。私は犯人がどうにかして脱走し、私を殺すため病院内に潜んでいると信じるようになっていったのだ。私を守るため非常に厳重な警備体制が敷かれていることを皆が請け合った。それでも私の恐怖は抑えがたいものだった。新しい男の技官や用務員が部屋に入ってきたときはいつでも、彼が病院に元からいたスタッフだと私を説得して確信させるまでのあいだ、私は恐怖に震え、赤ん坊のようにすすり泣き続けた。

  ある時、カトリックの牧師が私に恵みを授けるためにやって来た。私が良き手のもとに委ねられていると信じて、両親もフレッドも部屋を後にした。私は背の高い、がっしりした体格の牧師を見上げ、聞き取りにくい外国訛りで彼が祈りの言葉を詠唱するのを聞いていた。彼は虚空で手を動かし十字を切った。そのちょっとした動きが私のなかの何かの引き金を引いた。パニックに囚われて私は思った、「この人は牧師じゃない!私を殺しに来ている!」。私は何としてでも彼から離れなければならなかった。ベッドの彼からもっとも遠い側へと這いずっていった。私の苦悩を察知して、牧師は私のほうにいっそう身を乗り出し、私を祝福するため腕を振り上げた。彼が拳で私の胸を殴ろうとしていると心底確信して、私は助けを求める悲鳴を上げた。家族と看護師が部屋に駆け入ってきた。善意の牧師も含めた全員がすっかり困惑していた。

  私はすすり泣くことしかできなかった。「出ていってもらって。怖いの。お願い、お願い、彼に出ていってもらって」。牧師は私の恐怖を理解して、静かに立ち去った。

  後で私はその牧師さんに申し訳なく思った。私のふるまいは間違いなく彼を当惑させただろう。ただ私は自分の反応をどうにも制御することができなかったのだ。

  通常、鎮痛剤を処方されてから最初の一時間のあいだ、私は自分の心情を両親やフレッドと、私の治療をしている医師や看護師とさえも話し合うことができた。私はいつでも人と話すことを好み、よい会話によって刺激を受けていた。結局のところ、話すことを求めることはひとつの有効な治療手段だったのだ。私は自分の差し迫った恐怖や不安の感情を取り上げ、それについて他人と話し、そしてその後、安心感を得た。しかし私は、私が直面しているような種類の問題には良い話の聞き手以上のものが求められていることにも気づき始めた。私は専門家の助けを必要としていた。そこで私は精神科医に会わせてくれるように頼んだ。

  シーダーズ・サイナイの3日めから私は精神科研修医のポール・ジョセフ先生の訪問を受けた。私たちは週5回面会した。彼との面談はかけがえのないものだった。彼らなくして、私の心理面での回復がこうも迅速に完全に進むことはなかっただろう。

  さまざまな問いが私を襲った。「なぜ私なのか?このことはどのようにして起こったのか?主は私を見守っているのではなかったのか?私はまた人を信頼できるようになるのか?この怪物的な殺人嗜好者のような人物を擁するおぞましい世界に戻るがだけのために、なぜ私は苦労して回復に努めているのか?私は再び通りを歩けるようになるのか?私は完全なノイローゼになってしまうのか?私はそもそも生きていけるのか?」。私の肉体はまともに働かなかったが、私の心は問うことを決して止めようとはしていないようだった。

  ICUでの3日めに、スタイン先生が空気ポンプのように見える青色のプラスチックの器械を持ってきて、これは肺を強くするためのものだと説明した。私の胸は全域にわたって激しい痛みのなかにあったので、おのずと私の呼吸はごく浅くなった。このことが私を肺炎の第一候補者にしていた。器械のマウスピースを通して深く息を吸い込むようにとスタイン先生は言った。吸い込んだ空気が小さなボールをプラスチックのシリンダーのてっぺんまで持ち上げる。私は毎時間、ボールを少なくとも10回、一番上まで持ち上げるように言われた。

  しかし、私が器械に向かって息を吸ったり吐いたりするたびに、刺すような痛みが肺や胸に走った。すぐに私は「おもちゃ」――と私たちはその器械のことを呼ぶようになっていた――を見たり、ただその話をするだけで、泣き出してしまうようになった。

  そして課題そのものが私をフラストレーションで涙ぐませるようになった。できるかぎり深く息を吸い込んでみても、ボールは持ち上がるどころか、ピクリとも動かなかったのだ。

  スタイン先生は再三にわたって肺炎の危険性を私たちに警告した。フレッドと私の両親は私に懇願し、頼み込み、甘い言葉で私を諭した。私はより深く呼吸しようと必死になった。ようやく私はボールを動かし、ついにそれを数インチ浮かび上がらせることができた。しかし何度試みても、ボールをてっぺんまで持っていくことはできなかった。

  子供の頃から私は強い意志を持ち、目標を目指して進んでいく性質だった。そのボールを動かせなかったことは私を敗者の心境にし、私の自信を打ち砕いた。私は課題を、痛みを、自分の無力さを、そして何よりも、この見たところ些細な仕事を成し遂げるのに自分が失敗したことを憎んだ。

  二日のうちに私は肺炎にかかった。痰の塊が肺のなかに留まっていて、私がそれを深く咳をすることで排出させられないかぎり、医師たちはひどい苦痛を伴う処置を私に施さなければならないことになった。胸から肺に挿入した道具で痰の塊を取り除くのだ。その宣告が私を凍り付かせた。

  熱と恐怖に苛まれながら、私は何度も咳を繰り返した。そのたびに、金属板とともにワイヤーで留められた私の癒えていない胸骨がひび割れていくかのように感じられた。私は泣き、母は狼狽し、父とフレッドはどうすることもできず青ざめてその場に立ち尽くした。熱は40度にまで上昇した。もはや選択の余地はないと医師たちが言った。処置を施さなければならなかった。

  この知らせを聞いて私は抑えようもなくむせび泣いた。泣いたことがさらなる痛みを引き起こし、ひどい咳の発作へと私を誘い込んだ。ありがたいことに、あまりにも激しい咳がついに異物を私の肺からはじき飛ばした。鬱血が緩和するとともに、肺炎は快方へと向かった。数時間のうちに私の熱は下がり、危機は去った。

  

 私が医師から、同じく看護師から受けていた治療の質の高さにも拘わらず、また、家族の愛情のこもった世話にも拘わらず、時として私の痛みと不安が、私をヒステリックであまりにも要求の多い人間にしてしまうことがあった。手短に言うと私はしばしば、愚痴っぽい厄介者になったのだ。ひどい傷を受けた犯罪被害者たちは、しばしば周囲の人間が対処することが困難になるような振る舞いに出ることがある。私の個人的経験から言えることはただ、このような行動は自然な反応なのだということだけである。あなたのそれまでは健康だった肉体が、容赦のないストレスと苦痛の種になってしまった時、あなたが感じる無力感と苦悩はあなたに大きな――たとえそれが通常一時的なものであるとしても――性格の変化をもたらす。私はその好例だった――私は物を投げ、どなり、泣き喚き、枕を叩き、さまざまな混乱を引き起こした。

  ある日私は、誰かが私に贈ってくれたナイトガウンを試してみようとした。それはピンクのシルク地で、綺麗な刺繍が施されていた。母が私の胸に巻かれた厚い包帯を取り外そうとしていた時、胴についていたピンクの華奢なレースの花がはじけ落ちた。怒りと苛立ちで、私は文字どおりガウンを引き裂き、床に投げつけ、その間ずっと呪いの言葉をわめき散らしていた。ガウンはぼろきれと化した。

  私が許容できるレベルは現実的には存在しなかった。ちょっとした問題や落胆さえも、私には途方もないことのように思えた。私は既にあまりにも大きな困難と恐怖を抱え込んでしまっていたから、今はすべてのことがスムーズにいくよう望んでいたのだ。だが残念ながら、人生はたいていそんな具合にはいかないものである。それで私の憤怒はしょっちゅう表面化し、私は呼び起こすことのできるあらゆる力をもって、私の怒りにはけ口を与えた。そのあとで私はばつの悪い思いをして、皆に謝ることになった。

  私の傍にいて、私が自分の感情を露わにすることを許してくれた人たちにとても感謝している。時として不快に見えるとしても、患者が自分の感情について話し、場合によってはそのことで泣いたり叫んだりするのは健康的なことなのである。これらの感情を心のうちに沈めて、わだかまらせ、いつか大噴火を招いてしまうよりははるかに得策である。

  ジョセフ先生は、私の中のもっともどす黒い考えでも表に出してみるよう励ましてくれた。彼は私の家族が私の極端な反応に対処するための手助けもした。私は彼との面談を毎回待ち望んでいた。彼は犯罪被害者の治療に関して特別なトレーニングは受けていなかったけれども、とても協力的で、思いやりがあり、心理的に過酷なこの最初の数週間を私が乗り越えるための助けに彼がなれるよう、気を配っていた。私が取り乱しそうになったときはいつでも、ジョセフ先生に「ビーッと警報を鳴らせば」よかった。彼は即座に応えて、しばしば電話越しに私を助けてくれた。

  私の精神科医男性だったことを私は特に喜ばしく思っていた。場合によっては、男性に襲われた暴力的犯罪の被害者は女性のカウンセリングを受けることを希望する。しかし私は、自分が男によって傷付けられたからこそ、いま男によって助けてもらうことが自分には望ましいことだと感じていた。私は男を憎み、永遠に男を怨んでさえしまう危険を冒したくはなかった。私の肉体面と心理面の健康を請け負ってくれたジョセフ先生とスタイン先生がともに男性だったことを私は嬉しく思う。