PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

Beyond Survival - Chapter 3 Fear 2/6

 先日、ダイアンと私はランチの席で、お互いが経験した襲撃後の恐怖について話し合った。ダイアンは、恐怖が彼女に、悪夢のような体験を繰り返し繰り返し物語ることを強要してきたと言った。実際、彼女は話すことに駆り立てられていて、聞いてくれる人なら誰にでも、彼女の物語をどぎついばかりの詳細さで繰り返したのである。バスの車内やあるいはほかの公共の場に居合わせた知らない人に向かって、自分がその話をしているのに気づくことさえあった。

 自分の「物語」を何度も何度も繰り返すという、この種の発露のしかたは、多くの犯罪被害者に共通して認められる。往々にしてそれは一時的なものである。しかし時には、数週間、数カ月、そして数年にさえ及ぶ執拗な欲求となり続けることもある。内にあるものを外に出すことによって、鬱積した不安と恐怖を解放することの慰めを得ることができる。他人と恐怖を分かち合うことは、犯罪被害者の孤独感を薄め、負担を軽くし、そしてなによりも、恐怖を和らげるのである。

 ダイアンは、友人が彼女のサーガを何度も聞くことを嫌がっていることに気がついた。そう、彼らははじめのうちは、特に彼女がベッドに寝たきりのうちは、彼女の話を最後まで聞こうとしてくれていた。しかし彼女が回復への道を歩みはじめたらしくみえるようになるとすぐに、ほとんどの友人は彼女に話すことを止めさせようとした。ダイアンの抱いている感情が彼らを居心地悪くさせていた。

 私の友人が一人にしないでと言い張る私にそうしたように、ダイアンの友人は彼女が「強迫観念に囚われている」と言って諭した。彼らは言った、「もう終わったことだよ、ダイアン。忘れなさい」。彼らにとっては、事件の詳細を繰り返し語るという、治療目的から発する彼女の欲求は、無益で不気味なものに思えたのだ――そしてもちろんそれは、彼らを恐れさせていた。

 事件から一カ月にも満たないある日、ダイアンは友人たちといなかのほうへ車でドライブに出かけていた。不意にパニックが彼女を襲った。はじめ彼女は、どうして自分がそんなに恐怖を感じているのかよく分からなかった。しかし徐々に彼女は、自分たちが彼女の「捨てられた」場所からほんの数マイルしか離れていない位置にいることを認識した。

 ダイアンは事件のことを語り始めた。彼女は友人に、自分が放り棄てられた実際の場所へと彼女を連れていってくれるよう懇願した。彼らは困惑して、彼女がおかしくなっているのではないかと言った。

 ダイアンは彼女が感じていた恐怖を「未知なるものへの恐怖」と評している。彼女への暴行と誘拐の詳細を話では聞いて、それについていっさい覚えていないことが非常に恐ろしかったのである。彼女は自分の目でその場所を見ることが、それを今そうであるような悪夢から、より現実のほうへと近づけることになると考えていた。ダイアンの想像力は荒々しく駆け巡っていた――溝と、捨て去られた自分の姿をめぐる彼女の空想は、いかなる現実よりもぞっとするものだったのだ。

 ダイアンは彼女の考えを説明し続け、犯人が彼女を置き去りにした場所へ連れていってくれるよう頼んだ。しかし彼女が話せば話すほど、友人たちは聞く耳を持たなくなっていった。彼らは彼女に言った。「あなたは今100パーセント安全で、怖がる理由なんてなにもない」。

 ダイアンの友人たちは彼女を決してその場所へ連れていこうとはしなかった。そして彼女はひとりきりで理解されぬまま、まったくの恐怖とともにそこに座っていた。

 幸いにもダイアンの両親とボーイフレンドは彼女のことを理解して、辛抱強く、ただ彼女の話に耳を傾けてくれた。そうして彼女は発露の過程をとおして、彼女の恐怖のいくらかを外に吐き出すことができた。

 車中での一件のあとで、ダイアンは事件について話すのを止めようと努力した。しかし、彼女が恐怖を自分の裡に封じ込めようとすると緊張感と不安感が昂進して、爆発してしまうのではないかという感覚に彼女を陥らせた。

 それで彼女は話して、話して、話した、徐々に彼女が「話し切った」と感じ出すようになるまで。やがて彼女は、何カ月間も彼女のなかで持続していた言葉の流れを堰き止めることに成功した。

 三年半が経った今でも、彼女は時おり事件の話を繰り返したくなる衝動を感じることがある。しかし彼女は今では話を打ち明ける人を選んでいる。ダイアンは肉体的にも精神的にも、再び健康になった。恐怖は今なお生活の一部を占めているが、彼女は幸福で充実した生活を送るには十分なくらい、それを支配下に置いている。

 

 犯罪被害者に起こり得るもっとも悲しいことのひとつが、友人に見捨てられることである。残念ながら、その背景にある理由はたいていの場合、恐怖――被害者の感じる恐怖(それは明らかに、それを目にする人間にとっても快くないものである)と、それが周囲の人々に引き起こす恐怖の両方――である。被害者を見放した友人は、もはや被害者あるいはかれ自身の恐怖と向き合わなくて済むのだ。私が生きているあいだ私が恐怖のなかで生きていくだろうことが明らかになるとすぐに、多くの人々が私を見捨てた。彼らは私が殺されかける恐怖について話すのを聞いた。彼らは私がフラッシュバックを体験しているさまを見た。彼らは私の体の醜い傷――私が受けた試練の恐るべき証拠――を見た、そして彼らは私のもとから姿を消した。私は彼らにとってあまりにもおっかなかったのだろう!見た目においても精神的な面でも、私は恐怖を催させる存在だった。それで彼らは訪問を止め、自分たちの生活に戻り、私と私が表しているすべてのものを心の外に逐いやろうとした。

 ひとたび私が肉体的、精神的な健康を取り戻すと、彼らのうちの多くが再び姿を現した。彼らはトークショーだとか仕事の場で私に会いに来たり、電話をかけてきて集まろうと言ったりした。時に彼らは謝罪して、どうして彼らが何カ月ものあいだ音信不通だったのかに関する多種多様な理由を述べた。時に彼らはかくも長き不在にまつわる事柄を完全に無視した。そして時に彼らは、すべての出来事は適切に対処するにはあまりにも彼らを恐れさせたのだと私に話した。彼らが自分の考えを認めて正直に話してくれた時、私の気分はずっと楽になった。

 私は子供の頃からずっと、「水に流す」タイプの人間だった。恨みを抱き続けるのは決して私のやり方ではなかった。そこで私は自分に言い聞かせた、「ねえテレサ、彼らに裁きをくだそうなんてどういうつもり?彼らはただどう反応してよいか分からなかっただけ――彼らにとってすべてはあまりにも恐ろしすぎたの。彼らは今でもあなたの友達よ」。こんな考えを心に持ちながら、私はかつて自分が「逃亡者」だと再三思っていた人々との関係を復活させることに決めた。

 彼らと再び会うようになって、すべてはうまくいっているようにみえた――少なくとも表面的には。私たちは家族や音楽やオーディションや演劇のことや、私の「目覚ましい回復」についてさえも語り合った。でも私たちの無邪気なからかいあいの下では、なにかの歯車が狂っていた。私は友人たちと過ごしたこれらの時間を何度も思い返し、私の精神科医のウェインゴールド先生とそのことについて議論した。最後に私は自分にこう問いかけた、私は友人たちを責めているのか、と。

 私の正直な答えはノーだった。彼らが私を見捨てたことは私を傷つけたけれども、彼らを憎んだり責めたりする気にはならなかった。

 しかし私は、できるかぎり努めてはみたものの、私のかつての友人といっしょにいることにもはや心地よさを感じなくなっていたのだと気づいた。別の危機が起こったとき、どうして私は彼らの助けを当てにすることができるだろうか?私が彼らをもっとも必要としているとき、彼らは混乱だとか嫌悪感だとか恐怖だとか、あるいは場合によっては単なる厄介さだとかの感情を理由にして、私との距離を置くようになるだろう。それで私は、恨めしさではなく悲しみの感情をもって、彼らと会うのを止めることに決めた。

 だが襲撃後の日々をとおして、私の恐怖と苦痛は、たとえそれがどんなに彼らにとってつらいことであっても私に寄り添い続けてくれた友人たちによっておおいに和らげられたのだった。

 最も初期の頃には、やって来た友人が、妄想状態に陥るほどひどい恐怖のなかにどっぷり浸かっている私のありさまを目の当たりにすることもたびたびあった。彼らは私が壁をじっと見つめて、「血とナイフ、血とナイフ」の語を何度も繰り返しているのを目撃した。たいてい私は訪問者の到着を察知すると現実に引き戻されたが、そんな状態にある私をたとえ短い間でも目にした友人がトラウマを負っただろうことは想像に難くない。

 私の真実の友が私に対して示した愛と憐みには限りがなかった。彼らは私のために、そして私とともに泣き、私の手を握り、私の家族を慰め、見守り、体と心のひどい傷にもかかわらず私を受け入れてくれた。私がもし百歳まで生きたとしても、私は決して彼らを忘れることはない。そしてもし彼らが私の助けを必要としていたら、私は彼らのためにそこに駆けつけるだろう。

 

 ある意味で、今日の社会では誰もが犯罪の被害者である。被害者とそうでない人間を分かつ唯一の実質的な違いは暴力行為それ自体である。しかし基本的な、共有された感情は犯罪への恐怖である。この共通の背景を理解することによって、被害者と非・被害者のあいだの溝が効果的に埋まり、コミュニケーションのための堅固な基盤がかたちづくられることになる。

 恐怖の克服に向けた最初のステップは、その存在を認め、受け入れることである。しかしどのようにすればいいのだろう?

 あなたが恐れているという事実を認めることは通常それほど難しくない。恐怖は明白な心理的、肉体的な反応を誘発するからである。あなたは落ち着きがなく、不安で、沈痛で、「クリーピー」である。あなたの頭はずきんずきんし、脈は速まり、心臓は激しく鼓動を打ち、肌にはじっとりと冷や汗をかき、こそこそと視線を動かす。もしもそんな状態が私たちの習い性になっていたら、これらの症状は私たちが恐怖を抱いていることの明らかなしるしである。

 恐怖を受け入れることはそれほど簡単ではないだろう。とりわけこの独立独行の時代にあって、人は自分自身が十分にコントロールのとれた状態にあると考えることを好む。恐怖を認めることは、ある程度の無力感を認めることである。自分の身に起こったことすべてに対して100パーセントの責任を負うことができないと認めることは、さまざまな反応をもたらし得る――不快感、悲痛、絶望感、喪失感、そして深い憂鬱さえも。

 恐怖を受け入れるようになることは、あなたは一人ではないのだと、あなたは恐れているからといって弱虫なのではないのだと、あなたの前の多くの人々が恐怖を克服し、あるいは恐怖とともに生きるすべを学んだのだと気づくことの助けになる。

 もしもあなたが、恐怖を受け入れることを建設的な行為だと――健康へと向かうために欠かせない、必要なステップだと捉えることができれば、それを達成することはいっそう容易になるだろう。

 あなたが応対しなければならない最初にしてもっとも重要な人物は――たとえあなたの周囲の他の全員があなたの恐怖を認めようとはしないような状況にあなたが置かれていたとしても――あなた自身である。あなたが自分をとても弱いと感じていたとしても、自分自身に対して寛大であるよう努めることで(言い換えると個人的判断を控えることで)、あなたはずっと気が楽になるだろう。

 「私は恐れている、そしてそれはこの状況のもとでは正常なことである」、そんな言葉を書いてみる、あるいは声に出してみること。あなたの中にわだかまる不快な感情をただ表に出してみることは、それ自体一種の解放である。それはまた、あなたの感情に関する真実の、言葉による表明でもある。ひとたびあなたが自身の恐怖に対して正直になることができたら、あなたは「真実を受け入れる」という強力な武器を得たことになる。そしてあなたは、さまざまなやり方でそれと付き合っていくことができるようになる。