PM:生き残ることのその先へ

Theresa Saldana『Beyond Survival』全訳

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評の問題点

小早川明子さんによる小金井ストーカー刺傷事件の論評には被害者の冨田真由さんへの配慮に欠ける面があると私は感じていた。事件直後の2016年5月27日付の「『ツイッターのブロックや着信拒否をするのは危険』ストーカー相談の専門家に聞く」という見出しを掲げた弁護士ドットコムのネット記事で小早川さんは「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「ブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」というきわめて直截的な強い表現で、被害者へのダメ出しを行っている。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。

一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです。着信拒否するなら、その前に別の連絡窓口を作っておいたり、ツイッターをブロックするならツイッターそのものをやめないといけない。

他の人にはリプライしているのに加害者だけを無視している状況でした。書き込み内容からして仕方ないのですが、加害者からすれば、どんどんストレスがたまっていく状況。ブロックは良くなかったと思います。

上の記事も含めて、小早川さんは小金井の事件についてメディアで論評するたびに、ツイッターのブロックがストーカーの感情を悪化させる危険な行為だとの持論を必ず述べ、それが事件の主因のひとつであるかのような印象をひろめてきた。たとえば2016年12月24日付の朝日新聞東京都内版が「小金井女子大生刺傷事件」を取り上げた年末の回顧記事で小早川さんはこう語っている。

「不特定多数が閲覧できる場で特定の人をブロックする行為は、『仲間外れにされた』と強く感じ、憎悪が激しくなる傾向にあります」。そう指摘するのは、ストーカーやDVの相談に乗っているNPO法人「ヒューマニティ」(東京)理事長の小早川明子さんだ。

そしてこの記事のネット版(現在は削除されている)には

 ネットストーカー、どう身を守る 「仲間外れ」怒り増幅:朝日新聞デジタル

 という、冨田さんのしたことが人を「仲間外れ」にする行為だという含意を孕んだ見出しが付けられていた。

 

あのような凄惨な事件の報道にふれたとき、人は誰しもこんな恐ろしい目に自分が遭うことだけはなんとしても避けたいとの思いを抱く。そこで人は半ば無意識のうちにこう考えるようになる、この被害者は襲われるに足るなんらかの理由があったのではないか、いや、そうであってほしい――もしそうならば、私がそれをしないように心がけているかぎり私が被害に遭うことはないだろうから。当の被害者からすれば悪魔的というほかないこの大衆心理について、1982年にアメリカで起きたストーカー刺傷事件の被害者である女優テレサ・サルダナが事件から4年後の1986年に上梓した主著Beyond Survival(Bantam Books刊)からふたつ引用しよう。

ダイアンの身に起きたことを知った人々は、彼女はいくぶんかは自業自得だった、あるいは事件は避けることができたと示唆するような類の意見をしばしば口にします。そんな言葉を聞かされると私の理性は吹っ飛びます。それは心底から私を怒り狂わせます。次第に私は理解しました、人間は恐ろしい状況に対峙したとき、自分の身にはよもやそんなことは起きるまいと信じることができるように、物事に理屈をくっつけ合理化したがるのだと(p. 211) 。

人はこういうことを自分に言い聞かせることがままあります――もしも被害者が用心をしていれば、こんなことは起こらなかっただろう、したがって、もし自分が用心していれば、この手のことは自分の身には起こらないだろう。この種のロジックに基づいて、人は被害者にこんなことを尋ねてしまうことがあります――「どうしてあなたはドアに鍵をかけていなかったの?」「どうしてそんなに夜遅くに外出したの?」「その窓をちゃんと閉めていればこんなことは起こらなかったんだよ」――そんな言葉を声高に口にしてしまうのはよくあることです。そうした無神経な問いかけや意見は、被害者を非常に傷つけます。それは憤りや自分を責める気持ち、戸惑いを被害者の側に引き起こしてしまいます (p. 240) 。

 

小早川さんの唱えるブロック害悪論は凶悪事件の報に接した大衆が抱く不安心理を和らげてくれる格好の処方箋でもあったので、いわば識者のお墨付きを得た「オフィシャルな被害者の落ち度論」として勢いを得て、広く世間に浸透していった。小早川さんは日本でストーカー犯罪が起きればメディアから引く手あまたで意見を求められる抜きんでたオピニオンリーダーである。オピニオンリーダーの言葉は鵜呑みにされ、なお悪いことに受け売りされる。2017年2月の事件の裁判の際に山本寛というアニメ監督が、冨田さんが最終的にツイッターをブロックしたことについて自身のブログで「気のキツイ子」などという酷い言葉を使って冨田さんを誹謗中傷し物議を醸した。ブロックを被害者の決定的な落ち度だとしてああも悪しざまに言う山本の論は明らかに小早川さんの受け売りである。

 

*

 

小早川さんによる小金井事件の分析の根本的な問題点のひとつは、被害者と加害者の関わりがあたかもツイッターだけだったかのような体で論を進めていることである。「SNS時代の新たなタイプのストーカー」というシナリオにはめ込むために、小早川さんは事件に到る経緯を恣意的に編集している。冨田さんの手記や調書にあるように、犯人のSNSへの書き込みは事件から遡ること約2年前の平成26年6月から始まっていた。あの犯人はもともと冨田さんのブログのコメント欄に盛んに書き込みをしていたのである。ただ書き込むだけでなく、冨田さんが出演する演劇の舞台に何度か赴き(冨田さんはメディアの杜撰な報道のせいで肩書すらも正確に伝えられず、それが別の大きな二次被害の源泉になっている。事件直後にメディアはおそらく警察の広報にしたがって冨田さんをアイドルだと一斉に報じ、その後しばらくして、シンガーソングライター、芸能活動をしていた女子大生などへと呼称を変えていった。しかし冨田さんは実績ベースでは、メディアがほとんどふれていない女優として舞台やドラマ、映画でキャリアを積んできた人である)、そのうちの一回で冨田さんに直接交際を申し込んでいる。それに対して冨田さんは、「ごめんなさい、いまは大学の勉強や舞台とかを頑張りたいので付き合えません」と返答した。これはあの事件の裁判の際に検察側の被告人質問で犯人自らが証言していることである。1対1のお付き合いはできませんと冨田さんがじかに対面で断っても引き下がらず、なおもブログに結婚を申し込むメッセージを送り付け、その後音楽活動をはじめた冨田さんのライブにも出向いていって、2016年1月17日のライブ終了後につきまとい行為をして冨田さんに恐怖を与えたその翌日、とうとうツイッターにまで乗り込んできた、これが実際の経緯である。小早川さんはツイッターの書き込みが被害者と加害者のファーストコンタクトであったかのような架空の前提で、「1対1の関係を求めてきている。このときにストーカーの芽を摘まないといけなかった(2016年12月24日付 朝日新聞東京都内版の記事)」などと冨田さんの初期対応のまずさを指摘し続けているが、これは事実に反する言いがかりである。小早川さんが筋書きを書いた脚本の中で、冨田さんはツイッターに書き込みをした1ファンをなんとなく気に入らないとかの漠然とした理由で無視し続けたために相手の感情をこじらせてストーカー化させ、さらにブロックまでして憎悪を煽りたてとうとう襲われてしまった不当に愚かな反面教師の役を演じさせられている。

 

小早川さんが事件の「決定的」な引き金だと断じていたツイッターのブロックに関しては、冨田さんは決してほかの多くの人がやっているように多少気に障ることを言われたという程度の些細なきっかけであっさりブロックをしたわけではない、という点を強調しておかねばならない。小早川さんは冨田さんが犯人に返信をしなかったことを「加害者だけを無視している」として咎めてもいるが、それは今述べたように、ツイッターへの書き込みをしてきた時点で既に犯人は断ってもしつこくつきまとってきた紛れもないストーカーだったからである。いっぽうで冨田さんは、不特定多数が閲覧できるSNSの場で犯人を公然と揶揄しさらし者にするようなことは一切していない。遡れば2年近くに及ぶあの男の好き勝手な言動、ふるまい、要求を、冨田さんは文句を言わずひたすら耐え忍んできた。プレゼントを返せと何度も恫喝されれば言われたとおりに返却した。するとあの男はなぜプレゼントを返したと激昂し、大人しくなるどころかいっそう酷い罵詈雑言の嵐を送り付けてきた。この度を越した理不尽、傍若無人の極みに、それまで我慢に我慢を重ね、深く傷つき苦しんできたであろう冨田さんが文字どおり「仏の顔も三度」でストーカーに対してとった最初にしてほぼ唯一のアクションがブロックである(なおこの点に関して文末に補足)。しかし小早川さんが、最終的にブロックするに到るまでの長い道のりにおける被害者の心中を思いやることはない。小早川さんがもっぱら忖度するのは被害者ではなく、やりたい放題の末にブロックされた加害者の心の傷である――「ブロックされて、絶望的になったんだと思います」。いっぽう小早川さんなりの被害者へのフォローとは次のようなものである――「ただ、被害者のほとんどは、初めてストーキングを経験する人です。こうした指導・アドバイスできる人が回りにいればよかったと思います。とても残念です(2016年5月27日付 弁護士ドットコムの記事)」。要するに小早川さんは、被害者がとった小早川さんの評価では決定的にダメな行動を、最終的には被害者の無知に帰するのである。さらに言えば、小早川さんは冨田さんが被害に遭ったこと自体をも冨田さんがストーカーについて無知であるがためのことだと理由づけようとしている。

 

現実に被害者はストーカーに襲われてしまった。その結果から逆算して、被害者は無知ゆえのヘマをなにかしたはずだという前提に立ち、「指導・アドバイスできる人」の目で被害者のとった行動を逐一チェックしていく、これが小早川さんによる小金井事件の論評の基調である。小早川さんの叙述の中では加害者が後景に退き、被害者である冨田さんが前面に押し出されている。しかし冨田さんは、最大限の配慮をもって遇するべき残酷な犯罪の被害者というよりは残念な失敗者として矢面に立たされているのだ。小早川さんは「残念です」という言葉を、犯罪被害者にその言葉を投げかけることの残酷さを自覚しないまま冨田さんに向かって発している。小早川さんのいう「残念」とは、「貴方は正しくはこうしていれば被害に遭わなかったはずなのに、残念でしたね」という意味での「残念」だからだ。小早川さんが展開する論は事件の原因をもっぱら被害者=失敗者の失策に帰そうとするおぞましい自業自得論の相貌を帯びてくる。

 

昨年12月に出版された小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』では、小金井事件にも一節が設けられている。その中の「もちろん、(プレゼントを)返せという加害者の執拗な要求があったからであって、どうしていいかわからず、苦しんだと思います(40頁)」というくだりに、小早川さんが冨田さんをどういう目で見ているかがよくあらわれている。小早川さんにとって冨田さんは「どうしていいかわから」なかった人なのだ。翻って小早川さんはご自分のことをどうしたらいいかわかっている人、「指導・アドバイスできる人」だと思っている。その自負のもとに、小早川さんは「ここはこうすればよかったのだ」という、ご自分が考えるところの「正解」を教示していく。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります。返す理由と被害者が苦しんでいることを冷静に伝えることです。『これは悪意で返すのではないですよ。お断りをしているのに、返信がほしいとか、あなたの要求が強いので、返さざるをえないんですよ。それで彼女もすごく苦しんでいます』と言ってもらうのです(40頁)」といった具合である。しかしこれはタラレバの話であって、小早川さんのアドバイスどおりに行動してうまくいくかどうかは実際にやってみなければわからない。こんな風にやけに丁寧に応対してもらえたことでまだ脈があると思い込み、あるいは「下手に出ればつけあがる」で調子に乗って、つきまといを継続するストーカーがいるかもしれない。プレゼント返却の際はできれば代理人を立てろとも小早川さんは言っている。あの犯人は小金井の事件の3年前に、ある女性タレントに対して冨田さんの場合と同様の悪質なストーカー行為をしていた。だが事務所の代表によると、その時主に被害に遭ったのは当のタレントではなく事務所のスタッフだった。あの男は間に入って対応していた女性マネージャーに殺すぞ的なニュアンスの言葉を浴びせかけるなどして怒りの矛先を振り向けていたのである。そのマネージャーは小金井の事件を知って震えて涙を流したという(2016年6月23日『スーパーJチャンネル』のテレビ報道による)。この実例のように、小早川さんのアドバイスどおりに代理人を立てた結果、今度はその人が危害を加えられるおそれが出てくる。実際、「それで彼女もすごく苦しんでいます」などという、いかにも私は被害者のことをよく知っています風の物言いがストーカーを刺激する危険性は少なくないだろう。「返すなら自分で返しに来ればいいのに代わりの人間をよこすとはどういうことだ」と被害者への怒りをさらに募らせる人間もいそうだ。小金井の事件では郵送でプレゼントを送り返したら犯人の感情がエスカレートしてしまったが、逆に素っ気なく郵送で送り返されたことでシュンとして大人しくなるストーカーも中にはいるかもしれない。人は千差万別である。小早川さんの教える「正しい物の返し方」が絶対的な正解だという保証はどこにもないのである。小金井の事件で結果的には裏目に出たプレゼントを郵送で送り返すやり方が絶対的に不正解だという根拠もない。小早川さんの論はサッカーの試合の後で解説者がよく言うあれと同じである――「あの場面でシュートではなくパスを選択したのが決定的に痛かったですねえ、あそこは絶対シュートだと思います」。解説者が強気に出られるのは、ひとつにはパスを選択したら現実に失敗したという動かぬ事実のアドバンテージを手にしているからであり、もうひとつは、シュートを選択したら実際にどうなったかは今さら確かめようがない、ということは肯定もされないが否定されるおそれもない絶対的な安全地帯に立っているからである。小早川さんもその安全地帯の高みから冨田さんを見下ろしている。

 

私はあの事件では、もしも自分が冨田さんだったらどうしていただろうと考えることをいつも心がけている。そういう目で事件までの経緯を振り返ったとき感銘を受けるのは、冨田さんは本当に辛抱強い人だということである。私ならあのような罵詈雑言と好き勝手な要求をただ黙って耐えていることなどとてもできなかった。冷静さを失い、売り言葉に買い言葉で醜い罵り合いに発展してしまっていただろう。冨田さんは私なんぞよりよっぽど人間のできた大人だと思う。私は自分が人間の心理を知り尽くしているという思い上がりをもっていないので、あのような常軌を逸した人間にどう対応するのが正解だったか、確かなことは何ひとつ言うことができない。冨田さん、貴方はこうすればよかったのですよなどという台詞を私は口が裂けても言えない。だから小早川さんがその種のことを自信たっぷりの断言口調で話しているのを聞くと、私は驚嘆の念を禁じ得ないのだ、この人はストーカーがどう行動するかをそこまで完璧に読み切っているのかと。小早川さんの頭の中ではきっと、私=わかっている人、冨田さん=わかっていない人という絶対的な上下関係が確立しているのだろう。率直に言って小早川さんは冨田さんに対してしばしば上から目線である。「物を返すという行為はとても慎重に行う必要があります」、この言葉の言外の意味は「冨田さん、貴方は慎重さが足りなかったのですよ」である。その言外の意味が孕んでいる冨田さんに対して失礼なニュアンスにも、冨田さんは慎重さを欠いた人だというネガティヴなイメージを読者に植えつけてしまうリスクにも無頓着なこの物言いは、冨田さんをどこかしら下に見ているからこそできる物言いである。小早川さんの小金井事件評は結局のところ、指導者の立場から繰り出される冨田さんへのダメ出しの連続である。負け試合の後で、あの場面はパスではなくシュートすべきだった、もっとサイドに展開すればよかった、クロスの精度が低すぎた、選手交代が遅かったなどと、ああだこうだと思いつくがままに敗因を挙げていくサッカー解説者の言葉と同じ調子を小早川さんの言葉は帯びている。サッカー解説者の唱える評に対しては主に二通りの反応がある、「やれやれ、お気楽な評論家ふぜいが」と呆れる否定的反応と、「まったくだ、ダメな選手だな」と迎合する肯定的反応と。だが小早川さんの唱える評に対して小早川さんのことをお気楽な評論家だと思う人は圧倒的に少数だろう。ストーカー問題の分野で小早川さんはこの国の圧倒的な権威だからである。つまり小早川さんの意見を聞いた大多数の人間は、小早川さんの尻馬に乗って自分も冨田さんを被害者ではなく失敗者として上から目線で見下ろしはじめるのだ。

 

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小早川さんの新刊『ストーカー(中公新書ラクレ)』ではSNSを介した新たなタイプのストーキングを詳しく論じている。ところが、この本ではSNSのブロックに関する論調が従来とは一変している。

長々と続くようならば、相手をブロックするのは悪くないのですが、自分だけ拒否されたという怒りにつながりやすいので、むしろいったんSNS自体を閉じてしまうことをお勧めします(71頁)。

驚くべきことに、この本の中でブロックすることの是非についての言及は上記の一箇所だけである。「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」という、あの取り付く島もない全否定から比べると目を疑うような「ブロックするのは悪くないのですが」への大幅なトーンダウンは、ブロックすることをあまり否定的に言うのはまずいという判断が、自主規制か、あるいは外部からクレームがついたかなどのなんらかの理由ではたらいたためだと想像する。実はこの本の第一章で小金井事件に一節を設けて事件の経過を辿っていく中で、被害者がブロックをしたことに小早川さんはまったくふれていない。いっぽうでは「小金井の事件は市川や三鷹の事件とは違い、被害者と加害者はSNS上だけでやりとりのある間柄でした(36頁)」と事実の歪曲までしてこの事件をSNSに紐づける意図を示しているにもかかわらずである。おそらく小早川さんは遅ればせながら認識したのだろう、ブロックについての自分の発言により冨田さんが二次被害を受けていることを。だがしかし、小早川さんが小金井事件の報道に際してメディアであれだけ何度も繰り返してきた主張はそう簡単に変えられるものではない。事件直後にメディアが総がかりで冨田さんに貼りつけた「(地下)アイドル」のレッテルが、その後多くのメディアが冨田さんの呼称をこっそり変更してからも到底剥がしきれてはいないように(「こっそり」という意味は、私の知る限り、冨田さんの肩書変更に際して「これまで冨田真由さんをアイドルだと報じてきましたが、不適切でした。訂正します」といったことわりを明示した誠実な報道機関は皆無だからである。また「多くの」という意味は、日刊スポーツのように事件の裁判に到るまでアイドルの呼称を執拗に使い続けてレッテルの貼り直しにいそしむ少数の陰湿な報道機関も存在したからである)。

 

下に引用するのは小早川さんの新刊『ストーカー』に寄せられたAmazonの読者レビューの一部である。

小金井の事件でも、被害者が対処方法についての知識を事前に得ているか、あるいは誰か知識のある人に助けを求めていたなら惨事には至らなかったかもしれない。大切なのは、確かな知識を得て的確に対処すること、それに尽きる。気味の悪い相手からのメッセージを放置したりSNSをブロックするといった行為は最もやりがちな行為ではあるが、著者によるとそれらの行為は絶対にNGという。無視すると、加害者側に「断られていない」と受け取られ、さらなるメッセージが送られてきたり、あるいは加害者側の自尊心を傷つけ、より危険な状態へと進ませる呼び水になることもあるという。

繰り返すが、この本の中でブロックの是非についての言及は先に引いた71頁の3行のみである。絶対にNGなどという趣旨のことはどこにも書いていないし、小金井事件の被害者がブロックをした件の記述もない。小早川さんによる小金井事件の論評が伝える「確かな知識」を人はこういう風に記憶しているのだ。今さらこっそり主張を変えたところでもはや手遅れである。小金井事件で小早川さんがメディアに呼ばれるたびに繰り返していた再三の発言によって、ストーカーのツイッターをブロックするのはまったくの悪手であるという印象、そしてきわめておぞましいことに、冨田さんはブロックという「絶対にNG」の失策を犯して被害に遭ってしまった人だという印象がもはや多くの人の心に強力に刷り込まれてしまっている。それを大勢の前で表立って口にする山本寛のような人間が少数派なだけである。先に引いた弁護士ドットコムの記事は現在でも公開されている。ネット上で小早川さんは今もなお、冨田さんのブロックという「決定的」な失態(だと小早川さんがみなしていること)を不特定多数の前で日々叱責し続けて止むことがない。二次被害は現在進行形で継続中である。

 

小早川さんの論評の異常性は、発言内容を別の――たとえば性犯罪に置き換えてみればよく実感できる。

 ――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

 という弁護士ドットコムの記事の問いは、一般化すれば被害者の側にも事件の原因あるいは責任の一端があったのではないかという、これ自体相当危うい問いである。それを性犯罪の文脈に変換すればたとえばこうなるだろう。

 ――今回の事件で、夜間に肌の露出の多い服装で一人きりの外出をしたことは、加害者の劣情を刺激してしまったのでしょうか?

 この問いに対し私的な場で無責任にそうだと言う人はたぶんいるだろうだが、少なくともメディアから意見を求められた性犯罪被害に関する識者が公の場面で肯定的な答えを返すことはあり得ない。百人が百人とも、卑劣な性犯罪の原因を被害者の側に帰するようなことは決してすべきではないと答えるはずである。

 

弁護士ドットコムの取材者の質問に小早川さんはたとえばこんな風に答えることもできた(というかふつうはこの種の答え方をするのが常識である)。

――今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?

もし仮にそうだとしても、プレゼントを送り返したのは加害者が返せと執拗に要求してきたからですし、ブロックについても加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。加害者がしろと要求してきたことを(たとえそれが加害者の本意ではなかったとしても)言われたとおりにしたことで被害者を責めるのは酷ですし、何よりも、被害に遭った原因、責任が被害者自身にあるかのような論は厳に慎むべきです。

だが小早川さんがしたことはまったくの正反対だった。くだんの質問に「そのとおりです」とばかりに諸手を挙げて応じたのである。決定的だったのはブロックだと思います、たしかに加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしていますが、この言葉を額面通りに受け取ってはいけません、これはブロックしてほしくないという気持ちの裏返しなのですよ、被害者にブロックされて加害者はさぞ絶望したことでしょう、一般論としてもストーカーに対してブロックしてはダメです、良くなかったと思います。――それを聞いて人はなるほどね、と思う。そして、ああよかったと思う。なるほどね、ツイッターを安易にブロックしたのがいけなかったんだ。間違いない、だってあの小早川さんが言ってることだもの。小早川さんといえば日本でいちばんストーカー問題に精通している人なわけで、その小早川さんが「決定的」とまで言ってるんだからこれはよっぽどのことだ。やはり襲われる人にはそれなりの理由があるんだね。そしてブロックをしたという「決定的」なミスのせいで襲われたのであれば、ブロックしなければ安泰ってことか。やれやれ、じつに簡単だ、これを守っているかぎり私はストーカーに刺されたりはしない、ああよかった。こうして人は傷ついた被害者に「ヘマをして襲われた人」というレッテルを貼って貶めさらに傷つけることと引き換えにして、自らの安心感を得る。だがそれは、この道の権威の過信を盲信することからくる偽りの安心感である。

 

日本国内でひとたび凶悪なストーカー犯罪が発生したら、メディアから真っ先に声がかかるのはもちろん小早川明子さんである。「ストーカー問題にくわしい」と聞いてほとんどの日本人が真っ先に思い浮かべるのも小早川明子さんだ。テレビで、ラジオで、新聞で、雑誌で、書籍で、ウェブで、小早川さんはあらゆる媒体で事件に論評を加え、持論を唱え、それが日本中に拡散していく。日本において小早川さんはストーカー問題の絶対的なオピニオンリーダーである。多くの日本人はストーカー問題を考えるときに、語るときに、小早川さんをお手本とするのだ。小早川さんの意見、考え方、姿勢が、日本人全般のこの問題に対する意見、考え方、姿勢の趨勢を決するといっても過言ではない。つまりストーカー問題に関する小早川さんの意見は小早川さんひとりの私的な意見ではなく、日本人の総意とまではいかないにしても、日本人の多数派の意見になるのである。もしも小早川さんが、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しが加害者の感情を逆なでさせてしまったのではないかという取材者の問いに、あのような理不尽な犯罪に遭い深い傷を負った被害者の側を責め立てるような非人間的なことはするべきでないと、そう強く言ってくれていたら、多くの日本人はその真っ当で常識的、倫理的なお手本にならってストーカー被害者を、より限定的にはあの事件で被害に遭った冨田さんを遇するようになっていただろう。しかし小早川さんが言い放ったのは、被害者への配慮がなされているとは到底言い難い容赦なきダメ出しであった――「決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います」「一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです」「ブロックは良くなかったと思います」。犯罪被害者支援の観点からみれば、小早川さんのこうした発言はまったく常識外れの、それこそ決定的にダメで良くない物言いである。しかしストーカー犯罪の領域では、あの小早川さんの非常識が日本の常識になる。小早川さんはこの分野の絶対的なオピニオンリーダーだからである。小早川さんは自身の発言で日本中にあるお手本を示したのだ。ストーカー犯罪の被害者に対しては、たとえその人が意識不明の重体に陥って生死の境をさ迷っていようとも、被害者側の落ち度(だと自分が思う事柄)を公然と言い立ててもかまわないという、おそろしいお手本をである。

 

補足:山本寛がブロックの件で冨田さんをブログで中傷した際に、ブロックは警察の指示によるものであるとの反論が出て一部ネット記事にもなっているので、この点について短く補足する。くだんの反論は2016年12月16日に公表された冨田さんの手記の中の「警察からは、『使っているSNSから犯人のアカウントをブロックしてください』『何かあればこちらから連絡します』と言われました」の一文を典拠としている。もしこのくだりを「警察からの指示を受けてブロックをした」と読むのであれば時間的な齟齬が生じる。山本とのツイッターのやり取りの中で春名風花さんが、ネット絡みのストーカー被害で警察へ相談に行くとマニュアル的にSNSのブロックを薦められると自身の体験をもとに語っていた。春名さんと同じように冨田さんは相談に行った警察でもブロックを薦められた、と読めば齟齬は解消する。むしろ考えるべきは、なぜ冨田さんはあの手記でブロックについて言及したのか、という点だと私は思う。冨田さんは小早川さんの主導でメディアが盛んに流布していたブロックは良くないことである(そしてその良くないことを貴方はしたのだ)という論を気に病み、傷ついていたのではないだろうか。